元の最勝院 |
魚市場付近 |
その後も、最近入手した明治初年の絵図について調べているが、書き込みが少なく、どうした目的で作ったかわからない。政府あるいは弘前(市)から依頼されて作ったものか、あるいは個人的な興味で作ったものか、わからない。明治になって作られた手書き絵図は、明治二年、三年が二枚、そして明治四年の4枚の絵図が確認されているが、いずれも士族の邸宅がメインで、町家については、赤く塗りつぶし、何も描かれていない。もちろん、誰も住んでいないということでなく、多くの商店があり、人々が住む家もあったが、こうした絵図では記載されていない。
もう一つの明治八年の弘前地籍図は、馬屋町、新町、細越など下町の詳細な戸主を調べた絵図で、おそらく弘前で初めて地番がつけられた絵図であろう。これには町人、職人も含めた全ての戸主名が記載されており、税金取り立ての基礎的資料として地籍を作り、そのために作製されたと思われる。現物は見たことがないが、若党町などの仲町のものもあるようだが、不明である。
今回の絵図は、かなりラフな書き方で、もちろん誰かに依頼されたものであっても完成品ではない。それでは明治二年弘前絵図などのコピーかといえば、道や挿絵も違い、個々の戸主の名前も微妙に異なる。姓は同じでも名前が違う、父親の名であったものが子供の名になっており、絵図を作るにあたり、新たに調べたかもしれない。家の玄関に名札を掛けるのが一般化したのは昭和になってからで、明治初期では名札はなく、誰かに聞かなければ戸主の名はわからない。
1. 東照宮付近
この絵図によれば、町年寄りの松山家の隣には、仕立物師扇屋と三国屋多三郎の名がある。南側には石岡専助、増田戌五郎、石岡兵之進、上田善太郎の名がある。さらに進むと、「野清 関東屋 吉田吉次郎」、「大善廣幸」、「大神」、「今井」などの名を見る。この通りの北には。東照宮、薬王院、愛宕神社、“桃井作渡、神楽殿”とある。火事の神様、愛宕神社と東照宮は、全国でもよく見られるコンビであるが、弘前ではまず愛宕神社がいつも間にかなくなり、さらに東照宮は2013年に借金のために破産宣告し、神社とその敷地が競売され、寛永5年にできた重要文化財の本殿のみが弘前市が取得してすぐ近くの元弓道場に移築された。
江戸時代、朝陽橋を超えたところには明治二年弘前絵図では「御収納倉 二ヶ所、白米倉 一ヶ所」、そして小路を挟んで向こうには「廣小路と称す空地」、「和徳御収納蔵 東掛 北掛とに区別し、倉稟八ヶ所月々藩士へ米を渡す所」の記載がある。場外の米倉庫でも大きな所である。この明治初期の絵図を見ると、御収納蔵のところは3箇所の蔵のような絵が描いてあり、廣小路は「東新丁」、和徳収納蔵は「東長や」と描かれ、周囲には7つ蔵のような絵が描かれている。明治7年1月の二番小学としてできたのが和徳小学校で、最初は米倉を校舎として使ったとされ、おそらく絵図での「和徳収納蔵」、「東長や」の所であろう。そして、和徳小学校の一部と「空地」、「東新丁」を借り受け、明治18年に設立したのが弘前魚市場である。
2)最勝院
最勝院は、江戸時代、現在の八幡神社と熊野神社の間の広大な土地にあった。大きな伽藍、池、そして塔頭に囲まれた一つの寺町と思われるほどの威勢であった。ところが明治になり廃仏毀釈運動の影響を受け、ここを全て捨てて、桶屋町の大円寺のところに移動することを余儀なくされた。伽藍も全て打ち壊されたのか、昭和初期まで何もない。田畑のような土地となった。今回の絵図では、大まかな下手な絵が描かれており、また12の塔頭名も描かれているが、順番は違う。ただ明治二年弘前絵図を見ても、通用門、唐門、中門、表門の4つの門があるが、今回の絵図でも4つの門が書き込まれ、唐門、中門が大きいことがわかる。奥には大きな屋根の本堂が描かれている。おそらく最勝院の姿が描かれた初めての絵図と思われる。以前いただいた「最勝院史」の大部の本でも、そうした絵はなかったことから、下手な絵ではあるが、江戸時代の最勝院の本堂を描いた唯一の絵と言ってもよかろう。さらに弘前八幡宮には“竹内勘六 寄進 稲荷宮”とある。竹内貫禄は、富商、竹内家で代々つける名前で、誰が寄贈したかは不明であるが、神楽殿。天神堂などの記載がある。天神堂は末社の天満宮のことだろう。
他にも何か製作年代を決めるようなものがないか探したが、今のところ、そうしたものはない。それでも、流石に明治20年以降となると、ほとんどの藩士の邸宅は、商家などに変わってしまい、こうした絵図を作成できない。おそらく明治十年前後のものかと思う。
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