2024年5月13日月曜日

青森県立美術館 美術館堆肥化宣言

マチスです








子供の頃から絵は上手い方であった。小学5年生の時であったか、図工の時間、クラスの女の子が空を紫色に塗っていて驚いたことある。当時、図工の猪俣先生に習った、筆を洗った水で空を描くというテクニックに有頂天になっていただけに、なんで空が紫なんだという感覚は忘れられない。現実にある風景をいかに忠実に表現しようかとしていただけに、青い空、曇った空を紫に表現する彼女の感覚にびっくりしたし、図工の猪俣先生も絶賛していた。ただ彼女は絵の才能が特別あったのではなく、たまたまこの時、紫色の空にしただけであった。

 

昨日、フランク・ロイド・ライト展が最終であったので、家内と一緒に青森県立美術館に行った。建築家の展覧会というのは難しく、写真と設計図いっぱいの展覧会で、あまり面白くはなかった。普段は企画展だけいくのだが、今回は一般展も見たが、とりわけ棟方志功のでっかい肉筆の壁画には驚いた。大きな鳥を描いたもので、わずか2日と書き上げたというが、まるで富岡鉄斎の代表作の富士の絵に匹敵する迫力があった。これを見たただけでも行った価値はあった。おまけの展覧会の「美術館堆肥化宣言」という変わった企画展が開催されていて、現代アーティストから農家の人、写真家など様々な人々の作品が展示されていて、これは面白かった。とりわけすごいと思ったのは、いわゆるブリュットアートと言われる障害をもった人々の作品で、これについては以前から興味があって、2016.11.2ブログと2016.9,8のブログでも紹介した。今回、発表したのは弘前大学教育学部有志という集団で、作家の名前も書いていたが、記録するのを忘れた。強烈な個性を全面に出した色彩とフォルムで、こうした作品を見て、私が小学校の時に味わった紫の空と同じようなショックを覚えた画家も多いだろう。

 

まず女性の3点の肖像画、紹介では“子どもあとりえプランタン蔵(2022)”となっているが、マチスの傑作である。フォルムと色使いはすごいとしか言えない。ピカソ的とも言えようが、全く影響は受けていない。二点目の作品は、斜め線を多く描いたもので、うちの家内はたくさんの鯉のぼりと言えっていたが、私には楽しそうな小魚に見えた。色使いと余白、あるいは縦に流れた線もアクセントになっている。説明には「ほほえみおらんど蔵」(2023)となっている。ニューヨークのメトロポリタン美術館にあってもおかしくはない。作品から多くの発想を産むのは、現代抽象画にとっては重要な要素となる。三番目の作品は、ブリュットアートかどうかわからないが、完成度が高く、どこかで売っていれば書いたいと思った程だ。逆に完成されすぎて、最初の二点ほどのインパクトはないが、それでも売れる作品であり、画家として十分に生活できるであろう。

 

最後に棟方志功の鳥の絵を紹介するが、あんなにでかい2、3mある鳥は見たことがない。写真で見ると四曲の屏風のように思えるが、実物は遥かに大きく、壁画である。個人の家の依頼で描かれたというが、よくこんな大きな作品を家に入れられたものだと思った。あの大きな美術館でも狭いくらいであった。棟方も子供の頃から目が悪く、ある意味、ブリュットアートの範疇でみた方が良いかもしれない。左目はほぼ失明、右目の視力も低く、本人も言うようにモデルを使ってもよく見えないため、心に感じたものを表現した。もし棟方の視力がよければ、彼の作品は違ったものになったかもしれない。

 

草間彌生は、統合失調症の幻覚、幻聴から逃れるために絵で表現したとしているが、彼女しか見えない、感じられないものが作品として強烈な個性を放っているし、モネも晩年はほとんど視力がない中で、蓮池の連作を描き続けた。アンリー・ロートレックは、骨形成不全症で身体発育不全であったし、ゴッホも間違いなく統合失調症などの症状があった。山下清は日本のブリュックアートのはしりと言ってもよかろう。つまり偉大な芸術家の中にも、今ではブリュットアートとされる人も多くいて、殊更健常者と区別する必要もないかもしれないが、やはり、特別な教育も必要であろう。今回の展覧会では、あえてブリュックアートと言う括りを外して展示していたが、それでも強烈な個性を発揮していた。もっと画商なども積極的に応援、支援し、販売につながるようなところにきているように思える。さらに多少の技工が必要で費用もかかる、油彩画にもチャレンジしてほしい。さらに言うなら商売、あるいは作家として生活できるように、作品の販売も含めた支援も必要であろう。





2024年5月11日土曜日

 歯科医師国家試験の思い出

 



私が歯学部を卒業して、歯科医師国家試験を受験したのは、昭和56年であった。筆記試験と実技試験の二つがあった最後の方の年で、確か数年後には実技試験が廃止された。

 

筆記試験の準備は、1年ほど前からクラスの成績優秀者数名が担当委員となった。東京で行われる全国的な対策委員会に出席して、傾向と対策を伝授され、持ち帰ってクラスで説明する。国家試験の問題は各大学の教授が作り、ある程度、教授名が絞られるので、そこの大学の学生が傾向を調べてくる。最初の頃は数ヶ月ごとの集まりだが、受験日が決まると、頻回な集まりとなり、受験日直前になると電話で、こんな問題が出るぞといった伝言がしょっちゅう回ってくる。実際、ほとんどがガセネタであったが、唯一、ある大学から出た情報は正しく、事前に問題が漏れていた。後に問題となり、新聞でも取り上げられた。今は物忘れが酷いが、当時は暗記ものが得意であったので、それほど受験に苦労した記憶がない。歯学部、医学部の授業についていえば、暗記ものが得意な学生は楽である。受験が終わると、自己採点のために、みんなが解答を持ち寄り、正誤の検討をする。私は12回生であったが、開校以来国家試験に誰一人落ちたことはなかったので、初めて落ちると、大変なことになるというプレッシャーがあった。今でこそ合格率が常に100%ということはあり得なかったが、これがずっと100%であったのはよく考えると奇跡的であった。幸い私の学年も全員合格したのでほっとした。国試の結果発表前に、私は母校の小児歯科講座に入局したが、講師、助手の先生とその年の国家試験の小児歯科の問題を解いていた。答えに苦しむような問題だったが、突然、教授室から教授が出てきて、その問題について懸命に説明する。自分が作った問題だったようだ。

 

今は無くなった実技試験を紹介しよう。親父の世代の実技試験というと、実際の患者さんを大学病院に連れてきて、その手技を見て試験官が採点するというものだった。この方法は患者集めに苦労するが、今でも世界中で行われている試験方法で、最も実践的な試験法である。私らの時代では、実技試験は2日にわたって行われる。全部床義歯の人工歯配列は、咬合器に装着した蝋堤に人工歯を配列していくのであるが、何しろ、学生の頃はこの工程だけで2日を要したものを、2時間で仕上げる。もちろん筆記試験が終わり、実技試験までの1ヶ月、毎日、朝から夕方までひたすら実技試験の練習をするのであるが、実際に受験する頃になると、1時間くらいでほぼ配列し、あとがずっと研磨して仕上げる。試験監督のリーダーは、よその大学の教授であったが、補助官は自分の大学の教官であったので、試験中に問題があれば、肩を叩かれ、こそっと注意をもらう。補綴の実技試験のときは、突然、試験場に吉田教授が現れ、受験生の作品を見ながら、でかい声で「今年の学生は上手だ」と言い放つ。試験監督が母校の後輩と見越しての圧力である。他には歯型彫刻、根管口明示、二級インレーの形成とワックスアップなどがあった。この実技試験は、落とすと、次回には仕返しをされるので、落とせないという事情があった。実際に全国の試験でも実技試験で落とすことはなかったので、次第に試験をやる意味がなくなり、廃止された。ただ卒業し、国家試験にも合格し、医局に入局しても、そのまま基礎訓練ができていたが、実技廃止後は、医局内で基礎訓練が必要となった。実技試験の評価は難しく、実際の採点は、かなり感覚的であり、報復を恐れれば試験官の教授は、どうしても不合格者は出せなかっただけ、ある程度の基準を作れば、試験としては問題なかった。実際に、日本矯正歯科学会の臨床指導医(旧専門医)の症例試験で言えば、細かな採点基準があり、合格者は30%くらいであった。国家試験の実技試験でも、通常のゆるい基準でも、歯科医に向いていない手先の器用でない人が必ず存在し、5%くらいの不合格者が出ても不思議でない。それを言えば、臨床研修医でも、研修の最後には、研修医の評価を行い、不合格ということもありうるのだが、実際はほぼ100%合格する。以前、担当者に診療研修医に不合格になる医師、歯科医について聞いたところ、精神的な問題で、不合格になる人がたまにいるとのことであった。

 

私が知る限り、日本を除く他のすべての歯科医師国家試験では実習試験がある。アメリカの場合は、州ごとに試験を受けなければ、開業はできず、実際の患者の治療を試験官が採点する。韓国の国家試験では、支台歯形成やセファロ分析もあるという。


2024年5月6日月曜日

細見くんのこと

 



子供の頃、小学4年生の頃だったろうか。友人の細見くんの家に行ったことがある。当時、週刊漫画雑誌の全盛の頃で、最初にマガジンとサンデー、少し遅れてキングの3冊が毎週発行されていた。子供に人気があったのはマガジンであったが、サンデー連載のサブマリン707も読みたかった。一家で2冊の漫画を買うことは許されていなかった。それでうちはマガジン、お前はサンデーを買い、読み終わったら取り替えっこしようと友人と協定を組むこともあった。ただ細見くんだけはクラスで唯一、マガジン、サンデー、さらにキングも購買していた。キング自体はそれほど好きでなかったが、それでも工夫して百万円貯める「フータくん」という藤子不二雄さんの漫画を読みたかった。

 

細見くんの家に行くと、ランドセルを捨てて、玄関前の部屋でサンデーとキングを貪るように読んでいた。ある日、細見くんがうちの父親の勲章を見せてやると言われ、入ったこともない奥の部屋にこっそり忍び込み、勲章を見せてもらった、数個はあっただろうか。細見くんのお父さんは2、3度見たことがあるが、かなり年配の人で、最初はおじいさんかと思った。お母さんとはずいぶん歳は離れていた。細見くんは、うちのおとんは昔、戦争中、将軍だったと漏らしたことがあった。小学生でも戦争ものはよく漫画で読んでいたので、すでにその頃、少将、中将、大将という軍隊の階級は知っていた。将軍というのは映画や雑誌などでは知っていた存在だが、身直に知ったは初めてで、へえと思った。うちの親父も陸軍中尉であったので、親が軍人だっというのは珍しくはなかったし、祖父が将軍、将官であったとしてもおかしくはない。ただ親が将官であるのは驚きで、そのため今でもこのエピソードを覚えている。

 

小学4年生というと、西暦でいうと1966年頃で、終戦後21年経過している。ポツダム昇進で大佐から少将になったとしても、早くて陸軍士官学校の39期、昭和2年(1927)の卒業となる。終戦時の年齢は40歳くらいとなる。通常、少将になるのは大正10年卒(1921)の33期くらいからなので、終戦時、45歳以上、私が細見くんの家に行ったころは66歳頃となる。確かにこのくらいの年齢であったように思える。細見惟雄中将という人物もいるが経歴は違う。当時は、まだまだ親父も含めて太平洋戦争などに従軍していた人は普通にいたというより、大人はほとんど元軍人であった。

 

今になって思うのは、細見くんのお父さんも戦後、かなり苦労したのだろう。うちの母の妹の旦那、叔父さんは戦前、脇町中学校でもトップに近い成績で、陸軍士官学校、さらに陸軍大学校を出た軍人エリートで、最終階級は少佐であった。戦前は皆から憧れ、尊敬もされていたしが、戦後は逆風となり、徳島県脇町で小さなお菓子屋をしていた。また同じ町のおじさんの友人は、これも海軍兵学校卒業のエリートであったが、戦後は牧師をしていた。元軍人といった人々の人生も戦後、大きく変わった。細見くんのお父さんも、うがって考えると、妻子とも空襲などで失い、戦後に細見くんの母親と知り合い、ひっそりと暮らし、歳をとって生まれた我が子を溺愛したのかもしれない。

 

尼崎の繁益先生は、太平洋戦争中にラバウル航空隊で零戦に乗っていたという。戦後、命からがら内地に戻り、歯科大学に入学し、歯科医となって、親父の歯科医院の近くで開業し、親父とも仲が良かった。ラバウル航空隊というと撃墜王の坂井三郎を思い出すが、繁益先生が赴任した頃は、大きな空中戦もなく、ひたすら逃げていたと笑って話していた。親父にしても、昭和16年に招集されて、満州に行き、戦後は、捕虜になってモスクワ南方のマルシャンスク捕虜収容所に収容され、日本の帰ってきたのは昭和23年であったので、7年間、軍人生活をしたことになる。酒巻和雄少尉は、脇町中学校の歴史の中でも最も優秀な生徒であった教師をしていた長谷川の叔父さんが言っていたが、真珠湾攻撃で日本人初めての捕虜となった。

 

歴史的に考えると、明治では日露戦争(明治37年)までは、まだまだ江戸時代、戊辰戦争を経験した人が主力であったろうし、昭和10年頃はまだまだ日清、日露戦争を経験した人が幅を利かせていたのだろう。そして昭和40年頃までは大東亜戦争、太平洋戦争の経験者が普通にいた時代で、そうした意味では、周りに戦争を経験したことが全くない、久しぶりの時代なのだろう。終戦から79年、大坂夏の陣が終了したのが慶長20年(1615)、それから79年というと1694年、元禄時代。今は戦争のない、いい時代なのだろう。


2024年5月3日金曜日

兼松石居の月儀帖?

 



次のページ、このページが悩まされる、兼松石居の書?



兼松石居は、幕末の弘前藩を代表する儒学者で、同時に洋学も学んだ知識人であった。森鴎外の「渋江抽斎」にも登場する人物であるが、近年はほとんど忘れられた存在となっている。藩校であった稽古館が今の東奥義塾に移行していったのは、この人物の大きな存在が働いている。東奥義塾の創立者の一人といってもよかろう。

 

十年ほど前のことか、突然、兼松石居の直系の子孫の方から冊子が送られてきた。家にあっても宝の持ち腐れなので利用してほしいというものだった。「石居兼松誠成言遺稿」と題されたものであった。表紙裏は明治16年3月7日の日付の新聞で、石居が亡くなったのが、明治1012月なので、死後五年くらいにまとめられたものである。表題は「再帰 月儀帳」となっている。月儀帳とは1月から12月までの章草体の手紙の手本であり、中身はよくわからないが、そうした文章が書かれている。

 

もらってすぐに弘前図書館に持っていったが、特に興味を持たれることがなく、必要なさそうなムードであったので寄贈をためらわれた。弘前博物館の人が昔言っていたが、博物館は物の墓場であり、ここの来るともはや社会に流通することはないという意味である。本に関しても、図書館の寄贈用紙に記入し、そのまま図書番号をつけられ、所蔵庫の奥深くにしまわれ、二度と日の目をみないのはわかりきっている。

 

寄贈を躊躇われたもう一つの理由は、遺稿となっているが、兼松石居本人に書であるか、はっきりしなかったことがある。久しぶりに見てみると達筆な書で、流石に星野素関に書を学び、幕末の名筆家、平井東堂と並び称せられる力量を持っている。また明治の弘前を代表する書家、高山文堂は石居の弟子の一人である。本といったが、実際は、書面をとじたもので、一冊限りの書帖に近いものである。この書帖の途中に印が入っている。これまでなんとはなく見てみたが、急に森林助の「兼松石居先生傳」に石居の書が載っていたのを思い出した。その写真の印をみると完全に一致し、この書帖は兼松石居自身の遺稿であることがわかった。

 

書の上手さについては素人なのでよくわからないが、躊躇わない真っ直ぐで、自在な書であり、種々の書体を悠々と使っていて楽しい。遺稿とあるので、兼松石居本人の書であると思われるが、あまり他の手紙や書がないので、比較検討ができない。


一番大きな疑問は月儀帖の最後に 


「以高山氏蔵本謄写 明治十四年孟夏之吉 兼山山一弓」となっていて、“高山文堂が所蔵している兼松石居の書を書き写した 明治14年の初夏 兼山山一弓”と読めそうである。兼松石居は兼兼山という号を持つが、兼山一弓という別号はないし、門下生にもこうした名はない。誰かわからないが、この遺稿自体をこの兼山という人が書いたのか。ただ、その前面の印章は間違いなく兼松石居のものであり、兼松石居の月儀帖を兼山という人がコピーし、石居の印を押し、さら遺稿として直系の子孫に残すというのはどうかなあと思ってしまう。

 

このページがなければ兼松石居本人の遺稿と考えられ、公的機関に寄贈したいと思っているが、この点が解明されなくてはいけない。誰か詳しい人がいれば教えて欲しい。














2024年5月1日水曜日

不思議なことがありました

 



 





菊地九郎の手紙



不思議なことがあった。4月29日に弘前、養生会の114回目の松蔭祭に呼ばれて1時間ほどの講演をさせていただいた。この会も会員の年齢も高く、近年亡くなる人も多いため、存続が大変である。午前中の講演が終了し、養生幼稚園から歩いて3分の本町の成田書店を久しぶりに訪れた。少し本の入れ替えもあったので、数冊の本を購入したあと、店主と雑談になった。その折、最近では未使用の切手より使用済みの切手が貼っている手紙の方が人気があると話した。すると店主は最近こんなものを入手したと、古い手紙を見せてくれた。本を引き取った際に、本と本の間に混ざっていたとのことである。

 

住所をみると、驚いたことに先ほど講演した養生会の創立者の伊東重の宛先となっている。差出人をみると、1通は陸実となっている。これはすぐに陸羯南とわかった。陸羯南から伊東重への手紙であるが、やや新しい感じがする。もう1通は、?池九郎と呼べる。”菊”の崩しがすごいが、間違いなく東奥義塾の創立者の菊池九郎から伊東重宛の手紙である。さらに3通目は伊東重の弟の基への手紙であることはすぐわかった。今東光の母親を調べていた時に知った名前である。養生会に講演に来て、養生会の創始者宛への手紙を見つけた。全く偶然のことで驚いた。

 

このことを店主に告げ、いくらなのか聞いてみたが、わからない、そちらの方で値段をつけてくれという。これは困った。あまり安いと、それほど価値のないものかと自問してしまうし、そうかいって、私にとっては、とても重要な手紙であるが、一般の方からすれば、ほとんど価値はないだろう。数秒悩んだ挙句、妥当と思われる金額で購入した。個人的には貴重なお宝と思っているが、この手紙を最初に見て、陸羯南、菊池九郎、伊東基の手紙と思いつく人はあまりいないであろう。

 

内容のついては、達筆でほとんど読めない。とりわけ、菊池九郎の書、手紙については、あまりグーグルなどで検索しても出てこないので、比較ができない。消印をみると菊池九郎からの手紙は、明治4128日(1908)で、住所は東京芝区二本榎町1-61となっており、当時の住所とほぼ一致している。また陸羯南からの手紙は明治29?(1896)、住所は東京下谷区上根岸町85番地とまさしく、正岡子規の隣の番地である。当時としては珍しく、すでに住所、氏名が印刷されている封筒を使うあたり、手紙を多く

出すジャーナリストらしい。伊東基の手紙は明治28426日(1896)となっている。菊池基は菊池重の弟で、当初は東大で医学を学んでいたが、途中から文学部ドイツ文学科に移り、仙台二校などでドイツ語を教えた。菊池九郎の履歴をみると、明治412月は衆議院全院委員長になった年で、翌年に議員を引退したものの、担ぎ上げられ、明治44年に弘前市長に再度就任している。49歳の時の手紙である。陸羯南の履歴では、明治29年と言えば、39歳、まだまだ元気で、日本新聞を作って、積極的に活動していた時期である。内容のついては年棒など言葉が散見され、少しプライベイトな内容かもしれない。

 

取り立てて、明治の弘前の偉人の書を集めているわけではないが、それでも佐藤紅緑の父親、佐藤弥六の書、本多庸一の2幅の書、珍田捨巳は4通の手紙、そしてこれに菊池九郎、陸羯南、伊東基の手紙が加わった。他には真珠湾攻撃で有名な南雲忠一中将の書や弘前藩の儒学者、兼松石居の遺稿もある。あと欲しいのは探検家の笹森儀助の書か手紙があれば最高である。先日もヤフーオークションで佐藤愛麿の原稿が出ていたが、落札価格がかなり上がり、諦めた。


こうした古い手紙や書をみるたびに、引退後は古文書の勉強をして何とか読みたいと思っている。将来の宿題にしたい。





2024年4月25日木曜日

弘前市森町の忍者屋敷について その5

 



森町にある忍者屋敷については、ファンタジーとして、あるいは観光目的のためのものとしては活用するのは全く問題ないし、その真偽をあれこれ論ずる必要もない。ただ大学の教授が学会やマスコミを通じて、その存在を歴史的事実として唱えるとなると、それが真実と思われてしまうので、議論が必要となる。本来なら大学の歴史研究者が反論すべきであるが、これについては完全に沈黙している。

 

このブログでは、忍者屋敷の建物、あるいは仕掛けについては、他の建物にも類似形式があることを述べた。さらに清川先生によれば、明治二年弘前絵図に記載されている忍者屋敷の戸主、棟方嘉吉は。弘前の忍者集団を統率した棟方一族であり、歴代の所有者は早道之者に関わりのある人物としている。そして享和20年(1735)頃に早道之者の詰め所は現在地に移り、5年後に再建されたとしている。ただ棟方姓は明治二年弘前絵図では9名おり、姓が同じだからといって早道之者の統括する棟方作右衞門の子孫であるとはいえまい。まず現在わかっているこの屋敷の戸主を見てみよう。

 

まず元禄15年(1702)の弘前惣御絵図では森町周辺は土取場となっていて、茂森山を崩したまま田畑、あるいは荒地で、町割はされていない。宝永6年頃(1709)に町割されたという(ウイキペディア)。

https://adeac.jp/hirosaki-lib/viewer/mp000027-200010/06-072/

 

その後、清川教授は、宝暦9年(1759)の屋敷の居住者を記した地図より、杉山源吾の子孫、白川孫十郎がここに住んだという。これは宝暦の御家中屋舗(金偏)建屋図のことと思われるが、実見していない。白川孫十郎の名は“御持筒並足軽”として元禄二年三年(1690)の記載があるが(国会図書館デジタルアーカイブ)、時代が一致しない。時代は下がるが、明治一統誌士族、卒族名員録の中に唯一、白川姓として卒族として白川慶太郎の名がある。また津軽家文書の由緒書(卒族)の項に白川慶太郎、利助の名があり、幕末時は足軽など軽輩の武士であった。

 

宝永6年まで       重森山、畑、土取場をへて町割

享和20年(1735.       早道の詰所 一旦取り壊され、五年後に再建 ?

宝暦5年(1755.        白川孫十郎(杉山源吾子孫?)

寛政年間(1789-1800 深掘左次衛門―今久造 (某氏所蔵、御家中町割表より) 

寛政12年(1800.       齋藤誠八郎

江戸後期         現在の家屋が再建?

明治二年(1868.        棟方嘉吉

  

https://archives.nijl.ac.jp/G000000200300/kind?l1=09.藩士&page=2

 

ここには文化15(1818)と文政11(1828)の早道分限帳が掲載されていて2名の早道小頭と17名の早道の名前が記載されている。寛政の絵図、町割表と年代的に比較的近いが、深掘、今、齋藤の名はない。文化15年の早道分限帳では小頭として、代官町の寺田太兵衛と鷹匠町の石黒太左衛門、文政11年の分限帳では寺田(62歳)と 桶屋町川端町の成田己◯衛門(40歳)となっている。石黒は寛政4(1792)に早道に、文化11(1811)に小頭、寺田については天明8年に見習い、寛政4年に早道に、文化9年に小頭になった。2名の小頭、17名の早道とも僅か10年くらいでかなり変わっている。見習いー早道―早道小頭という流れであるが、それほど継承される職ではなさそうである。

 

早道の集団のトップは家老あるいは大目付で、その下の小頭2名とその他、並のものという構成である。森町の忍者屋敷が早道の集会所であるなら、大きさからして家老や大目付の家ではないので、小頭の家と考えられる。分限帳で言えば、1818年から1828年の小頭、寺田(代官町)、石黒(鷹匠町)、成田(桶屋町)は森町に住んでいない。逆に白川、寛政年間に森町に住んでいた深堀、今、齋藤については、早道あるいは早道小頭であったかは確認できなかった。森町の屋敷が、仕掛けを凝らした早道の集会所であるなら、秘密の相談も多かったと思われ、早道の職と関係ない者が住むとは思えない。少なくとも、ここの住民であった白川、深堀、今、齋藤、あるいは幕末で言うなら棟方嘉吉が早道あるいは小頭であることが確認できないと、集会所とは言えないのではなかろうか。森町の屋敷は同族あるいは子孫が代々住んでいた家でなないので、それであれば同じ職(早道)のものが代々住んでいないと集会所として成り立たない。

 

 そもそも忍者という存在が世に知られるようになったのは、明治末、大正の立川文庫くらいからであり、森町の屋敷が忍者屋敷といわれたのもおそらくこの頃から後であろう。忍者屋敷とは何かという定義もない。仕掛け屋敷=忍者屋敷でないし、また忍者が住む家=忍者屋敷でないことも周知である。かろうじてこの屋敷が代々忍者の子孫が住む、例えば、甲賀市の望月家であれば、忍者あるいはその末裔の家として、忍者屋敷と言えるかもしれないが、弘前、森町の屋敷については、江戸期、調べる限りにおいても白川、深堀、今、齋藤、棟方の5名が住んでいたことから、忍者の末裔が代々住む家という定義からも外れる。また集会場であれば、隣の佐藤万太郎の家は「町同心稽古場」となっているし、明治二年弘前絵図では今の樹木町あたりに「この林を石森早道稽古所と称し、方二町全林の内に沼あるいは岩石多く、明治三年まで役位早道の者(小隼人目付という)年々日を期してこの地に於いて三寸草隠し、あるいは岩石隠し等の術を稽古する場合なり」と記載されている。集会所をそれほど秘密にする必要もなく、森町の屋敷も「早道集会所」として、どこかの資料にあっても良さそうであるが、そうした資料もない。

 

青森大学の忍者部は、忍者ショーだけでなく、忍者組織の活動調査、古文書解読などを行っているという。できれば上記の森町の住民と早道の組織との関係を調べて欲しい。今回は宝暦年間から幕末までの5名の住民が判明したが、文献を調べれば、もっと細かい住居者の流れがわかるだろうし、逆に歴代の早道頭の名前と住所も判明できるのではないかと思う。学生たちの研究を期待したい。


2024年4月21日日曜日

矯正歯科料金はなぜ歯科医院であんなに違うのか



結論を先に言おう。矯正歯科料金の設定は、全く根拠はなく、歯科医の何となくの気持ちで決定される。

 

通常、どのようなお店でも品物の値段を決定するのは、最も重要なことであり、原価、人件費、広告費、テナント代、そして利益を見込んで、値段を決定するのが一般的である。ところが矯正歯科では、まず診療所を開設するにあたり、最初に料金を決めなくてはいけないが、開業前なので経費の予測が全くできない。そのため勢い、近場の相場で値段を決めることになる。例えば、すでに矯正歯科で開業しているところがあれば、その値段を参考にする。多くの理髪店や美容院などが、この方法を利用し、場合によっては組合員で基本料金を定めているところある。だいたい理髪料金で言えば青森県の場合は、東京の半額くらいである。

 

ところが近場に同業者がいない場合は、どうするかというと、大学の矯正歯科学講座の先輩などに相談することが多く、同門会の先生で値段が近いということも多い。例えば、鹿児島大学のOBではだいたい同じような矯正治療費で、他大学に比べて治療費が安い傾向がある。もちろん東京、横浜、大阪などの都市部では、少し高いが、それでも近医より安い。私の場合も、数名の先輩の意見を聞き、青森県は日本でも最も収入が少ない県であること、さらには新たな矯正歯科医院の進出を防ぐためにも、矯正歯科としては比較的安い値段を設定した(基本治療費40万円、調整料3000円)。治療終了までの総額は50-60万円になる。開業以来、家内はずっと受付をし、実質、人件費は常勤の衛生士1名と午後からの非常勤の受付だけでやってきた。全ての技工物は自分で作ったし、矯正機材は基本的には1年分を一括で注文して、大幅な値下げ交渉をした。年間の患者数は100-150名の規模の矯正歯科医院では、少なくとも受付1名と歯科衛生士、助手4、5名は必要であるが、私のところでは午前中の受付が家内、午後は非常勤の受付、そして常勤の衛生士1名である。このくらいの年間患者数で、1日の患者数は平日で20名程度、土曜日は40名程度となる。これを全て1名の歯科医と衛生士でやるとなると、ワイヤーを外して、曲げて、結紮するという一連の治療を全て歯科医がやることになり、歯科衛生士が衛生指導など他の仕事をやる場合は、セルフでこなす必要がある。30年もこんなことをしていると、特に問題なく回せるようになる。もちろん、年間患者が200名以上になると、こんなことはできず、数台のチェアーを併用する必要が出るため、先生はワイヤーベンディグや指示だけを出して、衛生士にほとんどの仕事をさせる必要が出るために、1名の衛生士では無理となる。

 

大リーグの野球選手と日本の野球選手、さらにいうなら一軍と二軍で給料が違うのは、そもそも選手の技術が違うためであり、一般歯科医と矯正歯科専門医では、矯正治療に対する臨床技術、経験には雲泥の差があるので、料金が違うは当たり前である。はっきり言うと、矯正料金の7割はこうした技術料である。そうした意味では、一般歯科の矯正治療費が矯正歯科医のそれと同じというのはありえないことになる。どうして同じ値段をつけるかというと、単純にこれも矯正治療費はこれくらいという相場で値段をつけただけで深い意味はない。普通の人からすれば、高い治療はいい治療、あるいは同じ値段であれば、治療結果も同じと考えると思うが、そうでないのが矯正治療の怖い点である。5症例しかマルチブラケット装置による治療をしたことのない先生の治療費が100万円、数千症例を経験があり、海外でも講演している有名な矯正歯科医で80万円、こうしたことが普通にある。おかしいだろうが、前者に来る患者は結構いる。

 

院長の経歴を見て、まず大学の矯正歯科教室に長くいて、日本矯正歯科学会の認定医、できれば臨床指導医をとっている先生であれば、できるだけ安いところの方がよいと思う。このレベルになると治療技術のレベルにはあまり差がなく、料金の差は院長の考えによる(儲けたい)。あまり高い料金を取りたくないと思う先生もいるし、200万円をこえる高い料金を平気でとる先生もいる。自信を持っていえるが、東京で300万円の矯正料金をとる歯科医院よりうちの方が臨床はうまいと思う。もう一度言うが、矯正料金は院長の何となくの気持ちで決めるもので、安すぎるところはやめた方がよいと言う意見には根拠はない。さらにいうなら開業歴が長く、患者が多くて、予約が取りにくく、それでいて料金が安いところがよい。昔からの先生で、派手なホームページもないか、あるいは自院のホームページすらない矯正歯科医院がある。こうしたところは借金も全て返し、また宣伝しなくても口コミだけで十分な患者が来るので、金儲け主義とは縁のない良心的なところが多い。本来の自由競争であれば、安くて、技術的にうまいところに患者が集中しそうなものでるが、こと矯正治療ではこの法則は当てはまらず、全く臨床レベルの低い東京の先生のところに300万円の治療費をかけて弘前から通院する夫婦がいた。300円のメタルブラケットが装着された酷い治療であった。こうしたところを選ぶ患者には同情しない。矯正治療料金に100万円を取る一般歯科の先生に、「先生は専門医の私より高い料金を取るのはなぜですか」ときつい質問をしたことがある。答えは「先生の方が安すぎるのです」と言われた。高い治療費に対する責任と、専門医に対する敬意を欠く。誰がしても同じ値段という保険制度に麻痺したのだろう。そもそも天皇の心臓手術をした天野教授と新卒の医師が同じバイパス手術しても保険点数は同じなのがおかしい話である。一般歯科での矯正歯科治療を受けるのは、きついいい方であるが、あえて新卒の先生の手術を受けるようなものである。


 

2024年4月17日水曜日

津軽そば


ある集まりで、津軽そばの生産メーカーの方と同席し、その由来について議論した。昔、弘前城西堀近くにあるそば屋「野の庵」の女将の説を私のブログに載せたので、そのあらましを話すと、それはうそだと指摘された。何でも「野の庵」の方が生産メーカーに由来を聞きにきた時も、彼はこの説を否定したという。実際、ブログにはもう載っていない。一応、その説を紹介する。

 

西洋砲術を江戸に学んだ弘前藩士、岩田平吉にまつわる話でおもしろいのは、西堀近くの割烹「野の庵」の女将佐藤貞子さんの口伝で、創業者佐藤与七はこの岩田平吉(恵則 よしのり)の従者であったが、与七は東京で暮らすうちにそばの味を知り、明治維新後そばも出す小料理を開いた。知り合いの寺院からお布施でもらうそば粉、大豆の活用を依頼され、それで作ったのが津軽そばと言われている。これをみる限り、津軽そばの歴史は意外に新しく、せいぜい明治以降のものであることがわかる。また岩田平吉が津軽そばの誕生に関わったようだ。

 

津軽そばの特徴は、熱湯にそば粉を入れて練った「タネ」を作り、小分けして水に一晩つける。次の日に、まず大豆を茹でてすった「呉」とそば粉をこのタネに加えて練り上げ、打って、そのまま一晩放置する。そして茹でて、一食ずつに小分けしてさらに一晩放置してから、翌日、食べる前に熱湯にくぐらせ、熱いダシをかけて出す。もりそばはなく、すべてかけそばとなる。そばを作るに3日間かかり、非常に手間のかかるものである。

 

市販のスーパーで売っている津軽そばには、大豆は入っていないようだが、製法は同じであり、同じような食感である。小麦のかわりに大豆をつなぎとして入れるのが津軽そばの特徴とされるが、大豆自体はそれほどつなぎの働きはなく、仮に普通のそばのように小麦を使ったとしても、湯でおきのそばであれば津軽そばと言ってもいいであろう。実際の食感はあまり変わらない。

 

通常、小麦の栽培は、米の裏作として作られることが多いが、雪の多い、津軽では裏作で小麦が作られることはなく、またうどんを中心とした小麦需要も少ないため、もっぱら農業の主役は米栽培であった。もちろん蕎麦は米栽培に向かない荒れ地や山間部で栽培され、津軽でも目屋などで作られた。大豆は貴重な植物性タンパク質として豆腐や醤油の原材料で、多くの農地で作られてきた。あくまで仮説であるが、江戸時代、津軽ではそば粉、大豆に比べて小麦が入手難であったのだろう。さらに言うと、ボリュームとしてそば粉でソバを作るより、それに大豆を加えた方が安上がりだったのだろう。江戸時代における津軽のそば事情は、店舗中心のやや高級な「生そば」と、屋台の「夜鷹そば」に分かれており、庶民が愛したのは寒い夜の「夜鷹そば」である。昭和40年頃まで市役所や盛り場、街角に屋台のそば屋が店を出し、客は安い値段で、短時間で食べた。

 

逆につい最近まで、弘前で蕎麦というと津軽そばのことをいい、出雲蕎麦や信州蕎麦のような蕎麦粉(+小麦)を使った喉越しの良いそばは一般的でなかった。おそらく弘前で通常のそばを出すようになったのは、弘前の人気店「高砂」からではなかろうか。このお店は大正2年に現在の弘前大学医学部近くにあったが、昭和48年に現在の親方町に引っ越した。その頃に東京の“藪や”で修行をしていた店主が帰り、今のような一般的な蕎麦となった。その後、新寺町の「會」などもできて、逆に従来の津軽そばの店が減ってきている。

 

私自身、津軽そばも信州そばも、どちらも好きだが、両者はそれぞれ違う麺類と考えた方がよく、基本的には冷たい津軽蕎麦はなく、この麺類は啜る食べ物で、喉越しなどを楽しむものではない。柔らかく、ほとんど腰のない津軽そばは、優しい味で、これはこれで食べ慣れるとクセになる。蕎麦と名がついているが、通常の蕎麦とは違ったものと考えてよい。津軽そばは麺自体がぶつぶつと切れてしまうので、少しぬるくなった汁と共に麺をどんぶりの縁から口に流し込むという少し下品な食べ方もうまい。

2024年4月14日日曜日

当院における外科的矯正 2

 

近所で鷹を見ました。カラスに攻撃されていました



鹿児島大学では、主としてファイシャルダイアグラムを用いて分析していた。この分析法の素晴らしい点は、視覚的に骨格性、歯槽性の異常、上下顎骨のずれ、上下切歯の傾斜、下顎骨のパターン(ハイアングルなど)が一発でわかる。他の矯正歯科の先生には

理解するのは不可能であるが、鹿児島大学では、半年ごとに検査をしてセファロ(ラテラル、PA)、パントモ写真、模型を撮る。まず朝10時に患者が外来に来ると、10台くらいあるチェアーに適当に座り、入局1、2年の先生が検査をする。まず口腔内、顔面写真をとり、そして印象を取って、放射線科にオーダーしてレントゲンを撮ってもらう。その間に印象に超硬石膏に塩を入れて模型を作る。大まかにトリミングでして、レントゲンができるのを待つ。レントゲンができると、すぐにファイシャルダイアグラムをレントゲンに直接、セロテープで貼り付けて、分析する。分析時間は10分。治療中の患者は、これまでの治療経過も見ながら、今後の治療計画を作る。そこに教授と先輩が来て、治療経過と今後の治療計画を説明し、絞られる。これを午前中に2名行う。ただ新患を、この時間で診断、分析をするのは難しく、慣れれば一般矯正患者はこれでも何とか診断できるが、外科的矯正にあたると、矯正回診でカンファランスと言われ、後日の夕方に治療計画をたて、医局員全員分のコピーをしてカンファランスに提出する。ここでもかなり叩かれ、疑問に答えられないと、再度提出となる。多い月にはこうしたカンファランス症例が67症例あり、さらに外科的矯正では、医局のカンファランスの後に口腔外科との合同カンファランスがある。そして手術になると、フック立てやスプリントシーネを作るだけでなく、手術当日は実際にオペ室に入り、助手として手術介助と顎間固定を行う。さらに入院中にも何度か、顎間固定の状態を確認する。また助手になると1年間、宮崎医科大学附属病院歯科口腔外科に出向し、ここで矯正歯科を担当する。担当する矯正歯科患者の抜歯、埋伏抜歯も全て矯正歯科医が行うし、病棟の注射や点滴も行う。私の場合は、大学の友人がここの医局長をしていたので、顎変形症の手術だけでなく、教授の口唇、口蓋裂の全ての手術の助手に入ったし、週に1回あるいは2回の当直もしていた。

 

こうした経験があったので、外科矯正自体については、矯正歯科だけでなく、口腔外科についてもある程度理解していた。1994年にこちらに来ると、弘前大学医学部病院の歯科口腔外科の教授に東北大学の先輩が就任したため、すぐに非常勤講師として採用してもらい、さらには形成外科の先生との親しくしてもらい、外科的矯正、口蓋裂の患者が増えていった。当時、弘前大学医学部歯科口腔外科ではあまり外科的矯正の症例がなく、年間1、2名であったが、今では20-30症例となっている。こうした場合にもフェイシャルダイヤグラムを使った分析やCDS分析は、口腔外科医や形成外科医にもわかりやすく重宝している。

 

これまで外科的矯正でうまくいかなったことを少し、挙げてみる

1.計画通りの移動されていない  これが一番多く、術後の位置決めはスプリントシーネで指定しているが、術後大きく変化することがある。近位骨片の位置決めの問題で、骨片をチタンプレートで固定するときに、下顎を前に持ってきて止めてしまうからである。反対咬合では、術後矯正で何とかなるが、非対称や上顎前突では、どうしようもなく、術後矯正でリカバリーできないことがある。10mm下顎を前に出したが、結局5mmしか出ていない場合や、上下の正中が一歯分ずれて固定された場合などである。後者の場合は、強い顎間ゴムを使用すると、固定していたネジが折れて結果的に正中が合ってくることもある。

2.上下の幅径が合わない  通常、反対咬合の場合、術前矯正では上顎歯列を狭窄させるケースが多いが、大臼歯部の咬合の緊密な場合は、なかなか上顎歯列を狭くできない。この場合は、術後矯正で修正した方がいい場合もある。私は018サイズのブラケットを使っているが、022ブラケットの方が合わせやすいのかもしれない。

3.前歯が中に入らない 術前矯正では、上顎切歯を舌側に移動して、後退量をかせぐために一時的に反対咬合を大きくするが、中には舌で上顎切歯を前に押すために入らないケースがある。力系ではそうしたことはないはずだが、舌突出癖のために上顎切歯が全く動かず、大臼歯ばかりが前に動いてしまう。こうした症例も術後矯正で治した方がよく、サージカルファーストはこうした症例では有効であろう。

4.術後の後戻り  術後の変化の多くは1の固定での問題に起因が、稀に保定に入って変化することがある。特に上顎前突の症例では、筋肉や皮膚組織のテンションから前に出した下顎を後ろに動かそうという力が後戻りに影響する。前方移動量が5-7mmを超えると後戻りが多いと言われるが、やってみないとわからない。       

 


2024年4月10日水曜日

当院における外科的矯正

 






二年前に当院で矯正治療を学び、その後、日大松戸で2年間の研修を終了し、4月末に台湾に帰国する先生が先日、弘前に来た。目的は、当院での外科的矯正の診断、治療法を学ぶためである。一応、2022年度に外科的矯正で来院し、治療中の21名について、それぞれ診断、治療方針の策定の実習をしてもらった。

 

午前中の2時間は、鹿児島大学歯学部矯正歯科の診断法、ファイシャルダイアグラムを使った診断と外科的矯正の診断、治療計画の策定、及び東北大学歯学部矯正歯科のCDS分析とそれによる治療計画の実習をした。以前のブログでも説明したが、日本の歯科大学は、大きく分けて顔から診断するところと咬合、かみ合わせから診断するところに大別される。顔からの診断というと、まず理想的な横顔と患者の横顔を比較して顎をどれだけ移動すると利用的な顔になるか、その場合、かみ合わせをどうするかを考える方法である。逆にかみ合わせからの診断は、まず患者のかみ合わせを理想するのは顎をどのように移動するかから考え、その場合、顔はどのように変化するかという方法である。

 

例えば、下顎前突、反対咬合の例で説明する。上顎が正常で、下顎が大きい、骨格性反対咬合の場合、多くの症例で、上の前歯が外に飛び出て、下の前歯は中に倒れている。これをデンタルコンペンテーションという(補償作用)。咬合から考える大学では、大臼歯関係はI級を目標にするので非抜歯で術前矯正をし、上顎は叢生が大きいか、よほど切歯が前に飛びでていなければ、そのまま並べる。結果、オーバージェット、オーバーバイトは良好で犬歯、大臼歯関係はI級となる。ただ下顎の後退量はかなり小さい。逆に顔を中心に考えると、多くの症例では上顎第一小臼歯を抜歯し、上顎の前歯をできるだけ、中にいれ、反対咬合を大きくしてから手術を行う。

 

日大松戸では、非抜歯のケースが多く後退量も平均して5-6mmmとのことである。私のところではほぼ80%は上顎の小臼歯の抜歯で、後退量も8-10mmくらいとなる。明らかに私のところの方が下顎の後退量は多い。先日、北海道の先生から紹介された症例では、そちらの治療方針では、後退量がわずか3mmくらいで、術後も明らかに下顎の前突感が残るので、治療方針を変更して上顎小臼歯を抜歯して、後退量が8mmになるようにした。矯正歯科医院にくる患者の多くははっきり言って見た目の改善を希望している。下顎が出ているのが気になる人は、せっかく手術するなら、絶対に下顎がまだ出ていては満足しない。そのため、私のところでは反対咬合ではできるだけ、たくさん下顎が下がるように、上顎前突ではできるだけ下顎が前になるように治療方針を立てる。

 

顔から治療方針を立てる大学は、私論であるが、ファイシャルダイアグラムなどの図形分析をメインに診断しているように思える。私のところでは、外科的矯正の診断は全てファイシャルダイヤグラムと東北大学のCDS分析を併用して行っている。具体的に言えば

1.セファロトレースを行い、SNA, SAB, ANB, U1 to FH, FMIA、下顎平面角と一番重要なWitsの評価を行う。Witsの評価とは咬合平面にA点とB点の垂線をおろした点の距離である。上下の顎のずれを現す。

2.プロフィログラムをN原点、FH平面に平行に重ねて、大まかな顎骨のずれを見る

3.CDS分析では、通法通り、N点で重ね合わせるだけでなく、鼻先で合わせ、中顔面以下のバランスを見る。

4.上顎切縁と口唇閉鎖線との距離を測る

5.まず上顎の移動が必要かを調べる。4の距離が大きい、正面写真よりガミーフェイスがあれば、上顎の上方移動が必要となるし、正面からのレントゲン写真で咬合平面の傾斜が必要なら上顎骨を切って修正する必要がある。側方での咬合平面の傾きを時計回りに回転して下顎の移動量を増やすこともある。下顎の後退量が12mmを超える場合は限界なので上顎骨の前方移動を追加する。

6.その後、下顎の移動量を決定する。実際は、ここで模型と睨みっこして、この移動量ではいくら術前矯正を頑張っても無理な場合は移動量を修正する。

7.多くの場合、反対咬合では上顎のデンタルコンペンテーションを修正するために第一小臼歯を抜歯するし、逆に上顎前突では下顎の第一小臼歯を抜歯することが多い。反対咬合では下顎は非抜歯で術前矯正を行うので、大臼歯関係はII 級となる、上顎前突では上顎切歯の唇側傾斜もある場合は上下左右第一小臼歯、上顎切歯が前に出ていない場合は下顎の第一小臼歯を抜歯して、大臼歯関係はIII 級となる。

8.移動量を多くすると、上下大臼歯部の幅径を合わせるのが難しくなるので、ケースによっては術後にコーディネーションした方が早い。

 

以上が大まか当院の外科的矯正の診断法である。次回はもう少し詳しく説明する。



次世代航空機の開発


 

経済産業省は、新たな国産旅客機開発に向けて、2035年以降に複数の会社とともの開発支援する方針を立てた。三菱重工のスペースジェット撤退の教訓を生かして新たな旅客機開発を行うという。確かに販売の90%くらいまでこぎつけていたスペースジェットの失敗をそのままにしておくのはもったいないという気持ちはよくわかる。ただスペースジェットも最も大きな問題は、アメリカ連邦航空局(FAA)の型式証明の問題であり、この問題がある限り解決はない。

 

型式証明は飛行機を国際的に売るためには必須の検査であり、例えば、アメリカFAAの型式証明がないとアメリカの航空会社に売れないどころか運行もできない。ただ日本であれば、日本政府による型式証明をとれば、日本での運行は可能であるが、FAAとは相互承認の協定があるとはいえ、欧州航空安全機関EASAFAAとの関係とは異なる。EASAで型式証明が得られたエアバス社の旅客機は同時にFAAの型式証明を得ることができ、またFAAで型式証明が得られたボーイングの旅客機は同時にヨーロッパの型式証明を得ることできる。ところが日本やブラジル、中国で型式証明が得られても、EASA FAAが取れるとは言えず、三菱重工の失敗を見ると、むしろFAAEASAは自国以外の会社、もっと言えば、ホンダジェットのような小型機を除く、通常の旅客機については、ボーイングとエアバス以外は締め出しているといえよう。この2社以外の航空会社としてはカナダのボンバルディアとブラジルのエンブラエルの2社があるが、前者はもはや旅客機を作らず、後者にしても三菱重工のスペースジェットにやや遅れた開発が始まったE-jet E22013年から開発を始め、2016年に完成し、初飛行をしたが、そのまま開発延期となったままである。

 

三菱重工のスペースジェットについては、私自身、YS-11以来の国産旅客機ということで多いに期待して三菱重工株まで買ったほどであるが、中止までの経緯を見ると、アメリカFAAによるいじめとしか思えないような仕打ちであった。個人的な話であれば、カッとなって殴りかかるようなものである。詳しくは忘れたが、久しぶりの国産旅客機開発ということで、日本政府も全面的に三菱重工に力を貸し、どうすればFAAの型式証明を得られるか、詳しく調査して設計、制作に入り、初飛行に漕ぎ着けた。あとは確か2000時間以上の飛行と安全試験に合格すればいいという状況になっていた。それもクリアできそうになると、今度は根本的な最初の設計に関わるような変更を指摘される。そしてその指摘を修正した飛行機による同じような性能試験を求められ、それを今度もクリアするとなると、ボーイングのB737の飛行機事故によってまた基準が変わり、再変更を指摘されるといった具合に、際限なく変更が求められた。きちんとした具体的な合格基準がないのが原因である。おそらく試験官がかわるだけでもまた基準も変わるのだろう。いずれにしても、これこれ変更してくださいと言われて、変更するとまた別の箇所の変更を求められ、それをまた変更すると、もっと基礎的な最初に言うべきところの変更を求められるといった塩梅である。当初は、日本叩き、あるいはアジア人への人種差別も入っているかと思ったが、アメリカに唯一存在する旅客機メーカー、ボーイング社も最新機種B787FAAの型式証明を取ったのが2014年、これは最後で、新型機より派生型の方が証明を取りやすいために、ほぼ60年前に開発されたB737が改良されていまだに生産されている。

 

三菱のスペースジェットの反省というなら、ボーイングかエアバス社との共同開発の方がいいだろう。スペースジェットは70-90席のリージョナルジェットを目指したが、いまだにパイロットと航空会社の契約、スコープ・クローズの問題は解決されておらず、エンブラエルのE2ジェットもこのために開発延期となっている。最大座席76席、重量39トンという制限はジェットではスペースジェットでしか達成できず、航空会社にとっても燃費の悪い旧式機体を使うジレンマとなっている。具体的には、スペースジェットの70席を、ボーイングと共同でモデファイさせ、さらに燃費、安全性、航続距離を上げた機種の開発を狙ってはどうだろうか。1からの設計ではないので、コスト的にはかなり縮小できる。すでに三菱重工はカナダのボンバルディアを吸収しているし、ここはボーイングとも関係が深いので、ボンバルディアの新型機体とする手もある。ボーイングはブラジルのエンブラエルとの事業買収に失敗しているが、いまだに小型機開発を諦めておらず、流石にB737の延命はこれ以上無理なので、70-90席、さらには120-130席までの機体も欲しいところである。

 

経済通産省が目指す、新時代の航空機、水素、EVなどを動力とする航空機は、現行のFAAの型式証明は得るのは不可能に近いか、莫大な費用と期間がかかる。こうした厳しい型式証明制度自体が旅客機の進歩を止めており、1958年に導入されたボーイング707から現行機種もそれほど大きな進歩はない。

2024年4月7日日曜日

開業医の正体 松永正訓 著

 

以前から評判になっていた「開業医の正体 患者、看護婦、お金のすべて」(松永正訓、中公新書クラレ)を一気に読んだ。経営のことまで詳細に書かれており、そこまで公表していいのだろうかと思ったほどである。著者の経歴を見ると1961年生まれ、1987年に千葉大学医学部を卒業して小児外科医となり、今は小児科の開業医として多忙な仕事をしながら、多くの本を出版している。本書もベストセラーとなり確か3万部ほど売れているそうだ。

 

私は1956年生まれだから、5歳ほど年下ということになるし、医科と歯科では全く環境は違うし、外科の中でも小児外科を専攻したのも特殊である。それでもほぼ同じ時代のことなので、本を読んでみて共感することが多かった。私の場合は、最初に小児歯科講座に入局してのが、1981年、その後、3年ほどそこで研修をした後、1984年に鹿児島大学矯正歯科学講座に入局した。当時はまだ大学院に行くか、研究生に行くかの選択ができたが、その後、医学部、歯学部とも大学院大学になると、基本的には大学院に行かないと入局できないようになった。松永先生はその最初の頃で、大学院を卒業して、博士号を取得し、その後も臨床、特に手術数をこなしながら、基礎研究で活躍されている。私のいた頃は、研究より臨床が好きで、大学院に行かなかった先生もいた。叩き上げの先生と呼ばれていて、最古参の助手、筆頭助手くらいになると、臨床症例を集めて論文博士を取得する。こうした基礎研究を重視する制度はしばらく続いたが、20年ほど前から、弘前大学医学部病院の教授の経歴を見ても、臨床しかしていない先生が出てきた。最近では教授選考では基礎論文云々よりは、手術手技を見る傾向があり、わざわざ大学の教授選考委員が、候補者の手術を見学に行くこともある。そうした流れで、今は若い医学生もあまり大学院には行かずに、専門医取得を目標にするようになり、これが松永先生の時代とは違う。

 

この本では、大学病院の先生、病院の勤務医、そして開業医の違いをわかりやすく説明していて、収入、自由時間はこの順に増える一方、やりがいは逆の順になるようだ。特に外科の先生の考えだろうが、松永先生のように病院で小児の手術を数多く経験した先生からすれば、開業医での仕事では、そもそも手術がなく、そうした点では不満が残るのであろう。開業医には名医はいないと言い切っているが、本当にそうであり、高度な手技、経験を必要とある手術では名人がいても、そもそも開業医でそうしたことをすること自体ない。的確に、見落としなく診断し、問題があれば大学病院などに送るのがいい開業医なのである。

 

歯科の場合は、口腔外科を除くと、高度医療機関という概念が少なく、大学病院での治療と開業医との治療はそれほど違わない。矯正歯科で言えば、ほぼ同じと言って良い。ただ大学病院では、口蓋裂、トリチャーコリンズ症候群、マルファン症候群など先天性疾患に基づく不正咬合の矯正治療も行っている。ただこれも大学病院のない地方、私のいる青森県では弘前大学医学部病院の形成外科から私のところに紹介され、かなりの患者が集まっている。

 

この本では、それほど書かれていないことがある。手術ができて、そうしたことを生き甲斐にしている先生は、大学病院で高度な治療をしたいのだろう。ただ大学での生活はあまりに雑用が多く、何より給料が安く(国立の場合は国家公務員の給料)、私がいた当時も教授の給料は月で30-40万円くらいであった。国立大学の場合は、大学卒業からの年数で、給料級が決まり、それに医師手当がつく仕組みになっており、基本的には文学部など他学部の教授より少し高い程度であった。そのため、公務員の兼業は基本的には禁止されているが、大目に見られてアルバイトに励んだ。アルバイトによる収入で生活しているようなもので、給与だけであれば、朝から晩まで、次の日の日直までして働くという大学病院には残らないであろう。そうしたこともあり、優秀な外科医が、安い給料と忙しさにより大学を辞めて開業することがある。もったいない話である。これがアメリカであれば、同じ手術を受けるにも治療費に差があり、経験豊かで優れた手技を持つ外科医は高い手術料がかかり、医師も大きな収入を得る。

 

個人的には、もはや大学院大学で基礎研究をして博士号をとる制度は時代に合わず、基礎研究は好きな他学部の研究者にさせて、臨床を中心としたアメリカ型の大学院大学に変更すべきである。臨床のトップである大学教授については、臨床、教育、研究のうち、研究の比重を減らし、臨床と教育に主眼を置くべきであろう。さらにいうと民間病院と大学病院の給料差があまりに多く、教授も含めてアルバイトをしないと厳しいという状況はなんとかならないものだろうか。民間病院でアルバイトをして生活費を稼ぎながら、症例数を増やし、大学では安い給料で雑用をして最新の医学を学ぶという民間病院と大学病院の相補性しか解決法はないのだろうか。一つの方法としては、これもアメリカでよく行われる方法であるが、大学病院の教授が民間病院の正式な職員となり、ここで手術などの治療を行う一方、民間病院の先生が大学病院の学生に教えるということがある。大学教授は、ここで高い給与を得る一方、勤務医は大学病院で教えることで最新の研究を知るとともに名誉も得られる。私も弘前大学病院歯科口腔外科で、30年ほど前から非常勤講師をさせてもらい、数年前までは月に1回は外来で診療していた。こうしたことは珍しいことで、大学病院と民間病院、開業医との3つの関係が、さらに交流しやすくなればいいかなあと思う。

2024年4月4日木曜日

弘前市が湧いている

 


 


このブログでは、弘前についての厳しいコメントを書くことも多いが、それでも他の町に比べると認知度という点ではマスコミに比較的取り上げられるところである。弘前市の人口は約18万人、人口規模でいうなら、私の実家の阪神間で言えば、伊丹市が20万人、川西市は17万人、宝塚市が23万人なので、同じくらいの市と考えてよい。まず伊丹市について言えば、私は隣の尼崎市に18歳までいたが、伊丹空港以外に行ったことはないし、まず大阪、兵庫の人で空港以外に行くことがない。川西市に至っては、関西の人に聞いてもどこだったかなあという市で(川西市の人、すいません)、もちろん川西市に行ったことはない。この3つの町の中でも全国的に一番有名なのが宝塚市で、宝塚歌劇の名を知らない人はいないであろう。個人的には宝塚の逆瀬に友人がいたり、富岡鉄斎で有名な清澄寺もあるので比較的知っているところであるが、それでも宝塚歌劇以外では知らない人が多いと思う。

 

現在、弘前市は、テレビで引っ張りだこの王林さん、現代絵画で有名な奈良美智さん、そしてお笑いではシソンヌじろうさん、NHKニュース7のメインキャスタになる副島萌生さんがいて、盛り上がっている。また漫画家としては「ふらいんぐうぃっち」の石塚千尋さん、「フシノカミ」の黒杞よるのさん、ロックバンド「人間椅子」の和嶋慎治さん、ピアニストの五条院凌さん、小説家では「パールの正しい使い方」の著者、青本雪平さん、映画監督には木村文洋さん、出生地というなら寺山修司も入れてよい。映画では、昨年公開された菊池凛子さん主演の「659km、陽子の旅」や「バカ塗りの娘」は弘前が舞台であった。ここ数年、弘前出身の若者の活躍が目立つ。

 

もともと弘前市は人口規模の割には、面白い人物を輩出するところで、小説家でいうと青い山脈で有名な石坂洋次郎、佐藤紅緑、葛西善蔵、福士幸次郎、長部日出雄、今官一、「あさが来た」の古川智映子やノンフィクション作家の鎌田慧などがいるし、高原学者の今和次郎、作曲家ではドラえもん、タイガーマスクなど多くのアニメソングを作った菊地俊輔や亜蘭知子、GRAYHisashi、柔術家の前田光世、プロレスラーの船木誠勝、西武ライオンズの外崎修汰、小惑星探査機はやぶさで有名になった川口淳一郎、奇跡のりんごの木村秋則、明治時代まで遡れば、「津軽人物グラフィティー」で取り上げた、外交官の珍田捨巳、政治家の笹森順造、菊地九郎、宗教家の本多庸一など多彩な人物がいる。

 

お国自慢に聞こえるかしれないが、県庁所在地である青森市、経済都市の八戸市など人口が弘前市より多い他の県内の市に比べても、弘前市のマスコミに取り上げが多いように思え、よくテレビを見ていると、弘前市での撮影が多い。先日も「暮らしの手帖」(4-5月号)で岡本仁さんの「また旅」で弘前市を取り上げてくれた。中央弘前駅などニッチなところを紹介し、さらには弘前市民にも馴染みの少ない、ホットな場所も紹介している。本来なら20-30ページくらいの詳しい説明がいるのを、31枚の小さな写真を一気に紹介しているが、その店名を言うと、中古家具屋「PPP」、古書店「まわりみち文庫」など私がよくいく店も紹介されているし、中央弘前駅近くの「よおしょく屋」、喫茶ルビアン、戸田のうちわ餅、居酒屋のドテノメヤッコ、ケーキ屋のマタニ、虹のマート内にあるブラザー、菓子屋の大阪屋、銀水食堂、中三ラーメン、コーヒー屋のYadori coffee roasters、壱番館、ひまわり、フランス料理のポムリ、バーのアサイラム、などなど、なかなかマニアックなお店紹介となっている。ただメインで取り上げられている焼き鳥屋はどこかわからない。

2024年3月22日金曜日

歯科医のイライラ



歯科医がイライラし、スタッフや患者に怒ることがある。私もそうである。診療中に怒り、スタッフに八つ当たりすることもあり、反省している。

 

どうした状況で、こうしたことになるか、例を挙げて説明しよう。例えば、矯正治療でいえば、ワイヤーを外し、調整し、そしてセットして本日の診療は終了、最後に上顎第二小臼歯を結紮しようとするとポロッとブラケットが外れる。ああとつぶやくがこれくらいではカッとはしない。諦めてもう一度、結紮線をカットしワイヤーを外し、新しいブラケットをつけて、ワイヤーを結紮すると、また外れることがある。ここらから少しイラッとなる。バンディングに切り替え、もう一度ワイヤーを外し、小臼歯バンドで同じことするが、今度は衛生士が間違えて下顎のブラケットを準備し、それをろう着した時点で気づく。ここで衛生士に怒る。当初、15分で終わることが30分以上かかり、次の患者が待っている。イライラしてカッとなるのはこうした状況である。

 

同じようなことは、抜歯の際、簡単に抜けると思ったのに歯根の先端が折れたとか、形成中に、急に患児が手を上に挙げて舌や頬粘膜を切ったとか、色々ある。さらに患者が多すぎて、次の患者がいっぱいいるときも、受付の予約の取り方にイラつきカッとなる。

 

なぜカッとなるか、最初に例で言えば、ブラケットが外れるのは不可抗力で、どうしよもない事象であり、いくら努力し、注意しても避けることができない。こうしたことが起こる時にカッとなりやすい。自動車を運転していて、後ろから追突されれば、カッとするだろう。コンピューターの急に壊れて、中のデーターも消失、これもよくあることだが、これもカッとなるだろう。

 

歯科の治療を、外科治療によく似ており、内科のように話だけで終わることはなく、何らかの処置を行う。外科手術の場合、同じような手術をしていても、相手は機械ではないので、それこそ人によって全く状況は異なり、あり得ない状況が起こることがある。優れた外科医の特色として、こうした予知しないことが起こった時に、いかに冷静に対処できるか、心に言い聞かせて、中から湧き起こるイライラを抑えていく。イライラして良い手術ができないとわかっているからだ。ただその場合、一旦、スタッフに八つ当たりしてガス抜きをする先生と、グッと飲み込み先生がいる。私の知っている歯科医の先生はグッと飲み込みすぎて、治療後に気分が悪くなりトイレで吐く先生もいる。

 

こうしたイライラ、怒りをなくす方法は、一つは、治療を中断する方法で、例えば、ブラケットが外れたなら、次の来院日に再装着すればいいし、抜歯で歯根を破折した場合も次回にもう一度トライし、無理なら前もって大学病院に紹介状を書いておけば良い。ほとんどはこの手でイライラ、怒りは治る。もう一つは、他の人にしてもらう。同じくブラケットが外れても、処置自体を全て歯科衛生士や助手にされているところは、そもそも先生はイライラも怒りもない。さらに患者数を減らす、処置を減らす(予防処置中心)などもイライラを少なくする方法である。さらに近年では、こうした治療自体によるイライラだけでなく、患者とのコミュニケーションも原因となる。例えば、延々と電話でクレームを話し続ける患者がいたり、これは聞いた話だが、補綴物の適合が悪くなり、その日に入らなかった時に、患者から交通費を請求されたという。これもかなりイラつく話ではあるが、その先生は流石にベテランで、平謝りして、2000円だか3000円高の交通費を払った。イラついて患者と論争するより早いという。

 

最近は、歯科医が患者に対してイラつくと、すぐにGoogle レビューなどに投稿され、厳しい意見を受けることが多いので、若い先生の中には、こうしたイライラを体に溜め込み、体を壊す先生もいて難儀な商売だと思う。もちろん基本的には先生の性格によるものが一番で、せっかちの性格の先生はイラつきやすく、気の長い性格の先生は怒りにくくが、これだけは性格なので治らず、私の場合もせっかちな性格なので、障害者用駐車場の平気で車をとめる人や歩行中に突っ込んでくる右折車にはつい注意をして、逆ギレされたりする。中でも一番イラつくのは、受付や衛生士に、口の利き方が悪いと怒鳴る親がいる。先生には何も言わないが、受付や衛生士に、この口に利き方は何だと怒鳴る。会話は全て聞いているので、明らかにおかしい場合、私は怒る。矯正歯科の場合は、途中でやめられないので、結局、その後は子供だけが治療し、親はバツが悪く駐車場で待つことになる。この話を4人の先生にすると全員、こちらの非を認め、従業員に謝らせると言っていた。医療はサービス業なので、イラついてはけない、怒ってはいけないということらしい。弁明になるが、歯科医がいつもイラついているのではなく、実際に患者に怒るのは年に1、2度のことだし、スタッフに強く当たった時はいつも後悔して落ち込む。


 

2024年3月21日木曜日

成田與そ吉 アメリカに渡った成田家

 
成田すえ


江戸時代が終わり、明治になった時点での、弘前藩士を調べる最も役にたつ資料としては、まず弘前市立図書館が所蔵する津軽家文書の中の代数調あるいは由緒書、分限書などが役立つが、基本的には子孫の閲覧に限定される。さらにいうと名前については津軽家文書、岩見文庫、八木橋文庫目録などで調べることができるが、これは明治初期に戸主である人物が旧弘前藩に提出したもので、先祖の由緒などが記されている。戸籍などを調べてうまく先祖の名がこの目録の中に見つかれば、その旨を図書館の係に人に言えば、コンピュータで調べてくれる。ない場合は、珍しい名前、例えば釜萢という姓であれば、該当者が数名なので、片っ端から調べてもらうこともでいるが、工藤や成田という名であれば、該当者が多く、調べてもらうのは難しい。さらにいうと戸籍には、それほど古い人物のことは書いておらず、戸主が老人であると、戸籍に載っている最も古い幕末に生まれた人物でさえ、これらの書物の載っていないことも多い。

 

明治以降の戸籍は、まず明治5年の壬申戸籍があるが、これには身分が載っているために今は開示ができず、閲覧できるもので一番古いものは明治19年式戸籍、あるいは明治31年式戸籍である。明治5年式戸籍が閲覧できれば、幕末の弘前藩士についてはかなりわかるが、昭和43年に部落民かどうかを調査しようとする事件がおこり、その後は法務省に封印され閲覧禁止となっている。日本でも最もマル秘文書の一つで、ヤフオクに出品されているものすら国が回収している。ただすでに150年以上前にものであり、これを国家機密のように扱うのはどうかと思う。まれに私のところに先祖調査で問い合わせが来る中で、これまで集めた資料の中に壬申戸籍のコピーを見ることがある。

 

問い合わせをする多くの人にとって、一番古い戸籍が明治19年であり、ここの記載されている人物から、先に述べた代数調、由緒書に当たることは少なく、大抵はこの間にもう一人の先祖がいる。戸籍以外の資料として私が一番重宝するのは、弘藩明治一統士族卒族名員録で、内藤官八郎という人が明治初期に記載したもので、今では国立国会図書館デジタルコレクションでも見られる。ここには5646人の弘前藩の士族と卒族の名が記されている。士族は3813名、卒族1833名の名があるが、与えられた扶持米の多さにより大体、士族が卒族かがわかるようになっている(実際に卒族と書かれている場合も多い)。元治元年(1864)の調査によれば、弘前藩の総人口は25万人、そのうち25千人が士族、卒族とされ、武家の戸数としては3760戸とされているが、ここには卒族は入っていないように思える。この士族卒族名員録に記載されている5646名の数は代数調や由緒書に記載されている名に比べて圧倒的に多い。それ故、津軽家文書で見つからなくても、この士族卒属名員録に名を見つけることがある。

 

須藤かくのことを以前、調べて時、どうしても“Narita Yasokichi””Yosokichi”という人物のことがわからなかった。Naritaはもちろん成田で良いと思うし、津軽に多い名前である。問題はYasokichiの漢字名である。”弥三吉“、”八十吉“、”八十橘“、あるいはYosokichiと記載された文献もあるので、その場合は”与惣吉“、“与三吉”、“が考えられる。このうち代数調では”成田八十吉“の名が、明治二年弘前絵図には”成田八十橘“が、そして士族卒属名員録には”成田與そ吉“の名がある。名員録には別人として”成田與吉“もいるので、読みとしては”よそきち“で間違いない。Narita Yosokichinoには五人の子供、長女マヤ、長男コウイチ、次女レン、三女レン、四女スエがいる。妻はMayu あるいはMayaといい、アメリカに到着後、トラコーマと診断され、子供と離れて日本に送り返され、死去。またYosokichinoの父親の名は”Hijyoya"とされているが、これも漢字でどう書くか不明である(兵弥?)。全て弘前生まれとなっているので、弘前市内の小学校の卒業名簿を当たっているが今のところ該当者はいない。少なくとも親類はいると思うが。もし先祖に海外に移民したという成田姓の方がいればご連絡してほしい。

2024年3月13日水曜日

最近思うこと 若い歯科医へ

 





先日、腕の痛みがあったので、近所の整形外科に行くと、来週から工事のために休診となり、4月から新しい先生による医院になりますが、患者さんはそのまま治療を継続できると言われた。年配の先生で、体調も一時悪かったこともあったので、後継者ができて良かったと思った。次の日、お尻のできものが出て痛くて座れなかったので、少し遠方にあるが、以前、お世話になった皮膚科を受診した。処置してもらって一気に楽になったが、ここも4月からこれまで副院長であった若い女医さんが院長になって、名称も変わるが、スタッフもそのままするので、心配入りませんとのアナウンスを受けた。二軒訪れた医院、両方が年配の先生が引退し、若い先生が後継者になった。家に帰って家内に話すと、家内がその日に行ったレディースクリニックも同じようの4月から先生が変わり、診療所名も変わるという。偶然とはいえ、どこも後継者がいて、患者さんにとっては何よりである。

 

それに引き換え、歯科医院でも昨年は3件閉院したが、2軒はすっかりなくなり更地に、もう一軒は診療所を改築して自宅になった。今年も何軒か閉院するが、どこも後継者はいない。また二軒は院長が病気のために長期の閉院状態だが、どうなるかわかっていない。診療所の受付の横の壁には15年ほど前に作られた歯科医院の場所を示す地図を貼ってある。閉院した歯科医院については、その都度、マジックで消しているが、すでに20軒以上がなくなっている。地区によっては、弘前市内でも歩いていける距離に歯科医院がないエリアが出てきている。

 

歯科医院の場合、患者さんは歯が痛くなる頻度はそれほどではないので、歯が痛くて久しぶりにいつも行く歯科医院に予約しようとするとすでに閉院していたという話はよく聞く。弘前歯科医師会も10年くらい前が診療所数ではピークで、その後は、新たに開業する歯科医院より閉院する歯科医院の方が多い状況が続いている。今のままのペースが続けば、後10年で、2010年頃の半分くらいになる。残念ながら、前述したように子供以外の先生が後を継いだケースはこれまで一軒もなく、子供を歯科医にしても親の後を継ぐのは半分くらいしかない。

 

さらにこれは私らの世代と若い世代の差であるが、今の若い先生は患者さんが来てもいきなり治療することはない。昔であれば、歯が痛くて歯科医院に行くと、レントゲンなどの検査をして、その日に神経を抜いたり、あるは抜歯したりしたが、今の先生は、当日には検査はするが、処置までしない場合が多い。もちろん理想的には、まず検査をして治療方針を立てて、それに沿って治療をしていくのが正しいが、患者が痛がっているのであれば、まずそこを治し、それから全体的な治療方針を立てるべきである。ただ今の若い先生は治療のスピードが遅いので、一回、間を空けて治療をしたいのだろう。先日、患者の大臼歯のレジン充填が破折していたので、新しくできた歯科医に紹介したが、初回はデンタルレントゲン写真一枚撮り1ヶ月後にレジン充填ということになったという。昔の先生であれば、2回の予約をするなら、一回で全て終わろうとしたし、その方が効率的である。40年前、鹿児島大学歯学部病院小児歯科では、小児の治療を4ブロックに分けて治療をしていた。ほとんどの歯が虫歯の子供いたとしよう。まずレントゲン検査をして、ざっと軟象をとり、ユージノールセメントでカリエスコントロールをする。次回からはCD Eにラバーダムを装着し、麻酔をして生活歯髄切断をして乳歯冠、あるいはレジン充填、次回は別の1/4ブロック、4回目に治療が終わると上顎乳切歯にサホライドを塗って終了となる。上下左右のDE全て、生切、乳歯冠ということも普通にある。もちろんここまでひどくなければ、1回、2回で終了する。障害児では、全麻下で、一気に10本以上の歯を治すこともある。多分、若い先生は、一本ずつ治すのであろう。

 

歯科医の能力の一つには治療の速さが求められる。昔、宮崎医科大学の歯科口腔外科にいたころ、そこの助教授(のちに教授、学長)は抜歯の名人でほとんどの埋伏歯を15分以内で抜いていた。腫れ、痛みも少ない。一方、若い先生は同じような症例で1時間以上かかりこともあり、腫れも大きい。矯正歯科においても、私自身の経験で、大学病院のいたときに比べて診療時間は1/4以下になったが、診療レベルは逆に高くなった。つまり臨床というのは遅くて下手から、早くてうまいになるのが普通なのである。患者数を見て治療スピードを上げるのも重要であり、元気な若い先生はもっとどしどし治療をしてほしいものである。