2016年7月7日木曜日

青森県で最初に英語教育をうけた女性: 須藤かく 2

須藤かく
ケルシー宣教医



 

  前のブログで須藤かくの兄、須藤保次郎のことを書いた。このブログは思いつくまま書くものなので、勝手な想像であるが。

 当初、須藤かくが上京したのは、東奥義塾の女子部で少し学んだ後の明治八年ころと考えた。明治八年というと、須藤かく、14歳で、幼いとはいえ、自分の意志を言える年齢であろう。そして15歳で横浜共立女学校に入学したことになる。これは「須藤勝五郎の生涯」(佐藤幸一著、1992)に基づく。ところが明治四年に上京し、五年に共立女学校に入学したとなると状況は全く異なる。明治四年というと、須藤かく、10歳となり、全く子どもである。今でもそうであるが、自分の小学校4年生の子どもがアメリカに行きたいといっても、誰も承諾することはない。何らかの大きな動機が存在するはずだ。

 このなぞを解明する大きなカギが兄の存在となる。もう一度、「岩川友太郎伝」(船水清著、昭和58年)を調べてみる。

 弘前藩が英学の重要性に気づき、藩校の稽古館に英学寮を設け、生徒を寄宿舎に入れて教育したのは明治三年である。監督としては弘前藩で最初に英語を学んだ吉崎豊作があたり、現在の弘前中央高校にあった家老、津軽直記(延尉)旧宅が寮となった。生徒数は二十数名で、すべて30歳以下で、 十三、四歳の少年もいた。英書は単語帳、テーブル、ベンチ、ペン、ペンナイフがあり、グットモーニング、グットナイトなどの簡単な会話から始まり、上級に進めばワシント、ピュートル大帝、ニュートンなどの英文伝記を読んだ。英和辞典は開拓使で出版した日本紙に刷った木版の一冊、後にピネオの文法書があった。高音を発して音読していた。

 ところがこの英学寮は翌年明治四年一月には青森に移され、寺町の蓮心寺で新たに開かれることになった。先生は慶応義塾から派遣された永島貞次郎と吉川泰次郎である。生徒数は三十名で、多くの募集があったが、選抜された中には岩川友太郎とともに須藤保次郎の名がある。平均年齢は16歳であった。生徒たちへの期待の大きさは、生徒各自に馬一頭、人夫一人、夜具、食器までつけ、米二斗、筆墨紙代を与えられる厚遇からもわかる。さらに岩川友太郎、工藤善次郎、石郷岡良蔵は弘前の英学寮でも学んだので最上級の成績で、幹事となる勤め料として一両三分を支給された。青森英学寮の舎監は佐藤弥六で、当時、二十六歳、ちなみに吉川は二十歳、岩川は十五歳、そして須藤は十八歳であった。ところがこの青森の英学寮の寿命を短く、明治四年七月には廃藩置県の関係で閉鎖されてしまう。須藤保次郎の慶応義塾の入社は明治四年五月二日であるから、正式な閉鎖の前に上京したことになる。おそらく永島、吉川、佐藤らの慶応義塾関係者の口添えがあったのだろう。ちなみに明治三年、四年の慶応義塾の入塾者の中で弘前、青森の英学寮にいた人物を探すと、明治三年十月に青沼歓之助、十二月の武田虎彦がいる。逆に田中小源太は慶応三年七月、出町太助は明治二年十二月に入塾し、郷里に帰り、英学寮に入り直している。

 一方、須藤かくの父、須藤新吉郎(序)は、天保二年(1831年)に熊三郎の次男として生まれた。青森浦町奉行所で作事役を勤め、明治元年に小湊口に出張して野辺地戦争に参加し、その後、函館に派遣され土木工学の新知識を修得した。函館戦争が終了した明治二年には、新吉郎は民生局庶務掛に少属として勤務し、青森新城から沖館までの新道の開発を提言し、翌年許可された。住まいは作道村(青森市作道)にあり、青森県庁の権少属十三等出仕となったが、明治五年八月十七日付けで退職している(41歳)。その後は民間人として青森市の都市計画に参加し、明治七年の地租改正に当たっては、火事に強い町づくりを提案し、その費用として縄張人夫代19290銭、須藤序手当60円の経費が計上された。当時の60円は300万円くらいとなる。その後、明治十一年七月の七一雑報(キリスト教の会報)に青森の説教所として「青森港の分営の通路なる川堤の須藤序という人の家を借り受けしとぞ(因に須藤氏の女は三年前より横浜女学校にありて追々熱心の信者となり、已に今春バラ氏より受洗せられしよし)」とあり、明治十一年七月までは須藤かくの父は青森にいたことになる。佐藤によれば、その後、須藤新吉郎の記載は一切なくなることから、明治十一年以降に須藤一家も上京したと思われる。年齢は47歳で、東京で職につくには遅い年齢で、息子の須藤保次郎に頼ったのであろう。

 慶応義塾の卒業生の中には、須藤保次郎の名はなく、上京後の保次郎の生活はわからないが、須藤かくが渡米する明治24年(1891年)では、父、新吉郎は60歳、兄の保次郎が1854年生まれ(明治4年で18歳とすると)で37歳となる。

アメリカの新聞 Cincinnati Enquire March 3. 1885には

「ミス須藤がたった10歳の時に、彼女の父親は故郷の青森の山地の小さな村から、一人息子を教育の機会に恵まれた東京に行かせようとした。そして彼女も一緒に東京に行って、勉強したいと父親に嘆願した。この520マイルの旅行は大変難儀なものであり、男達に担がれた籠で旅したり、残りの距離は船を使う。父親は娘をこんな大変な旅には行かせたくなかったが、娘をかわいがっていたので、結局は娘の希望を認めることにした。東京に到着したが、女子は学校で勉強できないことを知り、失望することになった。偶然に二人のアメリカ人が横浜で女学校を開設しているのを聞き、入学が許可されミス須藤は大変うれしく思った。そこで彼女はケルシー女医と知り合い、深い友人となった。
 ある休暇に、ケルシー女医はミス須藤と一緒に、彼女の故郷である古風な青森に行った。彼女は山地に住んでいる年取った両親からは、あまり暖かい歓迎を受けなかった。彼らはほんのわずかな外人しか見たことはなく、外人に対しては偏見をもっていた。彼女は決して居間には入れてもらえず、一人、慇懃に別の掃除が行き届いた部屋に通された。
ケルシー女医のキリスト教への信仰が、彼らの嫌悪の理由であったが、彼女の人柄に触れるにつれて次第に親戚達の見方は変わっていった。ケルシー女医はニューヨーク、ウェストデールにいる彼女の父親の手紙を受け取っていたが、それをミス須藤に渡し、彼女は父親に訳して話した。父親は熱心に聞き、ケルシー女医の父親が娘をどれだけ愛しているかを知り、うれしく思ったし、大変驚いた。彼は感謝を示したいと、ケルシー女医の父親にプレゼントを送った。とういのも外人は自分の娘をそれほど愛していないと考えていたからである。
 このプレゼントは彼の所有するものの中では最も価値のあるものであった。350年前から彼の曾祖父、祖父、父も帯刀していた古い刀であった。もし彼の息子が生きているなら手放すことができなかったが、すでに受け継ぐものはなかった。須藤、阿部の父親はともに、武士階級に所属している。武士とはイギリスの郷士に似たものである。」

 ケルシー女史が日本に来たのは1885年(明治18年)であるが、実際に青森に来たのはもう少し後だと思われる。明治11年以降に上京した須藤家は何らかの事情があり(保次郎の死?)、再び故郷に戻ってきたことになる。須藤新吉郎は60歳前後のこととである。

 須藤保次郎という人物を須藤かくの兄として想定することで、多くの謎が溶ける。

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