2021年6月17日木曜日

明治10年頃の弘前絵図

東照宮付近

全体図、薄い和紙に描かれている

 先日、ヤフーオークションを見ていると、明治頃の弘前を描いた絵図が出ていた。かなり薄い和紙に描かれたもので、何か元本があり、それを写したもののようである。明治二年弘前絵図の写しは、少なくとも三枚、弘前図書館八木橋文庫にある明治38月のもの、弘前博物館にある明治4年7月のもの、その写しで弘前図書館にある同じく明治47月のものが確認されている。これら4枚の絵図を見ると、明治2年から4年までのわずか2年間であるが、記載内容が少しずつ異なっており、その違いから時代の変化を見ることができる。もちろんオリジナルの明治2年絵図が、最も丁寧に描かれており、その写しは描写は劣る。それでもほとんど空白がなく、その製作にはかなり期間がかかったと推測できる。

 今回、落札した絵図は、これらの明治2-4年の絵図に比べて明らかに年代的には後だと思われ、場合によっては昭和くらいまでいくのではないかと危惧したが、それでも弘前全体を示す絵図であることは間違いないので、頑張って落札しようと考えた。何とか落札できたので、その詳細について報告したい。

 

1.     大きさ、紙

 横114cm、縦136cmで、明治二年弘前絵図(150cm160cn)より少し小さく、右下部分が欠けている。また明治四年の絵図が136cm164cmなのでこれよりも小さいが、弘前の中心街のみを記入しているので、縮尺はそれほど変わらないかもしれないし、写しであれば、同尺で書き写すだろう。ただ道の形状や方向が違っており、写しではなく、新たに線を入れて制作した絵図かもしれない。全体的には装飾性は全くなく、また未記入の部分も多く、完成した絵図ではなく、制作途中あるいは、本絵のために下書きであるかもしれない。ただ毛筆で2mmほどの細かい名前を記入している技術は、絵図作りの専門家によると思われる。紙は和紙であるが、かなり薄く折り目は破れそうになっているので、早期の裏打ち、あるいはデジタル保存の必要がある。

 

2、制作年代

 制作年代の推測は大変、難しいが、今日一日ざっと見た印象から制作年代を推測する。まず大正、昭和になると、ほぼ手書きの地図は作られることはなく、あるとすれば絵図マニアに贋作を売るためであろう。江戸、大阪ならともかく、弘前の市街を描いた手書きの贋作の絵図をわざわざ作る意味はない。間違いなく明治時代の作品と思われる。

 手元にある明治二年弘前絵図と比べると、人名はほぼ一致するが、それでも新たな記載も多い。そうした記載から時代を推測していく。

 

1)     和徳堀越役所

松森町の南に“和徳 堀越 役所”の記載がある。小区や村ができ、そこに役所ができたのが明治11年以降なので、この絵図は明治11年より前ではなさそうである。最初は複数の村同士が一つの役所を共用していたが、明治22年に周囲の村を合併し、新たな和徳村、堀越村ができ、それぞれの役場ができるので、それ以前ということになる。

 

2)     旧和徳小学校、魚市場周辺

 明治二年弘前絵図では、このあたりは“御収納倉二ヶ所白米倉一ヶ所”、“廣小路と称す空地”その後ろは“和徳御収納蔵 東掛、北掛と区別し、倉八ヶ所 月々藩士へ米を渡す所”となっている。和徳大通りから空地の奥に収納蔵があり、藩士はここまで米を取りに来たのであろう。これが今度の絵図では空地は“東新丁”となり、“和徳御収納蔵”は“東長ヤ(屋)”となっている。弘前市立和徳尋常小学校が弘前藩の米倉を無償提供してもらい、それを校舎として開校したのが、明治72月であることから、この長屋があったのは、明治2年から明治7年までと思われるので、これによれば、絵図の制作年代は明治7年より前となる。

 またこの辺りに関してはかなり細かい記述が並び、東照宮の横には愛宕宮とあり“桃井作渡 神楽殿”とある。さらに和徳大通りを挟む道の向こうは明治二年弘前絵図では町人街なので無記名であるが、この地図ではカンコ、菓子、元ヤ、今井、大仁、大膳廣幸、野清関東屋吉田吉次郎、あるいは東新丁の横には間三九郎、大阪屋善四郎などの町人の名がある。

 


 

2021年6月16日水曜日

弘前城の火薬庫

 



 現在、急に思い立って、本を出版しようと文章を書いている。タイトルは、まだ未決定であるが“弘前歴史散歩”のようなものを考えている。観光客が弘前駅前からスタートし、代官町、土手町、上白銀町、弘前城、仲町などを散歩するコースで、現在ある建物、そこに昔あった建物、出来事など、明治二年弘前絵図とこのブログを参考に説明を加えている。あまり構成は考えず、思いつくまま書こうと思っている。今のところ35000字くらい書いたが、10万字くらい、写真を入れて200ページくらいの本を予定している。1、2年後をめどに出版を目指している。

 

 前川國男の代表的な作品である弘前市立博物館と弘前市民会館がある場所、さらに芝生の広場、駐車場、テニスコート含めて、追手門から入って左の広い敷地が陸軍第八師団の火薬庫であった。その前は何かと言うと弘前藩の焔硝蔵があった。江戸時代の戦のない時代にどの程度、火薬をここに置いたかわからないが、開城当初に落雷により天守閣にあった火薬庫が爆発し、天守閣が崩壊した記憶は鮮明にあり、かなり注意深い管理を行っただろう。今は、藤田記念庭園から市民会館に入る入り口があるが、この建物ができるまでは入り口は、追手門方向だけで、この区域は、西は断崖と柵があり、下から登る西門には見張所があり、厳重に監視していた。周りは板塀で囲まれ、入り口は下馬橋方向で、そこには腰掛屯所があった。南方向は堀と土塀に囲まれて、この一帯が周囲から隔離したところであった。実際の火薬量たるやそれほどでなく、人気のない寂れた区域であったと想像できる。

 

 明治31年に日本陸軍第8師団が創設されると、兵器廠や火薬庫が弘前城内にできることになった。その際、弘前藩の時代から火薬庫であった、この区域はそのまま第八師団の火薬庫となった。第八師団は青森、岩手、秋田三県を管轄する大きな師団であり、その弾薬庫もかなりの規模になったに違いない。戦艦三笠の爆沈事故のように乗務員によると思われる火薬庫放火の事件は結構多く、同様に陸軍の火薬庫への放火事故もあった。弘前の火薬庫は市内の真ん中にあるため、より厳重な警戒が必要とされ、どこかの段階では西門も閉鎖された。

 

 戦後、ここにあった大量の砲弾、弾丸などは突然、不必要となり、多くは海に捨てられた。そして市民の間で、この土地の活用方法が論議された。まずスポーツ設備を作ろうということで、テニスコート、相撲土俵、野球場などが作られた。野球場は、博物館の方向がホームベースで、今は芝生の広場になっているところが内野、外野となる。その後、弘前市民会館、博物館ができるにつれ、野球場、相撲土俵がなくなり、次第に今のような形となってきた。

 

 弘前市民会館ができたのが、昭和39年(1964)、すでに57年、博物館でも昭和51年(1976)だから45年経つ。いずれもかなり古く、もはや前川國男の代表的建築物として価値がある。今後ともうまく保存、活用していけば、あと50年後には文化財になる可能性もある。

 

 まあ、こうしたネタも含ませながら、話をつなげていくのだが、いろんな方向に話が飛び、読みにく本になっても困る。ディスカバーニッケイでの編集経験から、うまく編集者を使うことで、客観的、読者の視点で評価できるので、今回の出版は積極的に出版社の編集者を利用することにしたい。

 


2021年6月9日水曜日

新型コロナウイルス、武漢研究所からの流出



 新型コロナウイルスの中国起源説、それも武漢研究所で開発されていた生物兵器としてのコロナウイルスが流出したものだという説が広がっている。新型コロナウイルスの強い伝染力、死亡率の高さは、過去のスペイン風邪と似ている。1918-1920に広まったスペイン風邪は全世界で5億人以上が罹患し、1700-5000万人が死亡したという。今回の新型コロナウイルスは、すでに感染者は1.74億人、死亡者は384万人で、これからもさらに増えると考えられる。1918年当時に比べると衛生観念や医療も進み、昔であればもっと感染者や死亡者が多くかったのは間違いなく、人類史上でも戦争以外では大きな災難と考えられる。

 

 最初の中国起源説は、トランプ大統領の時代に強く言われたが、その後、ハイデン大統領になり、またWHOの武漢への調査もあり、少し収まってきたが、ここ1ヶ月で再び活発になってきた。親トランプ派に人が言っているのではなく、細菌学者も、新型コロナウイルスの構造が自然界でありえない構造で、どうも人口的に作られた形跡があること、中国のワクチン製造時期が、感染の報告前の2019年の11月ことから始まっていることなどが、その理由として挙られている。もちろん、スペイン風邪の時代は遺伝子操作などの技術もなく、人工的に伝染力の強いウイルスが作れないが、今では、それほど難しくなく、実際に武漢の研究所でコロナウイルスの研究をしていたのは事実である。

 

 もし武漢で研究していた細菌兵器用のコロナウイルスが市中に流出し、それが全世界に広がったとすると、これは人類史上、最も大きな事故とそれによる被害と言ってもよかろう。アメリカの同時多発テロ事件による犠牲者は3000人程度であることを考えると、第二次世界大戦後、最も大きな犠牲者のでた事故ともいえよう。アメリカで言えば、新型コロナウイルによる死者数は約60万人で、すでに第二次世界大戦の戦死者を超えている。ある意味、科学が産んだ世界的な事故ともいえよう。

 

 中国と言えば思い出すのが、2018年にあったゲノム操作による遺伝子操作ベビーの誕生で、双子の女児ができた。問題はこうした研究をした科学者が、世界中から批判されるまで、中国国内で何の批判もなかったことで、当初、実験を行なったこの科学者は自慢げにその研究成果を発表した。全く科学者本人は倫理的に問題ないと思っていたのだ。こうした科学者の倫理観の欠如は、秘密主義の社会主義国では一般的に見られることで、こうした点が今回の武漢研究所の新型コロナウイルスの開発と流失にも関与している。もう一つの問題は、中国は政府によりマスコミが完全に統制がされているので、もしこうした事件があっても政府でもみ消される。2000万人が餓死で亡くなった1950年代の大躍進を完全に中国の歴史から消し去った実績があるだけに、研究所からのウイルスの流出など実に容易に消し去ることができる。

 

 おそらく中国社会主義国家が完全に消滅するまで事件の真相は解明できないと思われるが、もしこれが事実だとすると、遺伝子操作という科学が、人類史上でも大きな事件を引き起こしたことになり、後1000年もするとSF ではないが、科学が本当に人類を滅亡させる可能性もある。今回も2年間にわたり、世界中の経済活動を停止し、多くの死者を出すなど、第二次世界大戦級の影響が出たことから、中国が真実を述べることはなくても、生物兵器、ことに遺伝子操作に関しては、世界的レベルにおいて規制をかける必要があろう。一方、迅速なワクチンができたことも遺伝子操作技術によるので、研究における倫理性の規定がより厳重に、公開すべきだろう。

 

 チェルノブイリ原発事故、東日本大震災の福島原発事故など安全とされる原子力発電所の事故があったが、その反省はあまりなかった。あの場合も、一歩間違えると、東日本が壊滅した可能性もあった。今回ももし、研究所で開発された人工のウイルスがこうした事態を招いたなら、もはや科学は人間が倫理規程などで自らコントロールするのができないものになっていないか。




 

2021年6月6日日曜日

メールによる対応

弘前レンガ倉庫美術館のあるところである



 仕事と趣味の関係で、多くの人とメールや電話をするが、分野によってその対応、返信の速さが違う。

 

1.     新聞記者とマスコミ関係者

 新聞記者やテレビのスタッフは、メールを送っても返信は早いし、場合によってはすぐに電話、あるいは直接に会いたいという連絡がある。大抵は、その日のうちに連絡がきて、数日、一週間以上かかる場合は、その旨の断りがある。これは多くのビジネスでの対応に準じたものであるが、さらにこの人たちは、腰が軽く、必要があれば、すぐに一度会って話をしたいとかの連絡が来る場合が多く、こちらが連絡すると数分後には別の質問が来るようなLine的な受け答えが多い。個人的には一番、好きなパターンである。

 

2.     矯正歯科、歯科関係者

 返事は比較的早いものの、一、二回の応答で終わる場合が多く、あくまでビジネスライクである。ただ矯正歯科の先生は、全く面識のない先生に、自分のところの患者を紹介することも多いため、人見知りは少なく、割と普通に連絡してくるが、一般歯科の先生もこうした応対は不得意の先生が多い。例えば、患者が進学のために県外に行く場合は、その近くの矯正歯科の先生をインターネットで調べて、電話し、了解を得てから、紹介するようにしているが、一般歯科の先生は面識のない先生に連絡することはできないようで、患者に探すように求めることが多い。私自身、海外の矯正歯科医も含めて面識の全くない先生に連絡するのは、それほど負担ではない。

 

3.     文系の大学の先生

 郷土史関係では、文系の大学の先生に連絡することは多い。この分野の先生は、申し訳ないが、少し非常識の先生も多く、本を送ったり、質問しても全く無視されることが多い。私なら、自分の研究に興味を持っていただき、質問されれば、あくまでわかる範囲であるが、調べてすぐに返事をする。あるいは本をいただければ、礼状を書く。当たり前のことである。ただこれができない文系の学者は意外に多い。ある美術史家の先生に私の調べている“芳園”に関する資料を5ページほどにカラーコピーでまとめて送ったことがある。それも二回送ったが、半年以上経った今だに返事はない。わからなければ、わからない旨の返事をすればいいだけなのだが、それができないようだ。また本を送っても全く礼状もない場合も多い。歯科の場合でも、論文のコピーや質問がくる場合があるが、無視されることはない。もちろん学長、部長など組織のトップに立つような先生は、本を送ったり、質問をすればそれは恐縮するほど丁寧な返事がきたりするが、社会問題にツイッターやフェイスブックで積極的に発言する先生に限って世間的な感覚で言えば少し非常識な感じがする。どうも2週間、ルールのようなものがあり、どんな質問でも2週間くらいしてから返事がくることが多い。少し待たすくらいがいいというのが、この分野の先生で多いパターンである。

 

4、役人

 市町村の役人の対応は遅くて、最悪である。手紙やメールで質問をしても返事はなく、行動もない。以前、藤田記念庭園の洋館に藤田謙一と孫文が一緒に写った写真を飾ってもらおうとしたがある。写真の掲載許可まで得て、管理者の弘前市緑地課に資料を送ったが、その後、一年間無視された。流石に知り合いの上の方に事情を話して善処してもらったところ、すぐに展示となった。事情を聞くと担当者が変わって引き継ぎができなったからだと説明を受けた。また明治二年弘前絵図を五年以上前に弘前図書館に寄贈したが、いまだに正式な寄贈となっていない。専門家の鑑定がないためである。何しろ動かない。先日も、下澤木鉢郎の版画を博物館に寄贈しようとして係員に、もし同じような作品がなければと寄贈したいと申し出たが、同じ作品があり、受け入れられないという返事が来たのが2週間以上経ってからである。収蔵品のデータベースがあれば、数分でわかることである。

 知人に聞くと、役人はいろんなことを想定して対応するために、すぐに返事をせず、じっくりと検討してから返事をする習慣があると言っていた。もちろんそうした事案もあるとは思うが、仕事は溜め込まず、さっさと片付けないと、どんどん溜まっていく。以前の葛西弘前前市長の頃は、市の仕事がスピーディーであったので、要はトップ、弘前市で言えば、市長、部長、課長、係長など部門のトップが早い対応を面倒がるためであり、トップがスピーディーな仕事を厳命すれば簡単に変わるのだろう。

 

4.     メールで質問してくる一般の人

 年に数十通のメールでの問い合わせがある。半分は本職の矯正治療についての問い合わせで、これは実際に診てみないとわからないので、予約の電話をしてもらうようにしている。後の半分は弘前の郷土史、とりわけ多いのは先祖についての質問である。これに対しては、本気で調べようとすると、図書館で資料を探し、かなりの時間を割くことになるため、1時間くらいで調べて、すぐに返事をするようにしている。だいたい調べる資料は数冊の本と明治二年弘前絵図、六年地籍図などであるため、それほど労力はかからないが、それでも時間は浪費している。中にはこれまで調べた膨大な資料を一緒に送ってくれる方もいて、こうした資料はこちらにとっても貴重な情報でありがたいが、一方、自分の知りたいことをただ質問する、それも少し調べればわかるようなことをメースしてくる方も多い。

 

 

 

 


 

2021年6月4日金曜日

最近嬉しいこと

 




最近、嬉しいことが二つあった。一つは朝の文化放送、「横濱流儀 ハマスタイル」で横浜市長、林文子さんが「須藤かく」のことを取り上げてくれた。67分の短い番組であるが、要領よくまとめられている。季刊誌“横濱”の2021.

新春号に、斎藤多喜夫先生が「横浜人物誌・特別編 その4 共立女学校出身の女医 須藤かく」という論文を投稿し、それを市長が読んで、このラジオ番組で紹介したのであろう。さらに4月にディスカバリー・ニッケイの2回に分けて投稿した私の論文も参考にしてくれたと思う。嬉しいことである。共立女学校出身で外国の女子医大を卒業して医師になった四人、岡見京、菱川やす、須藤かく、阿部はなについては、全く歴史に埋もれた人物であるが、その強い意志力は今の女性の社会進出のはしりであり、多くの人が興味を持つと考えた。それで、簡単な趣意書を作り、週刊アエラ、NHKにも送ったが、全く返事はない。結局自費出版した400冊の本も売れたのは200冊以下で大量にあまり、出版社からも取り上げて診療所の倉庫に置いている。今回も横浜にある18の図書館に本を寄贈しようと、横浜の秘書課に寄贈許可願いのメールを送ったが、一週間しても返事はない。市長がラジオで取り上げ、本屋で手に入らない本の寄贈であれば、ものの5分で、寄贈、よろしくお願いしますと返事が来ようものだが、そうはいかないのが役所仕事である。もう少し待ってみる。

 

もう一つは、フランス・パリの田根設計事務所から、明治二年弘前絵図の動画での使用許可のメールが来た。田根剛さんが設計した弘前レンガ倉庫美術館がフランスの国際的建築賞で、「フランス国外建築賞AFEX Grand Prix 2021」を受賞した。その際、プレゼン用の動画の冒頭に明治二年弘前絵図を使ったという。今後、受賞を機にHPなどでも掲載するので使用許可が欲しいということであった。もちろん古絵図そのものは150年以上前のものなので版権はない。ただこの絵図を撮影して、デジタル画像として制作したのが私なので、デジタル画像の版権は私にあり、かってに使っても気にならないが、一応は許可が必要となる。他にも明治八年弘前地籍図や弘前藩領絵図もデジタル化しており、版権は私にある。明治二年弘前絵図についても寄贈した弘前図書館には、使用許可はいらないと言っているのだが、親しくしていた図書館員もいなくなり、ややこしくなっているのだろう。

 

弘前レンガ倉庫美術館の動画は、以下のHPに載っているので見て欲しいが、うまく構成しており、さすが芸術家の仕事と思った。最後の夕日を浴びた岩木山を背景に黄金色に輝く美術館のショットはすごい。弘前こぎん研究所もこの度、国指定の重要文化財に選ばれ、前川國男の他の作品とともに、日本国内ではほぼ唯一と言っていい田根剛さんの作品も弘前で見られることは、建築ファンにもおすすめできる場所となった。他には上遠野徹さん設計のデネガ、毛綱毅曠さん設計の縄文的な雰囲気の中三デパート、他には明治、大正、昭和初期の多くの個性的な建築があり、見るところには困らない。

 

 AFEX公式ガイド

https://www.afex.fr/grand-prix/2021/5/20/grand-prix-afex-2021-de-larchitecture-francaise-dans-le-monde

 

 


2021年6月3日木曜日

貞昌寺の男根型墓

 


 この前、近くの古書店でいただいたネガを現像したことは、すでにこのブログでも伝えた。その中に男根型をした墓の写真があった。先日、弘前図書館で調べていると、この写真に関する情報が見つかったので、報告する。

 

 まず現像したネガは、昭和57年から陸奥新報で連載された「津軽紅灯譚」のコピーしたものではないかということで調べた。比べると半分そうで、半分そうでない。新聞記事は全て図書館に保管され、大まかにそこに載っている写真を見ると、今回見つかった町田さんの写真と完全に一致する写真とそうでない写真がある。一致する写真は説明文も含めて全く同じだったが、結局、津軽紅灯譚と町田さんの写真の関係はわからなかった。

 

 この男根型墓については、「津軽紅灯譚」に全く同じ写真が載り、その説明文があった。それによると遊郭の主人が自分の娘、厳密にいうと将来、お座敷で勤めてもらうための養女の墓で、男を知らないで亡くなったのは不憫と、こうした変わった形の墓を作ったようである。写真をよく見ると“内山”と折れたところに“姓?”の字がある。おそらく苗字であろうが、どこの妓楼かはわからない。上部がかなり削られ、また下の1/3部分で折れている。形態は明らかに男根を模している。その後、子宝を授ける益があるとかで墓を削って持ち帰る人がいたりしたが、風紀上、好ましくないため、いつしか地中に埋められたようである。これとは少し違う説明が“青森県における生殖器崇拝資料”(増田公寧、青森県率郷土館研究紀要36号、37-54,2012)に記載されている。「昭和初期には、高さ80cmほどの石製男根が祀られていたらしいが、現在は不明である。境内の個人の墓地に、夫婦の墓に挟まれるような形で存在したと言われる。墓碑として用いられたものではないという。」他には禅林街の勝岳寺にも「好色なる女人の遺言による供養物」として昭和初期に石製男根があったとされ、所有者は遊郭の関係者であったという。

 

 観音山普門院の延命地蔵堂には白無垢の花嫁人形、新郎新婦の人形や故人の写真が飾られている。すごく怖く、まさしく寺山修司ワールドである。これも未婚で男女が結婚もできなかった不幸をあの世でかなえさせようとする津軽の、戦後の風習である。全国各地にある男根型像の多くは、安産、子授けの神様として人々から信仰されてきたが、貞昌寺の男根型墓は、安産、子授かりというより、こうした冥界婚の変形であるように思われる。さらに江戸、吉原でも男根を祀る金精神という風習があり、性病治癒や商売繁盛の意味を込めて遊郭の中で祀られた。それ以外にも道祖神などの石仏として男根を祀る風習は各地にあるが、故人の墓を男根型にする例は非常に少ない。普通であれば、性の快楽を知らない未婚のおぼこはかわいそうというあまりに露骨な理由は却下されるであろうし、反対者も出よう。それでもこうした名前まで彫って建立したことは、人のことは気にしない津軽人ぽいし、それを境内の建立を許した由緒ある貞昌寺の住職も心が広い。まあ亡くなった故人が、一番恥ずかしいと思っていよう。


2021年6月2日水曜日

こども庁と矯正治療

 


 菅首相は、子供に関連する諸課題に一元的に取り組み「こども庁」の創設に意欲を示した。これからの日本の未来を担う子供、あるいはそれを育てる若い国民に対する教育や福祉政策を、分野、関係省庁をまたいで所管しようという試みである。確かにここ数年、保育料の無償化など、画期的な政策が実現され、働く若い夫婦にとっては歓迎されているが、まだまだ出生率を見ても減少傾向はないものの、増加しているとは言えない。結婚率の上昇とともに、少なくと出生率が2以上にならないと人口減少は止まらない。フランス、イギリスなどの先進国も少しずつではあるが出生率の増加が進んでおり、日本でも子供を育てる環境を整備することで、同じような増加ができると思われる。

 

 それに対しては、「こども庁」のような一元化する組織を作り、出生率を増加する政策を積極的に進めることは大きな意義をもつ。個人的には、まず教員を増やし、少人数学級にすることである。一クラスの人数が減ると、教師の目が届き、落ちこぼれが少なくなる。さらにいうなら退職後のベテラン教師を臨時職員で雇い、個別教育を徹底するのもよかろう。目標は落ちこぼれをなくすことと、不登校児を減らす、あるいはこうした不登校児については個別教育を行い、教育水準をあげることが重要である。不登校児の中には必要な教育を受けられず、成人になっても仕事に就けない場合もある。

 

 歯科においては、まず子供達の虫歯が減り、あまり歯科医院に行くことが少なくなった。感覚的に言えば、25歳以下の若い世代では、1/3くらいはほぼ虫歯はなく、歯科医院に行ったことがない。今後、こうした人はさらに多くなろう。健康保険料を払っているのに、歯科治療費に使っていないという不満があろう。平成20年度で見ると、歯科医療費のうち、0から14歳は1977億円、割合では7.7%15から44歳では7072億円、27.4%に対して、65歳以上が8447億円、32,8%となっている。0歳から15歳までの歯科医療費はますます減少することになり、こども医療における歯科の役割は、予防活動に限定されることになる。

 

 一方、子供を持つ若い世代にとって、不満なのは、なぜ矯正治療が保険適用にならないかという点である。すでにヨーロッパでは子供の矯正治療は保険でカバーされているし、アメリカでも民間保険でカバーされている。矯正治療には非常に費用がかかるため、現状では家が裕福であれば、子供の矯正治療を受けさせられ、子供は綺麗な歯並びとなるが、そうでないと不正咬合であっても治療を受けられないことになる。実際に、アメリカでは歯並びの悪い人は、子供のころ治療を受けられないほど経済的に困った家で育ったと思われる。日本でもそうした傾向が出て、歯並びで育った家のレベルを推測するようになるかもしれない。歯並びは見た目だけではく、物を咬むという点では重要であり、それを放置するのは問題であるだけでなく、社会心理的な問題として不正咬合をコンプレックスとなることがある。


 是非とも、「こども庁」ができたなら、子供の矯正治療の健康保険化を議論してほしい。子供虫歯が減った分をここに回すなら、医療費の総体としては増加しないはずであり、健康保険料の世代による恩恵格差も少しは解消できる。


2021年6月1日火曜日

最近の美術館について

奈良美智さんのこの作品には独特な雰囲気がある

工藤正市さんの写真はもはやアートである。


 青森県には2006年に青木淳設計の青森県立美術館、2008年に西沢立衛設計の十和田現代美術館、2020年には田根剛設計の弘前レンガ倉庫美術館、そして2021年には西澤徹夫設計の八戸市新美術館ができる。すべて現代アートの美術館で、ここ15年ほどで4つの美術館ができたことになる。すごいラッシュである。いずれの美術館の設計も、現代、日本で最も活躍している設計者によるもので、とりわけ田根剛はあまり日本に建築作品がないだけに、弘前レンガ倉庫美術館は田根の日本における作品としても注目されている。最近もフランス国外建築賞グランプリを受賞している。田根は過去にも“エストリア国立博物館”でも受賞しており、二度目の受賞となる。

 

 弘前レンガ倉庫美術館もコロナ感染下、二度ほど見に行ってきたが、正直に言えばあまり面白くなかった。昔、見た奈良美智の”A to Z”など、弘前のこのレンガ倉庫で行われた3部作の個展、これは全く違った世界に迷い込んだ奇妙な経験をした展覧会で、私の観た展覧会の中でもベスト10にはいるものである。これに比べると弘前レンガ倉庫美術館の展覧会は、これの数十分の一の感動しかなかった。一つには現代絵画は、一つの作品だけでは、なかなかインパクトを持つことができず、作家の世界のきちんと伝えるには、同じ作家の作品を多く見せる必要があるように思える。

 

 奈良の作品は一点でも、その少女の眼差しに引き込まれそうになるが、とりわけ”A to Z“展でレンガ倉庫二階に作った、少女のオブジェ(Gummi Girl)を暗闇の海に置いた大型の作品は、最高にすばらしい。どこかアフリカの沖合にこんな景色があるかもしれない。もう一つは、レンガ倉庫内にあったタイル部屋に大きな少女のオブジェがあり、上からの水滴が涙のようにオブジェを伝わり、涙のように悲しいと同時に艶かしいものであった。こうしたオブジェも奈良の作品では面白いし、展覧会でした会えない作品となっている。

 

 大正、昭和に日本の美術シーンを見ていると、当時、日本で人気のあった作者のうち、いまだに人気があり、高値で取引されている作者は本当に少ない。当時の作品の多くが掛け軸であったため、床の間のなくなった日本では、ますます人気がなく、中には昭和初期には今の価値で100万円以上していた作品が今では数千円で売買されているケースの多い。当たり前のことだが、大正、昭和のこうした作品は、当時の現代絵画であり、人気があったことを考えると、今の現代絵画が数十年後の何の価値も持たない二束三文の評価を得るようになっても驚くことではない。新規性、現代性は時代がたつと、陳腐化し、より古臭くなるのが一般的で、そうした意味では今のような現代絵画、作家を中心として美術館は将来的には厳しい。

 

 ここ半年、何度も見る写真がある。東奥日報の元記者、工藤正市さんが撮った写真を彼の子供がインスタにあげている。主として1950年代の青森市を中心に、その周辺を撮った作品集で、そのレベルは非常に高く、当時の津軽の雰囲気、季節、人々を圧倒的な迫力で伝えている。もはや個人の写真というよりは、全体としてアートと呼ばれるものであり、年配に方が懐かしいというレベルを超えて、コメントを見ると海外の方からのものも多く、普遍的なアートになっている。こうした一群の、数百枚の写真と著名は現代作家、仮に奈良美智さんでもいい、彼の一つの作品を比較すると、そのパワーや感動など勝ち目はない。そうした意味では、現代作家の作品もいいのだが、こうした工藤さんの作品を芸術作品としてきちんと管理、展示するのも大事であり、是非、弘前レンガ倉庫美術館として、いちど着手してほしい企画である。奈良美智さんの作品とのコラボも面白いが、一点では負ける。



この工藤正市さんのインスタは本当に楽しく、これぞ青森である。


https://www.instagram.com/shoichi_kudo_aomori/