2014年12月15日月曜日

尼崎 難波幼稚園


幼稚園は近くの難波幼稚園(なにわ)というキリスト系の幼稚園に通った.園長先生は70歳を越えた白髪の先生で,毎日園長室に行って色々な種類,花や動物の出席のはんこをもらった.幼稚園には井戸があり,その横にむらさきのあじさいの花があり,雨の日にそこにかたつむりがいた情景がいまでもはっきりと思い出す.園長先生、他の2、3名の先生も修道女の灰色の制服を着ていた。クリスマスは、大きなモミの木が教室に置かれ、その下に小さなプレゼントがあった。毎年、クリスマスには園児によるイエス生誕の物語が演じられたが、3年もこの幼稚園に通った割には私の役名は最高で東方の三博士であった。ちなみに家内は青森の明の星幼稚園という同じくキリスト教の幼稚園に通い、マリア様に選ばれた。クラスは3、4クラスでそれほど大きな幼稚園でなかったが、幼稚園の放課後に難波小学校から猪股先生が絵を教えていたことが記憶にある。週に一回程、絵の手ほどきをしてもらい、それ以来、絵は好きになった。
難波幼稚園はすでにないが、歴史は古く、「兵庫県管内学校、幼稚園、教員養成所、青年訓練所、図書館一覧」(昭和5年、兵庫県知事官房統計課)によれば、尼崎には博愛幼稚園(尼崎市尼崎町、明治29年6月、生徒数100名)、正義幼稚園(尼崎市竹谷新田、昭和3年9月、生徒数120名)、そして難波幼稚園(尼崎市東難波村、昭和2年6月、生徒数60名)となっている。さらに昭和6年に統計によれば、博愛幼稚園の開設は、明治23年3月、正義幼稚園は昭和3年9月、難波幼稚園は大正14年4月と、やや異なる。
インターネット上の「図説 尼崎の歴史 近代編」では、明治23年に尼崎城旧城郭に私立博愛幼稚園が、大正14年には小田村杭瀬に小田幼稚園が、15年には大庄村西の源光寺に松寿幼稚園(武庫川幼稚園)、立花村塚口に塚口ときわ幼稚園、昭和2年に尼崎市東難波町に難波幼稚園、竹谷新田に正義幼稚園、小田村金楽寺に隣愛幼稚園などの私立幼稚園ができた。ただこれも「尼崎地域史辞典」では大正14年4月「私立難波幼稚園が東難波に開設された」とある。ここからは母親の情報だが、元々はイギリス人の修士が作った幼稚園で、当時から勤務していた修女がそのまま、園長になったという。私が難波幼稚園に入園したのは、昭和34年、昭和2年に開園したとなると、この当時で32年、確か園長先生は70歳近かったようなので、28歳くらいから難波幼稚園に勤めたのであれば、十分に当てはまる。小学校に入ると、風の便りに園長先生が亡くなり、私の担任の修女が園長になったことを聞いた。
近代デジタルライブラリーの「尼崎志 第2篇」(昭和10年)には「日本聖公会は尼崎市内難波、川邊郡塚口、小田村杭瀬に、各幼稚園の直接又は間接の経営している。」との記述があり難波幼稚園、塚口幼稚園、小田幼稚園は聖公会系の幼稚園だった。

 インターネットでは「難波愛の園幼稚園」と「難波幼稚園」を混同した記載があるが、両者は全く違い、前者は私の中高の時の親友の実家である。やり手でその後、短大、さらには大学設立まで発展した。

 難波幼稚園は、大正14年4月に聖公会イギリス人修士によって創立された。その後、いつまであったか不明だが、2000年ころまではまだ廃園してなかったように思える。小学校の歴史は比較的くわしく残っているが、私立の幼稚園については、小規模なため、ほとんど何もわからない。それでも80年近くの歴史があり、卒業生も5000人近く(1クラス60人として)の卒業生がいる。卒業生にすれば、なかなか懐かしく、未だに幼稚園の先生の匂いまで思い出す。家にある昔のアルバムを探したが、幼稚園を写したものはなかった。デジタルアーカイブを調べても、尼崎の資料は少ない。大正6年の地図があったが、当時の東難波町は今と違い、何もない。

追加(2016.7.16)
 読者の方より、難波幼稚園の園長先生の名が田中花子先生であることがわかった。母に確認すると、かなり前に亡くなった近所のおばさんが難波幼稚園の二回生で、彼女の話では大正15年には田中花子先生がいて、創立メンバーかもしれない。”田中花子 日本聖公会”で検索すると、東北教区で明治25年に青森に派遣された女性伝道師の中に田中花子の名が見える。私がいた頃(1961年)に80歳としても、明治25年で11歳はいくら何でも若すぎる。別人物か。娘二人が弘前の明星幼稚園という聖公会の幼稚園に行ったが、もし田中先生が明星幼稚園に関係したなら、面白い。

追加(2020.7.15)
聖公会の信徒の方からメールがあり、私がいた頃の難波幼稚園の写真を送ってもらった。上記の記述では、先生は修道女のような制服を着ていたように書いたが、これは全くの記憶違いで、普通の私服を着ていた。田中園長にいたっては着物姿のこともあった。また難波幼稚園の閉園は昭和60年(1985)だった。田中花子園長は明治24年生まれで、私が幼稚園にいた時は75歳くらいだった。

4 件のコメント:

  1. 追加の記事を読ませていただきました。
    ねこ吉の拙いブログにもコメントいただきまして有難うございます。

    色々なことが繋がって、興奮しています。
    お嬢様たちが行かれていた幼稚園に関係があれば、一層興味深いですね。

    難波幼稚園の近くに教会があって、そこで日曜学校があった気がします。
    広瀬様が通われていたときは園長先生は白髪だったのですね。
    担任の先生はどなただったのでしょう?
    ねこ吉は、長尾先生でした。他に張先生、森本先生がおられました。

    シスターの制服は着てらっしゃいませんでした。

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  2. 教会というとガスタンクの方に、高い尖塔を持つ教会がありました。いつの間にかなくなりましたが、広い敷地に大きな石造りの建物がありました。母に聞くと、塚口から東難波町に引っ越して来た昭和26年ころからあったようで、戦災にも合わず残ったのかもしれません。
    私の姉、兄と私も難波幼稚園、難波小が校でした。幼稚園の担任の名は忘れましたが、朝、幼稚園に行くと、田中園長先生から出席ノートに色んな模様の判子をもらうのが楽しみでした。
    幼稚園の先生の中には黒と白の制服をきた修女がいましたが、聖公会ではカトリックと違い修道院は少なく、何かの宗派に属していたのかもしれません。毎年、キリスト生誕の演劇をした記憶があり、私は東方の三博士の役でした。

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  3. 難波幼稚園、懐かしい。
    私のときは、花子園長の養女が園長でした。いつも赤い服の先生でした。

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  4. センター市場の火事もあって、難波幼稚園のあったあたりも昔の面影は全くありません。
    不確かな記憶ですが、今の合同庁舎とマンダイスーパーの間くらに大きな教会がありました。
    尼崎は労働者が多く、その家庭には十分な教育がなされていないことから、難波幼稚園がここにできたようです。
    私が幼稚園にいたのが昭和34年から36年(1961)ころですので、ずいぶん昔のことです。

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