2015年1月31日土曜日

アメリカの医学校に最初に留学した女医:菱川やす



 今年の春には「弘前人物グラフィティー」を出版すべき、現在、原稿に手を入れているところである。明治期の弘前出身の女医、須藤かくについては、かなり判明したが、須藤かく、ケルシー女史と同居し、1911年に肺結核で亡くなった阿部はなについては、全く手がかりがない。どうやら不明のまま、終わりそうだが、他に何かないか、ここ1、2週間調べている。

 日本で最初に女医となったのは、荻野吟子で明治18年3月(1885)のことである。当時、女性が医者になるには、医術開業試験に合格するか、海外の医科大学を卒業しなくてはいけなかった。当時、日本の医科大学では女子の入学が認められていなかったので、医者になる塾に通い勉強した。荻野吟子は好寿院、その後の多くの女医は済生学舎で勉強している。一方、海外の医科大学を卒業して女医になったのは、青森県出身の岡見京がペンシルベニア女子医科大学を卒業して、明治22年に医籍登録した。海外の医科大学を卒業した医者はドクトルと呼ばれていたが、日本人女性で最初の女性ドクトルである。

 次の女性ドクトルは菱川やすで、明治24年に医籍登録した。そして須藤かくと阿部はなは外国医学校を卒業して明治31年に医者として登録されている。すなわち菱川やすは2番目、須藤かく、阿部はなが3、4番目、次は井上友子で、ミシガンの女子医大を卒業し、明治36年に登録されている。

 実は、一番目から4番目、岡見京、菱川やす、須藤かく、阿部はなは、すべて横浜共立女学校の卒業生となる。菱川やすについては、阿部はな以上に全くわかっていない。唯一の資料として「Alumnae of the Woman’s medical college of Chicago 1859-1896」がある。アメリカでは一般の医科大学では女子の入学が認められなかったため、1850年ころから多くの女子医科大学ができた。その一つがシカゴにできたシカゴ女子医科大学で1889年の(卒業)クラスにYasu Hishikawaの名がある。住所は「Kita Gata Nyu-No Maichi, 630 Yokohama, Japan」となっている。おそらくは横浜市北方町のことであるが、Nyu-No Machiについては不明である。この地区にはキリスト教伝道館があったようで、そういった所に住んでいたのであろう。

 さらに同書の145pには、「菱川やすは日本での伝道活動を通して医学教育を受けるためにこの学校に来た。日本人ではあるが、はっきりとした英語を話す。朗読でわかる洗練された態度は先生に感心されるだけでなく、日本人女性の知性を表すものである。またこの小さな女性の勇敢さは驚くべきものである。後にシップマン先生が言うには、“文字通りシカゴに何ももたずにやってきた”である。医学の勉強を一所懸命して成績もよく、彼女のクラスでも最も優秀な生徒の一人で、法医学では最高点をとった。卒業後は、Foundling’s Home House Physicianのアシスタントとして働き、女子病院でインターンとして従事した。ヤスはアメリカに来る前にもサラ・カミングスポーター先生から医学を教わり、その後、先生からこちらの学校でさらに医学の勉強をするようにと(留学の)骨を折ってくれた。(医学校を卒業して)1890年の11月の日本へ旅立つ際には、エアル先生と奥様が彼女のための送別会が開いてくれた。アメリカでの生活は幸せでしたという彼女の別れの言葉を聞くと、多くの友人から本当に悲しがった。日本に帰ると横浜の根岸病院で働き始めた。」とある。

 共立女学校は明治四年に開校したが、その初期の生徒の中に、西田京(岡見京、ケイ)とともに、菱川やすの名があり、同級生であったであろう。西田京は明治17年(1884)に岡見千吉郎と結婚し、188412月に夫とともに渡米し、1885年にペンシルベニア女子医科大学に入学した。1889年に同校を卒業した。菱川やすも、医科大学の卒業は同じく1889年で岡見京とほぼ同じコースを歩んだ。菱川の渡米は岡見とそう変わらず、最初の日本人留学生(医学校)は両者に与えられるべきであろう。岡見は卒業後、すぐに日本に帰国し、明治22年(1889)に医籍登録したが、菱川は2年近く、インターンをして明治23年末(11月)に帰国して、次の年の明治24年(1891)に医籍登録したので、岡見京につぐ二番目のドクトルとなったのである。1896年現在の住所が横浜で根岸病院に勤務したことは間違いないが、その後の人生はわからない。

 須藤かくと阿部はなが、渡米したのが1891年、シンシナティー女子医科大学に入学したのが1893年、そして卒業が1896年、帰国して根岸病院で勤務したのが1898年となる。菱川やすが帰国した1891年に、須藤かく、阿部はなが渡米したので入れ違いとなった。二宮わかは貧しい人々のために横浜婦人慈善会を組織し、横浜婦人慈善病院を根岸に開業したのが1891年(根岸病院)であるから、菱川の帰国を待って、病院を開いたと思われる。その後、1898年に須藤、阿部、ケルシー女医が帰国して根岸病院で働くのが1898 年であり、菱川が何らかの事情(病気?)で働けなくなったため、交代したと思われる。あるいは菱川のそういった状況を知らせ、急遽須藤、阿部らを帰国させたのかもしれない。

 横浜、おそらく日本で最初の女性による病院は、この横浜婦人慈善病院と思われ、その運営には、二宮わか、菱川やす、須藤かく、阿部はななど、共立女学校の卒業生があたった。これは横浜の歴史においても誇れるトピックと思われる。ほとんどの資料が空襲でなくなっているが、横浜在住の郷土史家に菱川やすのことを調べていただければ助かる。

 写真は岡見京のものである。美人は人気もので得する。菱川やすも岡見と同様に日本からアメリカへの最初の医者になるための留学生だが、記録は残っていない。

2015年1月22日木曜日

矯正歯科のグロバリゼーション化



 私が大学病院にいたころですから、30年前のことです。反対咬合の治療と言えば、「チンリン」、すなわちチンキャップとリンガルアーチによる治療が一般的でした。上あごに比べて下あごが大きい症例では、下あごの成長を抑えるためにチンキャップという下あごに弱い力を与える装置をできるだけ長い時間、できれば終日着用するように指示しました。またかみ合わせを治すには口の中にリンガルアーチと呼ばれる装置を入れて細いワイヤーで歯を押して前に出します。それによりかみ合わせを治します。

 反対咬合の患者では、多くの場合、下あごが大きい、骨格性反対咬合の傾向を持つため、チンリンによる治療法が一般的でした。その後、チンキャップをして一時的に下あごの成長が抑制されても、後にその分が成長する、キャッチアップするという研究が東北大学から出されました。それまで東北大学ではチンキャップの効果があると言っていたのが、教授が変わると全く逆の結論になったわけです。当時でも、欧米の研究でも、アゴが大きくなるのは遺伝的なもので、それはコントロールできない、手術で治すというのが一般的でした。日本でも九州大学の矯正科がそれに近い姿勢でした。

 現在の骨格性反対咬合の治療法は、1。 何もしないで成長が終了してから、歯の代償的な改善でなおすか、手術を併用する。2。前歯のかみ合わせのみを改善する。3。上顎骨前方牽引装置で上あごの成長を促進させる、この三つが多くの矯正専門医、大学で使われている方法です。一部、乳歯列から治療する方法(ムーンシールド)もありますが、一般的ではありません。7、8年前に学会で、反対咬合の早期治療について、テーブルクリニックがあり、全国の大学、開業医の先生と話す機会がありました。その当時でも、一番多い治療法は2番目のものでした。3番目も少しありましたが、もはやチンキャップを使っている大学はない状況でした。

 一方、実際にチンキャップを使って治療を受けた患者(歯科医)からの報告もあり、幼少の頃から成長終了するまで、10年以上、チンキャップを使うのは精神的にかなり苦痛だったようです。10時間以上使うように指示されますが、実際に使えるものではなく、その度に矯正の先生からも両親からも叱られ、治療中は未だに悪夢だったといっています。中には、チンキャップによる治療をしても結局手術になったという症例も多く、これだけ効果が未定の治療法を長期に続けるのはダメということになりました。それでも未だにチンキャップを使っている先生はいるようで、多くの患者さんは途中で使用しなくなって治療を中断します。後年、私のところに来て、あの時にもっとがんばればと後悔される方もいますが、手術になるような症例では無意味で、長期治療しなくてかえってよかったと言います。

 反対咬合の治療も、現在では世界中ほぼ同じような治療法がされています。子供の時の治療は前歯のかみ合わせのみを治す、あるいは上顎骨前方牽引装置(+上顎骨急速拡大装置)を併用する方法です。ヨーロッパの一部では機能的矯正装置を使ったり、最近では矯正用アンカースクリューを上アゴに植え、直接骨から上顎骨前方牽引装置で引っぱる方法もあるようです。いずれも長期には使わず、せいぜい1、2年の使用です。成長期をすぎると、歯の代償的な移動により治すか、手術を併用した治療がとられます。手術を併用するケースはかなり多くなり、昔は、アメリカ人はこんな症例も手術する、我々日本人は歯で何とか治すのにと言っていましたが、今は、こういって無理矢理、歯で治した症例もあごが出ているのが気になるという不満を持つようです。ボーダラインのケースは今では手術を適用することが多くなり、この点でも欧米の矯正医と診断差はなくなってきました。

 歯科治療、特に診断と治療法も次第にグローバリゼーション化しているようです。ただ一方、人種差が明らかにありtai、アジア人と白人は頭蓋骨の形態は全くことなり、特にでこぼこの治療法には違いがあるようです。ただこれもことアジア人というくくりをすれば、それほど大きな違いはなく、台湾、韓国などの治療法を見ると、どうしても抜歯が多くなるのはしかたないことです。タイでは、今ファッションとしての矯正装置がはやっているようです。“カワイイ”系のおしゃれなのでしょうが、日本でははやりそうにありません。

2015年1月15日木曜日

現代版見合い


 最近の若い人の晩婚化はひどい。女の人の場合、20歳後半、2728歳は早い方で、大概は30歳を越えてから結婚する。一時、24歳を過ぎれば、売れ残りのクリスマスケーキというひどい言い方もあったが、今はみんな売れ残りになってしまった。不思議なもので、周囲の友人がみんな結婚しないでいると、結婚の切迫感を感じることもなく、そのまま40歳になり、今度は子供だけは欲しいということになる。

 私の兄弟、姉、兄は見合い、私だけが恋愛結婚であったが、今や恋愛結婚という言葉自体が死語となり、ほぼ100%の人が恋愛結婚で結婚する。見合いで結婚した人は本当に少なく、それも多くの場合、結婚相談所や市町村で開催する婚活パーティーで知り合ったケースである。

 結婚=子供とは言えないが、結婚する人が少なくなると、子供人口は減少する。また晩婚化に伴う出生率も低くなる。昔のように結婚年齢が低いと、多くの子供ができたが、結婚年齢が高いと子供の数は減る。今後の日本の未来を考えると、結婚率の低下と晩婚化は最も重要な問題となる。

 うちの娘、二人を見ても長女は活発で、何とかなるだろうが、次女は奥手で、何とかいい人が現れればとは思うが、いささか気になる。他の若い人を見ても、どうも恋愛の不向きな男女はいるし、最近の男子の草食化をみると男子の方がそういったケースが多いように思える。こういった若者が結婚するためには、誰かが間を持つ、昔のような見合いが必要と思える。

 母に聞くと、戦前の徳島県脇町では、口聞き婆さんという職業があり、町を歩いていて好きな子を見つけると、子供は親にあの子はきれいで結婚したいと言う。親が納得すると、この婆さんに連絡する。この婆さんは相手との家のバランスをみて、OKなら相手の家を訪れ、交渉する。無事、結婚まで行くと、この婆さんには謝礼が支払われる。いい制度である。うちの母親も以前は随分と人に頼まれ、お見合いの仲をとった。家には随時、3、4人の見合い写真と釣書があった。大体は親の職業、家柄を見て、相手を見つけていた。それでも当時、40年前でも一回の見合いで結婚するケースは少なく、何度も見合いするのは普通であった。私は見合いをしたことがないが、姉が20回ほど見合いをしていたので、大体の流れはわかる。まず見合いには両家の親と子、それと仲を持つひとが集まる。神戸の場合はもっぱらオリエンタルホテルが利用された。しばらく喫茶店、あるいは食事をしてお互いに話した後に、子供同士がデートをする。その日、あるいは遅くとも翌日には仲を持ったひとに、○×を報告する。○の場合は、その後、再度2、3回デートをして、2、3か月くらいで結納、結婚となる。半年も延ばさない。

 今はこうした見合いはほとんどなくなっているが、母の場合、誰かいい人がいないかと相談されると、絵の教室などで気に入った子を勧めることがある。実際につき合ってみて気持ちのいい子があれば、もう一方の子も知っていて、両者を結びつける。交際範囲の広い人の場合、人脈で男女の仲をとるというやり方がとられる。実際に病院の受付をしていると、しょっちゅう患者さんから内の息子と一回会ってもらいないかという誘いがある。

 メール、ファイスブックの出現によって簡単に赤の他人とも交流できるようになったが、一方、現実の交際、結婚となるとかえって昔より難しい状況になっている。新たな見合いの制度、口聞き婆さんの現代版、例えば県や市が、定年した知り合いの多いおばさんを「恋のキューピー係」に任命し、ipadに婚活用写真を入れ、個別な見合いのセッティングをしてもらう。色々案があるかと思うが、これは国、県、市がもっと本腰を入れて考えるべき問題である。

2015年1月14日水曜日

茂森町根帳


 患者さんから、「うちに江戸時代の古い土地台帳がある」と言われたので、「是非見せて下さい」と頼んだところ、後日、拝見させてもらった。古文書についてほとんど知識はないものの、江戸時代の茂森、茂森新町、塩分町、覚仙町の住民台帳のようなものである。敷地の大きさ(幅、奥行き)、家主、その職業などが記載されている。士族については下級士族(軽輩)が若干、記載されているが、多くは町人、農民の台帳となっている。

 中味については崩し字が読めない私には、理解できないので、以前メールでお世話になった先生にお尋ねしたところ、近代史(江戸)専門の同僚に聞いていただき、お忙しい最中、丁寧なお返事をいただいた。私のような素人が調べようと思うと、1年かかりかかるようなことでも、こういった専門家に聞けばたちどころにわかるため、非常に助かった。

 まず読みについて写真に示す例を挙げると(右から三番目)
「専四郎屋敷中役四歩三毛出人足弐拾七人壱毛
        荒物  子助
    西表口四間弐尺
    東裏口四間貳尺
    北裏行弐拾三間七尺
    南裏行弐拾三間七尺」

これは専四郎という土地所有者がいて、その地所に 日雇いの治之郎、荒物の子ノ助、荒物の喜左衛門の三人が住む家があった。各町ごとに上役、中上役、中役、下役、下々役の役付けがあり、茂森町は中役のランクで、ランクに応じた人足役の負担があった。また四歩三毛とはこの地所面積あるいは間口で決まった銀相当金の43%を負担することを意味し、さらに出人足とは都市整備にかかわる使役負担に相当し、この場合は人足27人分と一毛の銀の負担となる。

 江戸時代の弘前藩の主として町人からの税金については、理解が浅く、もう少し勉強しなくてはいけないが、町名主、町年寄、町奉行などがこういった台帳を作り、それに基づいて、税金を納めたり、使役を分担したりする。藩自体が直接関わるのではなく、町内の代表者に業務を委託する仕組みである。町名主は、町内での道や橋の補修などの責任もあるため、それらの費用はこれから出したのであろう。店子として大家から家を借りている場合は、こうした税金もその家賃に含めた。

 場所については、根帳からはわからないが、2つほどヒントある。ひとつは玉田酒造で、茂森町の「東側北か南に」のところに「造酒 善兵衛」がある。玉田酒造の当主は代々善兵衛を名乗っており、今の玉田酒造のことである。地所が広く5人分が善兵衛の名となっている。最初は東表口16間、次は15間5尺、4間2尺、41尺、81尺、8間4尺となっている。合わせると57間1尺(103m)となる。広大な敷地である。現在、玉田酒造は茂森町西側通りにあることから、東向き、北から南に並んでいると解釈できる。さらに茂森座(広居座)を見ると、茂森町三国万吉組のところに「東側北から南に」とあり、「西表口1641寸 芝居 兵七」となっている。当時の座長を広居兵七と言ったのかしれない。間口が28m程度の大きな芝居小屋であったようだ。このように家の向きからある程度、他の絵図を参考にして場所は特定できる。

 時代は、ほぼ同様な文献として「土手町居下軒数根帳」という文政10年(1827)のものがあり、また覚仙町には御用絵師の今村養淳(文政六年、1823)と最初書かれた後に付箋にて茂三郎と書き直されているので、ほぼ文政年間のものと思われる。また他の箇所には内容は読めないが、文政二巳卯年六月の記載がある。また他の付箋をみると明治四年九月までの居住者の移動が付箋で修正されているので、文政二年(1819 年)から明治四年年(1870)までのほぼ50年間の茂森地区の住民の移動がこの文書にてわかる。

 所有者から1か月ほどお借りすることができたので、すべてのページを写真撮影した。デジタルデーターとそれをコピーしたものについては、所有者の許可をいただければ、図書館に寄贈しようと考えている。

 こういった土地台帳に相当するものは、町名主にとっては、重要なものであり、火事の場合でもまっ先に持っていったものと思われる。そのため、江戸時代は厳重に保管されていたと想像されるが、明治以降は税業務がすべて政府に移管したことから、内容がわからぬまま、散逸していったと思われる。ただこういった形で、また貴重な一次資料が見つかったことは研究者にとっては大変ありがたいことであり、まだまだ市内のどこかに残っている可能性がある。