2011年7月31日日曜日

大星場と岩田平吉



より大きな地図で 大星場 を表示

 茂森の西、今の常盤坂には、大星場と呼ばれる大砲訓練所があった。明治二年弘前絵図では「大星場と称す。嘉永七年(1854)八月落成。工事人夫9854人任用す。砲口より大築造の距離5町50間 横幅60間(的のところの大きさは)高さ13間 横100間」という大規模なものであった。大きさをメートルで表すと、大砲を置いた砲口から的までの距離は630m、横幅は110mとなり、現在のりんご公園内にあるすり鉢山が大砲の的であるから、そこから垂直にグーグルマップ上でその場所を表示すると砲口は常盤坂のオサ建設工業あたりになる。

 ここで使われていた大砲は野砲と呼ばれる馬などで運ばれる比較的小型なもので、青森湾などに設置された沿岸砲のような大きなものは、ここまで持って来れなかった。佐賀藩や薩摩藩などは鉄製の大砲を欧米から輸入、あるいは反射炉などで製作できたが、弘前藩では当然青銅製の大砲が使われていた。どういった種類の青銅砲が使われていたかというと、幕末から戊辰戦争に使われたフランス式の四斤山砲は1867年ころからは国産化されたため、場合によっては官軍が持ち込み、函館戦争前にはここで使われた可能性はある。それ以前、弘前藩で購入あるいは製作していたのは、おそらくは和砲であるポンペン砲や韮山砲、あるいは丸太をくり抜き縄でしばった木砲で、そういった大砲を大星場で使っていたと思われる。これらの旧式砲は有効射程も600m以下くらいであったため、大星場程度の大きさの演習場で十分であった。照準は全く勘で、火薬量や仰角を決めて発射したため、その指揮には高度な技術を要したし、実践で活用するためには十分な訓練が必要であった。薩英戦争や彰義隊討伐で有名なアームストロング砲は射程も4000-5000mと長く、大星場のような小さな演習場では使えない。

 大砲指導は誰がやったかというと、これも全くの推測であるが、幕末期に西洋式砲術と言えば江川太郎左衞門の江川塾であり、ここでは薩摩藩の大山巌、黒田清隆、野津道貫 らが学び、弘前藩からも岩田平吉も派遣され、ここで西洋砲術を学んだ。当然、岩田は弘前藩では西洋砲術のエキスパートであり、大星場でも指導を行った可能性は高い。岩田平吉にまつわる話でおもしろいのは、西堀近くの割烹「野の庵」の女将佐藤貞子さんの口伝で、創業者佐藤与七はこの岩田平吉(恵則 よしのり)の従者であったが、与七は東京で暮らすうちにそばの味を知り、明治維新後そばも出す小料理を開いた。知り合いの寺院からお布施でもらうそば粉、大豆の活用を依頼され、それで作ったのが津軽そばと言われている。これをみる限り、津軽そばの歴史は意外に新しく、せいぜい明治以降のものであることがわかる。また岩田平吉が津軽そばの誕生に関わったようだ。
(http://flat.kahoku.co.jp/u/mingei/m3byQIszaFVJ0ZpG4ovL/)。

 岩田平吉(1818-1895)は、兵部省を経て、明治5年に海軍省造船局砲器科に務め、明治28年に死去した。明治2年当時の住所は小人町にその名が見られる。江川塾の同門の佐久間象山は1811年生まれであるから、彼よりはやや若いが同世代で、明治二年当時で50歳というのは、維新後活躍するにはいささかきびしいようである。現在、若党町に保存されている旧岩田家住居は、おそらくこの岩田平吉の親類のものと思われるが、明治2年絵図で調べると、近藤祐斉という方の家であった。岩田という姓は弘前では少なく、武家で岩田という名前は小人町のここだけであった。おそらく維新後平吉は東京で生活したのであろうが、その親族が若党町に住んだのであろう。

 弘前藩では藩で大砲を製作したという記録もあり、おそらくは現在のニューキャッスルホテルのところにあった明珍工場で鋳造青銅砲を制作し、大星場で試射した可能性もある。そうでないとわざわざ内陸部の弘前にこういった大規模な砲術訓練所を作る必然性は低いと思われるし、砲門数は不明ではあるが、そこそこの数の大砲を持っていた。函館戦争でも砲兵二隊と大砲7門を戦地に派遣し、これは野砲であり、これ以外にも青森湾には外ヶ浜には大型の7門の沿岸砲も設置しており、相当数の大砲は保有していたものと推測される。それでも薩摩藩は290門、長州藩は220門、佐賀藩は201門などに比べると全くお話しにならない数であった。
(http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/bakuhan1.htm

2011年7月27日水曜日

山田兄弟38


 中国の新華社ニュースの2011年5月27日の論評で山田純三郎の記事が載っている
(http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/theory/2011-05/27/c_121465012.htm)。タイトルは「蔣介石如何讓日本戰犯幫其打內戰」というもので、日本語訳すると「蒋介石はどのように日本戦犯を内戦に手伝わせたか」というものである。

 このニュースでは「遼沈の戦いが終わった後、中共中央軍委員会は時期をみて、平津の戦いを適時発動し、華北地区の傅作義率いる国民党軍60万人を一気に殲滅しようとした。1948年11月23日に中央軍委員会の指示に基づき東北野戦軍の主力部隊は錦州、營口、沈陽に分かれて向かい、津、塘地区に進み、華北の敵に対する戦略包囲を一気に実施した。当時、国民党軍は上から下まで林彪指揮下の羅榮桓将軍率いる東北野戦軍を恐れていた。東北戦に負けた後は、蒋介石はむしゃくしゃして続けて何回も血を吐いた。東北野戦軍が関内に入り戦うことに、蒋介石は緊張し、傅作義将軍も林彪の軍に殲滅されることを非常に恐れた。蒋介石は、苦慮、心配していたところ、1948年12月12日に国民党駐日大使館参事の宋越倫から電報が届いた。日本の友人“山田純三郎から元中国派遣軍総司令官岡村寧次に、国民党軍は”剿共“作戦に続けさまに負けている。中国政府が共産党の手に落ちないようにするためには、旧軍の軍人の中に「反共軍人協会」を作り、国民党の剿共戦争に全力で支援して、不利な状況を転換し、蒋介石が行った”恩徳“に答えてほしい旨を説明したらというものであった。蒋介石の侍衛長俞濟時、子供の蔣經國から、この電報を受け取ると、山田純三郎は岡村寧次に対する建議は非常によいアイデアであり、彼らが中国に来て指揮をとり、ともに戦争を助けてもらうことに賛同すると蒋介石に進言した。」結局は敵将である岡村寧次を直接担ぐのはまずいといことでこの話しはなくなったが、後に根本博中将に協力を求めることになる。かなりまずい翻訳で内容が全く違うかもしれないが、戦局の挽回を図るため、日本軍の協力を求めたこと、それの仲介として一私人の山田純三郎に協力を求めたことがわかる。

 支那派遣軍は昭和20年9月に中国軍に対し降伏調印する事となるが、この時の中国側代表は、国民政府陸空軍総司令何応欽大将で、何大将は支那派遣軍総司令官の岡村寧次に敬意を払って応対し、日本側に自力での復員業務を認め、兵士100万・市民100万は僅か10ヶ月で日本への復員・引揚を完了することができた。また、岡村大将も早期に日本へ帰還しては国際軍事法廷での戦犯となるため、中国に残留させて中国戦犯として裁き、1949年1月26日に無罪となった。岡村大将は昭和24年1月30日に復員した。

 蒋介石が実際に岡本大将に協力を求めたのは1948年12月12日以降であり、復員前の獄中か、おそらくは日本への復員後になる。一方、山田純三郎が上海から日本に帰国したのは12月7日であるから、帰国後ということになる。岡村大将は、共産党軍には降伏せず、国民党軍に降伏した功績と戦局の逼迫で、1948年12月には無罪が決まっており、無罪にするかわりに協力を求めたのではなく、いわば情に訴えて協力を求めたことになる。

 蒋介石側からすれば、岡本大将に直接接点がないため、昔からの知人で、最も信頼できる山田純三郎に頼ったのであろうか。ただ日本に戻った純三郎は、すでに老齢で隠居の身であり、仲の悪い蒋介石からの、それもこういったきな臭い話に乗るようには思えないが、上海捕虜収容所で世話をやいた岡村大将に話は伝えたのかもしれない。

 その後、この話しは一旦流れ、実際に根本博中将が協力したのは、蒋介石が台湾に逃れた1949年6月ころとなった。当時の状況は根本中将のことは「台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡 この命、義に捧ぐ」(門田隆将著 集英社 2010)に詳しい。一方、蒋介石からの相談を受けた岡村寧次は軍事顧問団の白団を組織し、富田直亮少将などを派遣し、その後20年近く国民党軍の軍事顧問団となった。

2011年7月20日水曜日

珍田捨己11


昭和天皇に関する本が最近多く出版されている。平成になってはや23年、昭和天皇のことを知らない世代も増え、ようやく昭和天皇に対する客観的な研究ができるようになったからかもしれない。

中公新書から出版された「昭和天皇 理性の君主の孤独」(古川隆久著 2011)を読んだ。国際協調の立場から、終始世界平和を祈念されている天皇をないがしろにする軍首脳の傲慢さは、最終的には日本の敗戦に繋がっていく。確かに軍人は常に戦を求める存在であるが、軍トップの天皇の意思を曲解して、自分たちの都合のよい下克上的な考えを押し進めるやり方は、古くは長州藩の藩主と桂小五郎、高杉晋作の関係に近い。大正から昭和に移る極めて不安定な時期、軍部がはびこる戦前の時期、唯一理性的な国際的な感覚を持っていた人物こそが昭和天皇であり、そういった意味では「理性の君主の孤独」という存在であったのであろう。著者はその天皇の性格形成を皇太子時代の教育に求めた。杉浦重剛の倫理学、白鳥庫吉の歴史、清水澄の法制経済などにより、天皇になった際の周囲や社会から求められる考え方や振る舞い方、天皇機関説の受入れなどを学んだことが、後の昭和天皇の性格を決定したとする。

「昭和天皇 第二部」(福田和也 2008 文芸春秋)では、皇太子時代の訪欧によりヨーロッパを直接見聞したこと、イギリス王室と親しく接することで、立憲君主の立場を明確に認識したことがわかる。それでも大正天皇が病気がちで公務が不可能な時期に、なぜこうした長期のヨーロッパ外遊がなされたかは、はっきりしなかった。

こういった疑問に答えてくれたのが、「裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記」(波多野勝 草思社 1998)である。これを読むと、山県有朋、松方正義、西園寺公望らの明治の元勲らは、残り少ない人生の中で最も心配だったのが、皇太子のことであった。霞ヶ関離宮の晩餐会において、皇太子は「着席遊ばれたるのみにて何にも御話し遊ばされず、何か御話し申し上げても殆ど御応答なき状態」だったという。また山県が皇太子に拝謁した折も「御返司なく、何にも御下問なく、恰も石地蔵の如き御態」ときびしく、東宮大夫浜尾新の「箱入り御教育」をはげしく非難している。これには当時首相の原敬もそう感じていたようで、大正天皇の病状が進んでいる状況において皇太子がもっとしっかりした人物になってほしいと強く望んでいた。皇太子の教育は講義を聴くという一方通行のもので、こういった教育方針では決して強い指導者としての思想、行動は形成できない。新たな経験をして、人と話し、行動することで知識が身に付く。この機会に思い切って皇太子を外遊させ、経験を通じて指導者としてふさわしい心構えを身に付けてほしいと考えた。

こういった元老たちの焦りにも近い皇太子教育を託したのが珍田捨己であった。この人選には全く迷いはなかった。松方から山県への手紙では「御供頭と可申人物は、兼而御互に御相談申上候通是是非珍田之被御申付度」と要請しているのに対し、山県はその返書に「随行員等は如論是非珍田御派遣不仰付ては他に適任者無之他の随行員は如何様とも御詮議可相成様」と供奉長として珍田の名を挙げ、両者の意見は完全に一致している。さらにパリ平和会議でも苦労をともにした牧野伸顕宮内大臣は珍田を「周到にして有能、人望を集め、霞ヶ関では屈指の人物」と評し、全幅の信頼を置いている。

このヨーロッパ外遊、特に英国王室と接したことこそが、昭和天皇の人格形成に大きな影響を与えていることは否定できない。もしこの外遊がなければ、戦後、天皇制度の廃止、少なくとも昭和天皇の廃位は免れなかった可能性は高い。

ヨーロッパ外遊時の写真を見ていると、皇太子の側にいつも珍田の姿が見える。行きの船の中では、西洋料理のテーブルマナーも知らない皇太子を供奉員はそれこそ手取り足取り教え、スピーチの仕方から、振舞、挨拶まで、すべてを叩き込んだ。随行員で、後の海軍大将竹下勇は「三名(閑院宮、珍田、竹下)殿下の御挙動等に就いて、尚未だ御直しにならざる点二三ヶ所あり、珍田伯涙を流して言上したり、余も軍人が敵陣に向ひ突入し又は敵艦隊と交戦するは決して難事にあらず、唯だ殿下に諌言を言上するは至難中の難事なり、之を敢えてするはよくよくの事と御思召され御嘉納あらせられることを切望申上たるに、賢明寛大なる殿下は能く御嘉納あらせられたり、難有きことなる。」と記している。命がけの仕事である。

帰国後の皇太子の成長には、原首相、山県、松方も非常に喜び、その成果に満足しているが、珍田から牧野宮相の報告では、今後一層の御補導が必要なこと、「御学問の足らざる事、御研究心の薄き事等」を指摘し、きびしい。それでも昭和天皇にとってはこの外遊はよほどうれしい思い出なのか、帰国後も出発日の3月3日には渡欧記念の御陪食会を開き、随行した供奉員たちと楽しげに思い出話をしたようだ。昭和6年頃まで10年近く続いたようで、非公式の宮中行事としては異例なものであったという。

写真はパリ平和会議の時のもので前列一番左が珍田捨己、隣が牧野伸顕である。また「皇太子殿下、訪英 大正10年」で検索するとニコニコ動画で、その真ん中当たりに珍田の姿が見える。

2011年7月17日日曜日

LLビーン コインローファー



 これまで使っていたコインローファーの靴床に大きな穴があき、雨の日には浸水するため、新しい靴を買うことにしました。山形の宮城興業の靴が非常に気に入りましたので、ここのコインローファーにしようと考えましたが、イトーヨーカードーに来た宮城興業の人に聞くと今は生産していないとのことで諦めました。

 コインローファーはスーツやブレザーなどを着てちょっと外出するときに履くには便利な靴です。コインローファーと言えば、Bass、セバゴ、コールハンなどアメリカのものが有名ですが、ちょっと値がはるため、他にはということで、LLビーンのものを買いました。値段は14900円でまあまあです。クラッシックローファーというもので、コードバンとはなっていますが、カタログの説明ではフルグレインレザーとなっており、馬革ではなく、牛革をコートバン風にピカピカにしたとのことか。ゴムソールと革ソールがありますが、これは町歩きを考えると間違いなく、ゴムソールです。作りはBassやセバゴと同様それほど凝った作りではありません。エルサルバドル製です。

 サイズはEEの91/2、日本サイズで27cmとなります。通常は26.0か26.5cm、アメリカサイズで9ですのでやや大きめのものを注文しました。幅はやや狭く、9じゃちょっときついという感じでした。これから履いているうちになじむと思います。

 週に一回、ここ数年、数人のメンバーで英語を学んでいます。前回の英語の授業で、シャツの裾をズボンに入れるか、どうかが議論になりました。入れる場合をTuck in、入れない場合をTuck offといいますが、英語の先生は奥様にポロシャツの裾をかっこわるいのでTuck offしなさいと言われるようですが、本人はTuck inしないと気になるとのことでした。ブルックルスブラザースのボタンダウンシャツなど丈が長く、胴長の私でもお尻が隠れるほどで、どうしてあんなに丈が長いんだとアメリカ人教師に聞くと、アメリカ人は屈んだりした時にズボンからシャツが出るのが異常に気になるとのことでした。場合によってはシャツの前後をボタンで止めるようです。昔は下着を着ていないため、股間をシャツで覆ったようです。

 LLビーンのカタログを見ても、Tuck inしている写真が多いようで、こういったものは裾も長いのでしょう。去年の冬に、アメリカのペンドルトンのウールシャツを買いましたが、通常袖が長いため、ジャパンフィットと呼ばれるものにしましたが、ただ着丈が短く、寒い日にズボンから裾が出て、大変腹が立ちました。若者がTuck offするように短くしたのでしょう。勝手に若者に合わせるな、Tack off用と呈示してほしいものです。カタログでジャパンフィットと書いてないもので、モデルさんがTuck inしているものは、裾が長いものと考えていいでしょう。

 今年は暑い夏で、やっぱり短パンで素足にデッキシューズの組み合わせが一番です。デッキシューズと言えば、トップサイダーで、茶色を2足、青色を1足ほど履きつぶしてきましたが、2年前からはセバゴのものが神戸の高架下で1万円くらいで売っていましたので、それを履いています。かなり気に入っています。

2011年7月13日水曜日

日本女子サッカー


 先日、ワールドカップ女子サッカーの日本対ドイツ戦を見ました。勝ったとわかっている試合で、なおかつアウェーでの試合は見ていて非常に気持ちのいいものです。
 
 サッカーはその国の文化、国民性を表すものと言われますが、女子でもそのプレースタイルは男子日本代表と非常に良く似ています。日本はパスとスピードで、ドイツは縦のキレのよいパスと頑強なセンタフォアードと、両者の男子代表のプレースタイルとほとんど同じです。

 女子と男子を比較するのは、意味ないことかもしれませんが、昨日の試合をみる限り、その実力は大学の普通のサッカー部より上、高校の強豪チーム、例えば青森県で言えば山田高校より下といったところでしょうか。10年前から日本女子サッカーチームは時々見ていますが、かっては中学生並みだったことを考えると随分強くなったものです。

 それ以上に今回の大会で感じたことは、長身の外国人選手に対しても全くびびらない点でした。サッカーの場合は技術だけでなく、経験がものをいうのはこういった点で、日本人相手ではドリブルで抜けても足の長い外人には通用しないことがよくあります。こういった場合も、あと10cm動きを広げることで抜きさるようになります。

 そういった点では日本男子もそうですが、今回の女子日本代表も半分以上の選手が海外でプレーしている、あるいは過去にしていた選手で、外人相手の経験値は十分に持っています。それが今回の大会でも生かされていると思いました。

 ただ残念なことはふたつ。ひとつは18歳の岩渕選手の不調です。彼女は子供のころから日本のマラドーナと呼ばれるほど抜群のテクニックを持った選手です。ところがこの大会では全くといっていいほど、存在感がありません。全く仕事させてもらえない状態です。アルゼンチンのメッシ選手と同じく、いったんボールを受けとってからドリブルするタイプのため、ボールを受け取る瞬間につぶされます。大型のバックが体重をかけて覆いかぶさることで、つぶされていました。岩渕選手は日本のチームにしか所属していませんので、こういった大型の外人選手への経験値が非常に低いものと思われます。今年駒沢女子大学に入学したようですが、できれば海外のチームでプレーした方がよかったと思います。テクニックは十分ですので、フィジカルと5mのスピード、経験がつけば、これからの日本の中心選手になるのは間違いないでしょう。

 もうひとつ残念なことは、日本のゴールキーパのレベルがあまりに低すぎます。これは男子にも言えますが、MFなどに比べると日本のゴールキーパのレベルは低くて、これではとても優勝は難しいと思われます。おそらく、女子の日本代表と言っても弘前市内の中学生ベストゴールキーパレベルで、高校生レベルでは普通以下くらいでしょう。現在の正GKの山郷のぞみさんも身長が低く(163cm)、横に飛びついてボールを捕る、はじくセービングができていません(ドイツ戦では海堀あゆみさん、170cmを起用)。セービングは瞬発力が必要なため女子では難しい技術ですが、現状では足が空中から離れる状態ではなく、むしろ横に倒れるセービングになっています。女子といっても身長は少なくとも170cm以上できれば175cmはほしいところですし、左にセーブするなら左手、肘、肩、胴、腰、足の順で着地するセービングがみたいものです。

 うちには2人の娘がいて、オリンピックに出られる一番簡単な方法は女子サッカーのゴールキーパーになることで、俺が鍛えてやるからと、子供のころから誘ってはみたのですが、二人とも興味はないし、身長が165cmくらいしかないので諦めました。中学1年生くらいで身長が170cm以上あるお嬢さんがいて、運動神経がいいなら、バスケットやバレーにいくよりは、是非サッカーのゴールキーパにした方が、オリンピックやワールドカップに出られる確立は高いですよ(同じようなことは日本サッカー協会も考えていたようで、すでに187cmの山根恵理奈という若手を発掘していました)。

 さて今日の準決勝はどうなるでしょうか。結果が解ってからみます。

2011年7月10日日曜日

渋江抽斎と弘前



 以前から読みたかった松木明著「渋江抽斎人名誌」(津軽書房、昭和56年)を最近友人からいただいた。渋江抽斎に登場するすべての人物、814名についてくわしく説明した渋江抽斎研究の基礎的な資料である。

 渋江抽斎のその83に「冬になつてから渋江氏は富田新町の家に遷ることになつた。そして知行は当分の内六分引を以て給すると云ふ達しがあつて、実は宿料食料の外 何の給与もなかつた。これが後二年にして秩禄に大削滅を加へられる発端であつた。二年前から逐次に江戸を引き上げて来た定府の人達は、富田新町、新寺町新 割町、上白銀町、下白銀町、塩分町、茶畑町の六箇所に分れ住んだ。富田新町には江戸子町、新寺町新割町には大矢場、上白銀町には新屋敷の異名 がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆等が居り、新寺町新割町には比良野貞固、中村勇左衛門等が居り、下白銀町には矢川文内等が居り、塩分町には平井東堂等が居つた。」とある。これにより「明治二年弘前絵図」では写真、新屋敷を下級武士の住む長屋としたが、在府の武士の弘前帰藩に伴い新たに作られた施設であることがわかる。また松木明氏の本から「矢川文内」は矢川家本家で、200石八人扶持の中級武士、矢川家は代々長足流の馬術をもって使えた名家であるとの記載がある。下白銀町には津軽家親族、家老などの上級武士しかおらず、その屋敷の一部に住んでいたのかもしれない。

 拙書では、塩分町の平井永二郎は書家の「平井東堂」の子だとしたが、同書では平井東堂は四人の娘がおり、大石鉄太郎の二男永次郎を養子にもらったと記されている。残念なことに永次郎は若くして亡くなったが、当時は戸主となっていたのであろう。地図では平井と同じ町内に大石鉄五郎の名がある。他にも塩分町には渋江抽斎関係では、「星野伝六郎」、「戸沢八十吉」もいる。さらに稲葉三橘の名前があるがこれは「稲葉丹下」の家であろう。

 次に富田新割町では、「渋江抽斎人名誌」のあ行から見て行くと、比良野貞固妻かなの実家「藍原右衞門」は、山鹿旗之進の3軒隣に藍原衞門の名前がある。珍しい姓なのでこれでまちがいない。日銀理事を勤めた「飯田巽」、通称虎之丞は、富田新割町には飯田升吉の名前があるが、どうも違うようである。また「杉浦喜左衞門」の名前を探すと、富田新割町の渋江道純(順)の斜め前に杉浦常蔵の名前が見られる。杉浦は津軽家留守居下役で、初代の名前が常蔵であったことから、これも同定できる。また渋江家の左3軒となりの菱川祐蔵は、渋江保の上京を見送った「菱川太郎」の父であろう。菱川家の逆方向の端に「西村与三郎」の名がある。また江戸で仲のよかった「前田善二郎」は渋江家のちょうど前に名前が見られる。また「松本甲子蔵」は品川町方向に名前が見られる。それ以外にも、すでにこのブログで紹介した「山澄吉蔵」、「藤田徳太郎」、「柏原擽蔵」、「矢川文一郎」らの名が富田新割町に見える。

 新寺町新割町では、「中村範一」の名がある。中村勇左衞門のことでる。「浅越玄隆」などの藩医は士族でないため、この地図では確認できないが、「比良野貞固」は変わった名前のため、すぐに探せると思ったが、平野の姓で探しても見つからなかった。(「  」はすべて渋江抽斎人名誌に記載された名)

 渋江抽斎に登場する弘前藩士の多くは定府のものであり、生まれも江戸、育ちも江戸といった人々が、幕府解体とともに弘前に移住させられた。新寺町、富田町、茶畑町の新割町、塩分町、上白銀町新屋敷にまとまって住むことになったが、江戸生活に慣れた彼らにとって津軽での生活は、色々な意味で慣れなかったのであろう。明治の早い時期に再び上京するものが多い。弘前には、今でも標準語でしゃべる方がいるが、在府の士族は弘前に移っても江戸弁でしゃべっていたようで、その名残が子孫にあるのかもしれない。また渋江抽斎の交際相手には医者が多かったが、藩医とは言え、身分は武士とは違うせいか、明治二年絵図でも藩医の家は見つけるのは難しい。

2011年7月7日木曜日

家系図


 先祖が弘前出身という方が、北海道からわざわざ調査のため、弘前に来られたとのことで、本日お会いしてきました。友人が家系図調査会社をしていること、會祖父の写真が家に多くあることことから、先祖のことを調べようと思い立ったわけです。

 市役所、図書館、菩提寺、教育委員会などあちこちで調べたようで、その情熱には頭が下がります。弘前市立図書館には代数調というものがあり、武家の累代がこの書物に載っていますが、くわしくはわかりません。私の家にも家系図というものがありますが、西日本の家では割と多くの家に家系図が残っています。それも私の家のように数百年も百姓だった、たいした家でなくても家系図があります。これは主として菩提寺の過去帳、位牌を参考に作られています。江戸期はほとんどの住民が義務的に菩提寺を決められ、そこの過去帳が今の住民票のようになっていました。そのため火事などで過去帳が焼けなければ、相当古い記録がわかります。私の家も永正13年(1516)に武士から徳島県板野郡で百姓になったことはわかっていますし、その後もほぼ30年で世代が変わっているので、まあ正確でしょう。ところがその前となると一世代が数十年も離れていたり、藤原の姓になっていたり、しまいには藤原鎌足に繋がっていきます。まったくのでたらめです。おそらくは家系図作成者のサービースで何系統かの家系を繋ぎ合わせたものです。

 宗派にもよるのでしょうが、昔は直系の子孫に位牌が譲られました。私の家にも広瀬家の位牌が3つか4つありました。ひとつの位牌には10枚くらい位牌板が入っていて享年や戒名、俗名などが書かれていましたので、それを菩提寺の過去帳と繋ぎ合わせると割と簡単に家系図は作られるものと思います。ただ家内の家などをみると津軽ではあまりこういった習慣がないことが家系図を作るのを難しくしている可能性があります。我が家も、母が思い切りのいい性格で、仏壇を新しくした際に古い位牌はすべて処分しました。先祖の中にこういった人がいると調査が難しくします。

 今回の北海道の方の調査でも明治以降は除籍謄本からきちんと調べられたようです。さらに明治二年絵図で婚姻関係をみると、割と近所のひとと結婚していることがわかりましたし、兄弟も含めて当時どこに住んでいたかまでも具体的にわかりました。こういった点では、明治二年弘前絵図は強力なツールになります。ただ先祖を調べる最も基礎的な資料の除籍謄本も保存期間は150年だそうで、できれば一度市役所で一番古い除籍謄本をもらっていただければ、武家であれば明治初期、幕末の先祖の住まいを明治二年弘前絵図で探すことができます。

 自分の先祖が誰であったかを知ることは、趣味としてはおもしろいと思いますし、複雑な婚姻関係から弘前に偉人に繋がっている可能性もあります。

2011年7月3日日曜日

二人の木村繁四郎



 おかげさまで、本の売れ行きも順調のようで、紀伊国屋書店弘前店の週間ランキングの5位となりました。といっても取扱店はここだけですし、それも20冊程度が売れただけですが。それでも交差点で信号を待っていると、前に立っているおじいさんが紀伊国屋書店の袋を持っています。よく見ると私の本が袋の中に入っていて、本当にうれしい気分でした。

 こういったブログをしているといろんな方からお便りがきます。多くは先祖が弘前で、今は県外にいる方からのものです。こういった方からの情報は結構面白いものですので、できるだけ手持ちの資料で調べてみますが、なかなかわからないことばかりです。

 木村繁四郎というひとがいます(1840-1879). 木村繁四郎(杢之助)は函館戦争では活躍し、後に東北鎮台第一分営地司令となり、西南戦争に参加する途中,明治12年に39歳の若さで亡くなります。この繁四郎の孫がビキニ水爆実験の折の死の灰を研究したことで有名な東京女子大学長を勤めた木村健二郎になります。また繁四郎の長女郁が伊東重に嫁ぎ、伊東重の妹が今東光の母親綾なので、綾からみればこの郁は義理の姉に当たることになります。

 ところがこれは今東光研究家の矢野隆司氏からのパクリですが、今東光が横浜時代非常に世話になった人物で、当時横浜一中の木村繁四郎という人物がいます。先の木村繁四郎とは時代が違い、同一人物ではありません。どうも先の木村繁四郎の息子のようで、同じ名前をつけたようです。親の通称を子が名乗った訳です。こんがらがるので、親を杢太郎、その子を繁四郎とします。杢太郎の長女郁が伊東重に嫁ぎますが、杢太郎の息子の一は今東光の父親今武平の妹の常子の夫となります。こういった複雑な婚姻関係ですが、確かに木村家と今家は親戚同士になります。木村繁四郎は明治8年から14年まで東奥義塾に在籍したことはわかっているが、その後の経歴は不明です。

 さらに航研機で周回後続距離世界記録を樹立した藤田雄蔵中佐がかかわってきます。藤田は大正元年に横浜一中に入学しますが、当時の横浜一中の校長が前述した木村繁四郎、その夫人クニは藤田雄蔵の母清美と同郷、同窓で、また今東光、日出海兄弟の母綾も同郷、同窓であったようです。つまり、横浜一中の木村の妻クニと藤田雄蔵中佐の母清美と今兄弟の母綾は同郷、同窓で、非常に仲がよく、さらに藤田と今の家は勤務先も日本商船、住まいも藤田が戸部町、今家が伊勢町で近いため、毎日のように遊びに行っていたようです。戦前までの津軽の人間関係は親類と同窓関係でかなり緊密だったようですし、こういった関係を知らないと交流関係も読み解けないようです。


 この木村杢太郎(繁四郎)を弘前絵図で探すとなると、これは大変で、通称の杢太郎、繁四郎の他、藹吉、重清,一綱(ひとつな)の名前もあり、同一人物で、5つの名があります。この5つの名で地図を探すと、ありました。元寺町の現在の文化センターのところに木村藹吉の名前が見えます。木村藹吉から草冠が抜けていますが、間違いないと思います。かなり大きな屋敷で高禄の侍だったのでしょう。