2011年1月28日金曜日

明治2年絵図印刷


 明治2年弘前絵図は、ようやくデジタル化できたので、全体図、部分図、本文図の3つのファイルに分けてCDに入れることにした。全体図はこの前、やまと印刷で撮影してもらったもので、全体図から拡大できる。部分図は私が以前、手持ちのカメラで部分ごとに撮った写真で、全体図よりさらに強拡大ができる。また本文図は、本に載せる予定の図で、白黒ではなく、カラーでみることができる。全部合わせても、Jpegで何とか、300MBくらいにできたので、CDに収めて、本の付録にする予定である。

 本とは別に、折角デジタル化したのだから、印刷したものを作ろうと思い、インターネットであちこちの大型印刷のできる会社を検索した。一番安いところがB0版で一枚4600円だったので、2枚注文した、こういった細かい文字のデーターはオフセット印刷の法がインクジェット印刷より適しているが、オフセットは100枚、300枚でも費用はそんなに変わらず、まして10枚程度の印刷には向いていない。

 本日、印刷が上がってきたが、B0の大きさであれば、細かい部分もきれいに表現でき、満足いくものであった。そのうちの一枚を早速、病院の壁に貼ってみたが、やはり地図というものはコンピューターで見るのも便利だが、こうした印刷したものの方がやはりよい。20枚以上印刷すれば、一枚1650円くらいまでなるので、インクジェット印刷である程度の枚数を印刷してもいいかと考えている。ただ折り曲げずに送ろうとすれば、ゆうパック代1120-1680円(10個以上)とダンボールボックス代220円を足すと、全部で2990-3550円くらいにはなりそうで、高い。折り畳むとかなり安くつく。もう少し調べて、希望者がいれば募集してもいいかと考えている。

 図書館などで閲覧する場合は、地図の実物は破損の可能性もあり、こういったコピーを閲覧することになるだろう。本とは別に、地図のコピーについても必要数を考えてみたい。

 話は変わるが、うちの母親が先日、徳島近代美術館を訪れたと電話で言っていた。何でも若い時に徳島県出身の画家河野太郎さんの作品「婦人蔵 井川悦子像」のモデルになり、その絵との対面に行ったようだ。本作は美術館にあり、それより小ぶりの習作は自宅にあり、以前母親の個展をここで開催した時に本作と習作を一緒に展示したこともある。前の館長がいとこなので、そのつてで今回、収蔵室まで現館長、職員一同と一緒に案内されたようで、厳重な扉を何度もくぐった上、収蔵室に入れてもらった。年間を通じて湿度50%、温度20°に保たれているようで、その厳重な保存環境に圧倒されたようだ。古い作品ではあるが、修復もきれいになされ、改めて美術館の役割を認識したと言っていた。作品を集め、展示するだけでなく、それを最高の状態で保存するのも美術館の大きな役割で、そういった意味で、美術館というのは建物だけでなく、維持費もかかる。自分の名前がついた作品は今後100年たっても残ると聞いて喜んでいた。

 一方、美術館の収蔵品の多くは、展示されることはなく、単に保管されているだけの場合も多いと聞く。市民からの寄贈品はありがたいが、集客性の点から、あるいは展示スペースの点から死蔵する場合も多いようで、高知県立文化会館の場合、収蔵品の57%は5年間一度も展示されなかったという報告もあり、問題となっていた。ただ美術館、博物館の本来の目的が展示と収蔵ということを考えると、必ずしもすべての作品を展示する必要もないし、また集客性から収蔵物を決めるというのもおかしい。個人の住宅では、作品の色あせ、かび、破折などの危険性のほか、火災や地震などによる消失も考えられる。こういったことから作品を守るのが公的博物館、美術館の使命であろう。

2011年1月23日日曜日

歯科心身医学



 最近は歯科以外のことばかり書いていますので、たまには歯科関係の話をすることにします。

 先日、神戸の高校の友人から、お母さんの入れ歯の相談を受けました。なんでも1年ほど前から入れ歯の調子が悪く、何軒かの歯科医院で治療を受けたが、満足できず、最近は気になって眠れないという相談でした。

 私自身、専門ではないのですが、この話を聞いて、可能性としては次の3つを考えました。ひとつは、入れ歯の適合に問題がある場合です。年配の女の方は骨がやせて、ぴったりした入れ歯はなかなかできません。特に下の歯槽骨はやせやすく、ほとんど土台が吸収してしまっている場合があります。こういった症例ではなかなか適合のよい入れ歯はできず、咬むたびに下の入れ歯が動き、痛いということもあります。

 もうひとつの可能性は、加齢による唾液減少によるものです。年をとると、唾液の分泌量がかなり減ってきますが、これは唾液腺の働きが加齢とともに衰えるためです。さらに年配になると血圧の薬など飲む場合も多いのですが、こういった場合も薬の副作用として唾液が少なくなります。唾液が少なくなると、入れ歯と粘膜がこすれ、傷がつきやすくなりますし、感覚も鋭敏になります。

 入れ歯の適合が悪い場合は、適合のよい入れ歯を作ることを勧めます。この分野にも専門家がいて、費用もかかりますが、本当にきちんとした仕事をする歯科医がいます。こういった歯医者さんでみてもらうと、ぴったりした入れ歯ができます。また唾液の分泌が悪い場合は、どうしようもないのですが、人口唾液などを使うと多少はましになるでしょう。

今回のケースでは、友人のお母さんの言うように、入れ歯自体が悪いことが原因とも考えられましたので、青森の歯科医で入れ歯治療に熱心な先生に電話をかけ、関西で有名な先生を紹介してもらいました。ただこのケースでちょっと引っかかるのは不眠を訴えている点と、何軒も、それも評判にいいと言われている所で高い費用で治療を受けている点です。いくら入れ歯の適合が悪くても、これだけたくさんの歯科医でみてもらっている限りは、少なくても痛みの軽減はできると思います。それが治らないとしたら、それ以外の原因も考えなくてはいけません。

 他の要因としてはうつなどの精神的疾患によるものがあります。心療内科と呼ばれる科があり、心理的なストレスなどが胃や腸の痛みに繋がることはよく知られていますが、同じようなことが歯科でもあります。歯科の知識だけでなく、精神科の知識も必要であり、両方の科が協力して治療を行います。日本でも日本歯科心身医学会という学会がありますが、会員は少ないようです。

 そこで、もう一度友人と電話で聞いたところ、お母さんは数年前にご主人をなくし、一人暮らしをしており、うつの傾向も言われると多少はあるようだということでした。それでインターネットで調べたところ、日本歯科心身医学会の研修機関の中で、大学病院でまともなところは、東京医科歯科大学歯学部附属病院頭頸部心療外来くらいしかなさそうです。関西はというと、大阪歯科大学附属病院矯正歯科が研修機関になっていますが、入れ歯の患者は無理でしょう。他にはと探すと、市立枚方市民病院の歯科口腔外科の先生が熱心に治療をしているようです。

 最終的にはここを紹介することにしました。関西でも一軒しかなく、東北には岩手医科大が研修機関になっていますが、微妙です。こういった何軒も医院を渡り歩く患者さんをドクターショッピングと言いますが、精神的な問題を有している場合も多いようですし、対応を間違えると益々悪化することもあります。歯科サイドにも問題があり、多くの先生は他のとこで治らなくても自分であれば治せるという強い自負を持っています。これをレスキューファンタジーの一種ですが、こういったところで色々な治療を受けることでますますひどくなります。本人はよかれと思ってやっているだけに、よけいにたちが悪い。

 実をいうと私のところにも年に数名、こういった患者さんがきます。矯正治療の適用ではありませんので、あくまでセカンドオピニオンの立場で時間をかけてお話を聞きます。大抵は話をよく聞いてもらっただけで安心するようですが、他の人にも口コミで伝えるのでしょうか、昨年は一週間で3人も来たことがあります。こういった患者さんは歯科でも増えているのでしょう。

2011年1月20日木曜日

弘前藩明治国絵図 2





 弘前藩と南部藩とは昔から仲が悪く、戊辰戦争ではついには戦争までした。そのため、藩境には藩境塚というものが存在し、両方の藩の境にある川幅1mくらいの小さな川、二本又川の両岸に2個ずつの塚がある。弘前藩領絵図では、この二本又川(境川)のことを「ハライ川」と記されており、別名であろうか。さらに説明には「狩場沢より南部領馬門迄十五丁」と書かれ、平内の狩場沢から野辺地の馬門までの距離を示している。そして南側、山側の藩境を「此界川より南の方、炭塚山まで峯道南部領国堺(境)」としている。具体的には大烏帽子山、三角嶽、柴森、小川嶽、石倉嶽、膳棚山、芦柄嶽そして灰塚(炭塚山?)の稜線が藩境となる。この炭塚山(炭塚森 標高576m)は江戸期、弘前藩、秋田藩、南部藩の3藩の境であり、現在は青森県平川市と秋田県大館市、小坂町の3市町の接点となっている。弘前藩が戊辰戦争の折、南部藩領の濁川地区(小坂町)に攻め込んだのはこの炭塚森からのようだ。

 青森湾についての説明では、平内町の小湊漁港には「此湊浅くして大船不入 漁船ばかり入」との説明がある一方、青森港については「青森の澗(かん)南風船かかり吉 是より三厩へ九里 南部領田南辺川湊迄十五里 松前へ十四里」の説明ある。澗とは湾または海岸の船着き場の意味で、青森港から南風が吹くと、いい船旅ができるということか。

 野内からの青森湾の海岸線には滝ノ口(たつのくち)、狸ヶ崎、サル石、烏頭前懸橋、湯ノ島、裸島、鴎島、藻浦島(茂浦島)、双子島などの名が見える。鳥頭前懸橋に相当する場所は今の浅虫と久栗坂の間にある善知鳥崎にあたるが、今でも二つの島を繋ぐ橋があるのだろうか。また野内から久栗坂の間にある狸ヶ崎もサル石も現在地は不明である。航海をする上での目印だったのかもしれない。

 日本海岸の深浦では、「此間口百五十四間 深八九尋 是より松前へ二十五里 羽刻廉(函館?)渡へ三十五里 西南風船かかり吉 北風悪し」となっていたり、小泊、十三湖、三厩などの港も同様な説明がある。また三厩近くにも甲岩、鎧岩などの記載もあり、海岸線の説明はやけにくわしい。

 弘前藩領絵図は明治に作られたせいか、正保、元禄、天保の国絵図に比べて、十三湖の大きさ(大きく書かれている)や鯵ヶ沢への海岸線など、現在の地図に近く、精度は高い。伊能忠敬による測量地図は長く秘匿されていたが、慶應3年になってようやく「官版実測日本地図」として公表された。参考にされたかもしれない。

2011年1月16日日曜日

弘前藩明治国絵図




 これまで、このブログでは主として明治2年弘前地図について説明してきたが、実は友人からもらった地図はもう一枚あり、これは弘前藩領地を描いた絵図で、自分でもあまり興味がないので、そのままにしておいた。ところが「江戸幕府の日本地図 国絵図・城絵図・日本図」(川村博忠 吉川弘文館 2010)を読み、日本では国絵図の文化があることを知り、この弘前藩領の地図は手書きの最後の国絵図と考えられ、少しブログでも取り扱いたいと思う。

 江戸幕府では、その中央集権の証として、全国諸藩に対して、国絵図を作ることを命じた。一番最初は、慶長国絵図、これは主として西日本が中心で、陸奥国(津軽)の絵図はない。その後、寛永、正保(1644)、元禄(1697)、天保(1836)に国絵図が作られ、様式、規格も次第に決められ、縮尺も六寸一里(2万1600分の一)に統一され、隣藩との境界もそれぞれの藩で相談して策定された。かなり手間のかかる事業であり、何度か幕府の役人から手直しされた上、絵師によって清書され、正副2通が提出させられた。かなり経費もかかった。

 弘前藩でも正保国絵図の控えが青森県立郷土館に、また2008年には弘前大学附属図書館で元禄国絵図の写しが発見された。いずれもたいへん貴重なもので、また3m×4mくらいの大型の地図である。また天保国絵図は国立公文書館に保管され、陸奥国(津軽藩)の国絵図についてもインターネット上でも見ることができる
(http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0200000000/0202000000)。

 そして明治になってからも、新政府は全国の地図を必要としたため、明治元年に全国の府県、諸候に太政官布告をもって管轄地の地図作成を命じた。縮尺は携帯性も考慮され、江戸国絵図の半分の三寸一里(4万3200分の一)とされた。また作成の参考として天保国絵図の半分の縮図を交付された。ただ明治維新の混乱によりなかなか作成されず、明治3年にもう一度民部省から催促され、ようやく明治4年末には全国73カ国の国絵図が揃った。「江戸幕府の日本地図」ではこれを明治国絵図と呼んでいる。ただ残念なことにこれらの明治国絵図は明治6年の皇城の火災により多くを焼失し、現在、伊賀、伊勢、美濃、上野、越前、越後、播磨、土佐、豊後、肥前、蝦夷の12枚(伊賀は2枚)が内閣文庫に残されているだけである。弘前藩領の絵図はすでに焼失している。

 私のところにある津軽藩領の地図(明治弘前藩国絵図)は、計測すると大きさが195cm×164cmであった。天保国絵図は440cm×371cmで、民部省の通達に従うと、大きさはこの半分の220cm×186cmとなり、これに比べると幾分小さいことになる。また弘前大学にある元禄国絵図の写しは、396cm×338cmで、この半分とすれば198cm×169cmで、ほぼ一致する。しかしながら、正式な国絵図は様式、規格も決まっており、例えば城は□の形の中に弘前と描くようになっているが、この地図では○に弘前と描いており、規格に合致しない。また使われている絵具もそれほど上質のものではない。一方、それまでの元禄、天保の国絵図に比べると書き込みが詳細で、弘前周囲の細かい集落の名前まで記載されている。また日本海および青森湾の海岸部は、小さな島や岩の名前まで書き込まれており、こういった記載は国絵図には必ずしも必要でない。船による輸送路といった場合の目印として必要なもので、実用性の高い記載となっている。さらに地図の精度を見ると、元禄、天保絵図に比べてよほど現在の地図と近似しており、十三湖の大きさ(元禄、天保は実際よりかなり大きい)や鯵ヶ沢など日本海岸の形も正確であり、伊能忠敬の実測日本図に近い。実測日本図は秘蔵され、慶應3年(1868)に公開されたが、この明治弘前藩国絵図作成に際して参考にしたのかもしれない。

 廃藩置県後にこういった地図が作られたとするのは無理があること、明治2年弘前地図とセットになって保管されていたことなどから、この弘前藩明治国絵図は明治元年から明治4年ころに作られた可能性が高い。諸藩が作った明治国絵図とは製作時期が一致しており、様式、規格は多少違うが、全く関係のないものではなかろう。ただ安直に作成しようとすれば、参考に交付された天保国絵図をなぞればいいが、そうせずに最新の正確な絵図を作成したようだ。単に政府から命じられただけでなく、何らかの他の理由があったのかもしれない。

 残されている12枚の明治国絵図と比較し、他の地図がどれだけ政府の規格、様式に忠実だったかを調べることで、この国絵図が政府に提出されたものの写し、下絵かどうかわかると思う。専門家による今後の調査を期待したい。

 明治中期以降になると、測量による近代的な地図ができ、こういった手書きの国絵図は全く姿を消す。そういった意味ではこの江戸時代の最後の国絵図は天保のものとされるが、明治国絵図を番外ではあるが、国絵図としては最後のものとしてもよかろう。

*その後の調査で、この藩領絵図は1760-80年、明和から安永頃のものであることがわかりました。全く明治国絵図とは関係ありません。ブログの左上ウインドで”藩領絵図”で検索してください。

2011年1月12日水曜日

山田兄弟33



 日中関係が依然としてぎくしゃくしている。尖閣諸島の件といい、つい最近の韓国警備艇への中国漁船体当たり事件といい、本質は精神に異常のある漁師の犯罪である。どちらの事件もビデオを見るまでもなく、あんな無鉄砲の操船はどこの国でも許されない犯罪であり、中国だったら、全員射殺されかねない事態である。それは当の中国政府自体が十分に認識しているであろう。

 他にも2001年、南シナ海上空で米国偵察機が中国空軍の戦闘機と接触して、米軍偵察機が海南島に不時着する事件があった。この事件でも直接の原因は好戦的なパイロットの挑発行為によるもので、結果的には中米の軍事的対立を招いた。2010年になっても、海上自衛隊の哨戒機に中国海軍の駆逐艦が速射砲の照準を合わせる行為をしたり、また中国艦隊の搭載ヘリコプターが海上自衛隊護衛艦に異常接近するといった挑発行為が絶えない。いずれも命令によるものではなく、一個人の勝手な行動である。

 さらに、あれだけ大騒ぎをして中国食品全体の評価を決定的に低下させた中国製冷凍ギョーザ中毒事件についても、どうも個人の犯行のようで、もともと中国人は公の概念が少なく、自分の行動が場合によっては戦争を引き起こすなんてことはこれっぽっちも考えていない。

 こういった個人の事件に対して、問題なのは中国政府の対応であり、国内向けの対応を優先し、謝罪せずに、逆に文句をいうため、話がこじれ、さらに事態が深刻化していく。日中間の経済の相互依存を考えると、中国、日本にとってこういった事件により関係が急速に変化することは不幸なことであり、両国民がもっと根源的なところでの信頼友好関係の構築が必要であろう。
「中央公論 2月号」に「中国・辛亥革命と日本人の100年」の特集があり、その中に私の好きな松本健一さんの論文が載っていた。「孫文の墓でアジアとナショナリズムを振り返ろう」というタイトルで、ある日中関係のシンポジウムで中国の外交官に松本さんが「来年は辛亥革命100周年ですね」と声をかけたところ、その外交官から「そうですが、日本には関係ないでしょう」と答えられ、多くの日本人が辛亥革命に協力しながら、中国外交官ですら全く忘れられているのにショックを受けたようだ。そして山田良政のアジア主義を解説しながら、明治以降の日本の変節と現在の中国のナショナル主義を重ね合わせ、原点としてのアジア主義をもう一度考え直すことで、日中関係を見直そうとする考えを述べている。そして日本政府は中国南京、中山陵で行われる辛亥革命記念式典に是非日本政府も出席し、日中連携の原点をもう一度考えようとしている。私も松本さんの考えにおおいに賛同する。さらに追加するなら、是非、山田良政の碑もこの百周年記念の年に再建してほしい。

 1927年11月に中国国民党により、山田良政の建碑が議決され、南京中山陵近くの楓林と呼ばれる丘に立てられたようであるが、実物についての記述は知らない。まず碑が中山陵に建てられたか否かの事実を確認しなくてはいけない。おそらく台湾外交部には資料があるであろう。

 次に建てられたとしたら、今はどうなっているかの調査が必要であろう。建てられたとしたら、日中戦争中に破壊された可能性は少ない。中支那方面軍の松井石根大将は、むしろ中山陵の保全に熱心であった人物であり、絶対に良政の碑を破壊することはない。一番可能性が高いのは文化大革命時であり、直後に中国に行った私の目にもその破壊状況はすさまじかった。辛亥革命に協力した国民党寄りの人物の碑が、この時期多く破壊された。その後、多くは再建され今に至っている。ここまで確認できれば、辛亥革命100周年を記念して日中政府が南京、中山陵に良政の碑を再建する必然性が生まれる。仮に、1927年に建碑が議決されただけで、実際には建てられなくても、議決されたという事実は残り、それに沿って、日本、中国、台湾政府で記念碑を建てるという口実はできる。

 私個人がこういったことを調べるのは不可能に近いが、日本政府が在中国日本大使館、上海領事館に命じて調べようとすれば簡単なことであり、また碑の建築代など些細な額であろう。「中央公論2月号」にはジャーナリストの松尾文夫の論文「歴史和解の不在が日本外交の躓きの石」が載っており、日本国首相による南京虐殺現場での献花を勧めているが、こういった加害者側から被害者への謝罪というやり方の効果のなさはこれまでも実証されており、むしろ辛亥革命には多くの日本人も一緒に協力したという歴史的事実から百周年記念式典に出席した方が国民サイドの共感が得られるではなかろうか。松本さんも言うように、こういった日本人がなぜ中国の革命を命がけで助けたのかを日中両国民が今考えることで、一個人の事件に左右されない関係が構築できるかもしれない。

 この雑誌の中で「革命を支援した日本人たち」(田中健之)として末長節という人物が紹介されている。この人物については私自身あまり知らなかった。まほろばの泉に末長節の写真があるので拝借する。前列右が頭山満、左が末長節、後ろ右が佐藤慎一郎、真ん中は竹内徳崔か?

2011年1月9日日曜日

明治2年弘前地図のデジタル化




















 昨年の11月から明治2年地図をデジタル化しようと、友人のいる「やまと印刷会社」に依頼していましたが、先日ようやく完成しました。

 最初、別の友人の写真屋さんに依頼しましたが、機器がないのでできないと言われました。そこで自分で写真をとり、それを合わせて一枚の地図にしようとしましたが、収差の関係で、うまく合わせることができません。しかたなく今度はやまと印刷に依頼しましたが、最初はここでも大きすぎてやはり無理と言われました。何とか、できないかと自分で工夫して、スキャナーの蓋をはずして、部分ごとにスキャンして張り合わせるアイデアを思いつきました。自宅にあるA4版のスキャナーで試したところ、できそうなので、それでやってくれと頼んだところ、小さなスキャナーで張り合わせるのは難しく、県外のA1スキャナーをもっている印刷会社に外注してやってもらえることになりました。保険付き宅急便で送付したところ、外注先でもやはり難しいと言われ、結局はやまと印刷で工夫して写真撮影でデジタル化してもらいました。デジタル化にご協力いただいたやまと印刷の皆様には感謝いたします。

 上がってきたDVDをすぐに見ようとしたところ、カーソルが回るだけで、なかなか見れません。強制終了してデーター量をみると、何とデータで1.3GBあります。容量が重すぎて操作が著しく悪い状態です。拡大表示するにも数分かかります。ただ鮮明度は思った以上によく、全体像から強拡大すると一軒、一軒の名前がはっきりと見ることができます。表示にはこれで十分です。ただこれではあまりにも操作性が悪すぎます。今の画像解像度は350dpiくらいですが、100dpiくらいまで解像度を下げると、操作性はいいものの、今度は画像がひどすぎます。解像度を下げるといっても200dpiくらいが限度で、これをJpegに圧縮して何とか数十MBになりました。操作性もよく、強拡大して何とか見れる状態です。これでいこうかと思います。

 並行して文章の方も書いていますが、これまでのブログの記事をまとめながら、400字原稿用紙に換算して100枚くらい書きましたが、本にしようと思うとまとめるのが難しいものです。今のところの予定では、印刷会社で作成した上記地図データーと自分で撮った近撮影の図を、すべてCDに入れ、付録の形で本に入れようと思っています。それに弘前で生まれた人物を中心とした文章と図を載せようと考えています。A5版で70ページくらいになると思いますが、これから出版会社に当たり見積もりをするつもりです。

 またせっかくデジタル化したのであれば、地図も印刷したいとも思っています。2,3mmの小さな字をはっきり見えるようにするためには、インクジェットよりはオフセット印刷の方がいいでしょうし、また大きさもA0あるいはB0の大きさの印刷が必要です。オフセット印刷の場合は、数十枚印刷するのも数百枚印刷するのも費用的にはそんなに違いはなく、多く印刷するほど単価は安くなります。それでもこの大きさで、地図を印刷するのは、かなり高くつきます。

 本にするにしても、地図印刷するにしても、今は見積もり待ちですが、かなり費用がかかると思います。それでも、これは地図をもらった時点での義務ですので、本の出版だけでも何とか実現したいと思います。本屋で売るのも面倒なので、自費出版で300部くらい刷り、関係者や図書館に送りたいと考えています。電子出版という手もあるようですが、本の好きな私としてはやはり書籍の形で残したい。

 学会雑誌に関しては、編集を担当していましたので、大体解っていますが、こういった一般書を出すのは始めてなので、いったいどうしたらよいか、いくらくらいかかるか不安です。

 また地図の記載の中には、現代の感覚からすれば不適切な表現がありますが、これを画像処理して修正するのか、そのまま出すのか、悩んでいます。色々な人の意見を聞いていますが、純粋に資料として出すなら、また不特定多数に情報を流すのでなければ、資料はそのままの形で出したらどうだと意見が多いようです。逆に変な修正を加えると資料的な価値がなくなるとも言われました。確かにこういった本を、手に入れようと思うひとは一部の研究者あるいは弘前の歴史に興味をもつ人であり、悪用はないと考えます。それ故、あまり深く考えず、無修正で出した方がよいかもしれません。もう少し検討したいと思います。

 今年の夏ころまでに発刊したいと考えています。地元の紀伊国屋書店で扱ってくれれば、少数はそこで売ってもらいますが、それ以外は寄贈と予約者のみに販売する予定です。具体的な見積もりと出版が決まりましたら、このブログでお知らせして予約を受けたいと考えています。それに合わせて印刷数の増減を決めたいと思います。
ちなみにブログに載せた画像は画像解像度を1/1000くらいにしたものです。現在、古地図をデジタル化することが、活発におこなわれています。元々地図はかなり大きなものが多く、広げる場所もなかったり、その際の破損も危惧されます。そのため図書館、博物館、大学では、所蔵している古地図をデジタル化して供覧できるようにすると同時に、Google earthなどと連動させたり、GPSと連動させたりして、町おこしなどにも使われているようです。例えば250年前の北京の古地図、この原画は13m×14mの大きなものですが、研究者によってGoogle earthと連動して見れるようになっています.
(http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/)

2011年1月5日水曜日

新年明けましておめでとうございます


 この正月は完全な寝正月で、2日に平川市のアップルランド南田温泉に一泊で泊まりにいっただけで、後はほとんどテレビと読書でした。

 この正月に読んだ本は、例年のごとく、書店の最も目立つところにある「ミステリーベスト10」といった本の中から選んでいます。

 まず「写楽 閉じた国の幻」(島田荘司 新潮社)
 ミステリー界の大御所ですが、長過ぎる。あまり読むのに時間がかかり過ぎたので、途中から速読モードに入り、読了。内容は伏せますが、よくある写楽は誰だ物で、いささかネタが飽きます。

「鴎外の恋人 120年後の真実」(今野勉 NHK出版)
 森鴎外のドイツ留学時代の恋人エリスの正体を突き止めていくくだりは、推理小説を読むようで、ぐいぐい引き込まれます。ただ正体が割合早くわかってしまい、その後の半分くらいはページを増やしたのかな。150ページくらいの内容を300ぺージに膨らませるのは、小説家は得意だが、脚本家にはちと難しいのでしょう。

 ここからは例によって好きな軍事もの
「日本航空母艦史」(世界の艦船 1月号増刊)
 中国が今年から空母を持つようですが、大正11年の日本最初の空母「鳳翔」から最後の空母「信濃」までの日本海軍の歴史を見ると、実用化するまでは相当期間がかかりそうです。商船改造も含めて日本は計40隻の空母を作り、終戦時無傷に残ったのは最初につくった「鳳翔」だけだったようです。

「戦艦ミズリーに突入した零戦」(可知晃 光人社NF文庫)
以前にも同じような内容の「我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実」(平義克己 扶桑社)を読みましたが、どちらも誰が突入したかを資料をもとに突き止める粘り強さは、「写楽」と「鴎外」の2書よりよほどすごい。軍事研究家の調査能力には頭がさがる。戦艦ミズリーの40mm機銃に突き刺さった特攻零戦の13mm機銃の写真はすごい。乗務員の執念が乗り移ったようです。

「零戦 最後の証言」(神立尚紀 光人社NF文庫9
戦後生き残った零戦パイロットの取材を集めたもので、同じ著者の「祖父たちの零戦」よりはこちらの方がおもしろい。私も、ラバウル航空隊にいたひとや日本初めてのロケット戦闘機「秋水」の試験飛行に立ち会ったひとも知っていたが、すべて鬼籍に入られた。あと数年でこういった元パイロットもすべて亡くなると思うと貴重な証言である。

「ロシアから見た日露戦争」(岡田和裕 光人社NF文庫)
日露戦争の勝敗はロシアの内部崩壊であったことがよくわかるが、個人的は「連合艦隊VSバルチック艦隊 日本海海戦1905」( ロバート・フォーチェック オスプレイ対決シリーズ)の方がリアルでおもしろかった。

「近代国家への模索 1894-1925 シリーズ中国近現代史」(川島真 岩波新書)と「叫びと祈り」(梓崎優 東京創元社)は未読です。

 漫画は、これも「このマンガがすごい」から
「進撃の巨人」(諌山創 講談社)
あまりこの手の漫画が読みませんが、「このマンガがすごい」の一位でしたので、どんなものか買ってみました。今のところ三巻まででていますが、これは最後まで買いそうです。絵はへたで、中身に入りにくのですが、それがかえって気持ちが悪く、いい雰囲気です。実写の映画化すれば結構怖い映画になるでしょう。
「桶狭間戦記」(宮下秀樹 講談社)
「センゴク」の外伝もので、5巻で終了です。よく調べており、NHKの大河ドラマの説とは完全に違う解釈で桶狭間の戦いを描いています。この人の漫画は書き込みがすごいので、アシスタントを使うとしても結構時間がかかると思います。いつ構想を練っているのでしょうか。漫画雑誌には年間2000人の持ち込み原稿があり、そのうち50人が書き下ろしに、さらに20名が連載に、さらに人気作家になるのは一人だそうです。天才の集まりです。

 話は変わりますが、昨年10月に自民党の安倍晋三元首相が台湾を訪れ、戦争で亡くなったひとを祀る忠烈祠を初めて訪問しました。そこで国防部忠烈祠管理組長の王恵民上校(大佐)から、忠烈祠に祀られている唯一の日本人であり、建国革命の恵州起義に関わって国父・孫文を助け、犠牲となった山田良政を最初に紹介されたようです。この情報から台湾政府において山田良政は日台友好のシンボルとして捉えられていることがわかります。一般国民においても日本より知名度は高いかもしれません。一方、中国では検索サイトの「百度」で「山田良政」で検索すると53600ヒットします。Yahoo ジャパンでは16200ですから、中国でも関心は高いようです。今年は辛亥革命100周年にあたりますが、中国でも日中友好のシンボルとして山田兄弟が台湾と同じような扱いになるかもしれません。南京の中山陵の山田良政の碑については、その後情報はありません。おそらく破壊されたのでしょう。できれば弘前の貞昌寺と同じ内容の碑が辛亥革命100周年に年に南京に再建されればうれしいことです。日中の有志で再建されれば、友好の記念になると思いますし、孫文の墓の近くに祀られることは山田良政にとってもうれしいことでしょう。