2010年12月30日木曜日

若党町の士族の変遷




 明治2年地図と4年地図(士族引越之際図)は、内容は基本的にはほぼ同じであるが、若干記載事項は違い、2年地図に比べて4年地図では弘前城内施設や本丸御殿についての省略が多く、当然であるが鉄砲射撃場や米配給所など明治2、3年になくなった施設も記載されていない。一方、4年地図には2年地図にはなかった郵便局、魚市場や銭湯、町家についての記載があり、維新後の新たな施設が追加されている。4年地図が作られた、そもそもの理由は、おそらく廃藩置県後の士族の転居状態を正確に把握するためのものと思われ、「士族引越之際図」とされている通り、帰田法で郊外に転住し、引越した家については△印をつけて示している。そのため△印の数を数えることで明治2年から4年に引越した士族数を、文面ではなく、地図上で確認することができる。ただ印刷が不鮮明で、△印がついているか判別できないこともあるため、数値には幾分間違いがあるかもしれないがご了承いただきたい。

 弘前城北の若党町の一画を見てみる。この一画には明治2年当時、26軒の名が見えるが、明治4年地図ではすでに古川源左衛門の名前がなく、違う名前になっている。さらに26軒中、△印のない家は小田桐友平、横嶋彦八、工藤勝之丞、小館仙之助、梨田左源司、今井善作、今常左衛門、芹川得一の8人を数えるだけで、残りの17軒には△印、すなわち引っ越したことになる。26軒中、じつに18軒、69.2%がこの期間に引っ越した。若党町には禄高200から300石の中級武士が住んでいたが、明治維新により先祖代々の家屋敷を手放し、結局ここに戻ることはなかった。明治4年の帰田法、これは職をなくした士族に郊外の土地を与え、そこで自活させようとした政策だが、中級以上の士族に積極的に実施させた結果かもしれない。さらに65年たった昭和10年の「弘前市案内圖」(弘前市立図書館蔵)の若党町の同じところを見ると、住民は大幅に入れ替わり、明治4年にかろうじて留まった8軒のうち、昭和10年当時で存在するのは今井家と芹川家の2軒だけとなっており、空地も依然として多い。明治初期の士族の大量移住を何とかくぐり抜けても、その後の生活がきびしく、次々と故郷を離れたのであろう。

 ちなみに瓦ヶ町や、若党町の隣の春日町のような下級武士の住むところでは、これほど転居率は高くはない。中級以上武士では、中間や小者などの奉公人も多いため、明治維新による家禄の削減、停止は家の財政的な維持を不可能にしたであろうし、また藩での立場上、帰田法に従わざるを得なかった。帰田法自体、当初想定したほど地主からの土地提供がなく、実際の士族への田地支給に当たっては、家禄に応じての優先順位のようなものがあったかもしれない。

写真は上から明治2年、明治4年、昭和10年の地図の中から、若党町西側の一区画を示す。

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