2015年3月26日木曜日

宮本輝「花の回廊」を歩く2




2.尼崎市立難波小学校

「四月から伸仁が小学五年生となって通う尼崎市立難波小学校は、タネの家から西へ歩いて十分少々のところにある。そのための手続きはすでに済ませてあった」

 難波小学校は大正9年に尼崎第二尋常小学校として開校したので、今年で95年になる。昭和3年に中央玄関、3階建て東側鉄骨校舎、昭和12年に3階建て本館、南東校舎が完成した。私が通っていた当時の校舎はこの古い建物で、伸仁くんが通っていた当時の建物も同じである。正面玄関前には広いグランドがあり、その正面が校舎玄関となる。なかなか堂々として建物で、夏でも校舎の中はひんやりした。私の頃は一学年6クラスで、生徒増に伴い玄関左側に新たな校舎ができ、また右側には新しいプールができた。それまでの古いプールは防水槽のような殺風景なものだったが、この新しいプールは最新のカラフルなものであった。昭和12年の写真が残っているが、校舎、講堂は私が通っていた時とほぼ同じで、校庭左の神社のようなものはすでになかった。これは天皇陛下、皇后の写真および教育勅語を納めた御真影奉安殿で、戦後に壊された。ただ講堂の裏には内緒で探検した折、昭和40年当時にも天皇皇后両陛下の写真があったのを覚えている。校庭には写真で見られるような小さな築山があり、その前に台があり、6年生で体育部長だった時は、全校生徒の前でラジオ体操をした記憶がある。

3. 文房具屋

「「ぼくのかあちゃんは仕事やからこられへん」そう答えて、少年は校門の前にある小学校相手の小さな文具屋を指差し、さっきまでノブちゃんはここにいたのだと教えてくれた。大勢の男の子たちが文具屋の中で騒いでいた。切手を集めるのが流行っていて、今日は新しい外国の切手が入ったんだと少年は言った。「ごっつい高いねん。飛行機の絵が描いてある切手がいちばん人気があるねん」」

 校門の前の角地にこの小さな文具屋があった。今は食べ物屋となっている。文具屋といってもエンピツ、ノートなどの種類は限られ、私がいた当時、店の前はショーウインドーになっており、そこに完成プラモデルが展示されていた。プラモデルは右のドアーを入って、右の棚に並べられていた。切手はすでに流行が下火で、左の小さなコーナーで外国切手を何枚かまとめて台紙に貼って売っていた。駄菓子屋ではないので、子供の小遣いでは買えるものは少なく、ほとんどは見るだけの店であったが、たまにお年玉などで金が入ると、100円ほどの飛行機のプラモデルをよく買った。一番記憶にあるのはB24爆撃機のプラモデルで、爆弾倉扉が開閉でき、そこから丸い爆弾が投下できるようになり、爆撃ごっこをよくした。小学校の玄関前には、よく生徒相手の品、例えば針金でできたゴム鉄砲などを売っていた。縮尺器やひよこも売っていた。これも金がなく、もっぱら見るだけであったが、ちょうど銀玉鉄砲が出て来たので、子供は一気にこちらに走り、替え玉の購入にこずかいを使った。後には教員から注意されたのであろう、こういった露天商は隣の公園で売るようになった。

 文具屋は学校の裏にもあったが、ここはもっぱら文具のみでめったに行くことはなかったが、教科書の配布はここで行われていたので、新学期前になるとここに教科書を取りに行った。

伸仁くんの通学路は、難波小学校の校門を出ると、東の難波郵便局前を通り、おそらく隣の公園で遊んだ後、まっすぐに進む。この道は非常に危険なところで、殺人などもあったところだが、散髪屋のところを南に行き、前回のブログで示したラブホテル街、昔は小さな工場が多かった道を進み、今度は左に折れて、蘭月ビルに着く。あらゆる階層が集まった尼崎の縮図のような通学路であった。

2015年3月23日月曜日

宮本輝「花の回廊」を歩く1





 宮本輝「花の回廊 流転の海 第五部」(2007、新潮社)の舞台は、私の生まれ故郷、尼崎市東難波町のすぐ近所で馴染みのある場所である。帰省の折、その舞台となった場所を散歩してみたが、昔の面影は全くない。ほとんどの建物が新しくなり、ここが昔はこうだったと説明してもなかなか実感はわからないと思うが、少し説明したい。

1.    蘭月ビル
「穴だらけの雨樋からの錆と、煤煙混じりの塵埃とで汚れたモルタル壁に「蘭月ビル」と赤いペンキで大きく書かれていても、その中身は迷路とおぼしき構造の木造アパートであった。(省略)三人で阪神バスに乗って、国道二号線に面した尼崎市の東難波という停留所で降りた。停留所は蘭月ビルの南側のちょうど前にある。「ここは貧民の巣窟じゃ。病気の巣窟じゃあらせんようじぇけん心配せんでもええ。住めば都っう言葉もあるぞ」と熊吾は笑顔で言ったが、伸仁はバス停の前から動こうとしなかった。昭和32年の三月の半ばである」

 冒頭の部分である。ひどい書かれようである。尼崎松竹の横に汚いアパートがあったような気がする。この映画館は子供向けの上映がなかったため、子供の時はほとんど行ったことはなく、怪獣、若大将シリーズの尼崎東宝、洋画の東洋劇場、OS劇場がメインであった。高校生になると、正月、どこも休みのため、しかたなく親父と「男はつらいよ」シリーズをこの映画館で見た。現在は映画館もなくなり、蘭月ビルの跡地は駐車場となっている。国道からは阪神線と併行してバス路線と路面電車(阪神国道線)があり、その停車所は、ちょうど蘭月ビルの前にあった。

「蘭月ビルの北側のタネの住まいの前には、車が一台通れるほどの裏道に沿って、油膜に覆われた泥溝が流れていて、その泥溝をまたぐと有刺鉄線を四方に張りめぐらした工務店の資材置き場だった。だが置かれている資材はほんの少しで、そこには近所の子供達の遊び場と化していて、数人の子供たちが竹棒をバット代わりに野球をしたり、「缶蹴り」に興じていた」

 この空き地は若干記憶にあるが、ここらは在日の家が多く、自分たちの縄張りでなかったせいか、ほとんど行ったことはなかった。私の遊び場は家の近くの旭硝子の社宅の路地、その奥の空き地であった。子供達は空き地で缶蹴りをするよりは路地での遊び、ベッタン、ビー玉、コマに熱中した。道はまだ舗装されておらず、さざえさん、ケンパ、鬼ごっこなどを土に石で書いて遊んだ。蘭月ビル近くの繁益歯科には友人がいて、数度行ったが、二軒隣には朝銀信用組合があった。確かに裏道沿いには小さなお好み屋があり、酒なども出していた。今はラブホテルが立っているが、ここらには多くの小さな金属加工工場があり、工場帰りの工員は酒屋のカウンターや酒場で飲んでいた。

伸仁が初めて夕刊を近所に売りに行く場面があり、なかなか売れない。
「どこかの居酒屋では、うるさがれてコップ酒を浴びせられ、別の屋台では共産党員らしい男に資本主義の誤謬について延々と講釈され、路地裏のバーでは南京豆の殻を投げつけられ、暗がりの立ったまま客を取っている娼婦に「夕刊、いかがですか」と声をかけて蹴り飛ばされ、おでん屋では不機嫌な老人に何度も酌をさせられ」と小学五年生の男の子に対してはあまりの仕打ちである。

 蘭月ビルの前に国道を渡ると、そこは飲屋街で、パチンコ屋があり、昔はキャバレーがたくさんあった。幼稚園の友人、大谷くんの家がやっていた百万弗が最も有名なキャバレーだった。三和商店街までがずっと飲食店、酒場が続き、夜になると酔っぱらいばかりで、しょっちゅう喧嘩があった。子供のときは通るのが怖かった。親父の本拠地で、それこそ毎晩ここに通った。おやじと一緒に歩くと、ほうぼうからホステスさんから声を掛けられ、恥ずかしい思いがした。患者さんで診療所に来ると、無料でみたりしていた。

 写真上、マンションの隣の駐車場が蘭月ビルのあったところだが、全部ではなく、この右部分あたりとなる。写真中1は裏通りで、自動販売機があるあたりにお好み屋があり、前は空き地であった。写真中2のように周囲はラブホテルが乱立している。子供を育てるにはあまりいい環境ではない。一番下の写真は貴重な写真である。昭和45年当時の阪神国道線、東難波付近の写真で、右の映画館が尼崎松竹で、その隣の蘭月ビルはすでになく、駐車場らしきものとなっている(消えた車輛写真館/鉄道ホビダスより)。ちなみに私の実家は尼崎市東難波町4丁目で、蘭月ビルは東難波町5丁目である。

2015年3月22日日曜日

娘の卒業式



 娘(次女)の卒業式出席のため、火曜日から昨日まで大阪に行ってきました。関西学院大学経済学部を卒業して今春から三菱グループの会社に勤務することになりました。長女はすでに住友系の小さな関連会社に勤めていますが、その話を聞くと、関連会社はその母体企業のコンプライアンスに準じ、給与、有給、福利厚生などがよいようです。そこで次女にも大手企業の関連会社を狙えと勧めた結果です。これからいよいよ社会人で、これまでに学生気分では通用しません。給料をもらうというのは、それだけ苦労をすることですから。

 関西学院大学のキャンパスに入るのは入学式以来ですが、本当に美しいキャンパスで建物も、先月行った明治村の建物のような匂いがしていました。卒業生は4000人もいて、午前、午後で分けて卒業式をしていました。教育学部の第二の舞の海と呼ばれる宇良和輝くんも近くで見ましたが、小柄で是非とも大相撲で活躍してほしいところです。私が卒業した東北大学では各学部の生徒会が代表を決め、個性的な代表を出します。歯学部では高橋くんが代表に選ばれ、紋付袴で登壇し、壇上で突如かつらを脱いではげ頭を見せるパーフォーマンスを行い、皆から大いに受けました。関学では成績優秀者が代表のようで、おもしろみがなく、宇良くんが登壇してほしかったものです。

 今回は久しぶりに贅沢をしました。ホテルは大阪リッツカールトンに泊まりました。パック旅行で利用すれば、案外安く泊まれます。三度目の宿泊です。インターネットは無料になったのはうれしいことですが(前は確か1000円くらいかかり、ばからしくて利用しませんでした)、このホテルはどこにいてもリッツカールトンの特有の匂いがありましたが、今回は匂いも薄くなったようです。以前、部屋のベッド枕は硬軟の2個あったと思いましたが、1個しかなく(高級ホテルで初めての経験です)、そうかといって後で係に持って来てもらう度胸がなく、柔らかい枕では熟睡できませんでした。枕2個を背中に置いてテレビを見るのが楽しみだったのですが。経費節減で減らすのなら、少なくとも客室係から可否を尋ねてほしいものです。また宿泊者の8割が外人ということで、朝食もパン中心で、和食は以前よりかなり品数が少なくなっています。外人客はあまり多くの朝食を取らないためでしょうが、私のようなさもしい人間は、ここぞとばかり食べるため、少々がっかりしました。コーヒーのおかわりの際に、前の席の白人ビジネスマンがコーヒーをテークアウトしていましたので、それを真似てテークアウトして部屋で飲みましたが、これはうれしいサービスです。外国人の利用が多くなるにつれ、困ったお客も増え、ホテルとしてもその対応に苦慮しているのでしょうが、それによりこのホテルの売りであるサービスが低下しないでほしいものです。

 夜は長女と一緒に職場近く、大阪フェスティバルホールの最上階の「ひらまつ」というレストランに行きました。大阪でも有名なレストランですが、どうもこういった高級店は未だに苦手です。一番安い6000円のデナーを予約し、ワインリストを見ても全く分からず、大体ワインは料理代金と決めていますので、係の人を相談して9500円のワインを頼みました。食前酒はいかがですかと言われましたが、金がかかると拒否しましたが、どうも無料サービスのようで、後で領収書をみて、損をしたような気分です。このあたりが、慣れない人の失敗です。料理はとてもうまく、サービスも最高でした。費用もケチケチでいったので、一人1万円くらいでまずまずでした。もう一度、金を貯めて行きたい所です。創作イタリアンといったところでしょうが、こんな私でも最近は舌が肥え、感動するメニューは2品ほどでした。ゆったりとしたサービスで、婚礼前の両家の顔合わせや記念日などにはいい所かもしれません。

 次の晩は、おふくろが朝からおでんを作っていました。おでんというより関東炊と呼ばれる、濃い味のもので、久しぶりに食べて、本当にうまいと思いました。懐かしい家庭の味にかなう料理はなかなかないものです。

2015年3月15日日曜日

笹森順造、卯一郎兄弟の生家







 笹森順造は、東奥義塾の再興に尽力した人物として知られるだけでなく、戦中は青山学院の学院長として軍部ににらまれていた青山学院を何とか存続させ、戦後は衆議院議員を4期、参議院議員を3期勤め、復員庁長官、賠償庁長官として戦後の苦しい時期、シベリア抑留邦人の帰国、賠償金問題など占領軍との厳しい交渉を行ってきた。さらにGHQにより禁止されていた剣道など日本武術を復活させ、その後の東京オリンピックの柔道正式種目化に活躍した。兄の笹森卯一郎も長崎、鎮西学院の中興の祖として、つぶれかけていた学院の再興に尽力し、兄弟そろって東の東奥義塾、西の鎮西学院を再興させた人物である。

 父、笹森要蔵は弘前藩の槍師範であったが、開明的な人物で、当時、弘前で流行していたキリスト教への理解も早く、長男の笹森卯一郎は東奥義塾を卒業後に、アメリカのデポー大学で哲学を学び、博士号を取得して、長崎鎮西学院に招かれた。惜しいことに44歳の若さで亡くなるが、鎮西学院ではその功績を記念して笹森卯一郎記念体育館がある。弟(六男)の順造もまた兄を見て、弘前中学から早稲田大学に進学し、その後、渡米してアメリカのデンバー大学を失業、記者や南カリフォルニア日本人会書記長をしていたところ、東奥義塾の再興の話が日本で持ち上がり、その塾長とし請われて帰国した。塾長として全校生徒に剣道を必須科目として教え、生徒からも慕われた。昭和14年には、青山学院の理事をしていた米山梅吉からミッションスクールで軍部ににらまれていた青山学院を何とか救ってほしいという強い要望に答えて愛着ある義塾をやめ、青山学院の学院長となった。兄、浅田良逸(男爵浅田家に養子)は陸軍中将であり、その協力もあって青山学院の危機を救った。

 この笹森順造、卯一郎の生家が今、空き家となっている。笹森の生家は、武家屋敷がある仲町の一部、若党町にある。戦前、笹森家は住む人がいなくなり、友人に売った。その子孫がそこで一人で住んでいたが、高齢のため昨年亡くなった。親戚の多くは県外に住むため、その土地と家屋をどうするか宙に浮いている。明治二年弘前絵図では笹森要蔵、文化3年(1806)の弘前文間眞図では竹内家、寛文13年(1673)の弘前中惣屋敷絵図では小林?家と所有者は変わった。寛文期は広い敷地であったが、その後、二分し、再度、明治以降、隣家を買い求め、土地の広さは約2倍になったが、昭和60年代には再び半分売り、今は文化期の敷地となっている。仲町伝統的建造物群保存地区調査では、建物は江戸時代のもので、一部増築しているが、庭の配置などは江戸時代のままである。笹森卯一郎は慶応3年、順造が明治19年生まれであるので、ここで生まれ育った可能性は高い。

 一度、子孫に頼まれ、この家を少しだけ訪れたことがあるが、さすがに江戸時代の建物にそのまま住むには、ことに冬の生活が厳しく、内部は今風に改造していた。門から前庭、玄関と続き、本来なら建物があってその裏が畑となるのだが、この家は向かって右が庭となっている。建物は、一部二階建てになっており、昔見た調査報告書では、玄関右側の部分は明治以降の増築とあり、この二階部分が明治以降の増築かは思われる。屋敷は間口25間、奥行き17.2間、建坪25坪(現在49坪)となっている。内部はほとんど見ていないので、わからないが、弘前図書館には御家中屋舗建家図が残っており、調査により改造部分ははっきりするであろう。右部が明治以降の増築部であっても、笹森家での増築であれば保存部分は異なる。

 こういった直系の子孫がいない伝統的建造物は、相続者が複雑で、その処理に困るが、何とか弘前市、教育委員会、文化庁などでいい解決法を見つけてほしいものである。壊すのは簡単であるが、もう二度と戻らない。昭和60年ころには仲町を中心として多くの江戸期の建物がまだ残っていたが、現存する建物は少なくなってきた。弘前市が、城下町を観光資源としてアピールするならば、これ以上の破壊は食い止めたいところである。特にこの建物は、笹森順造、笹森卯一郎、浅田良逸陸軍中将の生家としての歴史的意味があり、東奥義塾、鎮西学院、青山学院、日本剣道協会にとっても重要な場所であり、何とか子孫にも納得した形で保存してほしい。他の武家屋敷と違い、笹森兄弟記念館としての活用も考えられる。