2015年4月24日金曜日

郷土史家 松野武雄






郷土史家、松野武雄。弘前の生んだ近代では最も変わった人物です。今純三郎の記事を前のブログで書きましたが、変人と言えばこの人物ですので、そのインタビューを記載します(昭和301021日)。それにしても松野コレクションはどうなったのでしょうか。自信作の「津軽猥雑史」8巻はどこにあるのでしょうか。是非、読みたいものです。内藤官八郎、岩見常三郎といった郷土資料コレクターの流れです。文中にもありますが、青森県、弘前市への個人の資料の寄贈については、今でも問題があります。せめて賞状を送り、知事、市長が顕彰すればいいだけですが、冷たい対応があったのでしょう。

自分のことを書いて貰う時あー一つくらい書いて貰いたくないこともあるもんだがワダシ(私)のことなら、なにを買いてもぶじょほうごヘンです。ワダシは弘前中学二年で開校以来の遅刻をしたり三日に一ぺん、何かの事で職員室に呼ばれて立たされたり、品行丙の上、成績九十二点で中退して、また二年後橘校長のとりなしで、学校に舞いもどって卒業証書を貰ったりで、津軽弁でいえば“アクたれワラシ”いわゆるしたたか者でしたジャ。けれども父の平次郎という人は総代を十九もととめるという政治家であったし、その上県内では二番目にキリスト教の洗礼を受けた人であったからカンニングや軟派行動だけは一回もしたことゴヘンでしたオン。代々士族だもんだから“恥を知る”という教育に徹していたわけですジャ。ワダシが感化を受けた恩人としては佐藤弥六、外崎覚、岩見常三郎、森林助、永沢得右衛門という先覚者でしたが、ワダシが、兄が三人死んで唯一人の男だったもんだから、悪い評判さえたてなければ、どったら事してもいいって遊ばせでくれたものでしたジャ。そこでワダシは、代々読書家ばかりで読む本が何んぼでもあったもんだから屋根の上にあがったりして、毎日毎日好きな本ばかり読んだものです。親の教訓といえば「妻はどこからつれてきてもいい、水商売の女と人妻には手を出すな」ということだけで他に説教めいたものア聞いだことゴエヘンです。
漆工の方を始めたのは元の工業学校に漆工科というものがあって斎藤彦吉という人からいろいろ手ほどきを受けたことと、佐藤弥六さんから漆器の歴史をきいたからで、栽培、木地師、挽物の研究に入り、ついでサヤ塗師、武具一切、織物、鋳物、瀬戸物、大工、木挽、紙漉なんでも一通りやりしたオン。それから毎日朝の一時に起き、四年間のうちに各市町村史、民謡、ネプタ、コギン、凶作史、犯罪史、キリシタン史、相撲、武道、津軽売色史、四郡の文化史、岩木山など、原稿を積み重ねた高さ一丈二尺書いたわけです。この中には津軽猥雑史も八冊あって、これあワダシの傑作というもんですジャ。ワダシは何処へも勤めなかったんで、時間だけア十分あったし、それに五十一歳まで独り者でやって来たんで、家族もないしタバコもやらない、遊興も一ぺんもしたことアないんだから、欲も得もなかったし、ただ金さえあれば、人手に入らないような物を、厳選して買ったんで、いろいろな物がたまったんです。
 独り者の辛さつてえのは、お釈迦様以上の苦業でしたジャ。片輪でない人間が毎晩、十二時までも座り込んで動かない「女ご」を前にして、手を出さないのだから想像して貰いたいもんですジャ。だから五十二のとき妻をめとるまでは、毎日女の夢を見ながら、妻や子供の夢を一度も見たことアない。本や書きものをするんで眼を悪くしてはお終いだと考えて二十台から寝て本は読まない。女に一ぺんも接しなかったので、嗅覚も犬と同じだったし、視力も二万人に一人というよく見えるものでした。“ご免下さい”と女が入ってくると、それが人妻か処女か100%判ったものです。—それア本当でゴエス。
現在、収集しているものは、品質にすれば一対十、あるいは一対百に値するもの。ざっと学校の教室三十に並べられるほどあります。世界に三冊よりない歌麿の「歌枕」世界に一個の春信の「好色錦枕」日本に二冊よりない北斎の春画など国宝ものから工芸の漆器類も下駄一足で一か月分の生活費を貰わなければ引合わないものばかりですジャ。こんなもの持っているうえに、正式な相続人がないものだから“死ねばどうする?”とずいぶん心配してくれますが、ほんとのところ誰にやるか決めてないんです。いまのところ、県内の人は受入体勢がよくないから引き渡す気にはなれませんナ。ワダシがこれならばーという受入体勢さえよければ何処へでも無料で寄付するし、場合によっては、維持金も付けて差上げたい。売ろうと思えば、売りやすいものばかりだし、それに一品ずつ全部原稿がついているんだから日本中でもこんな完備したものはないという話です。譲ってこれを永代保存してもらうことは、イヤ簡単だが、さて漆器の技術伝授になると、そうはゆぐヘン。ワダシ以外誰もやれないもの。例えば青海波や漆で花や虫をつくるということは原爆以上むずかしいと思うのです。—彼は人なり。われも人なりーというのでやって見ても出来ない芸当だし。青貝ラデンや研出蒔絵も永久にダメになってしまいすジャ。秘伝をワダシが知っているが、これを受入れる人間が今も見つからない。条件としてはワダシが言う資格者というのは、漆器学の権威者で、人間としての人格を高度に備えていなけりゃならんし、技術の点でも秀れてなけれりゃならん。大学の工芸科を出て、生活に困らない、芸道一筋というような人でも見つからないと、とても受けつげないと思います。
ワダシの人生の大半は、女嫌いで通ったようだが、そんなもんではゴエヘンな。北沢玄峰禅師は、四十六歳になれば楽になる。——ということを書いたが、ワダシもそのころになって、やっと寒暖計が下がったようにガタッと安定しましたジャ。身を亡ぼさないことア、それだけ肌つやに現れて、いまじゃ若いころとそんなに変わったところはないつもりです。
永い独身だから漬物を十四年間一切れも食べなかったし、味噌汁も一口飲めば下痢したが、それもなくなれした。ワダシは子供をつくる事業を起こさなかったんで、人間世界で一番ヒマがあったようですジャ。腹が減らなけりや一日でも二日でも食べない。税金の滞納も借金もない。ワダシは何もかも結構に存じ奉る。



津軽弁はフランス語に似ているようですが、最近見ていてハッピーなものを挙げます。カトリーヌ・ドヌーブ、きれいです。ロシュフォールの恋人。


2015年4月23日木曜日

なぞの画家 芳園 2




 2012.12.23のブログでシンシナティー美術館所有のなぞの画家“芳園”について書いた。その後、ヤフーオークションのアラーム機能を使って“芳園”がついたオークションをずっと探していた。かなり多くの芳園が引っかかってきたが、これまでシンシナティー美術館、大英博物館が所有する“芳園平吉輝”、“芳園輝”の名のつく作品は発見できなかった。

 ところが10日程前に、始めて“芳園輝”の署名の入った作品がオークションに出された。薄い墨の濃淡を用いた画風は似ており、また署名も近い。西山芳園という幕末から明治にかけて活躍した四条派の画家がいて、人気があるため贋作も多い。今回の作品は、落款、画風が西山芳園と全く異なり、贋作するならもっと似せるべきで、また落款も単純に”芳園”とすべきで、敢えて“芳園輝”という落款はしないだろうと考えた。

 3000円からのスタートでもう一人と競り合い、結局15500円で落札した。昨日、作品が届き、床の間に掛けてみたが、しみや折れが多く、作品も迫力がない。一応、写真にとり、シンシナティー美術館のホウメイさんにメールしたところ、贋作との結果であった。署名の書体は似ているが、他の作品の署名に比べて勢いがなく、躊躇があること、同様に作品自体も迫力がなく、また印章が全く違うなどの点を挙げ、贋作の可能性が高いということであった。本物だったら寄贈しようと思っていただけに残念である。

 一応、手持ちの落款辞典から印章の落款を調べると、「淳子印」と読める。ジュン シカンと読むのか。全く該当者はいない。また木箱には“石崎蔵”の署名があり、松山の富岡鉄斎の絵のコレクターの石崎家を考えたが、どうも関係なさそうである。これほどの目利きであれば、こういった贋作はつかまされないだろう。

 西山芳園の贋作の中から、“芳園吉輝”の真作を見つけようとしたが、だめであった。本当に軸物の鑑別は難しく、今では全く無名な作家であっても、当時人気があれば、贋作が多く出され、それがそのまま残っている。まあ贋作を掴まされたといっても15000円ほどの出費であったので、カラスのユーモラスな掛軸を買ったと思い、日常の床の間の飾りに使うことにする。ついでに西山芳園について、その画集などチェックしたが、このなぞの画家、芳園輝、芳園吉輝とは画風、署名が全く異なることがはっきりした。高い画力を持ち、贋作まである作家ながら、現在、情報は全く残っていない。作品が極めて少なく、西山芳園の作品に紛れ込んでいる可能性があるため、今後とも着目したい。
 *近代デジタルライブラリーの明治15年、絵画出品目録の中に、兵庫県、岸派、滋野芳園、号蟾麿という画家が載っている。これは農商務省が主宰した初めての官設公募絵画展覧会で、滋野は「御陰山水」、「水辺花鳥」、「人物」、「月二浪」の四作品を出品している。

2015年4月20日月曜日

今和次郎とジャンパー姿



 考現学者の今和次郎は、どこに行くのもいつもジャンバー姿で有名です。本人へのインタビューにもそのことを触れていますので、一部紹介します。それにしても変わった人ですし、津軽ぽい方です(弘前市立図書館でコピーしてきたものですが、本の題名は書き忘れました。昭和32222日の新聞記事です)。


 ワタクシは、お弔いの時はこうしています。まず正式通知をうけていない知己の場合は、自宅にいたままで、両手を合わせて拝む。御仏だからこうしても、自分の心が通じるし、第一わざわざ出かけてゆくための時間がほかに使える。次は通知をうけた場合であるが、この場合は、お悔やみをのべるかたがた出かけてゆく。もちろん不断着の小ざっぱりした服装(注:ジャンバー)です。ところが問題なのはお香典ですね。いろいろ考えた末遂に一昨年からお香典は一切無記名にすることにした。のし紙も、何流という幾つ折などはとらわれない。仏前でご焼香の際にこっそりあげてくる。お香典返しなどは必要ないことだよ。差上げられたものは何でも有難く頂戴して心を温めておいた方が宜しい。得だよ。お葬式のことでこんなことがありました。ある著名な方のお葬式があって、立派な通知状をもらったので、出かけていった。葬儀場にいって、受付係へ申しでたら、受付子、しきりに頭のてっぺんから足の爪先まで点検する。礼装でない、ジャンパー姿のボクを、どうもウサンくさそうに見ている態度です。そこで、こちらが気を利かしてそのまま、さっさと家に帰ってしまった。早速、はがきに絶交状を書いて送ることにした。

 本日、貴家の御葬儀に参列するため参上しましたが、受付の者余りにそっけなない応対をするので、その場から帰宅しました。以後このような家風とのつきあいは致したくありませので絶交いたします
右に通知します。

—とね。ところが、ひととおりのお弔いがすんだ頃、当のご主人、夫妻がお土産を携えて訪ねてきた。玄関へ入るなり平身低頭

—いやいや、先日は、まことにご無礼なことをしたそうで、きょうは二人でお詫びにまいりました

という工合、こちらも、そうとわかれば、どこの国のように拒否権を発動するつもりはないのだから。さっさと仲直りしてお土産を受取り帰ってもらった。さて、と。大声で“早くお茶を沸かせ”という工合、近所の子供たちも呼んで、お土産のお菓子を戴くレクリエーションと相成るわけです。
 ですが、ワタクシも困ってしまったことがあったね。それは前アメリカ大使アリソン氏から正式のパーティーにお招きされた時です。いままでは、日本国内における公私の交際ですが、こんどは国際的な招待ですから、国際慣行にならった礼装にしなければ失礼にあたるだろうぐらいに考えないわけにはゆかない。ずいぶん考えた末、前日までは、こんどというこんどはお隣から、出席するための服とネクタイとピカピカ光った靴を借りずばなるまいと考えたーそうはしてみたものの、どうもサッパリしない。そんなことしちや、これまで自分が築き上げてきた生活実験者の地位が、一ぺんで崩れてしまう。それにバックボーンが失われて物笑いにならないとも限らない。そして当日になって重大決意をしていつものように小さっぱりしたジャンパー姿のままで出かけていった。
 略
 ワタクシの生まれはね。弘前市百石町、下町で育ったんです。小学校は時敏、東奥義塾、東京美術学校卒というコースで弟は今純三ですよ。大正九年早大教授になり昭和五年から六年にかけて欧米を見学したりしました。本職は理工学部の建築などということになりましょうが、終戦後は、もっぱら衣食住生活の合理化に取り組んでいます。ですから五代将軍綱吉が始めた小笠原流的礼儀作法とか、消費経済からの流れをくむ文部省家政科教育に大いに学問的批判をくわえて来たのです。それで、小笠原流家元から抗議をうけたり、全国の家政科の先生を敵に回したりしているわけです。結婚したのは四十一歳。もちろん初婚、相手も初婚で、いろいろな事情からおくれたわけですが、動物的恋愛ではなく人間的結婚をしました。晩婚ながら六十九歳のこんにちまで一男四女をもうけた次第。母が亡くなった時、仏前で誓いをたてる結婚で、妻は信玄袋二個を持ってきました。清き交際七年、自然に握手する形でしたから三三九度の杯はけがらわしいし、自給不足を涙で覚悟してのスタートを切ったわけです。娘も二人昨年結婚しましたが、神前結婚で経費はたったの三百円、父のボクは中身はお知らせには及ばぬ餞別を差上げ自然に子供も独立しています。生活実験者のいまの心境ですか。それも抵抗がありますから、ただ自ら実効あるのみです。言行一致しないために、つるし上げられるようなことはないですね。


2015年4月19日日曜日

日本のお風呂文化



 海外では日本のようなお風呂はありません。一般家庭の風呂はシャワーの受け皿のようなもので、バスタブに入って、そこでシャワーを浴びて体を洗います。たまにはバスタブにお湯を張り、浸かることもありますが、日本のようにお風呂にお湯を張り、体を洗うのは洗い場でという習慣はありません。

 うちにも過去に二名程、アメリカからの男女高校生を4か月間くらい預かりましたが、彼らは結局一度もお風呂に体をつかり、くつろぐということはなかったように思えます(直接見たわけではありませんが)。たまに温泉に連れていけば、旅館などの大きな風呂には入りますが、家の風呂には入らないようです。他の人が入ったお湯に浸かるのが汚いと考えているのかもしれませんし、聞いてみると熱くて入っていられないといっていました。

 ところがALTなどの長期に日本に住み、積極的に温泉に行くようなひとは、最初は熱くて、なかなか日本人のようにはリラックスしてはいれないが、次第に好きになって、アパートの小さな風呂でも、そこに熱いお湯を張って、ゆっくりつかるのは何よりリラックスするというひとがいます。

 こういった傾向は欧米でもあるようで、檜の本格的な日本式風呂を家に作り、夫婦でゆったり入るというのが、流行ってきています。日本に旅行、住んでみて、日本式風呂が気に入ったひとが増えてきたからでしょう。さらにはドイツでは日本式の温泉をうたったホテルも登場しているくらいです。といってもほとんどの外国人は日本式の風呂はだめのようで、数十年日本に住んでいても、シャワーが主体という方も多いのが実際です。

 こういった生活習慣はなかなか変えられないものですが、昨今の海外でのすしブームを見ると、そうとも言えないかもしれません。2030年前まで火を通していない生の魚を食べる習慣は外国にはなく、未だに多くの外国人にはマグロの寿司を旨いとは思っていないと思いますが、流行ということで食べているうちに次第にうまく感じるようになってきたのだと思います。よく味はわからないが、食べているうちに馴染み、うまく感じるようになったのでしょう。同じように毛嫌いせずに日本式のゆっくりお湯につかることも、慣れれば快適になってくるのでしょう。ただこれを家に作るとなると難しくでしょうが。それでも屋内での土足厳禁の家は、掃除をする主婦の強い支持を集め、次第に海外でも一般化しており、海外のインテリア雑誌をみていると、北欧ではかなり普及しているようです。

 TOTOなどのユニットバスメーカーも、これまではもっぱら国内向けでしたが、今後は使用用途、値段、デザインを変えることで、アジア、欧米も含めた海外への展開が可能かもしれません。追い炊き機能などは日本のメーカーしかありません。実際に見た訳ではないのですが、韓国の一般住宅の風呂は便所と一緒で、洗い場はなく、欧米と同じ使い方をしていますし、中国、台湾も同様です。洗い場で体を洗い、バスタブには肩までつかってリラックスするという日本独自の風呂を楽しみ方、それに金をかける文化。今後は、もっと世界に普及していくのではないでしょうか。