郷土史家、松野武雄。弘前の生んだ近代では最も変わった人物です。今純三郎の記事を前のブログで書きましたが、変人と言えばこの人物ですので、そのインタビューを記載します(昭和30年10月21日)。それにしても松野コレクションはどうなったのでしょうか。自信作の「津軽猥雑史」8巻はどこにあるのでしょうか。是非、読みたいものです。内藤官八郎、岩見常三郎といった郷土資料コレクターの流れです。文中にもありますが、青森県、弘前市への個人の資料の寄贈については、今でも問題があります。せめて賞状を送り、知事、市長が顕彰すればいいだけですが、冷たい対応があったのでしょう。
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自分のことを書いて貰う時あー一つくらい書いて貰いたくないこともあるもんだがワダシ(私)のことなら、なにを買いてもぶじょほうごヘンです。ワダシは弘前中学二年で開校以来の遅刻をしたり三日に一ぺん、何かの事で職員室に呼ばれて立たされたり、品行丙の上、成績九十二点で中退して、また二年後橘校長のとりなしで、学校に舞いもどって卒業証書を貰ったりで、津軽弁でいえば“アクたれワラシ”いわゆるしたたか者でしたジャ。けれども父の平次郎という人は総代を十九もととめるという政治家であったし、その上県内では二番目にキリスト教の洗礼を受けた人であったからカンニングや軟派行動だけは一回もしたことゴヘンでしたオン。代々士族だもんだから“恥を知る”という教育に徹していたわけですジャ。ワダシが感化を受けた恩人としては佐藤弥六、外崎覚、岩見常三郎、森林助、永沢得右衛門という先覚者でしたが、ワダシが、兄が三人死んで唯一人の男だったもんだから、悪い評判さえたてなければ、どったら事してもいいって遊ばせでくれたものでしたジャ。そこでワダシは、代々読書家ばかりで読む本が何んぼでもあったもんだから屋根の上にあがったりして、毎日毎日好きな本ばかり読んだものです。親の教訓といえば「妻はどこからつれてきてもいい、水商売の女と人妻には手を出すな」ということだけで他に説教めいたものア聞いだことゴエヘンです。
漆工の方を始めたのは元の工業学校に漆工科というものがあって斎藤彦吉という人からいろいろ手ほどきを受けたことと、佐藤弥六さんから漆器の歴史をきいたからで、栽培、木地師、挽物の研究に入り、ついでサヤ塗師、武具一切、織物、鋳物、瀬戸物、大工、木挽、紙漉なんでも一通りやりしたオン。それから毎日朝の一時に起き、四年間のうちに各市町村史、民謡、ネプタ、コギン、凶作史、犯罪史、キリシタン史、相撲、武道、津軽売色史、四郡の文化史、岩木山など、原稿を積み重ねた高さ一丈二尺書いたわけです。この中には津軽猥雑史も八冊あって、これあワダシの傑作というもんですジャ。ワダシは何処へも勤めなかったんで、時間だけア十分あったし、それに五十一歳まで独り者でやって来たんで、家族もないしタバコもやらない、遊興も一ぺんもしたことアないんだから、欲も得もなかったし、ただ金さえあれば、人手に入らないような物を、厳選して買ったんで、いろいろな物がたまったんです。
独り者の辛さつてえのは、お釈迦様以上の苦業でしたジャ。片輪でない人間が毎晩、十二時までも座り込んで動かない「女ご」を前にして、手を出さないのだから想像して貰いたいもんですジャ。だから五十二のとき妻をめとるまでは、毎日女の夢を見ながら、妻や子供の夢を一度も見たことアない。本や書きものをするんで眼を悪くしてはお終いだと考えて二十台から寝て本は読まない。女に一ぺんも接しなかったので、嗅覚も犬と同じだったし、視力も二万人に一人というよく見えるものでした。“ご免下さい”と女が入ってくると、それが人妻か処女か100%判ったものです。—それア本当でゴエス。
現在、収集しているものは、品質にすれば一対十、あるいは一対百に値するもの。ざっと学校の教室三十に並べられるほどあります。世界に三冊よりない歌麿の「歌枕」世界に一個の春信の「好色錦枕」日本に二冊よりない北斎の春画など国宝ものから工芸の漆器類も下駄一足で一か月分の生活費を貰わなければ引合わないものばかりですジャ。こんなもの持っているうえに、正式な相続人がないものだから“死ねばどうする?”とずいぶん心配してくれますが、ほんとのところ誰にやるか決めてないんです。いまのところ、県内の人は受入体勢がよくないから引き渡す気にはなれませんナ。ワダシがこれならばーという受入体勢さえよければ何処へでも無料で寄付するし、場合によっては、維持金も付けて差上げたい。売ろうと思えば、売りやすいものばかりだし、それに一品ずつ全部原稿がついているんだから日本中でもこんな完備したものはないという話です。譲ってこれを永代保存してもらうことは、イヤ簡単だが、さて漆器の技術伝授になると、そうはゆぐヘン。ワダシ以外誰もやれないもの。例えば青海波や漆で花や虫をつくるということは原爆以上むずかしいと思うのです。—彼は人なり。われも人なりーというのでやって見ても出来ない芸当だし。青貝ラデンや研出蒔絵も永久にダメになってしまいすジャ。秘伝をワダシが知っているが、これを受入れる人間が今も見つからない。条件としてはワダシが言う資格者というのは、漆器学の権威者で、人間としての人格を高度に備えていなけりゃならんし、技術の点でも秀れてなけれりゃならん。大学の工芸科を出て、生活に困らない、芸道一筋というような人でも見つからないと、とても受けつげないと思います。
ワダシの人生の大半は、女嫌いで通ったようだが、そんなもんではゴエヘンな。北沢玄峰禅師は、四十六歳になれば楽になる。——ということを書いたが、ワダシもそのころになって、やっと寒暖計が下がったようにガタッと安定しましたジャ。身を亡ぼさないことア、それだけ肌つやに現れて、いまじゃ若いころとそんなに変わったところはないつもりです。
永い独身だから漬物を十四年間一切れも食べなかったし、味噌汁も一口飲めば下痢したが、それもなくなれした。ワダシは子供をつくる事業を起こさなかったんで、人間世界で一番ヒマがあったようですジャ。腹が減らなけりや一日でも二日でも食べない。税金の滞納も借金もない。ワダシは何もかも結構に存じ奉る。
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津軽弁はフランス語に似ているようですが、最近見ていてハッピーなものを挙げます。カトリーヌ・ドヌーブ、きれいです。ロシュフォールの恋人。