2011年10月27日木曜日

Art Coreというお店




 わたしがキリムや絨毯などのラグに興味を持ったのは、家を新築するにあたり、何かリビングに敷くカーペットを探していたことがきっかけです。当時、モダンリビングという雑誌をよく購入し、家の設計について検討していましたが、その雑誌の小さな記事に西宮のアートコアのことが載っていました。実家とも近かったので、阪急夙川近くのアートコアに初めて行ったのが1998年ころのことです。こういったお店に行くのは、生まれて初めてで、白いモダンな建物の中に入ると、まず壁にコーカサスの絨毯が飾られ、奥にはダークブラウンの板張りの広い部屋があり、四隅にキリム、絨毯が積み上げられていました。新築の部屋に敷くキリムを探していると伝えると、部屋の雰囲気、大きさに沿ってキリムを次々と広げ、見せてくれます。

 その時に購入したのが、イランのローリ族のものです。土をイメージさせる配色と白のアクセントが効いたすばらしいものでした。時代は1940年ころのものです。もともと調べるのが好きな性分なので、このキリムのことを調べるために、「kilim the complete guide」という本を購入し、勉強しました。キリムの持つ奥深さを知ることができました。その内、もう一枚ほしいと、再度art coreを訪ね、購入したのがイラン、セネのキリムでした。このキリムはセネ独特の目が回るような図案がなされ、小型ですが、実に味わいのあるものでした。時代は1930,40年ころと思います。セネのキリムは比較的時代を推測するのは難しくありません。その後、セネをもう一枚ほしいと思い、買ったのが写真下のもので、時代は1950,60年代のものです。竹原さんはあまり勧めませんでしたが、どうしてもセネをと買ったのですが、派手で私の持っているラグでは一番好きではありません。その後、イラン、アフシャールのキリムを買ったのですが、これは編みが半端でないほどきっちりとしており、逸品だと思いました。その頃、2002年ころですが、キリムもいいものはイラン、トルコから消え失せ、先のアフシャル族のものも確か、スイスかドイツで竹原さんが買い付けたものです。いわゆる品薄状態になってきたようで、それに比例して値段も高騰しました。

 Artcoreでも、キリムの価格が絨毯の価格と近くなり、コーカサスの絨毯も揃えるようになってきました。そこで私もキリムからその本家である絨毯に鞍替えし、まず最初に買ったのが、コーカサス、カザック(Fachralo?)のものでした。時代は比較的若く、20世紀初頭のものですが、織り手の若々しい感性が現れた作品で気に入っています。他にもすばらしいコーカサスの作品があったのですが、金額の関係で購入を諦めました。その後、診療所用にイラン、ザーランドの新しいキリムも購入しました。これは1960,70年代のものと思われます。2005年突然、竹原さんから店を閉めるとの知らせが来ました。びっくりしましたが、在庫品を半額で売りますとのことで、3点の絨毯の写真が添付されていました。一点はコーカサス、カザックのもので緑色のグランドが美しいもので、19世紀後半、それにコーカサス、カラチョフのもの、これは少し若く20世紀初頭、3つ目は、トルクメン、サリークのもので、19世紀後半のものです。これらが半額ですので、十分に射程圏内です。この頃は、家内もあきれ顔で早くやめてほしいと思っていたのでしょう。コーカサス、カラチョフはパイルもすり切れてはいますが、コーカサス絨毯が好きなひとには、たまらないもので、すぐに購入を決めましたが、もう一点トルクメンのものは、信じられないほどコンデションがよく、上等のウールを用いているのでしょうか、ビロードのような肌触りでした。竹原さんはこれを推奨しているようでしたが、2点も買うのはまずもって家内には承諾得られないので、諦めました。これほどの逸品はその後もあらわれず、未だにくやしい気持ちです。(「借りくらしのアリエッテイー」の舞台の邸宅。玄関ラグはクルドかコーカサス絨毯(Genji?)ではないでしょうか。)

 Artcoreの閉店(今は娘さんがやっています)後、一切ラグ類は購入していません。ラグの展示即売会があれば、顔を出すようにはしていますが、artcoreで目が肥えてしまい、全く興味は持てません。何より竹原信爾さん、祥子さんご夫婦ほど該博な知識をお持ちの方はおられず、こういった方と知り合いになり、良質なラグを購入できた事は本当に良かったと思います。竹原さんは白鶴美術館、絨毯美術館のラグの購入、鑑定にも関わってきた、この分野では日本の第一人者と思います。2002年ころからは、イラン、トルコに行っても気に入ったものがなく、ドイツ、アメリカ、イギリスなどで買い付け、イラン、トルコで修理して売るようでは、商売的には成り立ちにくいとこぼしていました。現在は、さらに状況はきびしく、トルコ、イランはもとより、アフガニスタンですら良質のラグはなく、あったとしてもべらぼうに高く、家庭のインテリアで使うようなものではありません。

 すばらしいキリムの産地、トルコ、ワン地方での地震がおこりました。他人事とは思えません、何とか先の東日本大震災のお返しをしたいと考えています。

2011年10月23日日曜日

名古屋日本矯正歯科学会



 今週の火、水、木曜日の3日間、名古屋で開催された日本矯正歯科学会大会に参加してきました。弘前から名古屋までのアクセスは悪く、朝5時40分弘前発の電車に乗り、新幹線で名古屋に着いたのは、12時30分、その後、友人のいる三重県津市まで近鉄で1時間半、津に着いたのは3時ころでした。

 これまで日本の多くの県庁所在地を訪れましたが、失礼ですが、これほど寂れた町は初めてです。以前佐賀市を訪れたときも寂れているなあと思いましたが、それ以上で、繁華街の大門というところを歩きましたが、全く人通りはなく、店の7、8割は閉まっていました。5時ころに行ったせいかもしれません。近鉄津から友人の開業している隣駅の津新町まで歩きましたが、ほとんど店がなく、人通りもありません。市内の唯一の観光地津城跡を見ましたが、これがお城かと思うほどこじんまりしたところで、津藩32万石の城下町とは全く想像できません。おそらく戦前の空襲で旧市内のほとんどが焼失したことが原因と思われます。さらに交通網の発達により、大阪まで1時間半、名古屋まで1時間までと、大都市に近接していることも商業の低下を招いたようです。

 夕食は友人の歯科医院の隣の津ミートカシワギという肉屋さんの2階で焼き肉を楽しみました。この肉はさすが天下の松坂牛、ちょっと焼いてレアで食べても、甘く、柔らく、絶品のものでした。今年は、神戸で神戸牛のすごいのを食べましたが、それ以上のものでした。店作りは普通のお店ですが、津にはこういった隠れた名店が他に多くあるのでしょう。町は寂れていますが、こういった町こそ住めば、いっぱい面白いところがあるのでしょう。観光客にはまったく向いていません。

 次の日は名古屋に向かい、学会に出席してきました。学会自体はそれほど目新しいものはなく、主として最近のトレンドをキャッチするような場です。リンガル、インビザラインはやや頭打ち、矯正用インプラントも普及されすぎ、特に新しいものはありません。今回の学会で一番面白かったのはフェイシャルセラピストのかずきれいこさんの講演でした。以前にも矯正学会で講演があり、私は3度目です。かずきれいこさんは、以前からリハビリメークを提唱され、あざ、傷跡などに対するメークを積極的に大学病院などと連携して進めています。彼女の一番の魅力は、顔にただ痣がある、傷あとがあるというだけで、精神的に大きなハンディを負った人々を何とか元気づけたいという思いが、ひしひしと感じられます。私のような矯正歯科医も美に対するハンディを解消する役割を持っていますが、現実問題として顔にハンディを持つひとは、体が健康でも精神的には大きな負担を負っています。それをリハビリメークで人前に自信をもって立てるようになることは、本当に大きな意味を持ちます。こういった使命に対して彼女は全力で取り組んでおり、そのバイタリティーには頭が下がります。

 今回、彼女はかずきデザインテープという新たな武器を持ってきました。13年ほど前からニチバンに作ってくれと言ったけれど無理と言われたものが、ようやく完成したとのことです。従来のリハビリメークはファンデーションなどでカバーするものでしたが、このテープを使うことでリストカットの傷跡のように皮膚がでこぼこしているような状態でもテープを貼り、その上からメークをすることでほとんど目立たなくなります。小林製薬から「アットノン」という傷跡を減らす軟膏が非常に売れているようですが、こういった悩みをもつ方は多いと思います。まずテープ、化粧によりできる範囲でリハビリーメークを施し、化粧の限界を知った上、形成外科に紹介するとのことでした。口唇裂の患者さんでも、何も再手術しなくても化粧で十分にカバーできる症例は多く、うちの患者さんにも何とか、方法をお伝えしたいのですが、こちらにはリハビリメークをするひとはいないようです。大学病院の形成外科で指導者の養成を行ってほしいものです。

 帰りに名古屋の三越に寄った折、かずきれいこさんのお店が三越にあったので、店員さんにお話を聞き、テープを見せていただきました。すごいものです。試しに家内の手に貼ってみましたが、ほとんどどこにつけたかわからないほど薄く、その後、10時間後に家に帰り、剥がそうにも、どこにつけたかわからず、何とか水に濡らしてようやく剥がれたというものです。確実に1日中つけても問題はなさそうです。

 かずきさんも講演で言っていましたが、歳をとり、しわができてもかまわないのではないか、しわ、しみは美しい、それでもちょっと若返りたい、気分を明るくしたいのであれば、化粧をすればいい。アンチエイジングには、このテープは抜群な威力を発揮しそうで、今後日本初の新たなツールとして全世界に広まる可能性を持ちます。形成外科によるフェイスリフトという手術が、アメリカでは美容外科の主流で、究極の若返りということで多くの方が手術を受けています。これを手術なしで費用もかからずできるのですから、すごいことです。

 かずきれいこさんのテープにご興味のある方は http://www.kazki.co.jp/infomation/2010tapekit_lp/index.htmlを見てください。おかげさまで180万枚突破となっており、知らないのは私だけだったのでしょうか。三越の店員さんいわく、「使っている方は多いんですが、内緒にしているようです」。さもありなんです。

 写真上は、津城跡、下は名古屋城です。名古屋城の鉄筋の再建ものですが、それでも古くなり貫禄が出てきました。

2011年10月17日月曜日

ある日どこかで


 子供の頃から、どうもタイムトラベルものの惹かれます。時空を超え、過去に行けたらという思いが強いのでしょうか。テレビでは、昔NHKで「タイムトンネル」という番組があり、夢中になって見ました。結構金のかかった番組でしたが、その後あまり再放送がなかったようです。今見ても十分に見応えのある番組と思うのですが。

 小説では、何と言ってもジャック・フィニーの「ふりだしに戻る」、ロバート・ハインライン「夏の扉」が傑作だし、日本では広瀬正の「マイナス・ゼロ」などの一連のタイムトラベルものも面白い作品です。

 映画でも、「時をかける少女」、「バックツフューチャー」ほか多くの作品がありますが、傑作は「ある日どこかで」でしょう。何度も再放送があり、皆さんも一度は見たことがあると思いますが、これは隠れた名作です。アメリカでは今でもファンクラブがあるほどで、私も少なくとも4回は見ています。どうも深夜12時ころから再放送されることが多く、途中で寝てしまって、最近、5回目ですが、久しぶりに最後まで見ました。作品については、Wikipediaでくわしく説明されていますが、ラフマニノフの曲といい、ジョン・バリーのテーマ曲といい、本当に切ない気持ちになります。時間の壁はいくら愛している恋人でも越えられないもので、この映画を見ると最後まで見てまた最初に戻るとより理解が深まります、深夜放送ではこれはできませんので、是非録画してみるかレンタルでみてほしいと思います。これほど有名な作品ですので、ネタばらししてもいいかと思いますが、主人公は最後に死んでしまいますが、これを始めからまた見ると、老婆のいう「come back to me」の言葉が本当に切ない言葉となってきます。そしてエンドレスの物語となります。

 過去の女性を愛する。主人公のクリストファー・リーヴのように写真を見て愛することはできないでしょうが、年配の女性を見て、若かりし頃に出会ったならば恋したと思うようなひとは多くいます。どうもこの映画は男性には受けが良いのですが、女性にはそれほど受けがよくなく、そういった意味では案外男性の方がロマンティストなのかもしれません。

 ついでに思い出しましたが、これもタイムトラベルものを言っていいのかわかりませんが、小学校6年生のころに読んだイギリスの児童文学の「トムは真夜中庭で」は本当に美しい物語で、特に凍った革をスケートで下るシーンは印象的で、よく覚えています。岩波少年文庫で今でも販売していますので、タイムトラベルものが好きなひとは一読を勧めます。

 もし5分だけ、過去の好きな場所に行けたら、どこに行きたいですか。私の場合は、ひとつは1960年の冬の自宅近くの三角公園のバス停。昔、ここで小学校の同級生のKさんと卒業以来、偶然に会って、一言のみ挨拶しました。後日、彼女は私の全く知らないうちに腎臓の病気で亡くなりましたが、もう少し、せめて5分間のみでも話せたらと思います。もう一つは、1973年7時10分の阪急塚口駅神戸方面のホーム。ここには毎朝、甲南女子の背の高い中学一年生がいましたが、当時は高校2年生と中学一年生と歳が離れていたため、結局一言も話さないまま卒業しました。もし5分あれば、名前と住所くらいは教えてもらえたかもしれません。どういう訳が今でも当時の愛らしいセーラ服は思い出しますが、顔のイメージは薄れてきています。名前くらいわかればフェースブックなどで探すこともできるかもしれませんが。

2011年10月13日木曜日

レニャーノのカタログ2





ファースト・コッピと一時代を築いたライバル、ジーノ・バルタリのテレビ映画です。ファシズムに反対し、ユダヤ人救助を行った人物だそうです。レニャーノのユニフォームはカタログよりは暗い色です。

レニャーノのカタログ






 世界的に自転車ブームのようです。とくにヨーロッパでは環境問題への関心が高く、国ぐるみで自転車の活用を進めている所も多いようです。オランダ、ドイツなどでは自動車から自転車への転換を勧め、市内への車の侵入禁止をしている都市もあります。さらにイギリスのロンドンでも、自転車専用道路が拡張され、郊外から市内へ自転車で通学、通勤するひとも多くなっています。

 日本でも若者を中心に自転車がブームになっており、弘前のような田舎町でもかっこいい自転車を見かけることが多くなりました。ついこないだまでは、マウンテンバイクが主流でしたが、もとより自転車としての美しさはあまりなく、最近はロードバイクの人気があるようです。ただしかっこばかり気にして、競輪用のピストバイクを乗るひともいますが、あれはあくまで競技用であり、いくらブレーキをつけたからといって町で乗るものではありません。

 以前、私の持っているイタリアのレニャーノ(Legnano)をこのブログで紹介いたしました。結構見ているひとが多いようです。レニャーノは戦前のイタリアではビアンキと並ぶ有名な自転車メーカーで、かっては英雄バルタリとファースト・コッピの両エースを擁して、ジロ・デ・イタリアなどで活躍しました。今ではビアンキ傘下に入り、細々と子供向けの自転車や廉価な一般車を作っています。イタリアの主要な自転車メーカーはほとんど、元自転車選手が創立しており、あの有名な部品メーカー、カンパニョーロもそうです。

 先日、本棚を整理していたところ、レニャーノのパンフレットが見つかりましたので、全ページをアップいたします。著作権無視していますが、エヌビーエス社さんお許しください。1997年のもので14年前のものです。このカタログを見ると、レニャーノのロードとツーリング車は日本のみで販売されたようです。ロード車はカンパニョーロを中心としたアセンブリで、ツーリング車はシマノを中心とした構成で、中級程度の部品を使っています。色はレニャーノグリーンで、結構力が入っているのはツーリングでマッドガードもオプションであり、私はそれをつけましたが、さらに専用の前後キャンピーもアクセサリーとして売っていました。フレームはおそらく台湾で製造されたと思いますが、アルミにしては比較的細いチューブ径で、溶接部の処理もきれいに仕上げています。

 最近ではクロモリも人気が出ているようですし、ビンテージ自転車も人気があります。できればクロモリ、ラグ付きの1950-60年の完全な復刻車を出してほしいものです。せめてカタログの最後に出ているレニャーノのウールジャージくらいは復活してほしいです。表紙のコッピが着ているジャージで。襟と色がかっこいいです。

2011年10月10日月曜日

黒石 金平成園




 昨日は天気がよく、電車で黒石に行ってきた。目的は金平成園(澤成園)が一般公開されたためである。この庭は平成18年に大石武学流の作風を伝える名庭として建物と一緒に国の名勝に指定されたが、その時に一般公開されて以来である。今回、やきそばサミットという全国の焼きそばを集めた催しがあり、それと関連して公開された。

 敷地は1700坪以上の広大なもので、工事が未完成のため、池にはいまだ水が張られていないが、個人の庭としてはみごとなものである。庭もすごいが、建物も贅を凝らしたもので、長い一本松を軒に用い、重い雪にも十分に耐えられるようになっている。これだけ長く、まっすぐな松は珍しいということであった。この母屋も修復がだいぶなされ、また別棟も以前は2階建てであったが、建築当時の平屋にすでに改築されていた。もう少しで庭と建物も修復が完了するといった状況である。

 関係者に少しお話を伺ったが、建物は一時料亭としても使われていたようで、母屋の裏からみる庭はさどかし美しい景色であったろう。庭のあちこちに往時の庭園の写真が飾っていたが、その中の一枚に金平成園を作った加藤宇兵衞とその子供たちが写っている写真があった。庭園完成後の写真であるから、明治35年(1902)以降のものである。加藤宇兵衞は生年は1862-1929であることから、40歳以降の写真で確か4人くらいの子供が写っている。以前紹介した岡村寧次大将の妻チエさんは1900年(明治33年)生まれであることから、もしこの写真にチエさんも写っているとすると、明治38年前後のものと思われる。岡村大将との結婚は昭和11年なので、岡村52歳、チエさん36歳ということになる。岡村は再婚だが、チエさんについては不明であるが、年齢的には再婚の可能性も高い。親類の方によれば、チエさんはドイツ留学の経験もあるとのことで、岡村との結婚前にドイツで暮らしたこともあるようだ。

 小学校は地元の黒石小学校に行き、その後、弘前高等女学校(現 弘前中央高校)あるいは、弘前女学校(現弘前学院)に進み、その後東京の学校に進学したのではと推測する。岡村は最初の妻と子供を亡くしており、チエさんとの間にも子供がいなかったようだ。

 今回の黒石では、この他にもこみせ通りの旧松の湯も公開され、これは昔の風呂屋はそのまま残っていて、おもしろかった。湯船と洗い場は銭湯にしては案外小さく10人も入れば、いっぱいになったであろう。一畳くらいの湯船がふたつあり、1mくらいの深さであった。昔の銭湯はこういう風に湯船が深く、子供たちは縁に掴まって入ったものだ。風呂の奥には住宅部があり、当時の生活が偲ばれる。

 弘前も物持ちのいい所で、古い建物が多く残っているが、黒石はさらに物持ちいいところで、私の友人も黒石は昭和のまま止まっており、なつかしいと何度も訪問している。金平成園、松の湯なども修復が完成すれば、さらに観光の諸点ができることになろう。加藤宇兵衞もこの庭園を観光客誘致にと考えていたようである。

2011年10月9日日曜日

弘前 偕行社





 建物のもつ力に改めて驚いた。とういうのは、昨日のロータリーの地区大会の懇親会で偕行社を使った。現在ある建物は、明治40年(1904)にできたもので、設計は弘前を代表する棟梁堀江佐吉である。もともとは九十九森と呼ばれた藩主の別邸で、鷹狩場のひとつであったが、幕末にはここで火薬の生産も行われていた。

 明治29年に弘前に陸軍第八師団ができたが、その士官の親睦、厚生組織としてこの偕行社が作られた。第八師団の初代の師団長は、東洋一の用兵家と呼ばれた立見尚文中将で、弘前に初めて来た時は、町中の人々がその勇士をみようと集まり、けが人もでたという。こういった偕行社は戦前全国各地にあったが、戦後多くの建物はつぶされ、現存している建物は旭川市、金沢市、四国の善光寺市、豊橋市、岡山市にしか現存しない。旭川のものは現在、旭川郷土博物館に、金沢のものは石川県立歴史博物館分室に、善通寺のものは善通寺市立博物館に、豊橋のものは愛知大学短期大学の本部につかわれていたが、今は何も使っていない。また岡山のものは移転して今は食堂と研修室になっている。

 こうして見ると、庭園も含めて当時の偕行社の姿を最もきれいに残しているのが弘前偕行社だけであり、室内は往時とほとんど変わっていないし、今回のような用途に使えるところも少ない。明治以来、陸軍主催のパーティーはおそらくここで、行われていたであろうし、まさにタイムスリップしたような幻覚を見る。軍服をきた人々が同じ場所で、同じような懇親会を開いた状況がまさに眼前に広がっている。こうした感覚はホテルの宴会場では絶対に味わえない雰囲気であり、歴史の重みが建物に染み付いており、それが場の空気を一期に明治時代に戻す力となっている。

 私自身、ここを訪れるのは初めてであるが、本当に感動した。これは全国、県内各地から来た招待客も同様な思いであったようだ。建物はその建てられた目的があり、博物館になったのでは、その魅力は薄れるし、単に建物だけであればこれほどの感動はなかったと思う。偕行社の本来の目的、この建物でパーティーが実際に行われてこそ、建物本来も魅力が出ているくし、招待客の感動を生んだと思える。

 そうはいってもよく見るとかなり損傷は激しく、早期の修復が必要である。今の状態を変えず、結婚披露宴や懇親会に使うのが最も建物の用途に沿った使いかたであろう。今回も便所の数が少なく、野外に移動トイレを設置し、食べ物も移動厨房を利用したが、こういった工夫をすれば、全く問題なく使用できる。また映画のロケ地としても活用できるし、現に「八甲田山」や「津軽百年食堂」でもこの建物が使われた。

 本当にいい経験ができたことを感謝したい。

2011年10月6日木曜日

私の英語



 英語。私はこの言葉だけは苦い思い出が多い。中学のころから、どうも英語は苦手で、成績もずっと悪かった。六甲中学、高校では英語の教師は、スペイン人のディアス先生とボストン生まれのハンコック先生、ペンネ先生であったが、いつも「君はどうしてそんな発音しかできないか」と言われ続け、どうもローマ字読みする癖があるようだ。生まれながら語学の才能にはほど遠いようである。

 同級生のNくんもひどく、今は埼玉大学の教授をしているが、彼も黒板ふきEraserをイラセルと呼ぶほどであった。ある時、彼が「you come to here」を「ユウ カム ツ ヘル」と発音し、神父でもあるディアス先生が「おまえは私を地獄(hell)に来いというのか」と激怒していたが、笑えなかった。私も同様な発音をしていたからだ。後日、彼が英作家ジェフリー・アーチャの奥さんが日本に来た時、通訳をしていたと聞いた時には驚いた。

 大学卒業後に矯正科に入ると、英文専門雑誌を読む必要性がでてきたが、これは専門用語だらけで、慣れれば1、2年で何とか読めるようになった。10年ほど前に三沢の米軍基地を訪問したことがあったが、そこで勤務している矯正歯科医と話していると、もう一人の一般歯科医はおまえらの言っていることはさっぱりわからんと嘆いていた。当然、矯正歯科医同士の会話はほぼ80%くらい専門用語と新しい矯正器材の話であり、一般のひとが聞いても全くわからないであろう。後で、そこに勤務する日本人衛生士からほとんど完璧に会話していましたねと言われたが、それは専門だからこそで、それ以外は中学生並みであろう。

 そこで奮起して10年前から友人の歯科医師とアメリカ人、毎週火曜日の夜にお酒を飲みながら英会話を習っている。内容は政治、経済から学術書までありとあらゆる分野に関する会話だが、これが一向に上達しない。というのも、英語の予習、復習を一切せず、毎週辞書を片手に参加しているだけで、全く勉強していないからだ。それでも辞書を引き引き、どんな内容でも何とか会話する自信はできた。ようやく苦手な英語が少し克服された瞬間である。

 ところが昨年、アメリカのボストンから来た高校生を4か月預かっていた。それも来た当初の4か月であり、全く日本語ができない。よっしゃ、得意?の英語でと会話したところ、これが全くといっていいほど解らない。こちらの言っていることは理解されているが、言っていることが聞き取れない。どうやらこれまでの3人のアメリカ人教師は日本人に合わせて簡単に、ゆっくりとしゃべっていることに気づいた。これにはすっかり自信をなくしてしまった。後日、アメリカ人教師に尋ねると、自分でも若者言葉をきちんと聞かないとわかりにくいよと慰めてもらった。よく考えると、この高校生は典型的な今風の若者で、彼のブログを読むと文法的には全くでたらめで、Getを本当に多用するし、どうやらボストン訛りがある。3年ほど前にサウスダコタの女の子を預かったときは割合わかったことから、中西部の方が訛りは少ないし、男より女の子の方が聞き取りやすいと考えた。しばらくすると少し、わかるようになったものの、その頃には彼の日本語の方が上達していた。

 「銅メダル英語をめざせ 発想を変えれば今すぐ話せる」(林則行著 光文社新書)は、こういった私には本当にそうだそうだと頷くことが多い本だった。いい本です。著者は書く、読む、話す、聞くのうち、最も簡単なのは話すであり、難しいのは聞くであると言っている。全くその通りで、話すのは内容がきちんとあれば、何とか通じるが、聞く方は本当に難しい。話すのは自分のペースでしゃべれ、内容が重視されるため、極端に言えば前述したアメリカ人矯正医との会話のように単語の羅列だけで会話が成り立つが、聞く方はその人独特のテンポや表現があり、難しい。私の場合は、男より女の人の方が聞きやすいし、若い人より年配の人、ネーティブよりそうでない人(過去の経験からすれば、クロアチア人、イタリア人、ドイツ人、韓国人、インド人)方が聞きやすい。ただどうも中国人の英語は変に流暢でわかりにくい。

 それでも外国人には、それほど抵抗はなくなったため、未だ拙い英語ながら、弘前に来た観光客には何とか話そうと心がけている。

2011年10月2日日曜日

クリニプスの折り畳み傘




 先日は、歯科医師会、医師会、薬剤師会からなる弘前市三師会で「明治二年弘前絵図」というテーマで講演させていただきました。持ち時間が1時間くらいなので、十分にお話し出来なかったことが悔やまれますが、熱心に聞いていただき感謝しています。その折、何枚か現在地の写真を講演に入れたのですが、わかりやすく、もっと他の場所を説明するにも現在の状況を写した写真を見せてほしいとの要望がありました。確かに弘前城の明治2年当時の説明をしても、なかなかピンとこないかもしれません。次回からは写真をもっと多用したいと思っています。

 写真は、ドイツのKnirps社の折り畳み傘です。世界で最初に折り畳み傘を作った会社で、色々な種類がでていますが、このうちMiniUltralightというものをAmazonで購入しました。特徴としては、折り畳み傘としては、がっちりしており、通常の骨組みは6本ですが、これは8本です。また広げた時の直径が96cmでかなり大きく、日本の二段折りの傘より大きいくらいです。若干重い感じがします。緑のものが日本製の小型の折り畳み傘で、黒が今回買ったクリニプスのものです。実際には写真以上に大きさには違いがあります。

 私自身、傘をしょっちゅう忘れてくるため、これまで全く興味がなく、高い傘を買えば、逆に盗まれる可能性も高いため、デパートでの特価品1000円といったものしか買ったことはありません。折り畳み傘の場合は、少なくとも盗まれる心配はないので、一度高い傘を買えば忘れることもなかろう、かえって大事に使うかもと思い、インターネットで検索したところ、ヒットしたのがクリニプスの傘です。自動式の折りたたみ機能をもつ製品は、何と8400円もするため、さすがに買う気はありませんでしたが、通常の何の機能もないMini Ultralightという製品は4200円なので、ちょっと高いが、思い切って購入しました。こういった場合、Amazonが送料無料でうれしいものです。秋から名古屋の学会などもあり、今後使ってみての感想をお話したいと思います。また使ってみて良ければ、親しいひとへのプレゼントには値段的にはいいかもしれません。

 傘というと私たちの世代は、「シェルブールの雨傘」を思い出します。上映当時、カトリーヌ・ドヌーブのパリ娘の美しさに恋しましたが、あのドヌーブが「しあわせの雨傘」という映画に主演しています。でっぷり肥えて、昔のファンにはがっくりの肢体です。明らかに邦題もそうですが、シェルブールの雨傘に引っ掛けた映画で、そういった意味ではドヌーブもかわいそうな気がします。68歳の作品で、映画冒頭から赤のトレーニングウェアで登場します。腹も出てパンパンの状態で、あれだけの美女が映画冒頭からこの姿態はきびしいものです。よくぞ名女優がこのシーンにOKを出したものです。圧巻は最後の国会議員に当選してからの風格です。ヒラリー・クリントン、田中眞紀子真っ青の存在感で、さすが大女優、人生謳歌を歌ってのエンドです。フランス映画の好きなひとには、結構楽しい映画ですので見てみてください。
 シェルブールの雨傘のYoutube載せましたが、この場面に出てくるロードレーサーかっこいいです。色合いからはイタリアのレニャーノぽい感じです。サドルの後ろの小さなバックに交換用のタイヤ、鍵と工具が入っています。ドロップハンドルのフラット部にブレーキをつけています。