2010年10月24日日曜日

山田兄弟32



 佐藤慎一郎という人は、誠の教育者であり、死後かなりたつが、教えを受けた多くのひとから未だに慕われている。山田良政、純三郎兄弟はいとこ、佐藤先生の母の兄と弟にあたり、ひょんなきっかけから中国に渡り、中国で小学校の先生や満州国大同大学教授、建国大学研究員などをし、戦後は長らく拓殖大学で教鞭をとった。その長い中国生活を通じて学んだ中国学は実学に基づくもので、教えを受けるものに深い感銘を与えた。佐藤先生の座右の銘は孟子の「冨貴不能淫、貧賤不能移、威武不能屈、此之謂臺大丈夫(地位や金で誘惑されても、心を動かされることがない、貧しい状況に追い込まれても、守っている行いは変えない、権力や武力で責められても、志が揺らぐことはない、これこそが「大丈夫」というべき人である)」で、佐藤先生はこの孟子の言葉通りに生き抜いた。

 知人からこの佐藤慎一郎(東洋史)教授の中国(支那)学の足跡という論文をいただいた(拓殖大学百年史研究4号、平成11年)。佐藤先生の教え子、関係者による対談集である。佐藤先生のことは弟子のひとり寳田さんのまほろばの泉にくわしく書かれているが、この論文には佐藤先生のおもしろいエピソードが書かれているので一部紹介したい。論文は次のところからダウンロードできるので興味を持たれる方は是非読んでほしい
(http://ci.nii.ac.jp/naid/110000037354)。

 佐藤先生が中国にいた時、何を思ったのか中国の排日デモに参加した。一度目は昭和2年の秋に、同宿の中国人学生に誘われ、日当70銭が出るからと参加し、デモ終了後には皆で飲みに行っている。2回目は昭和10年12月9日の「129」事件で、北京の学生が「打倒日本帝国主義」、「華北防共自治反対」をスローガンに排日デモをおこした。佐藤先生は持ち前の実学主義から「本当に国を愛する中国学生と心の底から語り合いたい」との情熱から日本人でありながらこの排日運動に参加した。実際に参加してみると、北京大学も東北大学らの興奮した大勢の学生もいたが、排日の排の字も、侮日の侮の字も感じられなかったそうだ。こんな中でもうどん屋では民衆がうどんをすすり、警官に叩きのめされて血を流している学生をみても、見物している民衆は誰ひとり助けようともしない。これが中国なんだ、完全に失望したと述懐している。後年この運動は激しい愛国運動と記録されているが、先生に言わせれば「歴史として書かれたものは、中国の排日運動はもの凄かったとなっているけれど、その実態はその中に入ってみないと解らない」している。同様に歴史的に名高い愛国運動「五四運動」についても、このデモに参加した石橋丑雄氏の回想では「私が傍らにいた学生に何でこんな運動をするのかと問うたのに対しては、実は自分でも何故にこんなことをするのかよく判らないが、北京大学の教授間に今日の集会をするようにとの話が決定したとのことで出て来たまでだとの返答であった」、「五四事件直後の北京の学生の中にはほとんど連日かり出されて、一日若干の日当をもらう者もあった」と証言している。

 この情景は、そのまま昨今中国各地で行われている反日デモと似ている。参加している学生達が携帯電話で競って写真をとっている状況をみると、本気で反日デモをしているようには思えない。マスコミは、大げさな報道をするが、それほど気にするほどのものでもない。一度、人権問題に関するデモを鹿児島で見たことがある。わずか10名くらいの、近所の活動家で、変人呼ばわりされている人や、趣味でそういった集会するのが好きなひとが集まっていた。こんな集会は誰一人相手にもしないようなものだが、次の新聞をみると、画面一杯に10名の写真を載せ、すごい運動をしているような記事で、あきれると同時に、マスコミがこういうことをするから彼らがつけ上がると感じた。

 お別れ会での拓殖大学椋木瑳磨太前理事長の挨拶も載っている。「広州の黄花岡の七十二烈士のお墓がございます。文化大革命の最中、山田良政先生のお墓に参じようとしまして、お墓の前まで行きましたが、治安当局の阻止によってそれが適いませんので失礼いたしました」との話がある。七十二烈士墓は1911年4月に決起され、清政府の弾圧で亡くなった革命党員72名を祈念して祀ったものであるが、どうして山田良政の墓がここにあるのか、椋木先生の全くの思い違いか、それとも少なくとも文化大革命当時まではここに山田良政の墓があったのだろうか、南京の山田良政碑と同じような新たな疑問が生じる。すでに椋木先生も亡くなり確かめようもないが、今でも残っているのであれば、おもしろい。

 南京中山陵にある山田良政の碑については、未だ不明であるが、ここで広州の山田良政の墓というのが新たに登場した。本当にあるのだろうか。誰か知っている人がいれば、教えてほしい。

 またインターネットをみると、最近は中国でも山田兄弟に関する情報が多くなり、2007年に書かれた華東師範大学教授、易惠莉の論文「关于山田良政的研究」はよく引用されている(http://history.ecnu.edu.cn/sxzlk/000312.html)。彼女は東京大学にも留学経験のある中国現代思想研究家であり、日本の2書を参考にしながら、山田良政に関するかなり詳細な論文をインターネット上で発表している。中文で書かれた最も詳しい解説と思われる。保坂正康著「孫文の辛亥革命を助けた日本人」は、最近ちくま文庫から復刊されたが、できれば結束 博治著「醇なる日本人—孫文革命と山田良政・純三郎」(プレジデント社)もどこかで文庫として再販してもらうとうれしいし、上に挙げた研究者は十分に中国語訳が可能なので中国での出版も検討してほしい。日本政府、関連団体により中国語訳への積極的な支援あるいは協力をすることは、文化交流の一環としても必要なことと思われる。

2010年10月21日木曜日

山田兄弟31



本年の6月に東奥日報の明鏡欄に投稿し、不採用になった原稿である。
 
「今年7月から上海万博が開催される。本県からも青森県ウィークと称して、青森県の観光、物産、文化などを広く世界に向けて発信する催しが行われる。美しい自然、豊かな物産、アピールするものが多い青森県だが、それ以外にも日中交流の大きな遺産がある。
 孫文の自叙伝の中に、「中国革命に尽くして終生怠らざりし者に、山田兄弟・宮崎兄弟・菊池・萱野がある」と記されている。山田兄弟とは、良政、純三郎の兄弟をさし、良政は孫文最初の革命、明治33年恵州起義にて外国人として初めて犠牲となり、弟純三郎は兄の遺志を継承し、孫文の秘書として最後まで革命に生涯をかけた。また菊池とは、菊池九郎の長男、衆議院議員の菊池良一のことで、孫文と日本政府との仲介を行った。いずれも弘前の出身である。さらには五所川原出身の櫛引武四郎は、恵州起義をからくも生き残るが、大正2年の第二革命で南京にて戦死した。これ以外にも黒石の宇野海作ら、多くの本県出身の先人たちが、中国革命に参加し、近代中国の建設に貢献した。
 中国と青森県との友好関係を語る上で、これら先人の事跡は大きな遺産である。上海万博でも中国の方々におおいにアピールしてもらいたい事柄である。」

上海万博では、すでに孫文の金銭的援助を行った梅屋庄吉さんのお孫さんの小坂文乃さんが熱心に活動され、日本館に付随する施設で、「孫文と梅屋展」を開催し、大成功をおさめた。その後、この展示会は北京、武漢でも行われ、日中合作映画まで話が進んでいるのは前回のブログで述べた。さらに今年7月には、高校の先輩でもある防衛大学校校長、五百旗頭真を代表とする辛亥革命百周年記念行事日本実行委員会が設立され、福田元首相や西原春夫元早稲田大学総長など蒼々たる顔ぶれが名を連ねている。そして長崎県が全面的にバックアップしながら北京、上海、武漢などでの展示会を、神戸、東京でのシンポジウムとフォーラムが予定されている(http://xinhai-sunwen2011.org/page3_01_03.html)。

 また梅屋庄吉の故郷の長崎県ではこれを機に、長崎県知事自身が訪中し、次期最高指導者に内定した習近平副主席と会談した。地方代表者との会談は異例なことである。熊本県荒尾市は同じく孫文を援助した宮崎滔天の故郷であるが、市を挙げて大々的な辛亥革命100周年記念事業を計画しており、また熊本県はこれをチャンスと来年行われる日中首脳会議の場所として誘致活動を行っている。

このように梅屋の故郷、長崎県でも、宮崎滔天の故郷、熊本県でも、辛亥革命100周年を前に県、市をあげて記念事業を計画しているが、それでは山田良政、純三郎の故郷、青森県、弘前市では何か計画しているだろうか。全く、それこそそんなささやきすら聞こえない状態である。辛亥革命100周年、それがどう弘前、青森と関係があるのか、山田兄弟、そんなの知らないというのが現実である。本年は山田純三郎没後50年、良政没後110年の記念すべき年で、3年前から弘前市、あるいは博物館に記念展をしてもらおうと動いたが、すべて却下され、実際は東京の有志主催による法要を貞昌寺で行っただけだ。山田兄弟の資料のほとんどを所有している愛知大学の現学長が弘前市出身、弘前高校卒業であること、愛知大学の先生方も非常に協力的であることなど、好都合な点があった。さらに中台接近に伴う中国政府および台湾政府高官の訪弘や、日本のみならず中国、台湾のマスコミによる取上げも十分に可能で、つてもあったが、地元の賛同者はなく結局、何ら記念事業はできなかった。

 上海万博でも我が三村知事も青森県ウィークに参加して青森県のリンゴや観光をアピールしたようだが、その折、誰か中国政府の要人を会ったのであろうか。長崎県知事が、言い方は悪いが梅屋をだしに、中国要人のトップと会談したのに比べると、山田兄弟の戦略的な価値も知らない青森県にはそんな外交的なしたたかさはない。同様なことは、台湾政府についても言え、台湾にリンゴを売るなら、トップの馬英九総統に直接会った方がよいし、山田兄弟を絡めればそういった段取りも不可能ではない。現に、先の身内だけの山田純三郎没後50年法要においても、わざわざ駐日大使に相当する台北駐日経済文化代表が墓前供養のためだけに東京から来られ、また中国領事も来る予定であった。こういったことは県、市職員も知らないであろう。中国、台湾政府にとっても山田兄弟への関心は今もって高い。

 一方、山田純三郎没後50年記念展を企画した折、関係者から「戦前の中国において日本軍国主義の片棒を担った人物を弘前市で紹介することはできない」と言われた。全くの誤解であり、山田兄弟ほどこういった考えと無縁の人物はおらず、梅屋と同じように一生を孫文の革命に尽くした。

 東奥日報に投稿したのがボツにされたのも、多少は腹が立つが、それ以上に長崎、熊本、東京などが上海万博あるいは辛亥革命100周年にむけて活発に活動しているに対して、山田兄弟を生んだ青森県では、その戦略的な価値を知らず、全く何の関心もないのが、もっと腹立たしいし、まどろっこしい。それでも山田兄弟のことを尋ねて遠いところから、弘前に来てくれるひともいてうれしい(http://uraji.paslog.jp/article/1620953.html)。

2010年10月17日日曜日

山田兄弟30



 来年は辛亥革命100周年で、中国各地、台湾でも大掛かりな催し物が企画されている。すでに中国、台湾では多くの孫文関連の記念館や博物館があるが、100周年を前に、設備、建物の拡張が行われたり、新たな記念館が作られている。ただ孫文関係の展示物となると本土には少なく、日本に多くあるため、関係者は展示物収集で大変であろう。

 100周年に際しては、他の記念事業として辛亥革命に協力した日本人を描いた日中台合作の映画も作られるようである。今のところ詳細は不明であるが、孫文の革命を金銭的に助けた梅屋庄吉さんのひ孫、小坂文乃さんによれば、監督菅原浩志で、タイトルも「レボルーション1911」という日中合作映画の話がだいぶ進んでいるようだ。現在、中国、香港でも上映できるためにシナリオの許可申請を行っているようだ。小坂さんのインタビューでは梅屋庄吉さんがシナリオまで書いて、生前製作したかった「大孫文」という映画を是非、上映したいと抱負を語っていた。内容的には梅屋夫婦と孫文夫婦との友情を描いたものとなろう。

 これと同じ話かもしれないが、角川映画による日中合作映画の話もある。孫文の革命を支えた日本人がいたことを記した本として『革命をプロデュースした日本人』(講談社)と、『孫文の辛亥革命を助けた日本人』(ちくま文庫)が 出版されている。これらをベースにしながら、孫文とその日本人との手紙など、新たに見つかった遺品とともに、ストーリーを構築すると見られている。前者の作品は梅屋庄吉、後者の作品は山田良政、純三郎兄弟を描いたもので、孫文とそれを支えた日本人に焦点を当てたものとなる。

 また夕刊フジ紙面では8月23日から、歴史作家、井沢元彦氏による連載小説『友情無限 孫文に1兆円を与えた男』が始まっている。これは梅屋庄吉を主人公として小説で、大手映画会社がこの小説を原作として映画を作るとの話もある。

 いずれも企画段階だが、実現する可能性は高い。ちなみに梅屋庄吉がやりたかった映画「大孫文」の内容が「革命をプロデュースした日本人」に載っているので紹介したい。

 この映画で梅屋は孫文の生涯を描きながら、日本が革命の拠点になったことや、革命を支援した日本人の存在を中国の人々に知らしめたい。それによって日中関係を改善に向かわせたいというもので、昭和5年に企画された。登場人物は、孫文、蒋介石、黄興、陳小白、宋慶齢、袁世凱、ジェームス・カントリー博士、頭山満、犬養毅、山田良政、梅屋庄吉で、オールカラー5時間に及ぶ大作だったようである。資金不足と日中関係の悪化により中止となった。

 現在、尖閣諸島問題で、日中がぎくしゃくしている。日本、中国政府双方が鎮静化に必死であるが、それに逆行するような反日、反中デモが行われ、なかなか友好関係の修復のきっかけが掴めない。この原因としては、中国における経済格差、富裕と貧困の二分化などの社会的な問題と、それに不満な若者の屈折がその背後にある。20歳の若者からすれば、70年前の日中戦争というのは全く実感のない世界であり、それを感覚として憤るいわれはない。また尖閣諸島の問題にしても、おそらくは多くの若者からすればその位置すら知らないところで、その領土うんぬんの話はデモに参加する若者の生活には全く関係はない。中国からの留学生を数多く接しているが彼らをみていると、中国人の本音と建前の使い分けは実にうまい。本音としては自分たちの暮らしが幸せで平和であればよいという素朴なもので、政府に関しても、自分たちに益するなら、支持するし、従うといったものである。反日デモくらいでガス抜きしてもらった方が政府、若者にとっても都合がよく、富裕層への反発という形でガスが噴出するのが最も怖い。昨日のテレビで、上海のクラブで踊る金持ちの若者たちを映していた。VIP席は日本円で5万円だそうで、こういった自分たちの年収にも相当するところで遊ぶ同世代の若者、職もない、貧困な若者からすればこれほど憎悪の対象はない。プロレタリアートによるブルジョアへの憎悪と反乱、これこそが革命であり、社会主義国でプロレタリアート革命が起きたのでは、それこそシャレにもならないし、国の根幹にも関わる。

 中国政府は、国民の不満のはけ口として反日、愛国教育をおこなったが、あまり効果はなく、かえって日本の反発や、韓国以外のアジア諸国の共感もなかった。酔っぱらい船長の気違いじみた行動を英雄的な行為としなければいけない世論を作ったのはこういった教育結果であり、今回の強引な中国政府の対応により、うちの家内のような普通の主婦さえも嫌中にしてしまったのは、まずかった。さらにこのことは、日本の防衛意識を喚起させ、防衛費増大に対する抵抗はなくし、日米軍事的同盟を強固にする。実際、北朝鮮のミサイル発射が問題になると、すぐに軍事衛星、ミサイル防衛が整備されてきた。現在では、ロシアの脅威は減り、北朝鮮とはいいながら、日本の仮想敵国は完全に中国となっている。今回の事件は、完全にこういった考えをプッシュするもので、両国の軍事競争につながる恐れもある。さらに軍事競争が愛国主義と連動し、ちょっとした事件が、マスコミが取り上げ、大げさになっていくのは、先の戦争での朝日新聞などに代表されるマスコミで経験済みである。

 力を背景にした強権的な態度は、各国の反発を招くだけであり、まず青少年の教育の中に、愛国主義も結構だが、日中の友好、孫文の辛亥革命を助けた日本人を取り上げることは重要と思われる。日本とトルコが友好な関係を示しているのは、エルトゥールル号遭難事件をきちんと教科書で紹介していることも要因のひとつである。日中が友好な関係になるためには、嫌いなところがあっても構わないし、嫌いなひとがあってもいいが、少なくとも、山田兄弟や梅屋庄吉のことをきちんと両国で伝えることが、長い意味では両国の得となるのではないかと思う。それ故、来年の辛亥革命100周年はいい機会である。日本、中国、台湾政府とも、三国の友好の象徴として梅屋や山田と孫文の関係を描いた映画を取り上げてほしいし、上記の2冊の本の中国語への翻訳なども期待したい。

ちょっと長いが小坂さんのインタビュー

2010年10月12日火曜日

弘前城 2




 いよいよ本丸に入る。下乗橋から入ると、左手に見張所があり、その奥に腰掛所がある。この腰掛所というのは別の所では腰掛屯所となっているが、登城する主人を待つ供侍の控所という解釈もあるが、ここでは門に伴い設けられている番所の詰所であろう。右に折れると中門があり、すぐ左にはまたもや見張があり、厳重である。というのは本丸玄関左に御金蔵があるからである。右には天守があり、堀に沿って腰掛屯所、見張所、井戸、陸尺詰所(ろくしゃく)が並んでいる。陸尺とは駕篭や輿を担ぐ人夫をさすようだが、城内の掃除、賄いなどの雑用を行う人たちがいたのであろう。

 本丸の形が実際とは全く違うのに気づくであろう。本来、本丸は北南に長い長方形だが、地図では東西に長い長方形になっている。これは本丸御殿の大奥に当たる部分が削除されているため、御殿自体が横に長い長方形になっているからである。藩主夫人が住む奥については、一般の人が知る必要がないことなのでわざと削除したものと思われ、それを省いてしまうと、何となく本丸そのものも東西に長い長方形になったのであろう。

 玄関を入ると、広間があり、その右には御従目付の部屋が、奥には祐筆の部屋、䑓子の間(茶室)、さらに奥には中之口、御目付の部屋が続く。広間左奥には大目付、御用人、御家老などの重役の部屋が、その奥には御坊主方、奥詰席などがあり、一番奥が台所となる。

 玄関から左にずっと行くと、表御座敷、同下ノ間、御小院、浪之間、山吹ノ間、さらに行くと、芙蓉の間、竹の間、菊の間、四季の間、松の間、西湖の間といった旅館のような部屋が続く。おそらく襖絵に由来した部屋名であろう。左の一番奥には御武芸所と殿様が日頃いた御常殿があった。

 西湖の間の奥は、中奥、御座敷、御広敷となり、本来はこの奥に夫人、側室、女官が住む大奥があるが、地図では砂ノ小庭があるだけで削除されている。この庭の横には御三階御物見があり、三層の物見櫓があった。通常、天守のことを御三階物見というが、ここでは天守と対角にあるこの櫓を御三階物見としており、少し大きな櫓であったのであろう。この櫓の下の二の丸に、神武遥拝所の名があるが、名前から見ても明らかに明治以降のものであろう。二の丸のここらには鉄砲場、矢場、武具、武器庫が並び、それを管理する役所があった。

 本丸に戻ると、竹の間、芙蓉の間の前庭には御舞台と楽屋があり、ここで能などが演じられたのであろう。楽屋の裏には見張所が、横には藩の文書を収めた御日記舎があった。

 本丸から北の郭へ抜ける門は、不通門となっており、普段はおそらく閉じられ、本丸への入口は中門のみに限られていたのであろうか。また二の丸、武器庫の所には埋門という変わった名が見えるが、非常口で戦の場合は文字通り埋められた。

 「津軽ひろさき・おべさま年表」(弘前観光コンベンション協会発行)の最後の見返しに「弘前舊城本丸建物之圖」という詳しい本丸御殿の図が載っている。配置は大体似通っているが、細部は異なる。西湖の間や松の間は本丸御殿の図には載っておらず、四季の間の配置も違う。また能舞台や御日記舎の配置も幾分違う。「弘前舊城本丸建物之圖」と明治2年地図では、時代が違うことで部屋の配置も違っているのかもしれないが、むしろ明治2年地図は記憶に頼って描いているうちに方向がわからなくなったのであろう。廊下も庭もなく、あの部屋の隣にはあの部屋があるといった感じで描いていったのであろう。玄関入って、右奥には便所の名が見えるが、屋内の大きな便所はここくらいなので印象に残っていたのであろう。

 前回は三の丸の亀甲門あたりを省略したので、ここで追加する。亀甲門を入った北ノ丸には、木材や縄、藁など雑多なものを扱う作業所が集中している。まっすぐに行くと左の門があり、ここが作業方で縄、材木などを扱う作業所と役所があった。面白いのは兼平石入所というところで、岩木高舘山で産出される安山岩の独特な平らな岩、兼平石を扱っていたのであろう。また鳶、消防、畳、鍛冶などの職人もここにいたようだ。さらに赤丸で角力場があり、職人達がここで相撲をとったのであろう。亀甲門からまっすぐ行くと、右手には御鷹部屋、鷹掛席、餌差席などの建物があり、鷹匠がここで訓練していたのであろう。作業方の左の城外のは、亀甲御収納とあり、ここに籾蔵2ヶ所となっており、唯一城外のここに米貯蔵倉庫があったのであろう。

*将来的には、この地図もデジタル化して、それを収めたCD付きの本をだそうかと思っている。それで先日知人の写真屋さんに聞くと、きちんとデジタル化するには大掛かりな装置がいるとのことであった。レールのようなものを組んで、カメラを上下左右に動かして撮影するようで、費用もかかりそうである。少数部出版であれば、適当に自分で撮ってもいいかと考えている。

2010年10月11日月曜日

弘前城 1



 来年2011年は、弘前城築城400年ということで、各種の催しものが企画されている。その一番の目玉として本丸御殿の復元が計画されている。ただ復元に必要な平面図や立体図がなければ、文化庁でも復元の費用を負担しないため、実現が困難な状況になっている。市関係者も懸命に資料がないかどうか市民に問い合わせているが、今のところ決定的な資料は発見されていない。弘前城の本丸御殿が完全に取り壊されたのが、明治17年だから、写真や絵図など相当残っていそうなものだが、御殿の一部が映っている写真があるくらいで、資料は非常に少ない。

 明治2年地図でも弘前城内部についての記載があるが、大まかな配置を示したもので、御殿復元の資料になるような具体的なものではない。ただ弘前博物館にある明治4年の地図に比べてこの明治2年地図の方が、お城内部の描写についてはより詳しく、当時のお城内部のことがわかって面白いので、2回に分けて説明したい。

 東門、弘前文化センターのところから入ると、まず見張り所がある、さらに東門を抜けるとまた見張り所がある。今の植物園、三の丸には大きな建物があり、その右側から廻ると、物見に挿まれた門から入ると玄関、その奥には中ノ間、御次、御広敷があり、左には御座敷、御常殿、右には役員、御台所などがある。また御座敷の左には大きな庭がある。これが三の丸屋敷である。三の丸屋敷を出て、さらに進むと、もう一つの門が見えてくる。この門の左には金銭上納方、評定所、町方役所、人別役所があり、右には郡方役所や役員用諸品渡所がある。さらに奥には勘定所、銭蔵、山方役所、掛方役所、掃除小人詰所などの建物があり、一番奥に稽古館学舎と小さな庭、図書館に相当する書冊蔵などが附属する。勘定所の右には7つの籾蔵が並ぶ。籾蔵といっても、これは非常時用の備蓄米倉庫である。

 三の丸の、三の丸御殿とは反対方向には6つの籾蔵が並び、馬場がある。ここには井戸があるが、わざわざ笹井と名前がついている。下馬橋の手前には腰掛屯所があり、橋を通ると、見張所があり、そこから右に折れ、内東門から二の丸に入る。進むと二の丸御殿があり、その横には籾舎、白米舎などがある。昔は御休憩所で、本丸、二の丸、三の丸にそれぞれ御殿があり、そこで政務が行われたが、この書き方では、二の丸御殿は江戸末期にはあまり使われていなかったのであろう。二の丸御殿の前には御馬屋掛員詰所がある。さらに進むと、北門があり、その奥には6つの籾蔵と隅矢舎などとともに弘前城の守り神、御舘神、太閤秀吉稲荷がある。この稲荷は江戸時代には開かずの宮と呼ばれ、密かに津軽家を大名にしてくれた豊臣秀吉に感謝するために秀吉の木像を安置していたようだ。徳川幕府に知られると当然処罰の対象になるため、絶対の秘密であった。徳川幕府に忠誠を尽くしながら、城の守り神に豊臣秀吉を祀るあたり、なかなかのしたたかさと剛胆さである。明治2年地図では、当然堂々と豊臣秀吉稲荷と書かれている。この豊臣秀吉像は、明治後に東京津軽邸に移され、現在は革秀寺・津軽為信霊屋内に安置されている。

 二の丸御殿とは反対側には駕篭屯所、馬場、御宝蔵、御金蔵、矢舎などがある。太鼓楼という建物はここに太鼓を置いて城下の武士に登城の合図をしたのであろう。同様に見張所が3つあるが、追手門に近いところから、城門へ到着する早出、早馬、行列の先触などをいち早く発見して役人に連絡したところか。二の丸の当たり周囲は八寸角塀で囲まれているが、他の場所は多くは土塀となっている。

 ここまで三の丸、二の丸の建物について述べた。それぞれの建物は結構大きく、後の調査によると米貯蔵に使って籾蔵は、発掘されたもので4間×12間、8m×24mの規模、文献では20間、25間、40m、50mのものが、二の丸、三の丸に6箇所、6箇所、7箇所の計19箇所あった(その他紙亀甲町にも)。

 また津軽ひろさき・おべさま年表の見返しにある「弘前舊城之圖」を見ると、三の丸御殿は48間(約90m)、評定所は34間(60m)くらいあるようで、とてつもなく大きい。本丸以外にも二の丸、三の丸にも政治機能を司る多くの建物があり、役職によっては二の丸、三の丸だけで仕事は終わったのであろう。三の丸御殿についても、本丸御殿ほどの規模ではないにしても、十分にここで執務が可能な規模であり、本丸御殿とどういった役割分担があっただろうか。また「弘前舊城之圖」はいつ頃の弘前城の図であろうか。明治2年の地図は詳細ではないとしても、「弘前舊城之圖」とは建物の配置や大きさがかなり違う。稽古館を見ても、「弘前舊城之圖」では小さな「学校」、「土蔵」と書かれているだけだが、明治2年地図では規模が大きく、庭や図書倉庫もある。また評定所、勘定所の位置も幾分違う。明治初期、あるいは明治17年に壊される前の弘前城の状況は、明治2年地図に近いものだったと推測される。

*地図は2MBくらいで載せています。最新のマックであればIphone, Ipad同様に非常に簡単に拡大、回転ができ、こういった地図を見るのは本当に助かります。地図をさして、トン、画像がでたらもう一度、トン、指でさらに拡大し、二本指で移動、自由に簡単にかなり拡大して見れます。

2010年10月8日金曜日

君が代行進曲


 最近youtubeでよく聞く曲は、「君が代行進曲」です。アップしましたので聞いてみてください。よく耳にする曲ですが、題名が「君が代行進曲」と知っていたでしょうか。なるほどよく聞くと国歌君が代を行進曲にアレンジしたものですが、実に違和感なくなじんでおり、とても編曲したものと思わせないほど自然なできです。

 君が代が国歌に選定されたのは明治初期ですが、当時から外国の国歌に比べると君が代はじみで、ぱっとしないという意見があったようです。それならば行進曲にしようとしたのが、この「君が代行進曲」で、有名な軍艦行進曲よりは古い曲です。国歌をこう簡単に編曲しようという考えは、少なくとも太平洋戦争当時では不敬罪に当たるようなものでしょう。案外明治初期は国歌に対する思い入れは少なかったのかもしれません。

 思いつくだけでも、行進曲を国歌にしたのは、スペインの「国王行進曲」、トルコの「独立行進曲」、中国の「義勇軍行進曲」などたくさんあり、その他、多くの国の国歌も革命曲や軍歌など勇ましいものが多いようです。その中で、君が代はある意味国歌らしくない曲で、日本人でも歌う場合、やや気が滅入る曲です。とてもサッカーの試合中に歌って、選手を元気つける曲ではありません。それでも勇ましい国歌の多い中で、かえって目立ち、すぐに日本の曲と思い出してくれるでしょう。

 一時は、日教組や社会党により、国旗、国歌が忌避され、卒業式に歌わないと首にするといった物騒な話もありましたが、最近は若者の中にも自然に受け入れられてきました。先日も、フランスに交換留学生として1年間行っていた高校生が帰国しました。フランスのある集まりで自分の国の国歌を歌うことになり、彼女もみんなの前で君が代をひとりで歌いました。不思議なことに歌っていると知らぬ間に泣いていたようで、君が代は本当にいい曲ですと言っていました。

 ネパールの公募で決めた新しい国歌も聞いてみてください。ほとんど三橋美智也のカールのCM曲に近い、のんびりした曲です。こういった曲をわざわざ国歌に選定するとはすごいことです。一度、オリンピックの会場で流し、観客の反応を見てみたいと思います。でもネパールでは金メダルは無理か。

2010年10月5日火曜日

歯根吸収



 いかなる医療行為においても、100%安全、害を与えないものはない。薬を飲んでも、副作用があるように、矯正治療においても、治療そのものが害を与えることがある。

 ひとつは、歯の表面に装置を付けるため、歯ブラシによる清掃が難しくなり、虫歯が歯肉炎のリスクが高くなる。患者さんによっては、治療中に虫歯になるケースもある。ただこれは患者さんがきちんと歯みがきをし、フッ素塗布と併用することで防止できる。

 もうひとつの問題点は、矯正治療により歯の根っこが短くなる、歯根吸収がある。ひどいケースになると、矯正治療終了後のレントゲンで、全歯の根っこの長さが始めの1/3以下になることもある。このようなケースでは、歯は常に動揺があり、将来的に歯周病になり骨の高さが下がるようになると、抜ける可能性もある。

 それではこの矯正治療による歯根吸収の頻度はどのくらいあるかというと、高橋矯正歯科診療所の中村進先生の調査によれば(歯根吸収に関する臨床的考察 1997)、明らかに根の吸収が認められる2度以上(0度:根吸収なし、1度:疑わしい)の頻度は、治療前で約20%、矯正治療後で約80%だったとしている。歯根の吸収が1/4以上ある4度の頻度も5%近くあり、また歯の種類別では上下の前歯に集中している。不正咬合の種類では開咬(前歯が空いている)や上顎前突(出っ歯)の症例で多く、治療開始年齢が高く、治療期間が長いほど、歯根の吸収も憎悪する傾向があった。程度の差があっても、ほとんどの症例で歯根吸収があり、これは私のところでも同様である。

 この原因については、はっきりしない。最近の研究では、歯の移動においては常に骨だけではなく、歯根表面でも吸収と添加が繰り返されるが、骨の吸収が少ないと、歯根表面に強い持続的な応力がかかり、歯根の破折、吸収が起こりやすくなる(歯根吸収における生物学的考察 W.E Robertsら 2004)。これはIL-1B対立遺伝子の型による遺伝子要因が関与するとされている。歯根吸収しやすいひとと、しにくいひとがいるようである。すなわち歯の移動に際して、動かした方向の骨の改造がすばやく、動きやすいひとでは、歯根表面の吸収は少なく、逆に歯の移動がしにくいひとでは歯根の過大な力がかかり歯根が吸収してしまう。もともと歯根が短いひとや、歯根の形が変形しているひとでは吸収が起こりやすく、逆に根っこの治療をしている歯では吸収は少ない。結紮を必要としないセルフライゲーションブラケットでは根吸収は少ないとされ、矯正用インプラントを用いた治療法では根吸収は多いとされている。さらに言うと、治療期間が長いほど根吸収の頻度、程度は増大する。また歯の移動距離が長いとそれだけ歯根吸収も大きい。小児より成人の方が根吸収しやすく、歯を動かす力が大きいほど根吸収しやすい。

 歯根吸収の多くは、根っこの先の方、いわゆる根尖というところに見られ、とんがっている歯根が吸収されて丸くなる。この理由としては、歯は歯冠という歯茎からでている頭の部分と、骨の中に潜っている胴体部の歯根に分かれる。矯正治療ではこの歯冠の部分に矯正装置をつけてワイヤーやゴムの力で歯を動かす。土の中に木が植えられ、それを動かすようなものである。この場合、力の中心は歯根の2/3くらいになるため、てこの原理で根尖部へ過大な力がかかりやすい。一方方向への動きであればいいのだが、咬む力や舌の力、ほっぺの力が歯の動く方向とは逆の力として働く場合、そういった反復性の過重、いわゆるジグリングと呼ばれる動作が歯の疲労破折を起こし、根尖部の根吸収をおこす。こういうことで矯正治療による歯根吸収は根の先、根尖におこる。

 歯根の吸収がおこっても、ほとんどの場合、問題はないが、吸収が大きい場合は、治療目標を変更して、妥協的な治療法に切り替えることもある。そのために治療途中にもレントゲン写真を撮り、必ず歯根吸収はチェックする。

 よく床矯正やインビザラインのような取り外しのできる装置、あるいは非抜歯による治療は、歯根吸収は少ないとされているが、これは単にこれらの治療ではあまり大きな歯の移動を行わないからであり、どのような矯正治療においても歯根の吸収は起こる。できるだけ弱い力で、短期間で治療する、あるいはあまりこまめにワイヤーを変えないようにして治療をしているが、あごの華奢な患者さんではあごが小さく、華奢だけでなく、歯冠は大きいのに歯根は細く、短いということがよくある。こういった歯根の大きさや太さは、患者によりかなり差があり、大きな歯根では多少根が吸収しても全く問題がないが、もともと短い歯根では治療による歯根吸収の影響が大きい。歯の大きさ、歯根の大きさは遺伝的に決まるとされているが、白人に比べて日本人ではどうも歯根は短い。白人は頭が小さく、足が長いのと同じように歯冠は小さく、歯根は長い。それに対して、日本人は頭が大きく、足が短いように、歯冠は大きく、歯根は短い。最近の子供は昔の子供に比べて足も長くなり、スマートになってきたが、歯根はむしろ昔より短く、細くなっているようで、そういった意味では日本人の矯正治療は難しい。歯根の吸収にも気をつけないといけない。

2010年10月3日日曜日

第69回日本矯正歯科学会



 先日、第69回日本矯正歯科学会大会(横浜)から帰って来ました。以前は参加者も1000名以下でしたが、認定医の更新のためか、最近は実質参加者も2000名は超え、大きな大会となっています。矯正歯科関係の会社も商社展示というかたちで毎年参加し、今年は69社の参加があり、かなり金のかかったブースを用意していました。日本の歯科学会の中では最も派手な学会でしょう。

 アメリカ矯正歯科学会ができて110年、日本矯正歯科学会も創立は1926年ですから、すでに84年たつことになります。今年のテーマは「温故知新」で、年配の先生たちから若手へのメッセージなども企画されていました。その中で東京医科歯科大学の三浦名誉教授の話の中で、矯正歯科が日本に持ち込まれたのはアメリカの占領軍のおかげだと述べていました。戦前にも日本矯正歯科学会はありましたが、歯科臨床の中で存在は薄く、全歯科治療の中の1%以下を占めるに留まっていました。ところが戦後、日本の医療教育制度を変革しようとやってきた米軍担当者は歯科では補綴、保存、口腔外科の3科だけでなく、矯正歯科もそれと同等の教育をせよということになり、これら主要3科に加えられることになったのです。ただ日本の場合、厚労省では昭和50年代に入るまで、矯正歯科は診療科目とは認められず、基本的には診療科目としては表示できませんでした。ようやく矯正専門医が現れたのはこのころからです。

 今回の学会では、東京で開業している近藤悦子先生の講演があり、大変参考になりました。近藤先生の講演を聞くのも3回目ですが、今回は3時間という長い講演でじっくりと症例を見ることができました。近藤先生は、マルチブラケット装置をメインにした本格的な矯正歯科を日本で早い時期からされた先駆的な先生で、開業が1970年ですから、ほぼ40年近く矯正専門医として活躍されています。また先生は大変真面目な先生で、長期に渡るきちんとした資料を採られており、古い症例では治療後40年以上のケースもあります。これだけ長期にわたるきちんとした資料を持っているところは世界でも少なく、先生の研究をまとめた著書「Muscle Win! の矯正歯科臨床—呼吸および舌・咀嚼筋の機能を生かした治療—」(2007)は早くも韓国版、英語版、中国版になっています。

 長期安定したかみ合せをもたらすキーは、舌・口腔周囲筋・咀嚼筋および頸部筋活動の正常化と口唇を閉鎖して鼻呼吸の確立が重要としています。これは専門すぎてわかりにくいと思いますが、歯が馬蹄形に並び、上下の歯が自然に咬むのは実をいうと歯列周囲の筋、舌、ほっぺの筋肉や咬む筋肉の力でそうなります。上の歯が飛び出ている出っ歯のひとは、中から歯を押す力(舌の力)が、外から歯を中に入れる力(口元の筋肉の力)より強いために歯が飛び出します。

 近藤先生の症例を見ていると、きちんと矯正治療を行い、それが機能とマッチすると、年齢を経るにつれ、さらにかみ合せがよくなり、顔の形もよくなっていきます。子どものころ矯正治療をしたひとと、そのまま何もしなかったひとでは、50,60歳になると、かみ合せ、顔の形、さらに人生感まで違うようです。前歯、奥歯でしっかり咬める状態にすること、お口をしっかり閉じて鼻で呼吸すること、さらにそれによるよい姿勢は、人生の後半になるにつれ、価値が高まるようです。

 さらに私自身の経験から、矯正治療をしたひとは、口に対する関心が強いため、歯みがき、歯科医院への定期的な管理など、こまめにされる方が大きく、おそらくそれがう蝕や歯周疾患の減少に繋がっていると思えます。結果的に、老年期になっても、自分の歯がたくさんあることになるのではないでしょうか。きれいな歯並び、ひとに自慢できるような歯並びは、自分自身の笑顔に自信を持つことができ、精神的にも活動的な生活を送ることができるでしょうし、また近藤先生の経験によれば、正常な鼻呼吸、バランスのよい周囲筋活動が維持されていると、年齢が経っても、若々しい顔と口元で、いきいきと生きることができるようです。

 研究方法には演繹的研究と帰納的研究があり、今後、矯正治療終了長期症例による帰納的研究、すなわち老人になった矯正治療経験患者と未治療患者を比較することで、現在の治療法についての是正も必要になるでしょうし、また矯正治療の利点についてもよりはっきりしてくるでしょう。それでも1人の矯正家が40年間治療をして初めて50、60歳の患者を経験できる訳ですから、気の長い話で、ようやく引退かという年齢になり、自分の治療法の成果がわかることになりますし、逆に言えばいくら若手で優秀な臨床家がいても、経験数をこなしたベテランの臨床家には及ばない ことになります。

 欧米の臨床医には、こういった長期の症例を帰納的にみていくという考えはないというか、全く放棄しているようです。30,40年後、どうなっているか、そんな先のことはわかりっこないし、関係ないということでしょうか。日本よりずっと矯正患者の多いアメリカでも、こういった研究はあまり見ません。また矯正治療前後で咬む能力がどう変化したといった研究は日本では盛んに行われますが、アメリカではあまりありません。どうも日本では長い間、矯正治療は医療行為と見なされなかったことに対するコンプレックスからか、矯正治療による目的に関する研究が、特にここ最近は多くなっています。正常な歯並びを、見た目に美しいだけでなく、成人、老人になっても、生活、健康に大きく影響することが少しずつわかってきました。今後、さらに研究が深まることを期待します。