2013年10月31日木曜日

歯科における偽装、標榜科名

 阪急阪神ホテルでメニューに載っている食品と実際の食材が違う、いわゆる食品偽装問題が話題となり、社長の辞任という結果となった。消費者からすれば高い金を払って食べたものがメニューの食材と異なり、だまされたということか。ホテル側も払い戻し、ブランドの低下など社会的な制裁を受けることになった。

 歯科の分野でも、標榜診療科名については偽装と言われても仕方がない。歯科の標榜診療科としては、矯正歯科、小児歯科、口腔外科がある。医療をうける際、受診者にその先生の専門を正しく伝えるために設けられた制度である。歯並びについて治療を受けたいと思う患者さんが、どの医院に行ったらよいか、迷うところである。その際の選択基準として診療科名がある。先生がどの標榜科を名乗るかは、2つ以内なら自由であり、規定はない。ところが、ほとんど知識、経験がなくても、診療科を掲げることができる。

 平成22年度の厚労省の調査で、歯科医師数は病院勤務が12438名、診療所が86285名である。このうち“歯科”を標榜しているのが89893名、複数回答の診療科名医師数は、矯正歯科では21061名、小児歯科41202名、口腔外科24863名となる。歯科医のうち矯正歯科では21%、小児歯科では42%、口腔外科では25%が標榜している。さらに若い先生ではこの比率はさらに高くなる。最近開業して先生をみると、ほとんどの先生が“歯科、矯正歯科、小児歯科”を標榜している。

 ところが、それぞれの学会会員数を見ると、矯正歯科の学会会員数は5747名で、標榜している先生の26%しか学会に入っていない。さらに小児歯科にいたっては会員数が4607名で、11%しか入会していない。さすがに口腔外科では会員数も多く9941名で、40%という比率となる。学会は最新の医療情報、器材を知る場であり、標榜するのであれば少なくとも学会に参加すべきものと思われる。さらに専門医となると矯正歯科の専門医は282名で、標榜医の1%、認定医は2795名であるので、これでも13%となる。小児歯科の専門医は1550名で標榜医の4%、口腔外科の専門医は1830名で、標榜医の7%となる。

 医科も“内科、小児科、皮膚科”など多くの標榜科名を掲げており、こういった問題は歯科だけではないという人もいよう。そこで医科の標榜医について、同じく平成22年度の厚労省の調査をみた。280431名のうち、複数回答の診療科名医師数は、“内科”が88155名と多い。“皮膚科”は14892名、“小児科”は30344名、整形外科は24679名となる。皮膚科学会の会員数は11630名、専門医数は5956名と標榜医の78%は学会会員で、40%は専門医の資格を持つ。同様に小児科学会の会員数は20805名、専門医数は14828名と、これも標榜の69%は会員であり、専門医の割合は標榜医の49%となる。整形外科学会の会員数は23567名、専門医数は17546名で、会員数は標榜医の95%、専門医は71%となる。

 医科の中にも、専門教育も受けずに勝手に標榜科を挙げているところもあろうが、その数はそれほどではないことが、この数値からもわかる。医科で開業する場合は、大学病院などで15-20年の臨床経験を積み、その間に1つか2つの専門医をとってから開業するのが一般的であろう。それに対して、歯科では開業後、大学に残らず、一般歯科で数年、臨床を学んだ後に開業する。この間、全く専門教育は受けていない。矯正で言えば、勤務先の歯科医院で簡単な矯正治療を経験し、いくつかの矯正歯科のセミナーを受けて、矯正歯科を標榜する。

 歯科の先生に、どうして本格的に学んでいないのに標榜するのかと聞くと、もともと歯科は小さな範囲であり、それをさらに細分化するのはおかしいという。さらに専門医を持っている先生でも治療はひどい、また難しい症例は専門医に送るという。歯科に専門医制度が必要なければ、日本歯科医師会で拒否すればよく、実際、補綴、保存などの科目は標榜名からは外れている。小児歯科、矯正歯科、口腔外科についてはその専門性が高いということで、歯科医師会、厚労省で認められた科名であるから、歯科の細分化の議論は決着している。

 診療内容については、確かに私のような専門医でも失敗は多く、完全にうまく治療したという症例は少ない。それでも一般歯科の先生よりはレベルは高いという自負があるし、矯正歯科の専門教育を一切受けていない先生が症例だけで試験を受けても、矯正歯科専門医試験を通ることは決してない。

 偽装とは言わないまでも、歯科における標榜科名についてはゆゆしき問題であり、当初の目論みとは異なり、かえって国民を混乱させるものとなっている。ことに小児歯科標榜は、完全に有名無実となっている。


*厚労省の調査はhttp://www.mhlw.go.jp/toukei/youran/indexyk_2_2.htmlの表2−47を参考にした。なお表の矯正歯科では、専門医数があまりに少ないので、認定医数をあげた。

2013年10月27日日曜日

Snap-on smle







 アメリカでは歯のウィッグと呼ばれるSnap-on smileというものが、人気があるようです。これは歯を削るとかの一切の加工をせず、直接、薄い入れ歯のようなものを口に装着するものです。お口の型を取り、コンピュータ上で、きれいな歯並びを設計し、それを基にしてSnap-on smileを作ります。

 こういったものは以前からもありましたが、使用用途が限られていて、パーティーのオモチャ、吸血鬼ドラキュラになる、さんまさんの物まねをするといったものでした。いかにも付け歯というものです。

 最近のものは、色合わせもよく、かなり精巧にできています。それでも天然の歯のような質感は難しいでしょう。さらにこれを作ってどんな場に使うか、かなり抵抗があると思います。友人と会う時に使うとなると、変に思われるし、笑われることでしょう。全く面識のない人と会う時にしか使えないでしょう。

 それでも暫間的に使用する場合、矯正歯科で言えば、先天欠如歯のあるような場合は使えそうです。これまで床タイプの保定装置に人工歯を付けて、使ってもらっていましたが、主流である透明な保定装置では使えませんでした。当院では透明な保定装置は、3日間は終日、その後は8時間使ってもらっていましたが、snap-on smileタイプの保定装置であれば、日中に保定装置を使ってもらい、夜間はずしてもらっていいわけです。2,3年たって落ち着いたところで、インプラントやブリッジに変更すればいいと思います。

 矯正用となると、アメリカの矯正器材屋のリライアンスという会社のPerfect- A-Smileというものがあります。どういったものか、動画からははっきりしませんが、従来の透明の保定装置にレジンというプラスティックの充填材料を中に入れたもののように思えます。模型に欠損している歯を人工歯で仮におき、それを用いて、ヴァキュウムで透明の保定装置を作り、人工歯の部分にこのレジンを詰めるようです。通常の充填用のレジンでもできそうなので、症例をみて作ってみたいと思います。

 この透明な保定装置は、中に漂白剤を入れることで、歯のホワイトニングもでき、ここ数年、私のところでも、ほとんどの症例にこの保定装置をつかっています。この傾向は世界的なもので、かって日本臨床矯正歯科医会の調査でもそうでしたし、アメリカ矯正歯科学会雑誌の論文でもそうでした。

 従来型のものでは、半年終日使用してから、夜間使用でしたが、この透明な保定装置では3日間、終日使用、その後は8時間使用ですし、何より全く見えないことから、患者さんには喜ばれます。こちらも製作が極めて容易ですので、ほぼ8割の患者さんに使っています。ただ前歯が開いている開咬やかみ合わせの逆の反対咬合の症例では一部、従来型のものを使っています。

 矯正用のインプラント(アンカースクリュー)やこの透明な保定装置のようなものは、それこそあっという間に臨床に普及します。逆に臨床医になかなか普及しないような材料は、あまりいいものではないのかもしれません。

2013年10月25日金曜日

世界一雪の降る町


 人口30万人以上の都市で、世界で最も雪が降る都市は青森市だそうです。一年間の降雪量は765cm、一番高く積もった最深積雪は111cmと、世界でもダントツの雪の多いところです。世界で最も雪の積もる都市のランキングでは、二番目に多いのが、アメリカのシラキューズで308cmですから、すごいものです。三番目はカナダのケベック、四番目はアラスカのヴァルデズ、五番目はロシアのモスクワ、六番目はアメリカのクリーブランド、七番目はアメリカのデンバー、八番目はアイスランドのレイキャベック、九番目はアルゼンチンのサンカルロス、十番目はフィンランドのヘルシンキだそうで、ちなみにこのランキングではサッポロが世界一となっています。確かに100万人以上の都市ではサッポロが一番ですが、都市となると青森市が一番と言ってもうそではなさそうです。
この青森が最近の異常気象により、例年になく豪雪が続いており、ここ弘前も場合によっては青森市より積もることがあります。ただ世界的には“The snowiest city in the world”で検索しても、Aomoriとでないようで、折角、世界一であれば、もっと宣伝したらよかろうかと思いますし、ある意味世界遺産に登録してもよさそうです。

 私たち日本人の描く楽園、パラダイスと言えば、ハワイ、フィジのような南国の景色をまず思い浮かべると思います。椰子の木の下で、海辺の潮風にふかれ、ビーチチェアーに寝そべってビール、こんな感じでしょうか。ただよく考えれば、これは寒い国の人々の夢で、ヨーロッパ、アメリカは基本的には寒い国であり、そういった所に住む人の夢でしょう。それでは、インドやタイ、アフリカの人のパラダイスはどこかというと、必ずしもハワイやフィジーではないでしょう。もう暑いのはこりごりのはずです。むしろ死ぬまでに一度でいいから雪を見てみたい、スキーをしてみたいと思う人も多いと思います。事実、つがる市の行っている地吹雪ツアーのハワイやタイからの参加者のはしゃぎっぷりはすごいものです。

 札幌の雪祭りは、ことに台湾からの観光客には大評判で、旧暦正月の旅行パックでは最も人気があります。札幌の雪祭りに匹敵するような催しは、青森県にありません。確かに弘前でも雪灯篭祭りがありますが、これは地元民向けの催しで、とても観光客を呼べるようなものではありません。以前、弘前青年会議所が土手持ちに小さな雪のかわいい灯籠を作って、飾っていたことがありました。これは面白い試みで、土手町だけでなく、町中の家が家の前に雪灯篭を作り、ロウソクをおけば、これは幻想的な景色で、見るに値するものとなるでしょうし、さらにスケールの大きな試みとしては、岩木山のライトアップがあります。一度、新坂より岩木山山頂が月光にスポットライトを浴びた美しい景色を見たことがあります。山頂付近に大きなライトを設置すれば山頂のみのライトアップも可能かもしれません。岩木山山頂は誰もいませんので、少しの灯りでもはっきり確認できることでしょう。また山頂から照明弾を打ち上げる手もあります。

 冬こそ、最も青森らしい季節であり、これをいかに観光客、とくに日本では九州、世界的には東南アジア、インド、アフリカの人々に知ってほしいものです。

2013年10月19日土曜日

弘前市立美術館



 先のブログで弘前のブランド化について述べたが、観光客からすれば、弘前城以外のもうひとつのキイが必要であろう。現在、弘前には博物館はあるが、美術館はない。博物館と美術館はお互い役割が異なり、弘前で言えば、弘前藩からの甲冑、刀などの武具、絵図あるいは古い津軽塗やこぎん刺しなどの歴史的な作品は博物館の範疇に入るが、奈良義智、佐野ぬいなどの現代美術は美術館の範疇に入る。

 弘前は、多くの文芸家がいるところだが、同時に美術家も多い。古くは現在、青森県立美術館で開催されている平尾魯仙、そして野沢如洋、版画家の下澤木鉢郎などがいて、地元作家だけでも結構な数になる。

 ラインアウトとしては、平尾魯仙、この画家は知名度が低く、必ずしも画家とは言えないが、全国的にもっと知られていい画家であり、その画法はユニークである。野沢如洋は生前の有名さに比べて、現在の評価は下がるが、すばらしい作品もある。また下澤木鉢郎は、棟方志功の版画の先生というだけでなく、津軽の風物を美しく描く版画家で、この人ははずせない。今純三も版画家としては入れたい。

 日本画の工藤甲人、洋画家の奈良岡正夫も有名であるが、題材が形式化しており、あまりおもしろくない。それでも地元の作家としては入れるべきであろう。

現代絵画の分野では、色々な作家がいる。まず奈良美智は全国的にも知名度は高く、美術館の目玉であろう。松本市立美術館の草間彌生に相当する。さらに前女子美術大学学長の佐野ぬいさんの作品もすばらしい。また版画家としては天野邦弘さんの現代版画も入れるべきであろう。また岩手県出身であるが、長らく弘前大学の教授をしていた村上善男さんの作品も付け加えるべきであろう。

 ざっと挙げるだけで、これだけの地元作家がいて、人材的には十分に美術館があってもよい土地である。場所は、吉井酒造煉瓦倉庫しかない。ローケションもよく、建物も風情があり、横浜、函館、金沢の煉瓦倉庫に匹敵する。これらを参考に周辺の施設を作れば、かなりいいものとなろう。モダンなものにするなら、いっそ現代美術館として、上記作家群のうち、奈良、佐野、天野、村上の作品を中心にする方法もあるが、私としては少なくとも平尾魯仙と下澤木鉢郎は入れてほしい。

 吉井酒造煉瓦倉庫は内部の構成もすばらしく、耐震化などは大変であろうが、できるだけ現状を保持した形式で残してほしい。A to Zで味わった、あの感激は未だに、経験した美術展のベストスリーに入る。作品だけでなく、建物の威力を知った。

いい美術館ができればいいと思う。写真は上は平尾魯仙の妖怪図、下は紺屋町の魯仙の隠居所、再下段は佐野ぬいさんの絵である。



2013年10月14日月曜日

弘前、地域ブランド

 地域ブランド調査2013の結果がでた。京都市がトップで弘前市は54位、前年度が67位であったので、これでも良くなり、東北に限れば仙台に次いでの2位となる。上位の都市をみればまあまあの位置であろう。できれば30位以内には入りたいところであるが、別府=温泉、浦安=ディズニーランドと圧倒的な認知度の高い何かを持っていないとだめであろう。お城と言えば、姫路城だが、その姫路でさえ26位であるので、天守閣では比較にならない弘前城では勝負にならない。

 他のブランド調査でも、弘前市は60歳以上の人に割と人気があり、実際の観光客をみても、年配の夫婦連れが多い。二人で美味しい物を食べ、地図を片手に観光して、温泉に入る、こういったイメージだが、100%観光客が訪れる弘前城がつまらない。広い城内ではあるが、キーとなる建物があの小さな天守閣だけではがっかりである。仲町の武家屋敷、弘前ねぷた村もそれなりに楽しめるのだが、ふんふんという程度のものでインパクトに弱い。むしろ禅林街の方、それも山観から禅林街に下るルートの方が楽しめる。あまりあのような景色は京都にもない。

 弘前市では本丸御殿の復元を模索しているが、文化庁の規則が厳しく、江戸時代の御殿に完全な復元でないと認められない。資料が不足しており、今のところ許可されない。近年、資料が残り、熊本城復元工事が盛んな熊本市が57位だが、昨年は75位と、城郭の整備が効果を上げている。古い写真、図面を何とか探して、本丸御殿の復元を達成したい。おそらく弘前城のキーとなろう。

 建物として他には、吉野町にある吉井酒造煉瓦倉庫の活用が挙げられる。今月、松本市の松本市立美術館を訪れたが、ここのウリは草間彌生である。絵自体はそれほどではないが、鏡を使った部屋、それが作品となっているは本当に奇妙な空間であった。こういった大きな作品はここしか見られないもので、昔、吉井煉瓦倉庫で行われた奈良義智の「A to Z」展覧会の巨大なオブジェを思い出した。絵そのものでなく、ここに来ないと味わえない作品がある美術館にしてほしいものである。

 りんごはイメージ戦略としたのは大事だが、今は流通が発達して、それほど珍しいものではない。私としては、青森、弘前でしか食べられないものを開発してほしいものである。ズワイガニ(越前がに、松葉がに)の漁獲量の第一位は鳥取県の境漁港、二位は兵庫の香住漁港、そして三位は何と青森県の岩崎漁港となる。有名な福井県の越前漁港は5位である。ところが地元ではトゲクリガニというマイナーなカニはあるが、まともなズワイガニを食わせるところはない。ほとんどは、東京あるいは越前に持っていくようで、そちらの方が高いからである。これはもったいない。帆立貝も養殖ものと天然ものがあるが、身の厚さ、味とも天然ものは非常においしい。さらに牡蠣の自然物もすごいし、キノコも種類が豊富であるが、自家消費がメインで市場にはあまりでてない。こういった多くの食材がありながら、それをうまく生かしていない。リンゴよりカニの方がうまいだろうに。

 士族町である在府町などには古い屋敷があり、こういった家を宿泊施設とする方法がある。「Airbnb」というシステムは世界中の人に宿(普通の家、人)を提供するもので、すでに弘前市でも二軒の家が参加している。インターネットで評判を知り、安価でそこに泊まるシステムで海外では最近人気が出ている。今風の家よりはどちらかというと古い屋敷なんかの方が外人には喜ばれるので、これに適した屋敷も多い。あるいは禅林街の寺なども、このシステムで解放する手もあろう。

 個人的には、明治二年弘前絵図を観光協会で、200円くらいで販売してもらい、観光客にそれを地図代わりにして、江戸時代の弘前を味わってほしい。I-podIpadなどに地図データーを入れるサービスもあろうが、60歳以上の観光客が多いので、アナログ的な売り込みも大事である。もし採用いただければ、喜んで協力したい。

2013年10月11日金曜日

弘前藩領絵図(幕末ー明治初)





 弘前藩領全体を描いた絵図としては、正保(1645  写真上)、元禄(1701 写真上から2番目)、天保(1838 写真上から3番目)の3つの国絵図がある。さらに弘前藩では伊能忠敬の測量した伊能図の中図、小図(写真上から4番目)を所有していた。現在の地図と比べると、伊能図が圧倒的に精度が高く、次は正保となる。元禄、天保の国絵図の精度は低い。天保国絵図を作成時、藩はすでに伊能図による正確な海岸線を知っていたが、敢えて、幕府の指示に従い、精度の低い、元禄図に合わせたのであろう。海岸線は元禄、天保国絵図ともほぼ一致する。ただ十川の分岐場所が元禄では岩木川から、天保では十三湖から分岐している。ここでの元禄国絵図は弘前大学所有のもので、幕末ころの模写とされている。天保が元禄国絵図を基としたのであれば、この弘前大学の元禄国絵図と十川の分岐点が違うのが不思議である。

 明治二年弘前絵図と一緒に弘前市立図書館に寄贈した弘前藩領絵図(写真上から5番目)については、いまだはっきりしない。作成を幕末から明治初期とした。美濃紙を何枚も重ねて作られた絵図は、個人ではなく、弘前藩として作成したものであること、使用している文字が明治二年弘前絵図に近似していること、明治二年弘前絵図と一緒に保存されていたこと、青森市栄町(明治初め旧士族の作った町)がないことから、作成年度は幕末から明治初期(2、3年)と推測される。

 この弘前藩領絵図は、正保国絵図よりは正確ではあるが、津軽半島や十三湖の形が幾分異なり、とても伊能図には及ばない。天保国絵図(1838)は幕府の命令で提出を迫られたため、指示された様式、元禄国絵図に沿った絵図となったが、弘前藩領絵図はこういった規制はない。であれば、伊能図を参考に海岸線などの形態を決め、そこに村,町などを書き込めばいいと思うが、そうはなっていない。この絵図のために、幕末、明治初期の忙しい時期に弘前藩がわざわざ領地の海岸線を測量する暇と手間はなく、何らかの絵図を参考にして作成されたものに違いない。

 弘前藩領絵図は伊能図、現代図と比較すると、竜飛岬、小泊岬、黄金岬が実際より大きく書かれ、津軽半島も横に広い。一方、海岸線に沿った、各種の岩、岬についての書き込みが多い。内陸だけでなく、船による海岸の調査も行われた結果であろう。伊能図にもこういった書き込みはない。十三湖については、現在の湖は江戸時代の半分くらいになっており、伊能図に比べると、岩木川河口の舌のような張り出しを除くと、形態は大体似ている。

 幕末、明治初期に作成されたと思われる弘前藩領絵図は、おそらく戊辰、函館戦争の物資、人の搬送、あるいは廃藩置県に伴う藩領の把握、地租改正などを目的に作成されたものと思われる。模写したオリジナルの地図は、海岸線の記載が詳細であることから、1800年以降、ロシアを含む異人船の弘前藩領への接近と関係しているのではなかろうか。ロシア船は、津軽半島の三厩など、あちこちの海岸に接近、上陸している。この対応に弘前藩は逐われていたが、同時に正確な海岸線を示す地図が必要だったと推測される。弘前藩が伊能図の中図、小図を入手したのは、文化元年(1804)であったことから、オリジナルの弘前藩領絵図の作成されたのは、この前の期間であった可能性がある(1800年前後)。

 幕末、弘前藩は戊辰、函館戦争に絵図が必要となり、本来なら正確な伊能図を骨子に内陸部を描いた絵図を作製する必要があったが、時間的な節約から、最も新しい藩領絵図、おそらくは19世紀初めの絵図の模写を使用したと思われる。藩境には多くの山の名が記載されているが、それ以外では、岩木山の名がないのにも関わらず、増川嶽(岳)と大然嶽(然ケ岳)のふたつの山の名が記載されている。前者は津軽海峡からの目印、後者は鯵ヶ沢沖合からの目印になる山で、それぞれ航海に関連する山である。

 弘前藩領絵図は、領地の詳しい村、里、町を示しただけでなく、海岸線の細かい地形、目印の山が記載されており、正確な測量による地図ではなく、実用面を重視した絵図であった。不明な点が多く、専門家による解明が待ち遠しい。

2013年10月10日木曜日

第72回日本矯正歯科学会大会


 今年の日本矯正歯科学会は、長野県松本市で行われた。3000名を越える参加者のため、市内の宿泊施設が足らず、今回は近郊の浅間温泉に泊まった。会場からは徒歩15分で、学会に行って温泉も楽しめ、充実した旅行となった。

 ただ青森からはアクセスが悪く、まず弘前から新青森まで普通で、そこから東北新幹線で大宮まで、さらに長野新幹線で長野市まで、そして篠ノ井線で松本まで、7時間かかった。こういった長旅も楽しいもので、行きは「ロスジェネの逆襲」を、帰りは「有法子 十河信二自伝」(十河信二著、ウェッジ文庫)を読んだ。

 「有法子」は新幹線の父、十河信二自らがその半生を綴ったもので、明治のエリートの剛胆な生き様を示している。とりわけ、妻への深い愛情には感動させられる。仕事一本の男にあくまで付き添い、50年にわたり献身的に仕えた妻。心臓発作に苦しむ妻に紅白の紐をつないで寝る夫。その状況を身内として体験する長女。美しい姿である。

 十河信二の妻、十河キクは明治22年2月21日、岡崎重陽、タミの長女として生まれた。タミは青森県士族、野沢家の一人娘で、娘キクを函館の女学校に、その後、東京で勉強をしたいと言うと、夫を北海道に残して、三人の子供をつれて上京する。キクは日本女学校に入学、その後、音楽学校に入学するインテリ女性であった。

 当時、弘前では、士族の娘は明治9年にできた弘前女学校(現 聖愛中学、高等学校)に行くのが普通であったが、さらに英語教育の進んだ函館の遺愛女学校に行かせたのか、それとも父親の仕事の関係で函館にいたのであろう。野沢という名の士族は、弘前では少なく、一人は画家野沢如洋の家(一戸家からの養子)があるが、如洋が野沢徳弥の四女かつと結婚したのが明治31年なので、岡崎タミはこの野沢家の出ではない。

 もう一人の野沢家は山道町に野沢字一という人物がいる。この人物については不明であるが、おそらく岡崎キクの父あるいは祖父であろう。現在の明星幼稚園付近である。思わぬ人物が弘前と繋がっていておもしろい。

 学会の方は、それほど目新しいものはなかったが、インプラントアンカーの若年者への適用が、15歳くらいでも3か月以上、固定して使えば、脱落率も10%以下のようだ。今後は高校生、中学生にももっと積極的に活用できるかもしれない。これまで中高校生には80年前から使われているヘッドギアーを使ってもらっていたが、これがインプラントアンカーで置き換われれば、患者さんにとって福音であろう。

 松本の街は、美しく整備されたところで、周囲に3000M級の高い山があり、すばらしい観光地で、はっきりいって弘前は負けたと思う。兄が塩尻にいたため、30年前に数回行ったことがあり、フランス料理の有名店、鯛萬を訪れた。開店前だったので、予約を入れようとメニューを見せてもらったところ、安いディナー12500円?で、ワインをいれると18000円かと思うと、早々と逃げるように立ち去った。恥ずかしい。

 松本中心街の橋のところで家内と座っていると、見知らぬ男性から松本の観光名所についての話を聞いた。当初、かなり胡散臭い感じがしたが、おそらくリタイアした人で、趣味で観光客に声を掛けているのだろう。こういった旅先のハプニングは意外に記憶に残るもので、私も弘前に来た観光客には、胡散臭いと思われるが、積極的に声がけしようと思う。

 写真は、松本から長野への普通列車からとった姥捨駅の風景。スウィッチバック式の線路で、雄大な眺めと相まって、楽しい鉄道旅行だった。


2013年10月4日金曜日

奇人、変人




 今年もまた、ノーベル賞をパロディー化したイグノーベル賞を日本人2氏が受賞した。これで7年連続、これまでの受賞者は英国と日本が多い。本家のノーベル賞はアメリカが多いが、イグノーベル賞は主催国のアメリカの受賞者は意外と少ない。この理由として、英国と日本が変人、奇人を愛される国だという。変わった研究、仕事を真剣にやる精神は、そういえば両国とも尊重される。

 先日のNHKのプロフェッショナルでも、「クリーニング屋」さんが取り上げられていた。染み抜きに全精力を傾け、どんなシミも必ずとると日夜、仕事をしている。番組を見て、感動したが、よく考えれば、たかが染み抜きにそれほどがんばらなくてもと思ってしまう。これも一種の変人、奇人であろう。どんな仕事であれ、一生懸命にする姿勢は日本では尊ばれる。隣の韓国、中国ではありえないことで、安い仕事で、できれば他の職に移りたいという人がほとんどで、これほど仕事を極めようとする姿勢はない。

 そういえば、以前、韓国の歴史学者が、「日本の歴史をみて、うらやましいのは多くの奇人がいることだ」と言っていた記憶がある。画家で言うと、葛飾北斎が奇人であるのは誰もが認めるであろう。南方熊楠、田中正造、平賀源内、佐久間象山、吉田松陰も奇人の範疇に入るだろう。ちょっと変わっている人というと枚挙なく、本田宗一郎、松下幸之助、小泉純一郎(祖父の又次郎は本物の奇人)、イチロー、長島などもそうであろう。こういった人物は、実にユニークなエピソードを多々持ち、ドラマや本でも取り上げられる。それに比べて中国では歴史も長く、人口も多いのでそれなりの奇人、変人がいるが、確かに韓国にはそういった人物はほとんどいない。

 時代を切り開く、あるいは新たな社会も作る人物は、常人では難しく、当時の感覚からすれば、奇人、変人でないと無理なのであろう。アメリカで最も有名な奇人、変人といえば、アップルの創業者、スティーブ・ジョブスであろう。彼の妥協を許さない執着は今日のアップルを作った。

 その点、青森は奇人、変人天国である。棟方志功のユニークな性格はまさしく奇人、変人であるし、最近では「奇跡のリンゴ」で有名な木村秋則さんもそうであろう。こういった青森の奇人、変人は最近亡くなった原子昭三先生の「津軽奇人伝」、「津軽奇人伝 続」に詳しい。個人的に、津軽の奇人を挙げると、1. 佐藤弥六 佐藤紅緑の父、佐藤愛子の祖父、2. 佐々木五三郎 慈善運動家、3. 今武平 今東光の父、4.伊東五一郎 伊東重の長男、5.今和次郎 考現学、6. 笹森儀助 冒険家、7. 山田純三郎 孫文秘書、8. 葛西善蔵 作家、太宰治の数倍奇人、9. 棟方志功、10. 平尾魯仙 画家 となる。いずれも名、金を求めない生き方をした。

 津軽では何かをする時、「バカさ、なれ」 という。別に励ましているわけではなく、やや揶揄した言い方である。本気になって一生懸命やったとしても、誰もほめてくれるものではなく、かえってばかにもされ、足も引っぱられる。結局は、一人でもがくことになるが、そうした中でさらに孤立化する。人とうまくつき合うことはできず、ある意味、味方をつくるのが下手なため、徒党を組めない。政治家には全く向かない性格であり、津軽からは大政治家、実業家は出現していない。

 ただここで言いたいのは、こういった奇人、変人が何とか、一生を一つの仕事に打ち込めたのは、その妻、母の内助の功によるべきで、そういった意味では、津軽の女はすごい。

2013年10月2日水曜日

紀伊国屋書店弘前店 開店30周年記念講演会


 先日の日曜日、紀伊国屋書店弘前店の開店50周年講演会がパレスホテル二階であった。会場には40人ほどの聴衆がいて、一人で待合室にいると緊張したが、会場に入り、話し始めると次第に落ち着き、テーマに沿った話、あるいはちょっと書面では述べられない話などをした。

  以前からMacbook Proの調子が悪く、1年前にHDが壊れ、データーは費用がかかったが、業者に救出してもらい、新しいHDに換えて使ってきた。ところが最近はまた調子が悪く、動作がストップする。そこで評判のいいMac book Airを注文し、届いたのが土曜日。何とか講演に間に合うかと、朝8時にMacbook ProからMacbookAirにデーターの移行を始めた。ところが移行セットアップに従って、ドンドン押していったのが、間違い。無線でのデーター転送を選択してしまった。有線に比べて非常に時間がかかる。完了までの予想時間、22時間。途中で終了するのは怖いので、2台のマシーンは完了までどうすることもできない。幸い講演会のデーターは保存していたので、急遽、診療所のパソコンを使うことになり、Officeのインストールから始めて、何とか使えるようにして、当日発表した。ちなみのデーター移行できたのは夜の11時であった。

 こうしたブログを書いていると、関係者から多くのメール、手紙をいただく。プライバシーに関わる可能性がある場合は、ブログへの掲載はやめているが、関係者の4,5代前に先祖になると、これはもはや歴史上の人物で、その子孫のプライバシーには関わらないと考えている。いただいた情報の一部を出すことで新たな情報が得られる場合は、許可なく、ブログで使わさせてもらっている。

今回の講演会でしゃべったのも、そのひとつである。

 明治の外交官、伯爵、侍従長の珍田捨巳の父は、珍田有孚という。祖父有敬に子がなかったので、妹の子、野呂灸四郎を養子にもらった。野呂灸四郎は野呂家の長男であったため、ちょうどその頃に嫁に入った後妻は近所の人から責められたという。文生12年(18291月に灸四郎は珍田家に養子に入った。4歳だった。この有孚が神熊吉の長女いく(天保4年 1833生まれ)と結婚したのが、嘉永2年(1849)であった。妹は在府町の船水新五郎に嫁いだ。長男は神彦三郎で、その名が在府町に見える。

 この神熊吉の墓は、秋田県湯沢市横堀の正音寺にある。参勤交代の途中に幼君を諌言して、その場で切腹して果てた。神熊吉は第11代藩主の世子、津軽 承祐の養育係であった。北方警固のため父順承の名代として、初めての国帰りの時であったのだろう。当時、羽州街道が参勤交代の道として使われ、横堀町は宿場町であった。津軽承祐が初めて弘前に帰国したのが安政元年(1854)であるから、神熊吉が亡くなったのもこの頃である。珍田捨巳は安政3年(1857)であるので、母方の祖父とは面識はなかったろうが、母からは、祖父のことをよく聞かされて育ったのであろう。50歳は越えた老臣の諌言がどんなものかを伝わっていないが、その後、長男、彦三郎が跡目を継いだところからも、正当なものであったのだろう。ただこの神熊吉の諌死については、成書には触れられていない。神熊吉は、承祐が9歳の時に初めて江戸に登った時も、御付御供(鍵口役兼目付)で、江戸藩邸でも御付書役であった。珍田有敬も同役(書役)で安政元年の帰国の時も随行している。珍田家と神家は非常に親しい関係であったのだろう。

 一枚の墓の写真がある。正音寺の神熊吉の墓であるが、かなり前の写真である。今、どうなっているのか、もし湯沢に知人の方がいれば、お教えいただければと思っている。