2012年1月29日日曜日

北斗七星および斉藤導場



 拙書「明治二年弘前絵図」の紹介が、月刊弘前2月号に載る予定で、北方新社から雑誌をいただいきました。その中に、東北女子大学の佐々木隆教授が地上の星座という題のコラムを書いておられ、大変興味深く拝見しました。私のお恥ずかしいブログの説もご紹介いただき、大変恐縮しています。

 門外漢の私には全く知りませんでしたが、北斗七星信仰は水と関係があり、佐々木教授によれば弘前の神宮宮、八幡宮、熊野奥照神社、大杵根神社、東照宮、住吉大社、稲荷神社の7つの神社は土淵川に沿って建てられ、北斗七星の柄杓は水と縁があり、四神のひとつ青龍に喩えられる川を祭ったということです。そして最後に稲荷神社に代わり、大円寺(最勝院)を新たに入れています。

 私自身は単に絵図上から型だけで、勝手に空想で、稲荷神社の代わりに胸肩神社を入れていましたが、どうも違うようです。この当たりがアマチュア研究家のいいかげんなところです。

 ただ佐々木教授はおやさしい方で、私の説にも胸肩神社は弁天様を祭ったところで、弁天様は龍神の娘で、全く水とは縁はないというようなことを書いていただきました。

 もう一度、明治二年弘前絵図で胸肩神社を見てみます。どうも「胸」の字は間違いありませんが、次の字は「肩」ではありません。ここで影山先生からいただいた漢和辞典の登場です。かたっぱしから近似した字をみていくとどうも「眷」という難しい漢字に行き当たります。「けん」と読み、振り返ってみるという意味で、胸眷とは心のうちを振り返って見るという意味になり、当て字かもしれませんが、よほど胸肩よりはいい名前です。さらに神社の中には清水との記載があります。わざわざ清水と書かれているのは、きれいな水が湧き出ていた所だったのでしょう。まんざら胸肩神社も水とは関係ないというわけではなさそうです。

 インターネットで胸肩神社を検索すると、明治六年に弁天宮から胸肩神社に改称したとなっていますが、明治2年の段階ですでに胸眷神社と言われていたことがこの絵図からわかります。明治元年に神仏分離令が出されましたが、実際の仏教施設の破壊、統合が起こったのは、もう少し後で、明治二年絵図でも最勝院はまだ移転しておらず、田町のところにあります。胸眷神社だけが、いち早く明治二年にはすでに弁天宮より改称したというより、幕末にはすでに、こう呼ばれていたのかもしれません。

 ついでに先のブログでは、もうひとつに北斗七星の柄杓として、八幡神社、熊野奥照神社、杵根神社、神明宮、春日神社、紺屋町稲荷神社、淡島神社(保食神社)を結ぶ線も示しましたが、よく考えれば、いずれも大久保堰沿ってあり、大久保堰を一種の川に見立てれば、土淵川と同様な意味をなすと考えられるかもしれません。さらに今は保食神社となって寂れた神社ですが、駒越の淡嶋神社は水に関係するのはいうまでもありません。

 話は変わりますが、コンデコマこと前田光世が弘前中学の時代に柔術を習った斉藤茂兵衞の家が植田町片山町にあることはすでに知っていましたが、今回データベースの作業途中で、植田町に斉藤導場というところがあるのを発見しました。人名に隠れてわかりませんでした。この道場は柔術道場であろうと思われ、若き日の前田光世もここで稽古したのかもしれません。

2012年1月26日木曜日

明治二年絵図データーベース


 明治二年弘前絵図に載っているすべての戸主、屋敷主の名前をデータベース(ファイルメーカー)に入力した。なかなか疲れる作業であったが、これで検索は本当に簡単になった。ただ、読めない名前、確定ができない名前が結構あり、出来るだけ、他の文献を当たって修正していきたい。その数2029軒、中には神社の社主,町年寄なども含んでいるので、地図上に記載されている実際の士族の戸数は2025軒である。新屋敷長屋や陸尺長屋に住んでいる武士を合わせるともう少し増える。

 足軽、同心などの下級士族は、明治3年以降、卒族と称されるようになったが、2025軒のうち、富田、和徳、紺屋町足軽町の119軒が、これに当たる。ただ馬喰町の監獄関係のもの、首切り人、馬喰頭の2、3名、あるいは穢多、非人頭の2名などは、これに含まれるないだろう。明治三年の帰田法公示の際の家禄15俵以上の士族数は1938名とされており、今回の結果、2025−119−4の1902軒とは36名近く差がある。同じ家で2名以上、家禄15俵以上をもらっていたものや、長屋住まいのものを含めるとこうなるのかもしれない。あるいは弘前城下以外の藩内に屋敷があったものもいたであろう。だいたい絵図上からも2000軒(戸数)くらいが、明治初期の弘前藩の士族戸数と思われる。

 明治2年の調査では弘前藩全体で士族戸数は2066軒、卒族戸数2261軒、士族数12460名、卒族10215名とされている。ほとんどの士族が弘前に集中したようだ。士族戸数については、もう少し、データベースを検討し、正確な数を出したい。

 弘前という町は、明治初期の人口は3万余りで、2000軒の武家があり、一戸あたり、家族も含めると5人はいるとすると、1万人、さらに使用人も足すと、人口の半分は士族関係者といってもよかろうが、その人たちが明治を境に職を一気に失うことになる。これは現代に置き換えれば、市役所などに勤務する全公務員の数倍の人数のものが一挙に失職することに相当する。大きな転換期である。一方、全人口の半分に当たるものが、何ら生産的なことをせず、藩から扶持をもらっていたと考えると、これもまたおかしな状況である。士族特権というものであろう。

 人口の半分の者が一気に職を失った状況を打破するため、弘前藩、明治政府も各種の殖産事業を行ったが、これだけの人数を食わせることは不可能であり、失業率50%といった状況では、その不満が政府攻撃に移るのは明らかで、明治初期の要人暗殺やそれに続く、士族の反乱、自由民権運動などに繋がっていく。それとともに食べるために、故郷を離れ、東京や北海道に移り住む。江戸期は人の行き来は非常に少なく、婚姻関係も半径数kmで済まされていたような時代であったが、明治以降、一気に大規模な転住がなされ、弘前藩の士族の多くも各地に散らばった。

 コンデコマ、前田光世が弘前中学の時に柔術の修行をしていた斉藤道場(導場)は師である斉藤茂兵衞の住まい近くにあることがわかりました。


*これまで各地から弘前にいた先祖を探してほしいとのメールが多く来ましたが、実際探すとなると絵図上を片っ端から調べ、大変時間がかかりました。データベースができましたので、簡単に検索できるようになりました。もし先祖の住んでいたところを調べたいという方がいましたら、お気軽にお問い合わせください。ただ江戸期のひとは通名、字、俗名など色々な名前を持っていましたので、出来ましたらすべての名前お知らせください。さらに戸主、屋敷主の名前で絵図に載っていますので、幕末、明治前後の家系図がありましたら、お教えいただければ、よりくわしく調べられます。

2012年1月23日月曜日

六甲学院 4



 六甲学院のブログ、相変わらず見ているひとが多い。コメントも72期生、74期生といった方からくる。ふと考えると、私が32期であるから、40-42歳下の方からのコメントで、56歳マイナス42歳ということは、げげ14歳の方からのコメントである。私らの時代、おやじ以上の年輩の方に話かけるのもはばかるが、今の若者はそういった意味では抵抗は少ないのであろう。

 実際、フェースブック、ブログ、2ちゃんねるのメインユーザーは50-60歳と聞く。そういったいわば、ロートル集団に若者は問題なくアクセスでき、話し合えるのがITの効用かもしれないし、うれしいことだ。

 とりとめもなく話をしよう。うちの娘は今、西宮に住んでいて、住友系の子会社勤務している。淀屋橋の住友ビルで働いているが、父親が六甲学院と知ると、上司が「この娘のお父さんが六甲出身なんですよ」とやたらに他の住友関係のひとに紹介されるという。どうも住友系では大学閥より、隠れた閥として六甲学院閥が存在するようである。住友商事の副社長始め、役員に六甲学院の卒業生は多い。友人に聞くと、そんな高校閥はないよというが、それでも取引先のひとが六甲学院卒と聞くと、急に親しみがわくようで、同じことが、シンガポールやアメリカに勤務している友人も言っていた。

 この感覚はわからないでもない。私は東北大学卒だが、フェースブックのお友達を探す場合も、別に東北大学には全く興味はない。希少価値というか、同じような体験をしているというか、高校が同じという方が親しみがわく。

 高校1年生から3年生まで、文化祭では焼き芋屋をしていた。どこからかドラム缶を見つけてきて、ヒルケルさんに上蓋を切り取り、さらに下側面に四角の切り取りをしてもらった。得意の溶接工事である。真ん中に何本かの穴をあけ、そこに鉄棒を差し込み、金網を敷いて、その上にさらに小石を敷く。さつま芋は知人の父親から市場価格で仕入れ、マキは同様に工務店を経営している知人の父親からゲットする。下からマキをたいて小石に載った焼芋も焼くのである。確か文化祭は11月ころだったので、よく売れた。最初の年に数万円の利益があり、味をしめ3年間、焼き芋屋をした。一度、やり方がわかると出来るだけ少ない人数でした方が分配も多いため、3、4人でやっていた。

 隣のステージでは同級生のバンドが招待されたと思われる女子高生の熱い視線を浴びる横でひたすら焼芋を売った記憶がある。不思議なことに同級生の中でフォークやロックをしていた連中は、今でもおやじバンドを組んで活躍している。文化祭も終わり、さあ片付けようとすると、熱のためかドラム缶の下のアスファルトが焼けてドロドロになっている。足でこすって、何とかしようとしている、ちょうどその時にシュワイツエル校長が現れ、「ヒロセくん、君は何をしているのかね」と、この校長はすべての生徒名を覚えてる、それから延々と30分間怒られ、何とか釈放された。この校長はドイツ人らしく厳格で、そういったアスファルト工事も自分でするのが好きで、それもきれいに仕上がっていないと気がすまない。後日、きれいになっているのを見ると、校長が後で修復したのかもしれない。

 今はどうなっているのかしらないが、昔はヒルケルともうひとり外国人の大工さんがいた。授業には一切タッチせず、ひとすらこの二人で机から家具、はてはサッカーのゴールまで作っていた。当時の重くて、掃除の時に困った生徒用の机はみんな彼らが作った。作業所には木の切削器具やら溶接器具やらいろんなものがあり、学校の備品はほとんどここで作っていた記憶がある。ヒルケルさんは、体重優に100kg以上ある巨体だが、やさしいひとで、ドイツ人なのか、サッカー好きで、サッカー部の練習にはよく見学に来てくれた。あまり生徒と接触する機会もなかったのか、サッカー部の部員とはとくに親しかった。それでドラム缶の改造も気楽にしてくれた。ヒルケルさんは当時で日本生活が30年を越えていたが、日本語が全然ダメで、ある日ヒルケルさんに「ドイツ語しゃべってくださいよ」と尋ねたところ、「ドイツ語、ワスレマシタ」と変な発音で答えた記憶がある。本当にドイツ語忘れたのかもしれない。

 確か、ヒルケルさんが亡くなる前か、ヒルケル少年サッカークラブができ、その後六甲高校OBによる社会人クラブ、ヒルケルフットボールクラブとして、その名は残っている。

2012年1月18日水曜日

東海定蔵あるいは栄蔵





 ここのところ新年会などが続き、忙しい毎日を過ごしているが、こういった時に限ってなぜか、さらに時間のかかることをし始める。明治二年弘前絵図については、人名の検索依頼が多いため、それでは載っている屋敷主すべてのデーターベースを作ろうと正月に思いついた。診療の合間を見ては、ファイルメーカーで作ったデータベースに人名を打ち込んでいる。何とか町名ごとに1100人ほどようやく打ち込んだが、後半分で、まだまだである。今月中には何とか完成したい。

 幕末当時の武士の名は、確かに勘兵衞、右衞門など武士ぽいものもあるが、一番多いのは、太郎、二郎、三郎などで、また弥吉、庄助など庶民的な名前も意外に多い。現在に比べて名前の種類は比較的少なく、データベースが完成すれば、幕末時の武士の名前の分布も調べられるであろう。

 田茂木町のはずれに東海らしき字が見られる。ちょうど紙の継ぎ目で文字が分断されている。ひとりひとり文字を打ち込んでいると、作者の書き癖のようなものがわかってきて、このほとんど解読不可能な文字も姓は東海のように思える。そこではっきりしている代官町の東海吉兵衞(2番目)と比べると、右半分が一致する、よってこの文字は東海と判断できる。さらに隣の三上乙吉、松嶋源十郎の隣、つまり3軒隣の三浦房蔵の蔵の字の左半分が東海の名前の最後の字と一致する。東海○蔵となる。東海家には長男健蔵、二男定蔵、三男は勇蔵であり、この中で可能性があるのが、定蔵となる。そこで定の字を絵図上で探すと、太田定吉という名があり、この中の定の左半分をみると東海○蔵の○に一致しそうである。かなり強引な解釈であるが、データーベースが完成すれば、絵図上の東、海、定、蔵のすべての字を検索し、その左半分と比較することで、この不明な文字もはっきりと解読できそうである。

 今の所、この文字は東海定蔵、すなわち後の赤石定蔵と読めそうだが、なぜ長男の健蔵の名前でなく、二男の定蔵の名が屋敷主となっていたのかわからないし、さらに明治二年当時、東海定蔵は2歳であり、いくらなんでも、2歳の子供を屋敷主はしないであろう。むしろ父親の東海栄蔵昌幸が屋敷主と考えた方が理にかない、東海○蔵の○は栄の字の半分なのかもしれない。これも他の栄のつく名前を検索して、定か栄かを判断したいところである。


 こんな推理小説のような謎解きも楽しめるのは絵図鑑賞の醍醐味であろう。

2012年1月11日水曜日

ビーン・ブーツ




 LLビーンのビーン・ブーツには本当にお世話になっております。何しろ、雪の降り始める12月から、雪のなくなる4月までの5か月間、ほとんどこの靴しか履きません。雪国で、最も大事なことは滑らないことです。雪が積もり出すと、除雪車が出動し、道の雪を横に積み上げて行きます。それが積もりに積もり、次第に道の両側が小山のような雪壁となっていきます。車道は随分狭くなり、歩行者は歩くところがないため、車道を歩きます。ところがこの車道も微妙に傾斜しており、とくに暖かい日の後の寒い日などはアイスバーン化して非常に危険な状態となります。

 おそるおそる歩きますが、それでも氷の上に雪が表層のみ覆っているところでは、思わずスリップしていまします。毎年、すべって車に轢かれ、怪我する人も多く、場合によっては亡くなったりします。それ故、滑らない靴が生活の上で重要となります。一度、大阪に帰省し、通常の靴で帰ってきたとき、わずが500m歩くのに10回も転倒しました。くれぐれも雪国に旅行する場合は、雪用の靴をお持ちください。

 この世には絶対すべらない靴はありません。親指に体重を載せ、一歩、一歩グリップを確かめるようにして歩きます。私はカナダのソレルのブーツも持っていますが、これは2重になっていて、フェルトの厚い靴下のような第一の靴の上に本体の靴をはくようになっています。まるで宇宙服の靴のように大きなもので、暖かいのですが、グリップに力が入りません。新雪の場合はいいのですが、通常の冬の路面では滑ります。また長靴も北国では伝統的な靴で、とくに北海道のミツウマの長靴は人気があります。それでも格好が悪くて、私はあまり好きではありません。

 ビーン・ブーツを最初に買ったのが15年前で、写真の左のもので、かなりソールも減っていますが、現役です。その後8年前にもう一足購入、さらに昨年、一足購入しました。まだ新しいのは履いておらず、古い2足を交互に履いています。厚手の山用のソックスをはき、がっちりとひもで締めれば、雪道でも強いグリップ力を発揮します。家内の冬用のブーツでもそうですが、こういった靴ではソールと靴本体の接合部が剥がれることが多いのですが、ビーン・ブーツはそういったことは一切なく、非常にがっちりしています。LLビーンではソールの張り替えも行っているようです。交換には一足買えるほど高いのですが、10年以上なじんだ靴のはき心地はそれを上回るかもしれません。

 他にもLLビーンの商品は結構好きで、よく通販で買いますが、それでも当たりはずれはあります。ビーン・ブーツ以外でここしばらく冬のアイテムとして活躍しているのは、Wardenパーカと呼ばれるゴアテックスシェルのダウンパーカでこれもこの15年間、毎年お世話になっています。ダウンは次第に薄くなってきていますが、それでもゴアテックスはすばらしくいい素材です。開発は古いのですが、未だに高い素材で山用に本格的な防寒着によく使われています。

 またチノパンツの裏地にコットンフランネルを使った商品がありますが、これも非常に暖かく、気に入っています。冬はLLビーンのもの2本と、エディバウアーのものを愛用しています。ただ重くて、ズボンがずり落ちるのが難点ですが。

 どのメーカでもロングセラー商品というものがありますが、概してこういった商品はまちがいがないものが多いように思えます。それでもビーン・ブーツも雪のないアスファルトの歩道では、すぐにソールも減るし、歩きにくい靴でしょうから、都会で使う分には不満もあるかしれません。

 写真下は以前から気になっていたLLビーンの下着です。ジョンウェインが西部劇で着ていたタイプで、昔ながらのものですが、ちょっと着るには勇気がいりますし、これこそはずれになる可能性が高いものですが、どうも暖かそうで気になります。

2012年1月5日木曜日

B&W Zeppelin Air




 今年のアップルのインターネット上の初売りで、B&WのZeppelin Airが何と2万円引きで売っていたので、早速購入した。というのは以前から使っていたTimedomain Miniを1年前に棚から落としてしまい、スタンドの根本から折れてしまったからだ。何とかパテで修復したものの、片方のスピーカーの音が鳴らなかったりし、使いものにならない状態になってしまった。

 候補としては、Geneva スピーカー、バング&オルフセンのBeoSound8、Eclipse 508、そしてこのZeppilin Airの4つに絞った。以前からバング&オルフセンのA8というイヤホンを気に入っていたので、当初はBeosound8にしようと思っていたが、いかんせん安くなったとはいえ10万円もする。今のへそくりではとても買えないので、あと1年くらい待ってから買おうと考えていた。

 ところが1月2日のインターネットでの初売りである。このZeppelinも以前は8万円くらいしていたが、それが69000円くらいになり、そのさらに2万円引きであるから、49000円ということになる。ミニコンポ並みの価格である。これは買いである。すぐに申し込みをしたところ、発送は2月中頃ということであったが、昨日のメールで本日発送ということになり,1月4日には届いた。

 すぐに梱包をほどき、早速本機の特徴であるAirPlayの設定に取りかかる。ところである、レビューにも書かれているようになかなか設定ができない。うちのラン環境は一応Air mac Expressを使っているが、どうもネットワークの設定に問題がありそうで、設定を仕直すか、手入力で入れるかのようである。両者とも以前手痛い目にあっており、無線が使えなくなったり、手入力の設定に丸2日もかかった苦い記憶がある。うむどうするかと考えた末、結局はヨーカドーに行って3.5mmのオーディオケーブルを買ってきて、Expressから有線でつなぎ、Expressを介してAirPlayすることにした。これは簡単に繋がる。しばらくはこれで様子を見て、いずれ再度トライする予定である。

 肝心の音はというと、Timedomainに慣れたためか、期待ほどではない。Timedomain Miniは5cmのフルレンジで、スペックは誠にお粗末であるが、音の広がりに特徴があり、どこから音が出ているかわからない、音源が消えてしまう。部屋のどこにいても同じような音が聞こえる。さらに録音状態が反映するようで、いい録音のCDだと本当にいい音を鳴らしてくれる。それに比べるとZeppelinは音の広がりは宣伝ほどではなく、単純に2本のスピーカーを60cm離して鳴らしたような音である。Zeppelinは、見かけ以上に重量があり、高級感があり、きちんと作られたオーディオなのだが、音質的には本格的なオーディオほどではない。もう少しエージングすれば、Zeppelinも良くなるかと思うが、小さな部屋で音楽を楽しみたいなら、Timedomain Miniを勧める。確か18000円くらいで、コストパーフォマンスは高い。ただデザイン的にはちょっとダサいし、この音環境はクセがあるため嫌いな人も多いようだ。

 これを書いている間、Halie Lorenの「They Oughta Write A Song」を聞いているが、これはなかなか良い。Ipadもドッキングできたが、この場合、Ipadが大きすぎて、音が遮られる。やはりipod shuffleくらいがかっこいい。

*その後、十数回トライするものの、そのうちリセットもばかになり、ギブアップしました。Airのない機種が安ければ、そちらの方がよいかもしれません。

2012年1月4日水曜日

英国王室と刺青




 高橋紘著「人間 昭和天皇」(講談社)を読むと、昭和天皇が模範としていた君主、ジョージ五世が入れ墨をしていたという話が載っている。昭和36年にエリザベス女王のいとこにあたるアレクサンドラ王女が来日したが、その時、昭和天皇と王女との会話の中で、「五世は入れ墨をされていたんですよ。お若いときに日本に来られましたが、そのときに入れたものだということです」、「ロンドンで五世陛下が直接見せてくださったそうです」と、通訳の真崎秀樹を介して、そんな話があったようだ。何でも鶴が木の枝に止まっている絵だったという。

 正確には「降り龍」だったようで、若き日に訪欧した昭和天皇にすれば、よほど驚いたのであろう。さらにジョージ五世の兄弟5人のうち、四人までが日本で入れ墨を入れたようで、他にもロシアのニコライ二世も同様に日本で入れ墨を入れた。日本の入れ墨のぼかしの技術が高い芸術性のあるのものとして欧米でも名高く、訪日の折に皇太子達はひっそりと入れ墨をした。

 私自身、入れ墨はてっきり任侠の人たちがやるものだとばかり思っていたので、びっくりした。ちょうど紀伊国屋に行くと、小山勝著「日本の刺青と英国王室 明治期から第一次世界大戦まで」(藤原書店)という本が売っていたので、この正月休みに読んだ。

 幕末から明治初期に日本に来た外国人は、日本の刺青の美しさ、ことに図案の美しさ、精妙さ、ぼかしの技術に驚嘆し、船員を中心に日本で刺青をすることが大いにはやった。ちょうど日本の明治期に当たる1860-1910年はヨーロッパでは王室、上流階級を中心に非常に流行し、中でも日本の彫り師が刺青をしてもらうのが、一種のステータスシンボルになり、訪日の主な目的もそれであった。ただ日本では刺青は野蛮なものとして禁止されていたため、日本に来ても、これらの王族は隠れて刺青をしていた。これは後年になるが、1922年に来日したエドワーズ八世(皇太子時代)は、日本政府の大反対で結局できなかったことを大変悔しがったようだ(シンプソン夫人と結婚するため王位を捨てた人物)。

 当時の英国王室、上流貴族の多くの人々は刺青をしていたようで、他にもオーストリアハンガリー帝国のフェルディナンド大公、デンマーク国王ホーコン七世や多くのヨーロッパの王族が日本に来た時に刺青をした。当時の熱狂ぶりは、女性にも刺青をするものがいて、チャーチル首相の母、ジェニー・チャーチルも腕に蛇の刺青がされていて、通常は広い金の腕輪で隠されていた。当時の写真をみると確かに左手に広い金の腕輪をしており、パーティーなどでは出席者にそっと披露したのであろう。

 こういった上流階級の人々が日本に来ては刺青をしたが、法律で刺青を禁止していた日本では、断るのによほど困ったようだ。さすがに1920年になると、日英関係も力関係が追いつき、国禁のものはできないと断るようにはなったが。

 最後に同書は、ヤルタ会議に参加したルーズベルト、チャーチル、スターリンの三首脳はともに刺青を入れていたという共通点があったと締めくくっている。どうも最近の欧米のサッカー選手の刺青を見ても、刺青に対する抵抗感が日本とはちょっと感覚が違うのか。先日、大鰐温泉に行ってきたが、家内が後で言うには、子供連れの若い奥さんの背中に刺青が入っていたといっていた。刺青ではなく、西洋風のタツーが若いひとには流行っているのかもしれない。Wikepedia によれば。アメリカの18-29歳の年代の若者では、なんと36%もタツーを入れているという。

 子供のころ、尼崎という場所柄か、近所にはどういう訳か、刺青をしていたひとがたくさんいて、それこそ銭湯に行くといつも二、三人はそういったひとがいた。夏の夕暮れになると縁台を持ち出し、夕涼みしていた光景を思い出す。当時でも年輩の方が多く、今はああいった日本風の刺青をしているひとは少ないかもしれない。

 写真上は、チャーチル首相の母、ジェニー・チャーチルで、息子は碇の刺青を入れていたようだ。写真中はアメリカを代表する刺青師チャールズ・ワグナーで今日用いられているタツーマシンを開発した。

2012年1月2日月曜日

寺山、東海家




 こういったブログは、本や論文と違い、ある意味無責任なことも書けるので気が楽である。学術論文では、文責といって書いたことは著者の全責任となるため、論文などきちんと読んで、はっきりしたことしか書けないが、ブログであまり実証的でなくてもいいんじゃないかと考えている。ブログを読んで何らかのヒントになればと。

 最近、気になったことが2つある。ひとつは寺山修司のルーツである。弘前市の紺屋町生まれであり、その生誕地もこのブログで解明でき、ほぼ同定できたと思っている。寺山修司の父、八郎は秩父宮警護のため、弘前に派遣され、その宿舎である紺屋町で修司が生まれた。その場所は、昭和10年当時、隣に住んでいた川村先生の証言ではっきりしている(2009.6.27ブログ参考に)。寺山八郎は、東奥義塾を卒業後に警察官となり、太平洋戦争で戦死しているが、学生時代は弁論部やテニスで活躍する一方、評論なども書いたようで、ずいぶんインテリだったようだ。

 寺山家のルーツは梁塵日記というHPで以下のように書かれている、「 三沢・寺山記念館の今年の展示は寺山修司の父・八郎氏にスポットを当てたもの。大澤氏からその展示内容の一部をいただく。それによれば、寺山八郎の一族は鹿児島の島津家の流れをくむ鹿児島藩士だった。しかし、なぜか祖父の代には会津藩家老・西郷頼母とともに函館戦争で幕軍と して薩長と戦っている。さらに、西南戦争では今度は西郷側に。いずれも敗者だ。鹿児島藩士がなぜ会津藩についたのか、ナゾは多い。が、しかし、単なる薩長 の末裔ではなかったということがいかにも寺山らしい。函館戦争で土方歳三らと共に戦ったというのが事実なら、寺山家というのは根っからの反骨一族ではない か。そこから寺山修司が生まれたとしたら、あまりにもできすぎている。しかし……ロマンだな、これは。」

 寺山修司の父八郎は、古間木(三沢市)で寺山食堂をしていた寺山芳三郎の七男として生まれたが、まずどうして東奥義塾に進学したのであろうか。通常、旧南部藩と弘前藩は仲が悪く、三沢のひとが義塾に進学することは稀と思われる。仮に進学したとしても、相当いじめがひどかったと思われる。ましてや鹿児島藩士であればなおさらであろう。当時は弘前藩の本拠地、それもかっての藩校に南部藩や鹿児島藩の子弟が入学するのは困難であろう。さらに中学校に入学するには相当金がかかり、食堂をしていた家が、それも七男を進学させるのは不思議である。ひとつの推測としては、寺山家は弘前藩士であった可能性がある。実際、弘前藩の馬術指南に寺山家があり、明治二年絵図にも、確か2軒寺山姓の家がある。一軒は春日町の寺山忠八、もう一軒は小人町の寺山尚吉である。また松前藩史には馬術師範として弘前藩の寺山新四郎の名前が見える。親類が弘前いるため、息子の進学先を東奥義塾にしたと考えると辻褄が合う。今年1月15日から弘前市立郷土文学館で第36回企画展「寺山修司―生誕地弘前と父そして俳句―」があるので確認したい。

 もうひとつは陸羯南の新聞日本に参画した赤石定蔵の実家も気になる。赤石は東海家より赤石家に養子に行ったが、長男東海健蔵は弘前銀行の取締役、弟の勇蔵は日本海軍の造船少将勇蔵である。東海という姓は弘前でもそれほど多くなく、明治二年弘前絵図では一軒、東海吉兵衞という名が代官町に見られる。弘前城築城の際には縄張りを担当した譜代の重臣で、代々吉兵衞を名乗った。ここが実家であるか、もう少し調べていきたい。