2010年11月28日日曜日

藤岡紫朗



 藤岡紫郎は、明治時代にアメリカ、ロサンジェルスで活躍したジャーナリストで、その生涯をみると、先にTBSで放送された橋田壽賀子原作「99年の愛 Japanese americans」のモデルと似ている。

 明治12年(1879)に弘前市徒町川端町に生まれ(明治2年地図では確認できず)、弘前中学校を卒業後は、犬養毅の書生となり、早稲田大学に進む。海外への雄飛やみがたく、明治30年(1897)に渡米した。17歳であった。渡米後、記者になろうと決意し、テンプルカレッジ、コロンビア大学で学び、日露講和会議に際しては「日本新聞」の特派員として記事を送っている。おそらく郷土の先輩陸羯南からの依頼もあったのであろう。その後は、シアトルの日刊紙「北米時事」の主筆となる。藤岡の妻千代子(旧姓 袴田)は弘前女子高等師範(弘前高等女学校の間違いか 現弘前中央高校)卒業後、同校で教鞭をとり、「本校よりは袴田千代子のごとき秀才を生めりとて後進の学生に誇った」と言われるほど優秀な才女であった。

 その後は、現在でもまだあるアメリカ最大の日系新聞「羅府新報」の主筆をしていた。妻千代子との間には、12人の子供に恵まれたが、愛情深い家庭だったという。アメリカにいても日本人として生きてほしいという願いを持つ藤岡は子供の教育は日本でと考えた。アメリカ留学時代に親しくなった郷土の笹森順造に相談して、長男の俊朗を弘前の東奥義塾に留学させた。当時、同じような日系二世4名もアメリカからやってきて、東奥義塾に入った。昭和4年のことである。当時、東奥義塾はアメリカに留学していた先生も多く、こういった日系二世を受け入れる環境に恵まれていた。そのため遠山則之、茅野恒司、島野好平などカリフォルニア州を中心とした日系による東奥義塾「維持会」が組織され、変わったところでは俳優の早川雪州など50名ほどのメンバーがいた。ちなみに笹森はアメリカ在住時に、南加中央日本人会会長をしていた藤岡に請われ、その書記長をしていただけでなく、青年会剣道部の師範をしていた。郷土が同じだけでなく、早稲田の同窓という点でも二人は親しかった。

 昭和3年発行「青森縣総覧」(東奥日報)には、海外在留縣人状況として、「藤岡紫朗氏 新聞主幹弘前出身 ロスアンゼルスに在って羅府新報の主幹をしている。かっては北米時事新報の主筆をしていたこともある。在留同胞間に人望高く、南加州の日本人会長をしている。また以前農作物種子会社の社長をしていたこともある。在留邦人の便宜を図ることに努力している。現在、東奥義塾と連絡をとり、学生の留学に関して尽力している。在米同胞事情の著述もある。官界すなわち領事館においても藤岡氏の意見を尊重し、種々の外交上のこと等に関して相談をうけている。東奥義塾より早大出身。十人の子福者である。」となっている。出身学校は弘前中学の間違いか。「剣道塾長 笹森順造と東奥義塾」(山本甲一 島津出版 2005)では藤岡の父は明治19年ころに青森県議会議員になったとしているが、「青森縣総覧」に該当する名前はない。明治25年第二回弘前市市会議員選挙で三級当選者に徒町藤岡知言の名前が見られ、おそらく紫朗の父のことであろう。明治2年地図では、徒町には藤岡の名前はなく、富田足軽町に藤岡八十八、茶畑新割町に藤岡鋳吉、上鞘師町に藤岡増三郎の3家しかない。「日系ジャーナリスト物語 海外における明治の日本人群像」(林かおり 信山社)には藤岡紫朗をくわしく取り上げているが、その中で「彼は士族(正確には郷士)の出身であることを誰にも明かさなかった」としていることから、郡部の豪農の出身で維新後に御徒町に住んだのかもしれない。

 昭和16年の太平洋戦争においては、日本人会の有力者であった藤岡はその日のうちにFBIに捕らえられ、敵国外人収容所に入れられる。昭和17年7月には胆石が再発、悪化したため、家族のいる強制収容所に移される。四男の光夫は人種差別の不条理に対して、自らアメリカに忠誠を尽くすことで払拭しようとして二世部隊442部隊に入隊し、1944年のヴォスゲヤの戦いで戦死する(テキサス歩兵大隊救出)。収容所での「忠誠登録」のやり取りなど、このあたりがTBSドラマのシーンと非常に似ている。

「義において米国を愛す。情において日本を愛する」という言葉を愛した。最後までアメリカ国籍を取らず、昭和32年に日本人としてアメリカで亡くなった。
*弘前市立図書館にある「青森縣総覧」を見ると、明治33年以降(昭和3年まで)のアメリカ留学生115名の名前が記載されている。山田良政、純三郎の兄弟の二男の晴彦、四男四郎の名前もあり、アメリカに留学したことがわかる。渡米した順番に記載されているようで、四郎に続いて、晴彦が渡米したようだ。二人の兄弟がその後、どうなったか調べているが、全くわからない。

2010年11月24日水曜日

笹森卯一郎



 笹森記念体育館というと、弘前のひとは追手門広場内の体育館を思い出すだろうが、実はもう一つ長崎にもある。長崎の私立鎮西学院高校にある笹森記念体育館で、平成元年にできた。
弘前の笹森記念体育館は、東奥義塾を再興し、戦後は国務大臣などを歴任した笹森順造を記念したものであるが、鎮西学院のそれは笹森順造の兄、笹森卯一郎を記念したものである。笹森卯一郎はつぶれかけていた長崎鎮西学院の再興を、弟順造は廃校になっていた東奥義塾を再興し、兄弟で同じようなことを日本の東西で行った。

 笹森卯一郎(宇一郎 1867-1911)は、弘前市若党町93番地の笹森要蔵の長男として生まれた(写真右下に笹森要蔵の名がある)。父要蔵は、宝蔵院流の十文字槍の使い手で、弘前藩の御武庫奉行を務めていた。明治維新後は困窮したが、5人の子供の教育には熱心であった。5軒隣には卜伝流の小山儀三郎道場(導場)の名前が見えるが、本来ならこの道場に通わせるはずだが、明治の早い時期にこの道場は閉められたようだ。そのため岡兵一らとともに、要蔵は稽古場、北辰堂を明治16年に長坂町に作り、そこに自分の子供を通わせた。

 卯一郎は自宅近くの亀甲小学校を卒業後、明治13年に県立の弘前中学へ進んだが、海外への飛躍を望み、翌14年には東奥義塾に転校する。ここで本多庸一らの影響を受け、明治16年にキリスト教徒となった。明治18年には東奥義塾を卒業し、念願だったアメリカ留学も外国人宣教師や後の外務次官となる珍田捨己の尽力でアメリカ、デポー大学に行くことになった。同行する学生は、高杉栄次郎、益子恵之助、長谷川哲治の四名であった。この内、高杉栄次郎は卯一郎に住むそばの小人町の出身である。座頭ノ頭支配所の前に高杉英三の名前が見えるが父親である。長男高杉栄次郎は、デポー大学卒業後は、母校東奥義塾に戻り、青山学院、ハーバート大学、東北大学で教鞭に立ち、最後は長らく北海道大学の教授をしていた。次弟の滝蔵は同じく、デポー大学に留学後、早稲田大学で西洋哲学を教えた。また早稲田大学では長らく野球部長を務めた。末弟の良弘はインディアナ大学、コロンビア大学で哲学、法学博士の学位を得て、その後は実業界で活躍した。いずれも熱心なキリスト教徒であった。3人揃って、東奥義塾からアメリカ留学し、博士号を取得した優秀な兄弟だった。

 ついでに言うと。笹森卯一郎とは幼なじみでアメリカ留学も一緒だった高杉栄次郎は、長崎の鎮西学院に教授として就任に、卯一郎とともに学生教育に励んだ。さらに明治34年には、同じく弘前市山下町出身の吉崎彦一(1870-1925)が教授として鎮西学院に赴任してきた。吉崎は東奥義塾を卒業後、カリフォルニア州立大学、ノースウェスタン大学、シカゴ大学で計12年間学んだ後、帰国した。調べると、山下町の今東光の父の実家の3軒隣に吉崎奥左エ門の名が見える。父親か。他には東奥義塾卒業後に、アメリカのパデュー大学、ミシガン農学校で10余年間神学と農学を学んだ海老名昌一も明治36年から鎮西学院で勤務する。こうして4名の弘前の人が同時期、鎮西学院に勤務した。

 明治期、東奥義塾からアメリカの大学に留学したものは40名、逆にアメリカから弘前にやってきた宣教師は34名、東奥義塾以外にも弘前中学校、早稲田大学卒業後にアメリカの大学で学び、日系ジャーナリストとなった御徒町川端町生まれの藤岡紫朗のような人物もいて、明治期の弘前の若者は東京大学を頂点とした学閥官僚システムに乗るよりは、いきなりアメリカを目指した。少なくとも若党町、小人町のような小さな町内からも笹森兄弟、高木兄弟の5人のアメリカ留学生がいて、かの地で博士号をとった。明治期という時代を考えると、辺境の弘前の地でのこういった現象は特異なことと思える。例えると、田舎のある高校で、卒業後、毎年数名、アメリカのアイビーリーグの大学に留学し、一年目からアメリカの学生を押しのけて優秀な成績をとり、博士号をとってくる、そういった教育が高校の間に行われていた。授業はすべてアメリカの教科書を使って行われていたようで、今はやりの大学の国際学部の内容である。

 笹森卯一郎については,鎮西学院創立125周年を記念した出版された「火焔の人 教育者にして伝道者 笹森卯一郎の生涯」(松本汎人著 鎮西学院)という大著があり、鎮西学院時代の笹森の事柄をくわしく説明されている。その緒言に「長崎の史家・福田忠昭が1918年に編んだ「長崎県人物伝」には太古から現今まで長崎に生まれ、あるいは渡来して各分野で活躍した人物千数百人が網羅されている。その中で、遠く陸奥に生まれた笹森卯一郎の経歴が約一頁にわたって紹介されている。わずか18年にも足りない長崎での生活であったが、その優れた人物と事績とによって、立派に「長崎人」と認知された証左である」と最大級の賛辞が書かれている。弘前出身者が遠く離れた地で、こういった書物により、その偉業を紹介されるのは、うれしいことだ。笹森自身は45歳というこれからという時期で亡くなり、妻敏子には五男一女が残された。敏子は保母と英語塾をしながら立派に子供達を育てた。笹森敏子は、弘前市山道町の三上昌治、みね夫妻の長女として明治4年に生まれた。高等小学校卒業後の明治17年に函館の遺愛女学校に進み、同校卒業後は弘前女学校の英語の教師をしていた。女子としては相当高等教育を受けたひとりである。明治2年地図には山道町には三上の家はなく、すぐそばの住吉町に三上観吉の名前が見えるが、ここが実家か。また卯一郎の父要蔵がなかなか信徒にならなかった理由として長年親しんだ酒をやめるのがいやだったとの記述がある。息子、娘、妻までが熱心な信徒で、メソジスト派では禁酒、禁煙、歌舞謡曲、カルタ遊びなども一切禁止していた。もちろん賭博、買春などはとんでもないことであった。長いこと要蔵も悩んだが、ある日こつ然と徳利と盃を庭でたたき壊し、禁酒を誓い、受洗した。ちょっとかわいそうな気もする。

長崎の鎮西学院と弘前の東奥義塾はよく似た経歴の学校であり、その両方の再興に笹森兄弟が関係したのは偶然とはいえ、興味深い。

2010年11月18日木曜日

明治4年地図の△マークのなぞ






 昨日、弘前観光会館で行われた、弘前観光ボランティアガイド養成講座で話をしてきた。以前にも山田良政、純三郎兄弟について話をしたが、今回は明治2年地図の実物を是非ともボランティアガイドの皆さんにも見せようと思い、一條敦子代表にお願いしてこちらから提案させてもらった。こういった地図は一旦、図書館や博物館に入ると一般人がなかなか見ることはできないので、私のところにあるうちはできるだけ、皆さんに見てもらおうと思っている。先週は、弘前ロータリークラブの会員に、今週はボランティアガイドの皆さんに見てもらったことになる。今後も何かの機会があれば出かけていって色々なひとに見てもらおうと思っている。

 ボランティアガイドの皆さんも実物の地図をみて大変興味を示されていた。やはりこういったものは写真ではなく実物をみるとイメージは随分違う。その折に、弘前観光コンベンション協会の今井さんから、大変貴重なお話を聞けた。今井さんの家は代々若党町にあり、明治2年地図にもご先祖の名前がある。家にも古い地図があり、明治初期にはここ若党町は空地が多く、空地の部分を明治2年以降に追加記入されたものではないかということであった。明治初期には、隣から4、5軒は確か空地であったはずと、あたかも数年前のことのように話されていた。それについて、明治4年7月の士族在籍引越際之地図(弘前市史の付録をコピーしたもの)を見ると、不鮮明であるが、名前の上に△マークがある。よく見ると、若党町だけでなく、白銀町などかなり多くの家に△マークがある。これは何であろうか。

 弘前市の初代の市長は、菊池九郎であるが、もともと菊池家は長坂町にあったが、明治4年に蔵主町に居住し(現在の県合同庁舎の向かい側)、弘前基督教会も初めはここが集会場だったようだ(弘前今昔4、蔵主町、荒井清明著)。すなわち、菊池九郎は明治2年には長坂町35番あたりにあったが、明治4年には蔵主町3番あたりに引っ越したことになる。するとこの△マークは明治2年から4年に引っ越した家を表すマークとも考えられる。士族在籍引越際之図というタイトルがつけられているが、これは明治2年から4年、とくに明治3年10月に施行された帰田法、これは領内の地主から土地を取り上げ、職を失った武士にこれを与え、在方に置くことで、士族を自作農家にさせるものであった。結局失敗に終わるが、多くの武士が元々の土地を離れ、郊外に移り住んだ。さらに禄を断たれた士族の中には故郷を離れ、上京するものもいて、明治2年から4年にかけてかなりの変動があったと推測できる。同様に明治2年地図では、鷹匠町小路にあった儒学者櫛引儀三郎の家も明治4年地図には△マークがつく。儀三郎は明治4年に羽野木沢村(五所川原)に隠棲し、農業に従事した(弘前今昔5、錯斎櫛引儀三郎、荒井清明著)。

 再び、若党町に話をもどそう。若党町の西の一区画を見てみると、ここには明治2年地図では16軒の家があった。明治4年地図ではそのうち10軒に△マークがついており、引っ越したのであろうか。とくに北側の8軒については横嶋家と小田桐家を除き、すべて△マークがついている。一時期、ここらはほとんど空き家、空き地ばかりになったのであろう。ついでに言うと、東奥義塾を再興した笹森順造の生家は若党町49番地となっていたため、別の場所を生家と以前のブログで紹介したが、よく見ると若党町93番地、春日町側に笹森要蔵の名前が見える。笹森順造の父親である。ここが生家で、以前のブログでは間違った場所を紹介して申し訳ない。

 △マークを探していくと、城近くの下白銀町の家老などの大きな家はほとんど△マークがついている。また若党町では△マークが多いのに、隣の春日町では比較的少なく、△マークの密度が町により異なる。それでもも△マークが引っ越した武家を表すとすれば、この2年間に移住した士族の数は相当なものである。

 さらに明治4年地図と2年地図を比べると、最勝院と大円寺の書き方は両者で違う。明治3年に移転したので、当然である。また明治2年地図にあれほど書かれていた鉄砲訓練場はほとんどなくなり、田町の火薬工場も姿を消している。軍隊も中央主権に移ったため藩独自の軍備が必要なくなったからである。また和徳、亀甲などの各所にあった武士への扶持米の支給所もすべて姿を消し、明治4年地図では和徳町の倉庫は魚市場となっている。このように2年の違いを両方の地図では割合正確に示している(前回の最勝院のところで、八幡神社の説明がひとつ抜けていたので、追加する。八幡神社の奥の森について「高林昔し天狗住し」の説明が明治2年地図にある。天狗伝説があったのか。明治4年地図には地主堂の記載もない)。

 こういった見方をすると明治2年と4年では、わずか2年しか違わないが、それまでの江戸の体制がこの2年間に急速に明治の体制に変化した時期であった。両方の地図をざっと見ただけでも、統治者だった武士層がこれだけ急激に舞台から姿を消すという状況は、明治という時代が、いわゆる革命であることがわかる。今後、両方の地図をさらに研究することで、こういった明治の革命性を地図からも読み解くことができると思われ、研究者による解明が期待される。

2010年11月13日土曜日

矯正歯科専門医



 日本矯正歯科学会は、1926年の創立された矯正歯科分野では最も大きな学会で、現在会員数は6000名を越えます。大学教官、専門医のほとんどがこの学会に所属しているといっても間違いありません。
 1980年ころからでしょうか、医科の各科でアメリカの専門医制度倣った制度を日本でも作ろうとした動きがあり、そういった学会が集まって協議会のようなものができました。もちろん日本矯正歯科学会も、歯科の専門医制度協議会に参加して論議していました。一応、1990年から認定医制度というものができ、歯科大学の矯正歯科講座に5年以上、常勤で所属し、規定の症例数と臨床論文があれば、認定医の資格がとれることになりました。私は一回目の試験を受験しましたが、当時は配当患者数も多く、5年以上毎日、外来で仕事していれば、規定症例数は十分ありましたので、その症例名を書いて送ると書類審査で認定医になれました。簡単だった記憶があります。その後も5年おきに学会に出て出席ポイントと研究発表があれば、更新できました。
 当時の歯科学会では、小児歯科、口腔外科や補綴学会でも大体こんな感じでしたので、必ずしも日本矯正歯科学会の認定医制度が簡単であったということはありません。ただ当時から、こんな試験じゃ、臨床の良し悪しはわからんだろうという声は確かにありました。それでも5年以上矯正科に残って、相当数の患者を見たであろうし、主任教授がその能力を保証するのであれば、一般歯科医に比べて矯正歯科の臨床能力ははるかに高く、学会認定医としても十分認められると考えられていました。ところが、ある先生が、この認定医制度をくわしく見てみると、提出症例に重複がある、常勤でない先生でも認定医になっているという不正が見つかりました。患者数の少ない病院では、配当患者数が少なく、規定症例数を集められなかったこと、週に一回、月に一回、研修のため大学に来ている先生に頼まれて、書類上で常勤としたことなどによります。名前は伏せますが、ある大学では相当数のこういった不正が見つかりました。その後、抜本的な制度の改革がなされ、重複症例のチェックや症例を実際に提出し、審査するような試験方法になり、近年では相当難しくなっています。とくに大学病院では患者数も少なくなり、規定患者数を集めるのが大変むずかしくなり、そのため認定医を取るのに7,8年以上かかることもまれではなくなりました。
 一方、医科の方からも従来の認定医制度はペーパー試験が主体で臨床能力がわからないという声が増え、少しずつ臨床能力を見る試験に転換していき、名称も認定医から専門医に変わってきました。ただその場合、多くの学会では認定医制度がすでに動いていましたので、これまでの認定医は自動的に専門医に昇格する手段をとりました。日本矯正歯科学会では、認定医自体がさまざまな批判があったので、さらに抜本的な制度を作ろうと、認定医試験とは全く別の、より高度な専門医試験制度を作ることにしました。
 第一回の日本矯正歯科学会の専門医試験は2006年に行われました。私は第一回の試験を受けました。アメリカ、ヨーロッパの専門医試験に準じた10のカテゴリーの症例を持っていき、審査を受けるものです。一回目は矯正専門開業20年以上の日本中のベテランが集まり、合格率が60%程度でしたのでかなり難しい試験でした。150名くらいがこの試験で専門医になったと思います。二回目、三回目、四回目の試験は私も試験補助員として試験のお手伝いをしましたが、10症例のうち1症例でも規定の得点に達しないと不合格になります。症例の選定も重要な要件になります。ただ9症例が非常にうまく治療され、1症例のみ悪くて不合格というよりは、全体的にあまりよくない場合に不合格にする傾向があるようです。二回目以降の受験者数は少なくなり、合格率もさらに下がり、最近では40%くらいと思います。また5年おきに更新をしますが、これも5年の間に治療した3症例を提出して合否を決定します。
 試験自体は、完全にブラインド、受験者の名前が隠されますので、かなり公平な審査が行われており、過去には何人もの教授もこの試験に落ちています。さらに大学病院では、患者数も少なく、少ない患者は新人研修にまわされるため、准教授、講師、助手などの中堅の先生は臨床にタッチすることは少なく、専門医試験を受けにくい状況です。全国の歯科大学附属病院の矯正歯科で、専門医がいないところも多くあります。北大に1名、東京歯科大に6名、日大歯学部に3名、日本歯科大に1名、東京医科歯科大に1名、昭和大歯学部に2名、松本歯科大に3名、これ以外の歯科大学には専門医がいません。医科大学ではあり得ない状況だと思います。一次、二次医療機関に専門医がいて、高次医療機関に専門医がいない状況は、そもそもの専門医制度からしてあり得ないことです。ただ、歯科大学では口腔外科を除き、こういった高次医療というスタイルがなく、臨床的には大学より臨床医の一部の方が内容は高度です。
 このように日本矯正歯科学会の専門医試験は、一部の人たちの批判に答えるようにかなり難しいものとなり、アメリカ矯正学会やヨーロッパ矯正学会のそれとそれほど遜色ないものと思われますし、それに合格した先生は十分に矯正臨床能力があると判断できます。また審査法自体に対しても、もう少し、簡単にしろという声はあっても、簡単すぎるという声はないように思えます。ただ心配なのは、あまりにも試験が難しすぎるため、年々受験者が少なくなり、また合格率も下がっていることです。患者数の多いところでは、症例を吟味して、うまく仕上がった症例を提出することができます。実際、私の場合でも、1000症例くらいのなかから、吟味し、資料の完全に揃ったもの、さらに患者に同意書をもらわないといけないので、その脱落分を考慮するとこれでも足りないくらいでした。患者数の少ないところではかなりきびしいと思います。一方、大学での基礎教育が低下しているのか、資料がきちんと採れていなかったり、分析が間違っていたりするケースも多く、こういった症例では治療の良し悪しの前に不合格となります。
 2010年現在の専門医数は全国で258名ですが、2008年度の合格者は18名、2009年度は16名と少なく、おそらく最終的な数も400名は越えることはないと思います。当然この数で、全国の口蓋裂、顎変形症、一般矯正患者をカバーすることはできません。少なくとも従来の認定医2900名くらいいないとカバーできないと思います。
 本年度から、歯科矯正診断に関わる施設基準が変わりました。従来は育成医療機関のみが口蓋裂患者の矯正治療ができましたが、規則がかわり月に1回でも矯正歯科医がアルバイトで来ているところは施設基準をとることができるようになりました。それにより青森県でも施設数は倍以上になり、20以上になったと思います。患者にとっては見てもらえる医院が近くにできたのでいいことなのでしょう。ところが青森県の口蓋裂患者の出生数は年に10−15名ですが、これを20以上の医院で分散することになります。うちのところで年7,8名は来るので、おそらくほとんどの施設では患者はいない状態で、たまにきても数年に一名くらいの状況でしょう。心臓外科、脳外科でもそうですが、やたらに施設を作るのが、日本の悪いところで、欧米では処点病院を決めて、そこでまとめて治療する制度が取られています。たくさんの患者をみることで臨床的技術の向上を図る方法です。日本では患者受けのよい施策がなされますが、必ずしも臨床技術の良し悪しは関係しません。どちらがいいのでしょうか。

2010年11月11日木曜日

青森の資源



 青森県はその三方を、日本海、津軽海峡(陸奥湾)、太平洋に囲まれた海の幸にめぐまれた県である。漁獲量は北海道、長崎に次ぐ全国3位で、あらゆる魚がとれる。まぐろは有名だが、鯛やいかはほぼ年中捕れ、またズワイガニの漁獲量も一位は境漁港(鳥取)、二位は香住漁港(兵庫県)、三位に青森県の岩崎漁港となっている。越前ガニとして有名な福井県の越前漁港が五位だから、漁獲量だけからみれば青森県の方が多い。ところが青森県の旅館、ホテル、料亭でカニをメインでだすところはひとつもない。他の高級魚である本マグロやひらめと同様、青森県の日本海側の岩崎漁港でとれたカニは、トラックで築地か、あるいは福井にもっていき、そこで越前ガニとして売られる。なぜこういうことがおこるかと言えば単純で、そちらに持って行った方が高値がつくからである。定期的に確実に高値で買ってくれれば地元に卸した方が交通費などを考えればよいとわかっているが、青森県にはそういったところはない。大阪などでは冬になるとわざわざカニを食べるだけのために山陰に行く。旅館が多少汚くても、カニをたらふく食えれば高くても十分満足する。ところが岩崎漁港のある深浦町でもこういった旅館や料亭もないし、近くの鯵ヶ沢や弘前にも一切ない。もったいない。

 また農業生産量も高く、自給率が100%を越えている県は、北海道、青森、岩手、秋田の4県だけで、青森県のカロリー自給率で121となっている。以前は農産物と言えば米が主体であったが、現在では青森県でもほとんどすべての農産物が作られ、豚、牛、鶏などの畜産も盛んで、青森県一県で魚、肉、野菜、米すべての食料が自給できる。また川や山にもめぐまれ、いわなやあゆがあちこちの川でとれ、また秋になると山では色々な種類のきのこがとれる。これは本当の話であるが、食料に関しては実際に自給しているところもある。農家では米、野菜を作り、山できのこを、川であゆをとり、車で海にいって魚をとる、こういった家は結構あり、10人家族で、食費が月3万円以下という話を聞いた。

 さらに東通、大間などの下北半島には原子力発電所があり、110万KWの東通原発以外にも大間原発、第二東通原発などが建設中で合わせて出力は530万KWとなる。当然、エネルギーは完全に自給している。さらに水力発電や風力発電など自然エネルギー自給率でも10.64%で、大分、富山、秋田、長野に次ぐ、高い自給率である。大分の高い自然エネルギー率は主として地熱発電によるものだが、青森県は温泉も多く、地熱エネルギーは十分に開発できる。食料、自然エネルギー双方の自給率が100%である状態を永続地帯と呼ばれるが、これに最も近いのが実は秋田と青森なのである。もともと青森県では少量ではあるが石油も産出していた。近年、冬期の暖房に地中熱源ヒートポンプ方式が取られている。地下50-100mの穴を掘るとそこの温度は年中15°くらいになる。熱交換システムでこの温度を冬は暖め、夏は冷やして空調として利用する。将来的には設置費用が安くなれば、CO2の排出削減や冷暖房費の削減につながる。すでにこの方法は歩道の融雪にはかなり使われており、非常に有効である。
 青森県は資源に恵まれており、雪が多く、水資源にも事欠かないし、ブナを始め、木材生産量も多い。このように青森県は水産資源、農業資源、水資源、木材資源などに恵まれている。

 ほかにも青森県の特徴としては、陸海空の3軍の基地が県内にある。海上自衛隊は大湊と八戸に、陸上自衛隊の第9師団が青森に、航空自衛隊が三沢にある。またミサイル防衛については車力に早期警戒レーダー「Xバンドレーダー」とパトリオットミサイルが、むつ市の釜臥山山頂には超巨大なガメラレーダが設置され、ミサイル防衛に活躍している。またアメリカ空軍の三沢ベースもあり、陸海空軍がこれだけそろった県は他にないであろう。

 俺ら東京さ行ぐだ(吉幾三)では、青森県に何にもないとして、テレビ、ラジオ、自動車、ピアノ、バー、電話、ガス、バス、新聞、雑誌、信号、電気がないと歌っているが、今や資源の面では東京よりはるかに恵まれている。それでも若年者を中心とした都市部への人口流出は止まらない。この原因としては地元に仕事がないためで、仕方なく、東京に出て行く。青森の最低賃金645円は東京の821円の79%であるが、有効求人倍率が0.29倍と低い青森県では、賃金実態がこの最低賃金に近いため、東京との賃金格差はもっと大きい。厚労省の勤労労働調査の現金給与比較によれば、製造業では賃金は東京の48.6%となっているが、これが実態に近く、ほぼ半分である。これだけ安い賃金でも青森県では自宅通勤のため、生活が可能であり、若くて優秀な人材を集めることができる。介護ヘルパーの人材確保は難しいとされているが、青森県ではそれほど難しくなく、離職率低い。それだけ仕事がないせいであり、エネルギー資源、食料資源以上に青森の大きな資源が人的資源であろう。中国でも賃金が上昇してきており、勤労意欲や労務管理などを考えるとそろそろ日本への製造業のリターンを視野に入れる必要があり、その場合青森県は人的資源の上でも魅力的である。

2010年11月8日月曜日

チンキャップ



 上あごに比べて下あごが大きく、かみ合わせが逆になっている骨格性反対咬合の治療法のひとつとしてチンキャップ治療があります。頭に帽子のようなものを被り、オトガイ部にキャップをつけ、帽子のようなものからゴムをこのキャップにつけて下あごの成長を抑えるものです。

 私のところでは開業当初はこのチンキャップを使っていましたが、今ではほとんど使っていません。以前、矯正学会のセミナーで5つくらいの大学にチンキャップを使っているかと質問したところ、5大学ともチンキャップはほとんど使っていないとのことでした。中の一校は、チンキャップの研究で有名なところでしたので、おそらくは全国の大学のほとんどで今やチンキャップは使われていないのでしょう。

 日本は欧米に比べて反対咬合の症例は多く、その治療法についての研究も古くからありました。東北大学の坂本教授のころが、最も研究が盛んで多くのチンキャップの研究が発表されました。大体1970-85年ころの話です。そのため多くの大学でもチンキャップによる治療が行われていました。私がいた東北大学、鹿児島大学でもほとんどの反対咬合の症例でチンキャップによる治療を行っていました。来院患者5人のうち3人がチンキャップの患者さんという状態です。来る度に「がんばって使っていますか」、「もっと使う時間を増やしなさい」、「使わないと良くならないよ」と言い続け、10年以上、ほぼ3か月ごとに来てもらいます。子どもは親からも先生からも叱られ、多くの場合、途中で挫折します。中には10年以上もがんばってきた挙げ句、結局は手術という症例もいました。術者にしても患者、その親にしても効果がはっきりしませんが、他にあごに対する治療法がないため、この方法が長く使われてきました。

 1985年ころから、東北大学の教授が三谷教授に変わったことから、もう一度チンキャップ治療の見直しが行われ、それに伴うクラスIIIシンポジウムというものが1995年ころから毎年開催されました。そこではチンキャップの効果が疑問視され、一時的に効果があっても最終的には抑制された成長は後でその分がキャッチアップされる、あまり確実性のない治療法とされました。同時期に欧米から上顎骨前方牽引装置、これはフレームのようなものを顔につけ主として上あごの成長を促進させる装置、の関する研究が多くなってきました。こういうことから2000年を境に、早期治療では上顎骨前方牽引装置による1,2年間の治療、その後は経過観察を行い、成長終了時に手術も含めた治療方針を決めるというガイダンスが一般化してきました。さらには上顎骨前方牽引装置による治療も確実性は低いので早期治療では前歯の改善のみ行い、その後は経過観察だけするというのが、今や主流かもしれません。この頃からチンキャップ治療は全国的に使われなくなったと思います。

 ただ大阪歯科大学は割と長くチンキャップの研究をしていたようですし、臨床家としては徳島の黒田先生、松本歯科大の出口先生、仙台の糠塚先生はすばらしい症例を発表していました。昔、山形の沓沢先生という方がおられ、チンキャップの終日使用、食事、歯みがき以外はすべての時間、学校に行っている時も使わせていました。そして完全に成長が終了するまでチンキャップの終日使用を続けさせていました。沓沢先生の症例をみると、よくこのひどい骨格性の反対咬合が治ったなあというものが多く、本当にびっくりした記憶があります。30年前の話ですが。先生はもう亡くなりましたが、それにしても患者も先生もよく続けたと思います。

 一方、チンキャップを長期に続けた患者の声も出始めました。当然お子さんの性格にもよるのですが、使っていないと先生、親に怒られ、青春期に相当心理的な負担が大きかったようです。私も長女、次女の上顎骨前方牽引装置による治療を行いましたが、1,2年が治療感覚としては限度のように思えます。10年を超える治療は、患者、ドクターともくたびれていまます。途中、休みながら治療していかないと、疲れてしまいます。

 こういったことから、ここ数年学会誌からもチンキャップの研究はほとんど見なくなり、たまにチンキャップをしている子どもにどこで治療しているのと聞くと、年配の一般歯科の先生にところで治療しているようです。学会、シンポジウムに参加しないと新たな情報が入らないからです。今や矯正治療もグロバルスタンダード化しており、日本独自の治療法というものが少なくなりました。チンキャップはそういった治療法でしたが、成長をコントロールすること、とくに成長を抑制することは不可能であり、骨格性反対咬合の治療法は歯の移動による代償的な改善と手術を併用した治療法しかないという方向になっています。すなわち反対咬合の患者さんは、取りあえず前歯のかみ合せを治し、成長終了後に歯の移動で治すか、手術を併用するのかを決定するということです。これが世界共通の考えのようです。

 こうしたことを書いているところに、本日、アメリカ矯正歯科学会雑誌の最新号(138巻4号2010)が届きました。その中に久しぶりにチンキャップの研究が載っていました。ミシガン大学のBarettという人の「Treatment effects of the light-force chincup」という研究です。顎関節にできるだけ負担をかけないように弱い力を用いる方法で、日本でもなおチンキャップを積極的に使っている先生もこの方法です。結果は、チンキャップによる治療は歯の移動を行うが、骨格的な影響はなかった、あごのに対する整形力はなかったというものでした。最近の考えに近い結論です。

2010年11月3日水曜日

最勝院および大円寺



 現在、弘前高校のあるところには、かって慈雲院という黄壁宗の寺があった。明治2年地図では、寺内に本堂のほか、六角堂や松尾芭蕉の句碑である「翁塚」があったようだ。天神という記載もあるが、字句通り学問の神、菅原道真を祀ったものか。また兼松石居(三郎)の墓とわざわざ記載されており、明治2年当時、兼松石居は著名人であったのであろう。いずれにしても学問の神、天神と、儒学者兼松石居の墓があった慈雲院に、1893年に青森県尋常中学校(弘前高校)が移転してきたのは、ふさわしい。比較的、地所の割に建物などが少なかったからであろうか。また寺内には「名誉櫻」という記載がある。何かいわれがある桜のようだが、詳細はわからない。当時は弘前城には桜が少なく、ここの桜の方が有名であった。

 以前のブログでは新寺町には禅宗以外の寺が集まっていると書いたが、この慈雲院は黄壁宗という禅宗であり、座敷、庫裡、方丈などの座禅をくむ建物も附属している。日本でも珍しい宗派であることと、禅林街はすべて曹洞宗であることから、弘前ではどちらかというとマイナーな宗派で、明治初期にはさびれ、学校誘致のために簡単に廃寺されたのだろう。

 すぐ横の大円寺もかわいそうな寺である。田町にあった最勝院が神仏分離令のため明治3年に銅屋町、大円寺のあるところに移った。そのため大円寺は押し出されるように大鰐の方に移された。この地図はその前年のものであるため、田町にあった最後の最勝院の姿を残している。

 最勝院は、二代津軽藩主信枚により弘前城の鬼門にあたる北東の地、田町に1611年に移された。本丸を中心にした完全な北東、鬼門のおさえとして歴代の城主から厚い保護を受け、寺禄は三百石という。敷地も今の石鳥居のあるあたりから八幡神社までのすべての土地で、東覺院、 正覺院 、大善院、 教王院 、觀喜院 、寶成院 、西善院 、徳恩院 、普門院 、龍蔵院 、神徳院 、吉祥院などの12の塔頭寺院が附属していた。現在の地図で見ると、南は鳥居のある熊野神社から北は八幡神社の奥の方まで、東は市営住宅の裏にある大久保堰まで、西は交通公園の向こうくらいまで、敷地があったようで、今の市営住宅当たりに本堂や学寮などの寺の施設があった。かなり大規模な建物だったであろう。また最勝院西の、今の時敏小学校あたりに会田熊吉砲術射的場があったようで、江戸末期にはここで鉄砲の訓練をおこなったのであろう。

 今も現存する弘前八幡宮には御吉兆場というものがあるが、ここでうずらを飼っていたようだ。また地主堂というものが本堂の左にあり、実際には確かこのあたりに稲荷神社があったような気がするが、一度確かめたい。

 先週の弘前ロータリークラブの卓話で、この明治2年弘前地図を持って話をしてきた。会員の皆様からは好評を得たが、実際の現物を見ると、写真とは全然違うとの感想をもらった。ブログにあげているような拡大した写真の方が字がよく読めて何かを探すのにはいいが、全体の雰囲気を知ることはできない。これだけ緻密な手書きの地図となると、あたかもインドの細密画を見ているような感じがする。学生の頃にインドに行った折も興味があり、インドミニチュアールの博物館やお店を訪れ、多くの作品を見て来た。あまりに細かい描写にまず感動し、細部、全体、細部を繰り返しながら作品を鑑賞する。それを繰り返すうちに作品の世界に入っていく、これが細密画の鑑賞法であろう。明治2年地図でも、単に地図という枠を超え、手書きの墨の文字があたかも模様のように感じられ、ひとつの芸術作品と呼べるものである。ロータリーの会員の感想にも、そういったものが多く、保存状態のよさに一様に驚きをもっていた。明治初期の弘前を知るという点では地図のデジタル化も重要ではあるが、芸術作品としても地図そのものが弘前市民にとっては大事であると感じた次第である。

 印刷会社も経営している会員のひとりに、地図のデジタル化について相談したところ、4分割くらいすれば何とかスキャンしてデジタル化できるとのことであった。またあるひとには、製作当時のままで状態がいいが、できれば早めに裏打ちした方が傷まなくてよいとの指摘を受けた。大きな地図では、通常折りたたみ保存しがちだが、そういった保存法では折ったところがだめになり破れてくる。この地図は紙の筒に巻いて保存していたため、痛みが少ないが、それでも長期の保存を考えると早めに裏打ちして頑丈にした方がよいであろう。長い製図筒のようなものがあればいいのだが、適当な大きさのものがない。