2024年10月27日日曜日

子供の頃の思い出1

 

父親の小学校の修学旅行 学校は不明




父の姉の結婚式 徳島の実家前

先日、九州の博多で行われたサッカー部の同窓会が行ったが、博多に行く前に兄、姉と一緒に母親が入っている兵庫県、西宮市の老人ホームを訪れた。母はすでに102歳、大概ベッドで寝ていて、あまり反応もない。それでも姉が、私のブログの中で、脇町のこと、尼崎のことが書かれている文章を抜粋して、小学校の低学年用のノートに大きな字で書き写したのを持っていくと、じっとページをめくり読んでいる。おそらく10編くらいの文章を30分くらいで読んでしまったのには驚いた。こうしたこともあり親孝行のために昔の話を書く。

 

私が生まれたのは、昭和31年、4歳上の兄と、5歳上の姉がいる。父方の祖父、祖母は、徳島県板野郡一条(吉野)町西条というところで農家をしていた。祖母が作った古い家系図が残っているが、内容はかなり怪しく、初代は藤原鎌足とある。藤原家の家系の断片をどこかから引っ張ってきたようだ。それでも室町末期の永禄、元亀のころから家系図は、ほとんど無名の廣瀬姓が続いており、西暦でいうと1560年ころから、ずっと徳島で農家をしていた。祖父(広瀬邦市)の代、明治になると一旗あげようと大阪に出て、いろんな商売をした。そのうち、資金をためて商売を広げようとした矢先、昭和5年に40歳で急死し、商売の才能があった祖母が引き継ぎ、大阪の堀江、新町遊郭で妓楼をするようになった。堀江、新町遊郭は江戸時代、元禄から続く大阪の古い色町だったが、次第に大正期にできた飛田遊郭に客を奪われていった。母親の記憶では妓楼の名前は「栄楼」といい、大正11年の貸し座敷の記録には新町2422(西長堀南通二丁目)に栄楼(山下ヨネ)の名がある。実際のオーナーの名は出さなかったかもしれない。また昭和15年の「なつかしの昭和 堀江戦前住宅地図」によれば、北堀江上通1丁目に2軒の広瀬の名があり、またすぐ隣に歯科医院もあり、それに影響されて父は歯科医になろうとしたのかもしれない。また近所には瓢亭 吉本せいの名があるが、これは有名な吉本興業の創始者である。官報昭和16年の陸軍への寄付金記録では、平和楼の従業員代表として廣瀬小梅(コンメ)の名があり、妓楼の名を平和楼にしたのかもしれない。

 

遊郭はよほど儲かったようで、正月になると大座敷の上座に祖母とその娘2名と息子2名が座り、働いていた女性たちから新年の挨拶を受けたという。さすがに遊郭は子供の教育には良くないため、故郷の徳島県吉野町に大きな邸宅を建て、子供たちはここに住んだ。一枚の父親の修学旅行(小学校)の写真がある。男子は金ボタンの制服、女子はセーラー服にコートと出立ち、どう見てもお金持ちの学校である。大阪にある私立帝塚山小学校と思い、学校に問い合わせたが、そうでないという返答が来た。とても徳島県の小学校とは思えないが、いまだにどこの小学校かはわからない。父親は近くの阿波中学卒業後、上京して東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)に進学した。同級生もお金持ちが多く、女優の轟夕起子と原節子さんのサイン入りブロマイドが残っている。おそらく学生時代、昭和12年以降のものだろう。けっこう学生生活を満喫していたのだろう。下宿していた家の息子が、黒澤映画によく出る俳優、藤原鎌足ということは一度聞いた。歯科医としての修業期間4年間を待たず、昭和1612月に学校を卒業し、陸軍に入隊して幹部候補生となった。昭和17年には少尉となって関東軍に配置され、中国東北部で輸送および測量業務を担当した。終戦時は、ソ連国境にいたために、すぐにソ連の捕虜となり、モスクワ南方のマルシャンスク捕虜収容所で昭和23年まで収容された。収容所では最初、材木運びなどの重労働であったが、その後、歯科医として歯科室に勤務していたので、それほど捕虜生活も厳しいものではなかったようだ。6月に舞鶴に帰還した。




2 件のコメント:

  1. 廣瀬先生、お母さま102歳になられたのですね。30分ぐらいで文章を読まれるなんてすばらしいですね。

    昨日、難波小学校の同窓生と3人でLINE電話をしていて、難波幼稚園のアルバムを出して喋っていたんですよ。
    私は、お兄様と同じクラスでひつじ組でした。
    卒業写真はお兄様の隣に座っています。

    保護者のページに、どなたかは判りませんがお母さまのお若い頃の写真がありますね。
    友人たちは梅園幼稚園だったので、「難波幼稚園は裕福な家の人が多かったんじゃない?」と言われました。うちは貧しかったので、母は苦労したようです。
    廣瀬先生のお家は歯医者さんだったし、田畑さんという内科のお医者さんの子もいました。
    あの時代に「感謝祭」をやっていたんですね。

    長々と書いてしまいました。すいません。
    これからも尼崎のお話楽しみにしております。

    ねこ吉

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  2. コメントありがとうございます。昨年まで母は尼崎で、元気で一人暮らしをしていました。大腿骨を骨折後に今の西宮の老人ホームにいます。施設に入ると弱まりました。

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