2012年8月18日土曜日

韓国の悲劇 2


 日中、日韓の関係がきな臭い。尖閣諸島、竹島問題がほぼ同時に起こり、中国、韓国とも戦争も辞さないという極端なナショナリズムの声も聞く。

 ただこれは、区別して考える必要がある。尖閣諸島に上陸した香港の活動家の面相を見ると、いかにも人相の悪い人々であり、中国国家を代表し、尖閣諸島問題を表面化しようとするものではない。いわば極端な思想の持ち主で、中国人民、香港人民、台湾人民を代表したものではない。現に台湾からの活動家で、尖閣諸島上陸しようとした一団もあったが、台湾政府に対して、日本が強い抗議はしていない。一部の極端な活動家がやらかした事件であり、台湾政府が直接関与していないとわかっているからだ。かってベオグラードの中国大使館誤爆事件、2001年の海南島事件でも中国は最終的には国益を優先し、大事にはいたっていない。アメリカと事を構えるのは不利益と考えた現実的な政策による。同様に、今回の尖閣諸島への上陸は一部の過激派によるもので、国内的には尖閣諸島は中国領としているので、主だって活動家を非難していないが、かって尖閣諸島で問題をおこした気違い船長は、当初は英雄扱いされたものの、今では自宅監禁状態となり、その際の中国政府のレアアース禁止などの報復処置は失敗と判断されている。さらには反日の強い姿勢は、民主化運動に発展する可能性もあり、今回の事件も中国は沈静化を願っている。

 問題は韓国の大統領の行為である。これは一部の活動家としての事件としては取り扱うことはできない、なにしろ国家を代表する大統領の行為であり、確信的なものである。ではなぜこの時期、韓国の大統領がこういった行動に出たかというと、選挙がらみの人気回復といったものではなく、もっと根本的は政策変更の可能性がある。つまり韓国は、李朝朝鮮時代のように国家基盤をアメリカから中国に移そうとしているのかもしれない。北朝鮮と将来的に統一する際、その支援先として、両国にとって最も現実的な相手は中国であり、韓国が中国に接近することで、統一への基盤作りに着手したと考える。極端な反日、反米思想は、結局は在韓米軍の引き揚げに繋がり、アメリカ側としても、韓国を自由主義の防波堤としての立場を諦めたのではないであろうか。いずれ中国の傘下に入るのを是認したように思える。この状況は歴史的に見て、李朝朝鮮末期、中国に頼ったり、ロシアに頼ったり、日本に頼ったりした状況と近く、地形的に韓国の立場は難しい。日本としては、明治時代、どうして朝鮮半島に固守したかというと、ロシアという強国に直接対峙したくなかったからで、今回の事件においても日本が韓国とのスワップ延長を拒否すると、韓国経済はガタガタになるため、結局は中国にすがりつくことになり、経済的にも中国の傘下に入る、事実、軍事同盟については韓国と中国は調印されているが、日本との調印は寸前にキャンセルされ、韓国の中国寄りの姿勢はここ1、2年著しい。

 かってのように日本の軍事力による韓国への恫喝は、無理であり、韓国が中国の属国化に向かうか、日米の自由陣営に留まるかは、韓国の判断による。韓国の最も大きな欠点は、小中華と呼ばれる偏狭なナショナリズムで、マスコミも含めてそれ批判する勢力もない。同盟国としてアメリカは匙を投げたように、今回の騒擾は日本も匙を投げざるを得ないものであり、大国中国に直接対峙する時代が来るのかもしれない。昔の日本、韓国の政治家は個人的につき合いがあり、こういった問題においても、話し合いで解決できたが、今の民主党は個別の人脈もなく、解決は難しい。先の東日本大震災は日韓親善にはいい機会であったが、台湾に比べて極端に少ない支援や、韓国の新聞報道やサッカーファンの心ないプラカードを見るつれ、かえって嫌韓になった人が多い。この根本的な原因は反日を煽る韓国のマスコミのせいであり、かっての戦前の朝日新聞など日本のマスコミと似ており、韓国の二大新聞社の朝鮮日報、東亜日報の責任は重い。さらに反日、反米、中国への接近は盧武鉉元大統領の方針であったが、結局は李 明博大統領も経済政策の失敗に伴い反対はできないほどの世論となっていたのであろう。

2012年8月15日水曜日

帝国陸海軍の銃器



 お盆休みは一日だけ。家内の菩提寺にお参りに行った後、中三デパートに行く。最近、ジュンク堂書店ができたので、ちょくちょく行くが、歴史物、ミリタリーコーナー以外はあまり興味がない。

 いつもようにミリタリーコーナーに行くと、「帝国陸海軍の銃器」(ホビージャパン)という実にマニアックな雑誌が出ている。早速、立ち読みしていると、隣の若いにいちゃんも同じ本を読んでいる。こんなマニアックな本を読むひとはおそらく自衛隊員と考えたが、値段が2500円、興味のある分野であれば、それほど高いとは思わないが、こういったマニアックな本では、微妙な値段であったが、買って来た。

 内容は、推察通り、非常にマニアックなもので、銃に対する思い入れは半端ではない。オール、カラーで、よくまとまったものであった。明治から終戦までの日本陸海軍の主要銃器について図表を使い、よく説明されていて、おもしろかった。床井雅美さん、杉浦久也さんはじめ執筆者の銃に対する思い入れは半端でなく、門外漢の私にも勉強になった。

 一番面白かったのは、日本の拳銃の説明で、ここでは十四年式、九四式、二十六年式の拳銃について、詳細な説明がなされている。ミリタリー好きと言っても、多いのは私も含めて飛行機関係、次に多いのは軍艦関係、戦車関係と続くが、銃器となれば、二十六年式と言われてもすぐにピンとくるひとはほとんどいないであろう。二十六年式というのは、明治26年に正式採用されたリボルバー式、西部のガンマンが使うような回転式のシリンダーを持つタイプだが、こんな銃があったとは全く知らなかった。あまりパットしない銃で、不発が多く、威力も低く、命中精度も低い。ハーグ陸戦条約で、人体に命中すると変形するダムダム弾の使用が禁止されていたが、二十六式の銃弾は装甲されていない柔らかい弾にもかかわらず、初速が遅く、変形はなかったという。

 将校になれば、各自、自分の収入で日本刀、銃を用意しなくてはいけないが、金があればベルギーのブローニングの自動式拳銃などを購入した。金がない下士官は安い、二十六年式銃を支給された。2.26事件では、侍従長の鈴木貫太郎は永田曹長、堂込曹長により至近距離から打たれ、左頭部、左胸部、左足に3発被弾したにもかかわらず、一命を取り留めたのは、この銃の低威力によるものであった。もし鈴木貫太郎が終戦時にいなかったと思うと、天佑といってもよい。

 日本の銃の低性能は、スプリング、バネに用いる特殊鋼がついに、国産化できなかったことによる。コイルスプリングのような主要な部品が使用につれて次第に弾力を失うようでは銃の信頼性は低下するため、できるだけバネを使わないような設計にせざるを得なかった。また部品互換性も低く、故障しても部品を取り替えればいいというものではなく、熟練の職人が一挺一挺に合わせて調整していた。こういった大量生産の工業製品は、その国の基礎科学がベースとなるが、戦後はその反省か、我が国でもこういった部分の充実が図られた。
 
 他に1939年に正式採用になった九十九式小銃では、対空照尺があったのには驚かせる。この対空照尺は、航空機の撃墜を目的にしたもので、ゴルゴ13ではあるまいし、小銃で航空機を撃墜しようという考え自体、合理的な認識がすでに欠けている。

2012年8月12日日曜日

中国の矛盾

 世界で最も過激な資本主義国は中国である。資本家が労働者を摂取するという露骨な、原初的な資本主義が現出し、大金持ちの高級車が貧乏人を蹴散らすような状態となっている。貧富の差が大きく、相続税や贈与税もないため、富は親から子へと受け継がれ、海外に留学する子供達は高級車を乗り回し、日々遊び回っている。貧困層への富の再分配、還元はなく、日本の生活保護のような制度や、医療保険も基本的にはない。教育にも非常に金がかかる。貧困層は日々食べるだけで、病気になったら、民間療法に頼るしかないという、社会主義の理想とは真反対の状況となっている。

 それでは、かってのようなすべての人民に食、住、医療、教育が保証されていた時代の方が国民は幸せだったかというと、どうも違うようで、少なくとも、家庭にテレビがあって、ごちそうを食べ、休日には遊びに行くという国民生活の質は、向上したように思える。あのまま社会主義を国是として自由経済に移行しなければ、未だに北朝鮮のような生活だったと思われる。そういった点では、社会主義下の資本主義経済という絶対矛盾を断行した鄧小平のやり方は、国民の生活向上の点では間違っていない。

 さらに共産党一党独裁の体制は、幹部の汚職の負の面があるが、あれだけ広い領土をまとめるためには、権力の集中はある程度必要であろう。もし民主主義的な選挙が行われ、多数党による政治が行われていたら、相当な混乱があり、国としてはまとまらず、分裂していた可能性がある。一時、中国共産党は、戦後長く続いた日本の自民党の55年体制を研究した。同じ政党が事実上、ほぼ独占して政権を38年間保持した。この期間、すなわち昭和30年から平成6年までの期間、日本は経済的に大きく発展し、国民の幸福にも繋がった。現在、中国は毛沢東のような絶対的な指導者は益より害が多く、集団的な指導体制を行っているが、市町村レベルでは汚職の温床となるため、民主的選挙により指導者を選んだ方がよいだろう。見合い結婚より恋愛結婚の方が幸せかというと決してそうではなく、革新を謳った民主党の体たらくを見るにつれ、アジア諸国においては、ある程度中央集権的な政治状況がいいのかもしれない。

 ただ現状の中国の現状は、非常に脆く、インターネット、マスコミをいくら規制しようとしても、貧富の極度の差、汚職は国民の大きな不満になるのは確実であろう。日本でも大正から昭和の時期、こういった不満の声が結局は515事件、226事件、その後の日中戦争、太平洋戦争に至ったことを考えると、中国でもナショナリズムの台頭と軍部の拡大に繋がる可能性はある。国内の不満のはけ口を外部に求める。ここは日本をモデルに、まず内需の拡大、一番いい方法は、医療、年金など社会主義的な政策をとることであろう。現在、種々の試みがなされているが、未だに医療の皆保険制度は確立されておらず、また年金制度も崩壊したままとなっている。先進国に仲間入りするためには、金はかかるが、これに手を付けざるを得ない。所得、贈与、相続税の累進課税、かって日本では高額所得者では実に70%の税率がかけられた。日本でもこういった社会主義的な政策がなされたことを考えると、本家の社会主義国ができないことはない。金持ちからの富の再分配は国民の不満を解消する唯一の方法であろう。さらには、軍備への過大な支出は、旧ソビエトを例に出すまでもなく、国家財政には大きな負担となる。周恩来はかって覇権国家を目指さないと言ったが、最近の中国の軍部の動きはこれと逆行している。

 中国の経済発展はここにきて停滞傾向を示しているが、外需から内需への転換、および医療、年金、福祉、教育などへの社会主義的な政策への回帰、市町村レベルの民主主義化が今後の大きな課題となろうし、実際そういった政策に着手している。日本はその点、大きなモデルとなろう。

2012年8月6日月曜日

南十字星の誓い

 森村誠一さんの新刊「南十字星の誓い」を読んだ。シンガポールにある東洋の至宝、シンガポール博物館、植物園を戦火から守った日本人とイギリス人の友情を描いた作品で、主人公の富士森由香、シンガポール華僑テオなどを除いて、ほぼ史実に近い話である。

 なかでも面白いエピソードのひとつに、軍人か勝手に図書館から本を借出し、そのまま本が帰ってこないのに手を焼き、博物館長のイギリス人コナーの著書「マラヤの路傍の木」を天皇陛下御愛読書として館内の陳列したところ、一気に未返却がなくなったという。徳川義親は名古屋徳川家の第19代当主で、この変ったお殿様が植物園、博物館の総長になったこと、そしてやや山師のけのある田中館秀三が園長をしていたことも、植物園、博物館の保存には、大いに役立った。さらに陰の力としては、昭和天皇は植物学者であったことも軍として植物園を保護せざるを得なかった。ただこうした館の運営、保存は当時の他の日本占領地でも同様に行われていたが、このシンガポールの奇跡は、それまで植物園の園長をしていたイギリス人ホルタムや副園長のコナーを終戦まで一緒に、学者として勤務していたことである。日本人、英国人、シンガポール人が一緒に協力して植物園を守った。

 この本にも登場する郡場寛は青森市生まれの植物学者で、京都帝国大学理学部教授退官後に、このシンガポール植物園の園長として赴任した。ウィキペディよりの引用であるが、「ホルタムは自分の研究を完成させた恩人として郡場の名を挙げて感謝した」、コナーは戦後、同胞とともに敢えて収容所に留まる郡場を評して「私の心を激しく打ったのは勝った日本人科学者の思い遣りや寛大さと言うより、敗けてもなお、これだけ立派で、永久に後世に受け継がれてゆく業績を残した彼らの偉大さであった。敗残者はいまや勝利者である敵性人の心に大いなる勝利の印を刻みつけた。敗けてなお勝つとはこういうことを言うのだ」と真の紳士、学者として尊敬している。

 シンガポール華僑虐殺の主導者として悪名高い辻正信が登場するが、その正反対の人物として田中館、徳川、郡場などがいたことが救われる。最近になり多くの軍人の再評価がなされるが、この辻だけは、ノモンハン、シンガポール、ガダルカナル、インパールと参謀として作戦的には失敗は多く、どうしてこんな人物を最後まで処罰しなかったが、不思議だし、それが旧陸軍の問題であった。

 うちの母が2、3年前、神戸であった森村さんの講演に行ったところ、講演後、出口近くに一人でいた森村さんと30分ほどよもやま話をしたと自慢していた。実にやさしい紳士で、一気にファンになったようだ。また終戦の日がやって来るが、戦争の最中にもこうして異国の植物園を命がけで守ろうとした日本人、イギリス人、シンガポール人がいたことを森村さんは伝えたかったのだろう。

 郡場寛の父、白戸直也は弘前藩士で、函館戦争で重傷を負い、その治療のためもあり、酸ヶ湯温泉を開拓した。兄の名は白戸本太郎、父は白戸東太郎で、維新を契機に先祖の名前、郡場に改名した。明治4年の扶持によれば家老の木村千別が220俵に対して、白戸本太郎は80俵、弟の白戸直也は20俵で、これは石200石、50石に相当し、白戸本家の石高は中級から上級のものとなる。白戸姓は明治2年絵図では6名いるが、中級武士となると住まいから、若党町の白土幸作と徳田町の白土浪江に絞られる。浪江は官職名であることから、おそらく郡場寛の実家は、徳田町の白戸浪江であろう。


2012年8月4日土曜日

海上自衛隊三木海将


 第43代海上自衛隊大湊地方総監に、三木伸介海将が726日付けで着任したことを先日の東奥日報で報じられた。実は、六甲学院の33期で、私の一期下である。面識は全くないが、今後の活躍を期待したい。

 海将というとピンとこない人も多いと思うが、旧軍の階級で言えば、中将である。自衛隊は一応、軍ではないという建前なので、昔の少尉は3尉、少佐は3佐となり、ここまではまあ何とか理解できるし、定着してきた。ただ少将以上の将軍については、陸将補、海将補、空将補などの将補が少将、陸将、海将、空将が中将となるとわからなくなる。そして統合幕僚長、陸上幕僚長、海上幕僚長、航空幕僚長の4人が大将となる。これら一種も職務であり、正式には階級名ではなく、あくまで対外的な公称で、陸将、海将、空将が最高位となるが、旧軍に比べても人数は少ない。かなり限られた人となる。これなどは早めに旧軍と同じ階級に戻すべきだと思うし、国会で決定すれば、簡単に変えられそうだが、また軍国主義復活などと叫ぶひとがでるのであろう。

 一戸兵衛陸軍大将のエピソードが「青森県の101人」が載っていたので、紹介したい。

「岡山第17師団長時代のある日、福山市近くの神辺村にある藤山先生の文庫を訪ねられた。この文庫は主に頼山陽に関する書画を収集していた。藤山先生は在庫品の中から中国の五柳先生の軸を取り出して、「これはどう読むのでしょうか」と暗に漢籍の力を試す質問を発した。ところが将軍は一目見るなり、「ああこれは五柳先生の作詞じゃが、如何にも見事なものじゃ」と感嘆され、請に応じられてさらに音吐朗々と素読を終わり、懇切丁寧にその講釈をされた。藤山先生は赤面してしまい、将軍の博学を讃えて、人に語るに「一戸将軍は日本有数の大漢学者である」と賞賛されたということである」

 珍田捨己らは東奥義塾の英語の方を勉強したが、一戸兵衛や陸羯南は漢学の方を勉強した。一戸も、漢学は幼いころは工藤他山に、義塾では兼松石居らに習ったが、弘前藩では単に論語、孟子などの古典を教えるだけでなく、作詞、注釈なども徹底的に教えたようで、そのレベルは英語同様に高い。

 乃木希典は日露戦争、旅順戦の合間に、よく一戸と自作の漢詩を見せ合っていたようで、漢学に対する造詣は陸軍においても、おそらくこの二人が突出していたであろう。もうひとつ、一戸将軍のエピソード。一戸は旅順攻撃の陣中でも、グローゼウッツ「大戦学理」という本を熱心に読んでいた。大島中将がからかうと「一戸はこういうところの方がより真剣に読めるのです。そして真髄にふれるものがあるのです。明日死ぬかもしれないこういう戦場での一か月の方が、平和時の一年より、はるかに勉強できる。部下を一人たりとも無駄に死なせないと思うと読まずにいられない」と答えている。いつも同じ本を三度読み返していたというが、これは漢文素読のやり方であろう。

 明治の名将、児玉源太郎も書を良くするし、立見尚文も漢学に素養がある。日清戦争戦勝碑が弘前城内の護国神社にあるが、児玉の楷書もなかなか達筆である。概して、明治の軍人は、武士の出が多く、幼少時に基本的な漢学の素養を受けた。後年の幼年学校出の将官の視野の狭さとは、こんなところも違うのかもしれない。