2016年7月3日日曜日

長流の畔 ー流転の海 第八部ー


 待ちに待った宮本輝さんの新刊“長流の畔流転の海 第八部”が出版されたので、早速購入した。

 舞台は昭和38年。東京オリンピックの前年で、日本でも本格的な自動車ブームが到来した時代である。人々は戦争の影から陽の当たる明るい場所に出て、いよいよ高度成長の波に突入していく。この時代は、私も7歳、記憶も鮮明となり、ようやく宮本さんの小説の世界に入っていけた。順調にいっていた熊吾の中古車販売事業は、玉木の横領により大きな被害を被り、倒産かと思いきや、持ち前のアイデアと行動力で何とか乗り切る。ところが、運命にもてあそばれるように、次から次へと事業、家族にも大きな危機がおとずれる。

 昭和38年というと、うちのおやじは45歳で、歯科医院の仕事が終わる10時から技工を終え、11時過ぎから朝方まで、尼崎の繁華街で毎晩のように飲んでいた。金が足りなくなり、ホステスさんと一緒に真夜中に金を取りにくることも珍しくなかった。そうした際には母親はカンカンに怒り、息子たちにはああした酒飲みにはなるなと口を酸っぱくして説教したが、後年、同じ職業を継ぐと親父の気持ちもわかるようになった。それでも日曜日になると、少しは家庭サービスしようと思ったのか、よく梅田にでて阪急デパートに連れていき、最上階の食堂でお子様ランチを食べさせてくれた。阪神パーク(レオポン)、奈良ドリームランド、枚方菊人形などの今でいうテーマパークが、人気が出たのもこの時期である。当時の大人は、こうした場合に行くにも男はスーツ、女の人は着物、ワンピースなどおしゃれをして行った。よく働いて、よく遊ぶという時代である。

 いつも宮本さんの作品を読んで感心するのは、この人は時代の色、匂いを再現するのが非常にうまい。特にライフワークの流転の海シリーズは、その傾向が顕著である。だがこの第八部では、昭和38年の匂いは、どうもこれまでのシリーズに比べて薄らいでいる。一方、色の方はまだまだで、当時の社会の色は白、黒、灰色、茶色とせいぜい緑、濃紺が主体で、既婚女性が赤の服を着ると色気違いと呼ばれていた。そうした意味では、昭和 38年というのは、色がなく、匂いも減ってきた年で、当時の雰囲気を作中に表現するのは難しかったと思う。

 昭和38年の時代背景を知るために、当時の映画を調べると、森繁久彌の“社長漫遊記”がある一方、“007は殺しの番号”、“シャレード”、“アラビアのローレンス”などの名作もある。梅田のニューOS劇場という巨大な映画館で70mm作品が上映されていたのもこの頃だった。映画名だけ見ると、ついこないだのように思える。昭和20年を境に日本は変わったが、同様に昭和39年、東京オリンピックの年も転換点であった。これを境に日本も無臭、あるいは心地よい匂いとなり、どぶ川のメタンガスの匂い、ガスタンク周辺のガスの匂いもなくなった。ゴタゴタした人間くさい社会から、清潔で洗練された社会となってきた。作品から匂いが失われたのも、こうした社会変化が反映しているのだろう。作品にある熊吾が作った中古車センターも、場所がよいのに人が集まらなかったのは、もはや人々は腐った匂い、雰囲気を嫌ったのであろう。それでも平成までは、大阪出来島、尼崎の出屋敷、東難波ではまだまだ奇妙な匂いが残っていたが、決して好まれたのではない。

 こうした時代を迎え、熊吾の生き方も肉体同様に次第に時代に沿わなくなってきているが、次回が最終部となるためか、熊吾のドタバタ人生も、その人生まるごと、肯定的とは言えないにしろ、優しく受け止める内容となっている。同時に、ほんのわずかなボタンの掛け違い、プライド、やさしさ、意地が、人生の取り返しのつかない転機に繋がり、これを運命と呼ぶなら、こうした執着を捨てることが岐路に必要なことを示す。あの時、こうしたおいた方がよかったという出来事の多くは、こうした些細な執着が関係しており、どうしても熊吾の晩年の幸せを祈らざるを得ない。

 1982年から始まった“流転の海”も次回で最終回となる。もう少しで30年以上のライフワークを完成できるというのは、作者の小説家人生にとっては僥倖であり、読者にとってもありがたいことである。

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