2016年8月5日金曜日

須藤保次郎のこと


 前回のブログで、須藤かくが十歳で英語の勉強のために上京した動機について、弘前藩英学寮で英語の勉強をしていた須藤保次郎が兄であれば、うまく説明できるとした。兄が勉強している英語に興味を持った活発な妹が、兄の上京に一緒に連れて行ってほしい、東京で英語の勉強をしたいと親に嘆願したあげく、明治四年に上京し、横浜共立女学校に入学するというストーリーである。当時の女子教育を考えると、普通の女の子がこんなとんでもないことを言い出すことはないと考えたからだ。何しろ、明治四年といえば、小学校もまだなかった時代であり、女子は簡単な文字と裁縫、料理、一般教養を身につければ十分であった。近代女子教育のパイオニア、津田梅子が6歳で渡米したのが、明治四年であることを考えると、日本の辺境である津軽の10歳の女の子がこうした考えをすることは驚くべきことである。身近な存在に、英語を学ぶ人がいなければ思いつかないことであろう。
 
 須藤かくの父親、須藤新吉郎(序)の息子が須藤保次郎であることがわかれば、この仮説は証明できる。須藤保次郎は明治四年五月の慶応義塾に入社するが、その入社帳が弘前市立図書館にあるので、本日、探しに行った。結果を先に述べると、この仮説は間違っており、須藤保次郎は須藤かくとは関係なさそうである。うまくいかないものである。トホホである。それでは慶応義塾入社帳(昭和54年、慶応義塾監局塾史資料室)から須藤保次郎の項を示す。

須藤保次郎(明治四年)
1.   弘前藩 2。士族 3。三田二丁目廣瀬完右衛門同居 4。亮平弟 5。十八歳 6。 明治未五月三日 7。 小幡篤次郎

1は所属、3は住所、4は父あるいは兄の氏名、7は入塾を認める印鑑名である。これによれば須藤保次郎は須藤亮平の弟になる。明治二年弘前絵図によれば明治二年当時、須藤姓は20軒あり、“須藤亮平”の名もある。住所は弘前市山道町、現在の弘前昇天教会の前あたりとなる。須藤亮平は函館戦争にも参加し 、輜重方、営造方属事として金700疋(7貫)を賞典として支給された。また明治十六年には蓬田村の戸長となっている。ただ弟の須藤保次郎の名はない。

ついでに弘前藩出身の入社者で父あるいは兄の名が記されている人物について挙げる。明治二年弘前絵図の住居と一致する。

寺井純司(明治二年)
1.陸奥 2.弘前 3.津軽越中守 4.寺井雄平 5. 十八歳 6。八月二十日 7。北原将五郎
明治二年弘前絵図では“寺井雄平”の名は弘前市上瓦ヶ町にある。

成田五十穂(明治二年)
1.奥州 2.弘前 3.津軽越中守 4.成田源次郎 5。 二十三歳
6.巳ノ七月六日 7.北原将五郎
明治二年弘前絵図では“成田源二郎”の名が御徒町川端町にある。

武田虎彦(明治三年)
1.奥州 2.弘前 3.津軽少将 4.武田久吉 5.十八歳 6。十二月十四日
明治二年弘前絵図では“武田久吉”の名が五十石小路にある。

小野武衛(明治四年)
1.弘前藩 2.士族 3.三田二丁目高瀬屋幸之介 4.父琢左衛門 5.十九歳 6.七月三日 7.対馬嘉三郎
明治二年弘前絵図では“小野琢右衛門”の名が冨田新割町にある。



0 件のコメント:

コメントを投稿