2011年12月25日日曜日

北朝鮮後継者



 北朝鮮の金正日総書記が亡くなり、どうやら金正恩が事実上の後継者となるようだ。社会主義国で三代に渡り世襲制が行われるとは、これほど主義と矛盾したものはない。まさしく王国、帝政である。それでも北朝鮮の実情を見ると、この体制でないと自己崩壊するのは間違いない。

 金正恩の母、高英姫は大阪市生野区鶴橋生まれの在日で、父高太文は柔道家で戦後、大同山又道というプロレスラーとして生活していた。ちなみに和田アキ子の父親、金基淑は同所で格闘技を教える金海道場という柔道道場を開いており、同業でもあったので高太文とは非常に仲のよい友人であり、その子、和田アキ子と高英姫はともに幼なじみであった。高家は1961年に北朝鮮に渡り、金正日に舞踏家の高英姫は見初められ、その子が今回後継者となった。

 高太文(奉文?)は大阪で東亜プロレスという団体を起こし、昭和31年には柔道家の木村政彦と大阪府立体育館で観客7千名を集めて、シングル対決をした。一本目は木村が、二本目は大同山が、三本目は大同山が金的蹴りの反則負けとなってる(増田俊也著 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」新潮社)。高太文は講道館柔道六段、木村は力道山戦後の意気消沈した時代であったとしても、あの最強の柔道家木村とシングルマッチをしたくらいで、相当実力はあったと思われる。

 「日中もし戦えば 緊迫シミュレーション」(マイケル・グリーン、張宇燕、春山剛、富坂聡著 文春新書)は、タイトルは軍事オタクが飛びつくようなものだが、内容は日中、韓国、北朝鮮、台湾など東アジアの現状を軍事から捉えた好著である。この本では、今後の北朝鮮問題について、韓国、日本、中国、アメリカとも現状の北朝鮮の現状維持を是認しており、金体制が崩壊することは望んでいない。逆に韓国と北朝鮮が統一され、人口8千万の核保有国が日中間に現れるのを危険視している。北朝鮮の軍事クーデターは可能性があるとしているが、民衆蜂起によるエジプト型フェイスブック革命はないとしている。民衆革命が起こるほど、北朝鮮の国民が豊かでないため、希望なき国民に逆に蜂起はないということだ。張さんの意見では、現状は最悪な経済状況であり、中国型自由経済に移行するのは間違いないとしている。あまりにひどい生活状況から少しでも豊かになれば、人々は幸せに感じる。中国、韓国にしても北朝鮮からの難民が押し寄せることを最も恐れており、何らかにきっかけ、一番いいのは核放棄であるが、それを条件に自由経済に移行するのを援助するというのが、日本、中国、韓国、アメリカの最良のシナリオであろう。

 ただここで一番大きな問題は、韓国にも当てはまるが、朝鮮人、韓国人のもつ小中華思想であろう。中国、日本というGDPの世界一、二の国に挿まれ、その間に立って、どちらにも負けない、競合心、これが韓国経済のバックボーンであるが、国力から背伸びした行為に走ることが多く、冷静に実情を分析できない。本家の中国の中華思想は、かなりプラグマティズムな点があり、現実主義であるが、どうも韓国、北朝鮮の小中華思想は観念的な思考が強く、柔軟性に欠く。この点では中国も全くお手上げ状態であり、解決できないし、日本と韓国、北朝鮮の問題の多くはここから出発している。

2011年12月23日金曜日

田町、土淵川沿い墓所



 弘前市にはところどころおかしな所に墓所がある。郡部ならいざしらず、市内の寺もないところにぽつんと墓所がある。

 ひとつは、八幡神社に行く参道の道すがら、熊野奥照神社、市営住宅前の墓所で、当初、昔の村の墓所がそのまま残っていたのだと思っていたが、明治二年弘前絵図からここには宝蔵院と大善寺の墓所があったことがわかる、明治に入ってからの神仏分離令により、最勝院の塔頭であったこれらの寺はなくなったが、墓所だけが未だに残っている。

 同様に土淵川の弘前一中裏には小さい墓所とおかしな碑が立っている。ほんの数件の墓しかなく、まわりは古いアパートに囲まれている。ここは昔の愛宕神社跡であるが、どうして神社に墓所があるかはわからない。弘前東照宮の別当の薬王院はかってはかなり大きな寺だったが、その墓所の一部なのかもしれない。

 稲葉克夫著「私の落穂拾い」(北方新書)によれば、昭和47年ころまで、おそらくここであろうが、祠があり、人外という隠者が焼けた庵跡に前庭に戦死地蔵尊や石碑を作ったようである。この人外とは2.26事件に関与した対馬勝雄中尉の妻の弟、阿保源蔵のことで、ここに今次大戦で亡くなった多くの将兵の名と平和を祈る碑を立てたようだ。今でも一部、奇妙な石碑が立っている。

 近くの弘前東照宮を先日行ってみたが、屋根、軒、神社本体もかなり痛んでおり、このまま放置すれば早晩、補修不可能になるかもしれない。一刻の早く債務問題の解決してほしいものだ。何しろ弘前の東照宮は全国の東照宮の中でも非常に早くできたもので、すでに400年近い歴史があり、このまま債務問題が解決しないと重要文化財の本殿もとんでもないことになる。この債務問題の元凶である結婚式場が本殿右にあるが、これが完全な廃墟となっており、解体費が相当かかりそうである。実はこの結婚式場の横に弘前市立弓道場があるが、部員以外知るひとは少ないであろう。これも老朽化しているが、HPで見ると内部はよく整備されており、使用料も生徒では1時間30円と安い。

 東照宮の裏は、昔は寿町と呼ばれ、いわゆる色町であった。その中で最も大きく、格式があったのが武蔵楼で、将校以上のものが利用した。その跡地は相当広く、今では医院となっているが、奥の方には昔を偲ばせる立派な庭園がある。妓楼の本館は和洋折衷の贅を凝らした作りで、戦後壊すのが惜しく、市に保存を訴えたが、けんもほろろだったようである。北横町および寿町には20軒ほどの妓楼が並び、土手町とともに和徳町は非常ににぎわいをみせ、両町をまたぐ、坂本町から南横町の道と百石町も往来が絶えなかった。この辺りは今でも商店らしい家が多い。

 ひとの記憶は、あっという間に忘れてしまう。Google earthなど200年後に見れば、実に貴重な歴史資料になろう。そういった意味では明治二年絵図も幕末期の弘前を知る一級の一次資料であろう。

2011年12月21日水曜日

ママチャリ




 チュスター・リーブス著「世界が賞賛した日本の町の秘密」(洋泉社新書)は、アメリカ人からみた日本のママチャリ文化を論じたユニークな本である。私のような自転車好きな者から見れば、ママチャリというと、とても世界には恥ずかしく出せないしろものと考えていたが、この本を読んで改めて認識しなおした。自転車ファンから見れば、ママチャリはすべてダサイく、重いし、スピードはでないわ、カッコ悪いし、おまけに中国製が氾濫しており、安くて信頼がおけない。さらに個性はなく、どうもあの自転車に愛着は持てそうにない。ところが著者は、このママチャリこそはコンパクトシティー、省エネ社会の切り札としている。

 ママチャリは確かに歩道をゆっくり走るには、優れており、ロードレーサーのような華奢なものでは、歩道と車道の段差がパンクの原因となるため、怖いし、振動も多い。雪国では融雪路の蓋がちょうどタイヤの幅くらいの溝になっているため、万一この溝にタイヤが挿まれると大事故に繋がる。さらにロードレーサーではスタンドがないため、自由に止められないし、また荷台、かごもないため、買い物したものはデイパックなどを背負わないといけない。また姿勢も前傾が基本となるため、疲れやすいし、尻も痛くなる。ということで、実は私もちょい乗りにはママチャリを使っている。便利だからだ。

 よく考えると、日本のママチャリは著者が言うように類型を見ない。多くの国では実用的な自転車はあるものの、少なくとも男性用と女性用に別れている。ところがママチャリの基本形は、フレームがステップスルータイプで、いわゆる女性用のものを男女とも使っている。欧米ではこのステップスルータイプは女性用、ダイヤモンドフレームが男性用と別れていて、男性がステップスルータイプの自転車に乗るのは抵抗があるようだ。少し前まで日本でもそうだったが、次第に抵抗は薄れ、今ではどうもサドルの前に水平のチューブがあると乗りにくいと感じてしまう。

 ところがこんなママチャリだが、実力はすごく、うちの次女は毎日高校までの3kmの道を通学していたし、友人の一人は10km近い距離を1時間ほどかけて3年間自転車で通学していた。へたなサイクリストよりよほど走っている。あの形は、ある意味、日本の道、町に合わせた究極の形なのであろう。スピードこそでないものの、歩道を故障なく、走ることができ、安くて、長持ちする。パリで始まったシティーサイクルシステム(大規模貸し自転車事業)に用いられているペリブ自転車もママチャリの模倣とも言える。またコペンハーゲンのレンタルサイクルもママチャリに近いが、荷台、かごもなく、スタンドもちゃっちくすぐに倒れそうだ。ママチャリの方が使いやすそうだ。

 最近、歩道上の自転車走行を禁じる動きがあるが、著者はスピードが出ない、ママチャリであれば、歩道を整備して走るようにできないかと提案している。歩行者の自転車による事故も多いが、逆にあのママチャリで車道を走れというのも危険である。著者は、人、自転車はスイスイ、車が一台ぎりぎりに入れるような道、そして歩いて、自転車で買い物から、病院、美容院、学校、とすべての生活がまかなえるような町づくりがエコの観点から世界的な流れとみる。

 かって日本人は、車で買い物に行き、一週間分の食料を大型の冷蔵庫に入れるようなテレビでみるアメリカ型の生活に憧れていたし、それが生活の目標でもあった。ところがそれが実現されるようになると、今度はアメリカ型大型消費生活が見直され、その象徴が自動車社会から自転車社会への変換ということになろうか。

2011年12月15日木曜日

セファロの増感紙



 現在、事情があって、歯科放射線について勉強している。学生の頃も、歯科放射線の授業はあったのだが、殆ど記憶になく、その後も全く関心のないまま過ごしてきた。開業した時にパントモ、セファロ撮影装置を購入したが、他の先生が購入している機器の中から何となく選んだに過ぎず、それほど研究して購入したわけではない。

 当時、広島で開業していた花岡先生から希土類増感紙を使うようにといわれ、以来増感紙は希土類でやっているが、どういったものか全く理解せずに利用してきた。多くの先生方も開業時に購入したレントゲン撮影機をそのまま使っているのであろう。レントゲン本体は比較的故障は少なく、10,20年は十分にもつ。

 ドイツのレントゲンが1895年にレントゲンを発明した当時は、X線をフィルムに直接当てて、撮影していたが、その後、被爆線量の軽減から、いわゆる増感紙が発明された。100年くらい前の話である。増感紙はX線を一旦、青や緑に発光させてそれを写すというもので、線量は1/100くらいに大幅に軽減された。一方、歯科では歯そのものを写す、デンタルレントゲン写真は、より鮮鋭に撮るため、増感紙を使わない、ノンスクリーン法がとられている。これも以前に比べて感度がずいぶんよくなっている。最初はA、その後、B、Cとなり、現在はDからE、F感度へと移行している。D感度に比べるとF感度では感度が4倍、すなわち線量は1/4ですむ。

 顔面全体を撮影する頭部規格写真(セファロ)は、増感紙を使っているので、被爆線量は比較的少なく、先のデンタルレントゲンの1、2枚分、自然放射線の数日分程度であるが、それでも10歳以下の場合は、健康被害に対する30歳の相対リスクを1とした場合、3倍となる。注意深い使用と、さらなる線量の軽減が望まれる。

 現在、セファロで主として用いられている増感紙は、タングステン酸カルシウム蛍光体のブルー発光性のものであろう。希土類発光体のグリーン発光性のオルソタイプは、医科では10年以上前に普及率は90%を超え、さらに今では急速にデジタル化されているが、歯科ではフィルムがまだ主流であり、さらに二昔前の増感紙が使われているようである。現在、ブルー発光性の増感紙はほとんど生産されず、それに対応するフィルムもなくなりつつある。1975年ころにブルー発光性のものを凌駕する画質を示すグリーン発光性(オルソタイプ)が発明された。すでに30年以上たつ。この増感紙はその高い性能のため、感度を上げても画質の低下が少ないため、欧米を中心として、歯科医院では400感度のオルソタイプが主流となっている。

 ここで私も含めて多くの先生方が誤解しているのは、カメラのフィルムのようにISO64、100、400というものではなく、フィルムはブルー発光性とグリーン発光性の2種類に別れているが、フィルムそのものには感度はなく、増感紙に感度があることだ。Kodakで言えば、グリーン発光性増感紙は、レイネックス250と400しかなく(ブルー発光性増感紙は生産中止)、フィルムはTマットフィルムG/L RAしかない(セファロの場合、エクタビジョンは生産中止)。ブルー発光性増感紙用のフィルムがXマットDBFフィルムとなる。感度だけみればブルー発光性増感紙+DBFフィルムを使用した場合を100とすれば、グリーン発光性増感紙+G/Lフィルムで、レイネックス250で1.2倍、レイネックス400で2倍となる。当然、画質はグリーン系の方がよい。

 ではなぜ、30年前に登場した、こんなに優れているグリーン系増感紙が医科のように急速に広まらなかったのかというと、歯科医院側に一切知らされていなかったことが、その要因であろう。ある程度、知識のあるひとはこんなことはすでに知っていたであろうが、開業時に購入したまま経過した医院では、こういった増感紙の存在自体あまり知らないであろう。というのはパントモであれ、セファロであれ、装置購入時にカセットが附属しており、その詳細については一切知らされていない。さらに歯科用カタログにもあまり増感紙についてはくわしく載っておらず、極光PV-IIといった記載のみである。これをブルー発光性増感紙で感度200とはわからないであろうし、現在でも増感紙のことはカタログで一切載っていない。

 という訳で、不勉強な私のところでも、ようやくレイネックス400カセットを購入し、小児を中心に照射時間を検討しようと思ったが、何しろフィルム自体が縮小傾向のため、メーカーにも在庫がなく、納品まで1か月以上かかるとのことであった。比較した結果、後日お知らせする。

2011年12月12日月曜日

「今東光物語」


 菊池達也著「今東光物語」は、古本屋でもなかなか手に入りにくい本で、たまにインターネットに出品されていても、高価で手が届かない。調べると、盛岡の岩手県立図書館にあることがわかったので、東北矯正歯科学会の編集委員会の合間に図書館(バス停近く)を訪れ、調べてきた。この本は、著者が青森のひとのせいか、弘前の今家のことがくわしく書かれているので、一部抜粋する。

 今東光は、日本郵船勤務の今武平と医師伊東重の妹あや(綾)の子供であるが、両親が結婚したのは、武平が29歳、あやが28歳と遅かった。この理由として、「今東光物語」では今家と伊東家のおもしろい因縁を載せている。実は、武平の長兄、宗蔵は、あやの姉、三女ひさ(久)と結婚していた。ところが結婚3年後に宗蔵が風邪をこじらせ、わずか29歳の若さで急死する。今家側はこの死因に疑いを持ち、あるいは伊東家側が盛った薬がその死を早めたと噂した。これを聞いて伊東家側は激昂し、死体の解剖を申し入れ、それを認めないなら嫁を離縁すると掛け合う。両家の対立に挟まって、ひさは一子を残したまま伊東家に引き戻される。乳飲み子を引き離された18歳のひさはおそろしい決心をする。実家の蔵で自殺する。ひさの長男邦器は後に新聞記者になる。

 今家と伊東家はこういった関係にあり、そのわざかまりと説得に時間がかかり、今武平とあやの結婚が遅れた。もともと今家は勤王派、伊東家は佐幕派で、そうした両家は仲が悪く、その和解の糸口になればと今宗蔵とひさは結婚した。

 今宗蔵は、故斉と号し、「周易正義」などを著した儒学者で、東奥義塾の教員をしていた。評論誌「開国雑誌」の主筆や共同会の書記長などを務めた。「共同会」は明治初め、弘前の士族たちが結束連盟し、展開した自由民権運動の政治結社で、別名「義塾堂」と呼ばれた。会員メンバーには、本多庸一、菊池九郎、榊喜代身、田中耕一、伴野雄七郎、服部尚義、館山漸之進、会長はあやの長姉りょう(良)の夫、斎藤連(たまき 王へんに連)である。

 珍田捨己は、今家とは親戚にあたり、あやは日頃、今東光に「東光は語学の才能がありそうだから、出来れば外交官の道に進ませたい」、「珍田おじさんを見習え、追い越せ」とはっぱをかけていた。息子の東光より、母あやの方がよほど語学の才能に恵まれており、一家の主婦になっても、W.スコットの「アイボンバー」やC.ラムの「テールス オフ シェークスピア」などを原書で読んでいたし、杜甫の七言絶句を愛誦し、平家物語を諳んじていた。後年、東光が川端康成ら一高生とつきあうようなった時、かれらが使っていた教科書が母親が読んでいたものと同じで驚いたようだ。ちなみに両親を早くに亡くした川端に、あやは実の子供のように深い愛情を注いでくれ、その恩義に報いるため後年東光の参議院選挙を手伝うことになる。

 ここで今家と珍田家が親類と書かれているが、この関係もややこしい。珍田捨己の父有孚は、祖父有敬が42歳の時に野呂家から養子にきた。有敬は藩政改革事件に連座し、謹慎蟄居中で珍田家の家を守るため、この養子縁組は急遽決まった。野呂家の長男灸四郎が有孚となる(4歳)。当時、野呂家では後妻が入り、その長男を珍田家に出したことが町中で非難されたという。この後妻の娘が、今東光の祖父、今文之助の兄弟あるいは祖母也佐の兄弟に嫁いだようだ。つまり珍田捨己からすれば、父親の実家の妹の嫁ぎ先の孫が今東光になる。珍田捨己の長男千束は、一高に入学したものの、東京大学の受験に何度も失敗し、水商売の女性と遊んだりする。珍田家からすれば不出来な息子だったが、同じ境遇の今東光とは仲がよく、よく飲んでいた。

 江戸、明治期の婚姻関係は非常にややこしい。当時は結婚というとほとんど見合い結婚、それも家柄を合わせるとなると対象は限られてくる。親族間の結婚も多かった。前述した珍田家でも珍田捨己の妻、いはは山中兵部の三女であるが、長男の卯太郎の子は山中千之は、珍田の長女貞子と結婚している。

2011年12月5日月曜日

孫文の義士団


 先日、ジャッキー・チェンの「1911」を見た流れで、テディー・チャン監督の「孫文の義士団」をレンタルしました。

 「1911」が期待はずれだったので、これも辛亥革命100周年もののありきたりの内容かと思っていましたが、これがおもしろい。孫文が1906年10月1日に香港に寄港し、重要な会議に出席するための1時間、孫文を暗殺しようとする一団とそれを阻止しようとする者達のすさまじい戦いを描いたものです。実際、当時孫文は日本におり、東南アジアに散らばった華僑に資金援助を仰ぐため、何度か外国に行っています。日本への帰路、香港に立ち寄った可能性もあるかもしれません。また登場人物のひとり、新聞社の経営者の陳小白は孫文とは革命の初期からの同士で、最初の蜂起後、孫文らと一緒に日本に逃亡し、革命への協力者を集めていました。孫文と宮崎滔天を会わせたのも彼です。日本亡命中に新聞を発行しています。

 ただ映画はそんな史実とは関係なく、カンフーアクションと「男達の挽歌」を合わせたような痛快娯楽作品に仕上がっています。2010年に公開された日本映画の「十三人の刺客」と似た内容ですが、こちらの方が恋愛、友情、義理などがあって楽しめます。人力車が階段を転げ落ちるシーンは有名な「戦艦ポチョムキン」のパクリだったり、よく考えれば「十三人の刺客」は片岡千恵蔵主役、1963年公開されたもののリメークなので、設定自体もパクリかもしれません。

 カンフーものを見て、いつも思うのは、カンフーで戦うよりは、銃でズドンとやった方ははるかに早いのではと思ってしまいます。いくら超人でも鉄砲には勝てません。この映画でも、孫文を本気で暗殺するなら爆薬か鉄砲でしょう。弓やカンフーで戦うことはまずありえません。と言ってしまうと映画にはなりませんが。

 最近は、旅行に行く移動中、レンタルした映画を見ることが楽しみのひとつになっています。IpadにItuneからビデオをレンタルした、それを電車の中で再生して見ています。最近見たのは野村芳太郎の「鬼畜」、コーエン兄弟の「ノーカントリー」、クリント・イーストウッドの「ミスティック・リバー」で、どれもなかなかのもので、電車の中での2時間をじっくり楽しめました。結構名作でもまだまだ見ていない作品は多く、こっらの作品もそうで、レンタル代も300円となっていてお得です。上記の三人の監督作品は、あまり失敗作はないようです。ただItuneでレンタルできる作品数が、やや少ないので不満です。DVDレンタルでは、古いDVDは傷がついたりして再生できないため破棄しているのでしょうが、ダウンロードするものはいくらでも種類を増やすこともできるでしょうから、もっと膨大なレンタル作品を用意してほしいと思います。