2025年4月25日金曜日

断捨離

 

大宮の鉄道博物館 以前より人気は無くなった?開館15分前で一番入館でした




今、断捨離をしていて、これまで集めてきたものを整理している。もともと本に関してあまり執着はないので、読んだ本はすぐに売る。今回も500冊以上の本を処分したが、処分自体はそれほど気にならないが、それにしても買取り価格が安すぎて、これについては結構抵抗がある。たとえば、先月買ったヤマザキマリの「続テルマエロマエ」2冊と「坂道のアポロン」6冊で、いずれも帯付き、ほぼ新品、全部で350円。多分、坂道のアポロンが1冊20円、続テルマエロマエが230円くらいであろう。アポロンをセット売りで2000円くらい、儲けが1880円ということか。そんなこともあり、世界の傑作機シリーズ、90冊くらいを処分しようと思っていたが、一冊20-50円くらい、90冊でも3000円くらいなのでやめた。

 

前にも書いてが、大橋歩さんのイラスト原画、ピンクハウスの服紹介のイラストだが、これをネットの買取り業社に写真査定してもらった。査定額は掲載されている本と一緒で2000円ということだった。本はヤフオクで、2000円で買ったので、大橋歩さんのイラスト自体の評価は0円ということだ。さすがに失礼な評価である。同様に西宮のアートコアという絨毯専門店で買った20万円、100年前の絨毯とキリムを、これもおたからやなど写真査定してもらったところいずれも5000円だった。売れそうな古い絨毯の買取り価格が全て5000円なのだろう。たぶん1000万円以上する絨毯でも5000円なのだろう。そうして購入したものを専門家に査定してもらい、もし1000万円のものを5000円で購入できたら大儲けという仕組みである。

 

さらに掛け軸など、それでなくても今の住宅から床の間がなくなっており、需要は少ない。私の持っている掛け軸の買取り価格は500-1000円程度であろう。そんなこともあり、日本の美術館への寄贈も考えたが、有名作家ならいざ知らず、土屋嶺雪、香川芳園、田中蘭谷、山元春汀など明治から昭和の中堅画家の作品など見向きもされない。知人の美術館長に聞いても、まず美術館では引き取ってくれないという。そうしたこともあり、友人がキュレーターで働いているアメリカ、オハイオ州、シンシナティー美術館に連絡すると、喜んで引き取るということで、こちらも自分のコレクションの安住の地が見つかって嬉しい。ここには以前に3本ほど掛け軸を寄贈したことがあり、その時は自分で包装をして近所の郵便局から国際便で送ったが、今度は数も多いので、正式な手続きをして美術品専用輸送業者に依頼することになった。送料は博物館持ちなので、友人が館長を説得し、理事会の承諾を得た。先日、ヤマト運輸の美術品専門のチームが3人来て、2時間ほどかけて梱包した。驚くほど丁寧な梱包で、何千万円の絵であれば、そうだろうとは思うが、安い私のコレクションにはもったいない。さらに100年以上前の作品については重要文化財に該当しないか文化庁の許可を得なくてはいけないので、それに1ヶ月ほどかかり、許可が得られればシンシナティーに運ばれる。向こうで展覧会をしてくれるという。ありがたいことだ。

 

本当に一部の商品、ロレッククスの腕時計や金製品を除くと、古いものの買取り値段は驚くほど安い。娘に言わせればメルカリなどで売ればというが、面倒でやろうとは思わない。だいたい購入価格の1/10から1/100くらいが買取り価格で、もし売れれば儲けは莫大である。たとえば新刊本の場合は価格の20%800円の漫画本であれば、本屋の儲けは160円であるが、その本を古書店が100円で買取り、500円で売れば400円の儲けとなり、新刊本2冊以上の儲けとなる。これが古着や家具、さらに絵となると、売れればもっと儲けは多い。

 

最近、おたからやなど買取り店が多くできているのは、もちろん金製品、ブランド製品の買取りがメインであるが、それ以外のものでも、もし売れれば利益も大きいため、全国的に店が拡大している。よく知らないが、買い取ったものはヤフオクやメルカリ、あるいは東南アジア、タイなどでうまく売り捌けば大きな利益となる。一方、ニトリやイケヤの家具は、おたからや、やセカンドストリートでは買い取ってくれないこともある。特に昔はやった結婚家具5点セットなどの洋ダンスなどは買取してくれないどころか、撤去費がかかる。こうした中古品を査定して買い取る店が非常に多くなったは、お客さんが持ち込んだ商品の写真を撮り、その場で、インターネットで会社の査定担当者に見せて買取価格を決めるからだ。ただこの査定担当者も絵や絨毯については全く素人なのでわからないし、安く買い取っても、それほど高く売っていない場合もあり、探せば中古店にもお宝は眠っているかもしれない。

 

“物の値段とは何だろう”というのが実感で、結局欲しい人が多いと値段が高いというのに尽きる。ただこの欲しいというのも時代や国によって変わっていく。断捨離は物欲を捨てる行為に他ならないが、逆に物欲は老化を防ぐスパイスのようなものかもしれない。

2025年4月20日日曜日

昭和天皇物語

 




この漫画については以前から知っていたが、昭和天皇については、いろんな書物である程度知っているので、これ以上のことは書かれていないと思っていた。ただ弘前出身の外交官、珍田捨巳のことがどう書かれているか知りたかったので、購入して読んでみた。

 

まず最初の感想は、かなり細かい点までよく調べていて、ほぼ史実に忠実な内容になっており、下手な昭和天皇の評伝を読むよりはよほど面白かった。政治家や人物についてうまく描かれている。第4巻は、皇太子時代に欧州訪問のことが書かれているが、ここで供奉長として珍田は頻繁に登場する。少しやかまししいくらに昭和天皇の行動を監視する。この供奉長というはよほど大変な役目で、万が一、皇太子に何かあれば、切腹するくらいでは済まない重責であった。牧野伸顕によれば人選はそれほど揉めることなく、欧米生活が長く、語学に堪能な珍田に決まった。

 

この半年に及ぶ旅行中、珍田と皇太子は常に行動を共にし、通訳としての役目も兼任したようだ。たとえば、ロンドンに到着し、バッキンガム宮殿に入るが馬車には英国王、ジョージ5世と珍田と皇太子が乗り(あと一人はエドワード皇太子?)、皇太子はフランス語は少しできたが、英語は全て珍田がおそばにいて通訳していたと思う。当時の映画が残っているが、ヨーロッパ訪問中、珍田は常に皇太子のすぐ横にいる。そうしたことを考えると、あの有名は場面、バッキンガム宮殿に滞在中にジョージ国王自らがお忍びで皇太子の部屋に来て、国王の勤めについて話した場面、漫画では通訳は吉田茂となっている。当時、駐英大使館の一等書記官であった吉田茂が、バッキンガム宮殿に宿泊していたか。もちろん皇太子、閉院宮載仁親王、珍田捨巳ら随員の何人かは宮殿に宿泊したと思われるが、吉田は特に宮殿に泊まる必要はなく、この場面で吉田が通訳するのは不自然である。さらに吉田の経歴を見ても、わざわざ大使館から通訳としてバッキンガム宮殿に呼び出されるほど英語力はなく、イギリス国王との接点もない。多少は英語ができたもののわざわざ皇太子の通訳をするほどのものではない。

 

この場面、皇太子とジョージ5世の通訳をしたのは、この欧州訪問の通訳をしていた珍田の可能性が高い。珍田は、明治10年からアメリカのデポー大学に留学、卒業しており、大学では弁論部に入って優勝するほど流暢な英語を話す。さらにイギリスでは書記官、アメリカでは在サンフランシスコ日本領事、さらに日露戦争中は外務次官として活躍した。主として欧米外交のプロであり、皇太子の欧州訪問前にはパリ講和会議には駐英大使として全権委員の一員であった。ジョージ5世とも面識はあったはずである。

 

こうした理由から、ジョージ5世がお忍びで訪問する際には、まず供奉長の珍田に声をかけ、珍田と一緒に皇太子の部屋に行ったと推測した方が、吉田茂よりは自然である。珍田は皇太子の帰国後、そのまま宮中に入り、東宮大夫、さらに天皇即位後は侍従長となった。よほど昭和天皇は珍田の人柄に惚れたのであろう。珍田は天皇の即位の大礼を無事に務めた後、脳出血で亡くなった。

 

戦前の昭和天皇と弘前の関係は、この珍田だけではなく、終戦時の侍従長の藤田尚徳の両親は、いずれも弘前出身で、父、潜は弘前藩士で、珍田とも藩校、稽古館で英語を学んだ同級生で、のちに東京、攻玉社の校長となった。珍田の次の侍従長の鈴木貫太郎、百武三郎はともに攻玉社で藤田潜の教えを受けたに違いない。また最後の津軽藩主、津軽承昭の娘、津軽理喜子は、牧野伸顕の推薦で、皇太子時代の昭和天皇の女官となり、理喜子の妹、寛子は徳川義恕の長男、義寛は戦後、侍従長となった。また姪の津軽華子さんは常陸宮殿下の妃となった。ついこの前まで宮内庁の女官の推薦枠が弘前の高校にあり、性格の良い子供が宮内庁に入ったのはこうした関係もある。






2025年4月16日水曜日

田中蘭谷

 





先日、大阪に行った折、以前から来たかった小磯良平記念美術館を訪れた。アクセスが悪いわけではないが、どうも阪神魚崎駅で降りて六甲ライナーで行くというのは抵抗があり、なかなかいけなかった。

 

小磯良平は、神戸の人に最も愛された画家で、多くの作品はこの小磯良平記念美術館と兵庫県立美術館に所蔵されている。この美術館の目玉は「着物の女」で、近くで見るとそれほど細かい描写ではないが、着物、とりわけ女の人の腰回りのラインが色っぽい。柔らかである。また兵庫県立美術館にある西洋白人を描いた「肖像」の白いシルクのドレスの表現が凄まじく、質感まで表現されている。いずれも戦前の作品で、優れたデッサンを元に生き生きとした女性を描いている。この2点が小磯の作品では一番好きである。

 

以前、東京、世田谷美術館に大規模な小磯良平展を見に行ったことがある。初期から晩期までの代表的な作品を紹介し、小磯の生涯を俯瞰する展覧会であった。その時に一番感じたのは、なぜ、若い時の路線をずっとしなかったか。戦後、とりわけ昭和30年代は、その頃の美術界の主流の抽象絵画の影響を受けて、そうした作品ばかり描いていた。作品としてはあまりよろしくなく、また多くのファンも眉を潜めたと思う。その後、昭和45年頃からようやく元の具象作品に戻る。亡くなったのが昭和63年なので、昭和30年代からの15年間の抽象絵画の時代が惜しい。ピカソは生涯に何度も画風を変え、いずれも優れた評価を受けているが、これは彼だけできることであり、多くの画家は一つの画風を深化させていく。

 

私が最近、気に入っているのは、千葉県生まれの田中蘭谷である。ほとんど無名の画家で、作品もそれほど個性的なものではない。明治17年に千葉県夷隅郡上瀑村に生まれた。高等小学校卒業後に、絵が好きで苦学しながら美術関係の学校を卒業し、その後、着物生地の下絵を描く仕事をしていた。妻が産婆をしていたことから、生活は妻の収入で賄え、本格的な絵の修行をしだしたのは40歳になってからで、日本画家、小室翠雲の門下となった。その後、日本南画院展覧会、日本帝国美術展覧会で入選したのが46歳、昭和5年であるが、昭和16年、太平洋戦争勃発後は絵を描くのが厳しい時代となった。戦後は注文も多くなったが、昭和31年に脳溢血となり、34年に亡くなった。実質的に画家として本格的に絵を描いていたのは、昭和5年から昭和16年、昭和21年から昭和31年の20年間くらいで、画家としての活動時期は決して長くないし、かなり高齢になってからである。年齢でいうと46歳ころに画家としてデビューし、途中、戦争で中断があり、70歳くらいまで活躍したといえよう。

 

私は、田中蘭谷の絵を4枚持っている。どれも細部にまできちんと描かれており、手抜きはない。同時代に活躍していた橋本関雪は、展覧会に出すような大型の作品はかなり細部まで描き、時間もかけたが、これは例外であり、収入の多くは通常の掛け軸サイズの絵を売った。橋本関雪は絵も上手いが、速描きで、通常の絵であれば、1、2時間で簡単に描けたと思われる。ある程度、構図や題材が決まれば一気に描けた。そのため、橋本関雪の絵は贋作も含めて大量にある。同様に弘前の有名な日本画家、野沢如洋は1日に1000枚描くという千画会を開いたりした。田中蘭谷の作品を見ると、一枚の絵を完成させるためにかなり時間がかかっているように思われる。下図を作り、構図を考え、そして丁寧に描いていく、そのため、作品であまり不出来がない。

 

枝にとまる一羽の小鳥を描いた作品には、「壬申秋」の記載があり、昭和7年(1932)、48歳の時の作品であるが、薄墨で描かれた細い枝の表現などは独特であり、動物の表現も見事である。この絵を基準に考えると、鶏の絵は、他の絵に比べて色の表現が鮮やかで、またたらし込みの技法などが使われ、昭和7年より前の作品、逆に「ブドウと小鳥」や「不要美人」はそれより後の作品のように思える。田中蘭谷の作品は、ネット上では山梨県立美術館に2つ、都留市博物館での「田中蘭谷展覧会」が載っているが、作品数はそれほど多くないようだ。こうした中堅画家の作品に中には優れたものがあるが、動物画家、特に小鳥の表現にこの作家は巧みであり、以前、落札しできなかった「梅唐美人図」を見ても美人画についてもいい作品がありそうで、今後もヤフオクからは目が離せない。今回、落札した「不要美人図」もいい作品で、お気に入りになりそうである。











2025年4月13日日曜日

日本歯科専門医機構、歯科矯正専門医

 




医科の中には眼科、皮膚科、整形外科のようの分野別の専門医制度があり、筆記試験や症例数などにより専門医の資格を取る。同じようなことが歯科でもあり、口腔外科や矯正歯科などの専門医制度がある。元々は各学会で専門医制度を立ち上げたが、国民により信頼される制度として第三者機関、歯科では日本歯科専門医機構が審査を行い、これに合格すれば専門医を名称できる。

 

現在、歯科では口腔外科、歯周病、小児歯科、歯科麻酔、歯科放射線、補綴歯科、矯正歯科、歯科保存の8つの専門医があり、原則的にはこの8分野については、看板やホームページで資格を載せることができる。逆にいえば、これ以外の学会名を冠した名称、例えば矯正歯科学会でいえば、日本矯正歯科学会、認定医というのは原則的にはダメで、日本歯科専門医機構、矯正歯科専門医はOKなのである。現在、矯正歯科専門医の数は201名で、残念ながら青森県にはいない。私は症例審査、筆記試験など全ての試験に合格したもが、日本歯科専門医機構の共通研修というビデオを見ることをしなかったために取れていない。共通研修というのは、まず受講の申し込みをしてから、受講料を銀行振込するのだが、ネットからカードで支払ったと勘違いし、受講できなかった。今年で閉院するので、もういいやと思っていたが、こちらで世話になった先生がこの日本歯科専門医機構の矯正歯科担当の理事で、矯正歯科の専門医が都市部に集中して地方にいないと言っていたので、遅ればせながら再チャレンジして結果待ちの状態である。

 

実際に東北地方の矯正歯科専門医を見てみると、青森県は0、岩手県は2名、秋田県は0、山形県は1名、秋田県は0、宮城県は3名しかいない。大学の教授は研修機関長とて自動的に専門医になるために、現状では東北の開業医で矯正歯科専門医を持つのは4名しかいないことになる。今後、日本矯正歯科学会の認定医が2833名おり、専門医の試験はかっての臨床指導医の試験より簡単となるために、随時増加していくと思われるが、それにしても現状では、特に東北地方では極めて少ない。

 

矯正歯科学会では矯正治療をするなら矯正歯科専門医でしなさいというが、実際、青森県には矯正歯科専門医が一名もいないので、治療できないことになる。それでは認定医というと、弘前市は私を除くと3名、青森市は1名に(引退して子供が継承)、八戸市は2名、他には三沢市に1名、むつ市に1名となっているがこれは間違い。弘前市はまだ恵まれているが、青森市は1名で、木金土曜日の週3日のみの営業なので患者数は限られる。

 

こうした状況では、必然的に専門医のところで矯正治療を受けるのは難しく、近くの一般歯科で矯正治療を受けることになる。そうしたこともあり鹿児島大学病院にいたときは、開業医の矯正歯科治療のレベルを上げる目的で、大学主催のマルチブラケット装置の講習会をしたり、開業医の研修医を増やしたり、あるいは症例相談を受けたりしたが、結局は矯正歯科ではフルタイムでの3年以上の研修は最低限必要で、一般歯科医に一生懸命教えても無理だということになった。30年前まではこうしたマルチブラケット装置の講習会も多く行われたが、月に1回、2年間の講習会をしても、ほとんど実際の臨床に使えない。そのため、最近ではマウスピース矯正の講習会ばかり増えて、マルチブラケット装置に講習会はほとんどなくなった。実際の矯正専門医の治療の主体、90%はマルチブラケット装置による治療なのに、今の若い一般歯科の先生は全くマルチブラケット治療ができず、聞き齧ったマウスピース矯正だけしかせず、結果は以前より酷いことになっている。

 

歯科矯正治療の進歩は、あくまで手技の簡素化、汎用化であり、AIの進歩で誰でも簡単に診断はできそうである。一方、手技としては、例えば、AI診断で“この”上顎前突の患者の治療法は、1。外科矯正を併用した方法、2。小臼歯抜歯、アンカースクリューを併用した方法“となったとしよう。現時点でのAI判断ではマウスピース矯正は無理で、マルチブラケット装置による治療となるが、治療そのものがAIでするのはまだ無理である。個人的には今後もマルチブラケット装置による治療ができない限りまともな矯正治療はできず、AIを用いてどのように教育していくかも重要なこととなろう。残念ながらマウスピース矯正がマルチブラケット矯正治療を凌駕する可能性はかなり少なく、まだまだレベルの高い治療結果を誰にでもできる状況には達しておらず、AIが進歩したとしても今の状況は続きそうである。




2025年4月9日水曜日

丹鶴庵

 








丹頂鶴のホームページより


今の弘前大学医学部病院にあった金木屋呉服店は、江戸、明治時代に繁栄を極め、明治14年に明治天皇の御巡幸の折には、天皇はここに宿泊され、その記念碑がいまだに医学部病院の校内にある。明治天皇がこの呉服店に泊まることが決まると、わざわざ宿泊用の豪華な離れを建築して、準備をした。宿泊所の写真もこの記念碑に残っている。もうとうにこの宿泊所は無くなっていたと思っていたが、どうやら弘前市愛宕山の橋雲寺に移築されているようだ。ネットで調べると今は橋雲寺の護摩堂としてあるようだが、明治時代の宿泊所に比べると、随分と形が違うようだ。暖かくなったら一度、自転車でいってみようと思う。

 

Googleマップで周囲を調べていると、「新岡温泉」というマニアにはたまらない温泉がある。ストリートビューで見ていても、ほぼ民家で、かなり地元民でないと入りにくそうで、いろんなルールがあるのだろう。さらにいくと「丹鶴庵」という名が見える。小さな寺かなあと思ってみると、実はこれ民泊設備で、一棟丸ごと貸し出す宿泊施設である。茅葺の純日本家屋で、室内も和室、自炊するシステムである。周囲には綺麗な庭があり、また宿泊費も非常に安い。大学生ゼミでの利用では6人以上の使用で、一人1500円、6人で9000円という安さらしい。長期に宿泊することも可能で、欧米でよくある田舎の村にしばらく住むような宿泊所である。夫婦2人で5日間の宿泊をすると、一泊目は二人で9000円、二泊目は7200円、三泊目以降は6400円、一週間で41800円、ドル換算で280ドルくらいになる(1ドル150円)。キッチン用品、風呂、寝具も用意されているので、近所のスーパーで食材を買えば、ここで自給できる。弘前に30年住んでいて、こんな宿泊設備があるのを初めて知った。多分、最近話題になっているインバウンドの外国人観光客にもまだ知られていないだろう。イタリアの田舎では、観光客がこうした昔の建物に宿泊させるのが流行っているが、一棟貸しだと一泊十万円以上する。一週間住んでこんなに安い宿泊所はない。

 

このことを毎週会う英語のレッスン仲間で議論したところ、まず弘前に住む人は全く関心がなく、なぜ田舎のこんなに不便なところに宿泊する必要があるのか、できれば豪華な温泉宿で、美味しいものを食べたいという。もちろんそうであろう。では東京の人はどうかというと、弘前駅からのアクセルと食材の購入が大変ではないかという。レンタカーを一週間くらい借りて、弘前市周囲、青森県の観光地を巡るのはいいとして、帰って、スーパーで食材を買って料理し、風呂を炊いて、布団を敷いて寝るのは大変だという。将来、田舎に移住を考えている人はその予行としてはいいかもしれないが、よほどのマニア以外は、こうした施設に泊まるのは躊躇われるのではないかという。さらに外国人観光客はというと、たとえ一週間とはいえ、外国で何から何まで自活するのはかなり難しい、少なくともあれこれ聞ける友人でもいないと厳しいという。また外国人に宿泊させると日本人のようなルールを知らないので、かなり宿泊設備が無茶苦茶にされる可能性も高いという。

結局、一番いいのは、大学生、高校生、あるいは中学生などの学生が利用することである。最近の子供、特に都市に住む子供は、こうした囲炉裏があり、蚊帳があり、周囲が田んぼに囲まれた生活はしたことがなく、大きな体験にらなると思う。引率の先生は大変かもしれないが、みんなで買い物に行って自炊するのは大きな経験になろう。英語の先生は、青森県に来たALTの外国人教師がみんな集まってこうした宿泊施設に泊まるのは楽しそうで、活用できるかもしれないと言う。

 

私の意見としては、管理者あるいは従業員がもう少しここでの生活、具体的にいえば囲炉裏の火を起こし、風呂を炊き、食材の買い出しと料理の手伝い、あるいは布団の敷き方を教えるなど、宿泊にサポートしていくのもアリかと思う。特に外国人観光客は、少し厳しいようだが、物品の破損などについては弁償などの署名をもらうとともに、紹介者がいないと宿泊できないようなシステムもいいかもしれない。体験型の旅行を楽しむ外国人観光客も多く、一棟貸しで、一週間の宿泊料金を30万円くらいにして、その分、体験型の催し、農家の手伝いや郷土料理教室、弘前であれば、ねぷた制作、運行、地元酒場、料理店紹介などいろんな工夫ができよう。

 

泊まったこともないし、行ったこともないところであるが、この「丹鶴庵」は面白そうな施設である。500m離れたところには「新岡温泉」があるし、周囲には小さな神社、羽黒神社、春日神社、愛宕神社、橋雲寺、白山神社、荒神社、十二所神社、稲荷神社、蔵王権現堂などいろいろある。また車がなくてもサイクリングにはいいとこで、岩木山神社や高照神社2、3キロで十分にいける範囲であるし、温泉だって新岡温泉以外にも、3キロ四方でいうと、まずアソベの森いわき荘の日帰り入浴もあるし、三本柳温泉、あたご温泉、桜温泉、百沢温泉など渋めから豪華な温泉が揃っている。歩くと流石に遠いが、自転車なら3キロくらいなら15分くらいでいけるので、JAつがる弘前四季彩館やマックスバリュ岩木店もあるので、食材は何とか購入できる。中古の自転車が2、3台あれば、車なしでも自活はできるし、周囲の渋めの観光地を回れる。

 

東京や海外の人で、この丹鶴庵に4、5日泊まった感想を聞きたいものである。

2025年4月8日火曜日

ウォルマート化を許すな

 




ウォルマート効果というのは、巨大なスーパマーケットができることにより、進出地域から既存の店が一気に消失し、ウォルマートが唯一の店となり、地域の住民にとって生活の全てウォルマートになってしまう現象のことである。概念はすでに20年以上言われているが、最近になってウォルマートの進出を否定する地域が出たり、ウォルマートで買い物をしないという不買運動も活発化している。

 

アメリカの基本的な地方の街は、開拓時代に建設されたもので、鉄道、馬車の駅が中心となり、役所、教会、警察、図書館あるいは新聞社ができ、その周囲に次第に店ができるようになる。この中心街の周囲に住まいが発展し、映画館など、娯楽もここに集まり、街の文化の中心となった。日本でも同じで、弘前市でいうなら、江戸時代は本町が中心であったが、その後、隣の土手町、さらに駅前も繁華街となっていったが、ここ30年、大型スーパーが郊外にできたために、次第に中心街が凋落していった。

 

最近できたロピア弘前店も、完全にウォルマートの手法を取り入れた店で、大量購入をして安く提供する。さらに小分けの手間を省くために、できるだけ分量を多くして売る、コストコなども同じやり方である。鶏もも肉で言うと、大容量6枚で1500円、3枚では1200円という塩梅で、大量購入すればかなりお得というやり方である(数字は違います)。アメリカでは30年前からこうした大容量お得というやり方が浸透し、その結果、ひどい肥満社会となった。安いからといって大量の食品を消費し、太っていく。日本でも地方ではこうした方向になるかもしれない。

 

ウォルマート効果を一言で言うなら、街自体が消滅し、全ての土地が均質化していくことを意味する。つまり中心街、繁華街がないことから、土地の価値がどこでも同じ、土地価格も変わらないことになる。これも弘前の例で言えば、通常駅前というと土地価格は高いものだが、弘前市の駅から500m圏内は坪15万円くらいであるが、5kmくらい離れても価格はそれほど違わない。つまり弘前市全体の土地価格が低い値段で平均化されていく。大きなスーパーができると、周辺の土地が開発され、住宅ができる。一方、同じ世代の人が住むため、20 , 30年後にはそこに住む人々が高齢化し、スーパーも売り上げが伸びず、閉店となる。こうした大型スーパーが郊外にでき、周辺の個人店を全て消滅した挙句、最終的にはこのスーパーもなくなり、買い物難民がでる。

 

一方、東京や大阪の都会では、大型スーパーは土地価格が高く、採算性が低いために、小さなスーパー、あるいは昔ながらの市場が残っているところが多い。またロピアのような鶏もも肉大容量6枚を買う家庭がそもそもいないため、東京に進出しているロピアは小平市と府中市しかない。大型スーパーは全国から大量買い付けを主体とするため、ロピア弘前店でも青森県産が店頭に並ぶことは少ない。青森県は米、野菜、魚、肉などほとんどの食材を自給できるが、その青森人が地元のものが食べられない。30km離れた青森湾や日本海でとれた魚が売っておらず、1800km離れた長崎産の魚が店頭に並び、数キロ離れた畑で採れる野菜が売っておらず、400km離れた福島県産を買うことになる。

 

できれば、その日の朝にとれた魚や野菜を食べたいし、それを使った惣菜やレストランがあっても良いが、ウォルマートができるとそんなことができない。幸い弘前ではロピアができたが、その横には虹のマートという地元食品店街があり、重宝している。ここはほぼ青森県産のものばかりで、年寄り二人ではこの商店街の方が重宝している。ただ幸いなことに、ロピア弘前店が駅前のヨーカドーの跡地に入ってくれたので、郊外に店ができて中心街が空洞化するドーナツ化現象を免れた点であり、今は2階以上の店舗が空いているが、早くここにも店ができてほしい。土手町も含めて、街の中心街を守ることは、その土地の文化を守ることである。




2025年4月3日木曜日

これから開業する先生へ



弘前でも団塊の世代が引退する時代となり、毎年のように閉院する歯科医院が増えている。平均すると年間で3、4件の歯科医院が閉院する一方、新規に2、3件が開業するという感じである。徐々であるが、歯科医院数は減少している。一方、患者についていうと、団塊の世代以降が最も歯の問題がある年齢層で、う蝕、歯周疾患、入れ歯などの問題があり、これらの年代の人、具体的に言えば55歳以降の人が、歯科医院のメインの患者となる。一方、40歳以下の人は、あまりう蝕がなく、歯科医院に行ったことがないという人も多い。特に30歳以下の人について言えば、うちに来ている患者さんに聞いても初めての歯科医院が矯正歯科医院という人が意外に多い。矯正治療に伴う抜歯のために初めて一般歯科医に行ったという患者さんも多い。もちろんう蝕は一本もない。

 

こうした人がこれからを占めるようになると、う蝕はかなり少なく、またう蝕治療技術も進んでいるので、一度治療をするとそれほど悪化せず、結果的に歯科医院に行く回数はかなり低くなる。知人の歯科医に聞くと、十数年前から子供患者が減っていると感じていたが、最近では40歳以下の患者も減って来ているという。ただ歯周疾患については、それほど減少しておらず、平均寿命が100歳になる将来も60歳以上の患者は減ることはないように思える。こうしたこともあり、若者が歯科医院に行くとすると、小さなう蝕か歯並びの治療ということになる。

 

新規開業の先生を見ていると、診療所は今流行りのおしゃれなデザインで、患者ターゲットを完全に若者に向いている。そして口腔内スキャナー、歯科用CT、さらにCADCAMまで、いわゆるフル装備で開業する先生も多い。インビザラインなどをしようとI-TEROという口腔内スキャナーを導入したりするが、はっきり言って患者は来ることはない。今どきの若者は、かなりスマホなどでじっくりと検討するので、新規開業の歯科医院で高い費用を払って矯正治療をする人はいない。同様に、歯科用CTスキャナーを導入しても保険で認められる疾患はかなり少なく、主としてインプラント向けとなる。これも新規開業の先生のところでわざわざする患者は少ない。またCAD/CAMにしても、主として削り出しのインレーやクラウンなどの自費治療で、これもあまり勧めると、あそこの歯科医院は高いという評判となる。

 

要するに、若い先生は歯科経営コンサルタントの助言にそって、こうした設備を揃えて開業する。よく考えれば、最初は基本的な設備で開業し、患者が多くなれば、こうした設備を揃えればいいとわかるのだが。最近のこうした設備はほぼデジタル機器で、通常5−7年で陳腐化した、古くなってしまう。そのためにいかにこの5−7年で使いまくり、早く購入費を回収しなくては儲けとならない。以前と違い、現状での新規開業はあまり多くの患者数は期待できず、こうしたデジタル機器は使われないままゴミとなる。また経営コンサルタントは、過去の成功例(自分のところが関与していない)から、予防を主体とした経営システムを勧めるが、これも大概は失敗している。歯が痛くて歯科医院に行っても、まず多くの検査をして、衛生指導を行ってから治療を始めるという塩梅で、さらに一人15分、30分という予約枠を守るために、新規患者を断りながら経営が苦しいという先生もいる。これは完全に自費中心の歯科モデルをコンサルタントに勧められたからである。

 

これからの新規開業で、まず大事なのは、とにかく働くことである。朝9時から夜7時まで働けと言いたい。受付一名、衛生士一名の二部交代制、いなければワンオペで、半日一回、水曜日くらい休みにして日曜日も働く。そして全ての業務を基本的に一人でし、新規患者の予約は絶対に断らないことも大事である。予約がいっぱいでも何とか押し込み、まず患者の主訴である治療をする。検査などはその後で良い。最初30分かかっていた形成の時間も、人間追い込まれると同じレベルの形成を5分でできるようになる。ともかくいっぱい働くことが治療を早く、うまくなれる。もちろん設備は保険診療ができる最低限のもので良い。場合によっては中古のものを使っても良い。うちの父親は、亡くなるまでの50年間ほぼワンオペで歯科治療をしていたし(受付は母あるいは家政婦さん)、兄もパートの受付一名だけ、私もいまだに受付は家内、それに衛生士一名で治療をしている。兄は中古の歯科ユニットを使ったし、私もタービンなしの一番安い歯科ユニット2台で始めた。開業してどれだけ患者が来るかは、やってみないとわからないので、そのリスクを軽減するためには開業資金を抑えるのが鉄則である。新規開業で受付二名、衛生士三名を募集しているところもあるが、狂気の沙汰である。せいぜい衛生士一人、結婚していていれば受付は奥さんがすれば良い。

 

この状態で、患者が来て、収入が上がるようになってから、次のステップを考える。ある先生はこうした状態で開業し、しばらくするとさらに大きくと三度ステップアップしている。これが正しい経営である。いかに経費を抑えて収入を増やすか、これに尽きる。多くの若手の開業医を見ると、これと全く逆のことをしている。最初からフル装備の開業をして、多くの従業員を雇い、それでいて新規患者を断り、6時には終わる。そして保険治療を安すぎると文句ばかり言う。日本の医療制度は健康保険を主体として成り立っている限り、歯科医はとにかく多くの患者を診て、がむしゃらに働かなくてはいけない。体力勝負であり、若い先生はこれから逃げてはいけない。逆に将来的に自費中心でやるなら、最初から一切、保険治療をしないくらいの覚悟が必要で、それには10年ほど収入的に厳しい状態となる。

 

今にして思うことだが、とにかく歯科医院の経営は自分の借金をできるだけ早く返すことが大事で、そうして初めて自分のペース、診療システムで治療ができる。そのためには、保険を主体とした治療を懸命に取り組む。患者にとっていい歯科医院とは、まず1。治療が早くてうまい(ある程度で良い)、2。予約が取りやすい。3。優しい、4。通いやすいなどであり、1については数をこなせば何とかなるもので、2、3、4についてもワンオペ覚悟なら従業員がいなくなった時間以降も、土曜日、日曜日も診られる。若いうちは体力もあるので、30代で開業するなら、このやり方で10年もすれば借金は返せる。その後は、また借金をしてより大きな医院にしてもいいし、そのままでよりゆっくりした診療システムにしても良い。とにかく歯科経営コンサルタントの言に迷わされないことを忠告したい。楽して儲けようとしてはいけない。


 

2025年4月2日水曜日

どこで矯正治療をしたらいいのか

 





今年いっぱいで閉院するために、新規患者は2年前から、小児患者は4年前からとっておらず、今は通院中の患者のみを見ている。さすがに新規患者をとらないでいると、患者数は次第に減ってきており、昨年の12月からは従来の木曜日に加えて水曜日も休みにしている。以前は1日に15-20人、土曜日は30-40人くらい見ていたが、最近では一日10人程度で、土曜日も少なくなってきている。早く終わる時は5時頃には閉めている。また日によっては、数名しかいないときもあり、収入も急激に減少している。

 

矯正歯科の開業というのは、最初から患者数、収入が多いわけではなく、当院でも最初の1年目の年間新規患者数は100名程度で、そのうち治療に入るのは60名くらいであった。この60人が1ヶ月から2ヶ月おきに来院したとすると、1日の患者数は1から3人くらいになる。暇でしょうがなかった。その後、年間で200人前後の新規患者、100-120人くらいが実際に治療するようになると、次第に患者は溜まっていき、1日の患者数が20名程度になる。一方、10年くらいすると、治療終了患者も多くなり、治療開始患者数と終了患者数が同じになってくる。

 

3、4年前のコロナ期は、矯正歯科ではバブルで、うちでも年間250名、治療開始者も150人以上が2年間続いた。それもほとんどが成人患者だったので、この時は大変だった。平日も30人近く、土曜日は40人を越え、またほとんどの治療はマルチブラケット装置によるものだったので、息つぐ暇もないくらい忙しかった。これほど多いと普通は先生が全ての治療行為をせずに、衛生士の任せるのであるが、私のところはワイヤーの交換、ベンディング、ブラケットの装着、撤去まで全て一人でし、さらに保定装置も含めて全ての矯正装置の技工もした。その頃の患者も最近ではようやく治療を終了し、ここ半年は毎週、4−6人くらいの保定装置を作っていた。診療の合間や診療後に保定装置を作り、朝早くに来て、研磨するという毎日で、これはしばらくは続くであろう。

 

1年前からはホームページも閉鎖したが、それでも週に4、5件の新規患者からの予約電話がある。申し訳ないが、全て断っている。逆に、私の診療所のことや料金についてはネット上では出ないのに、よく調べてきて電話するものだと感心する。普通、歯並びが気になる、矯正治療を受けたいとなると、まずネットで“弘前 矯正歯科 人気”などで検索するだろう。そしてその検索結果から医院のホームページを見て、院長のこと、診療室のこと、さらに料金などを見て、新規患者の予約を入れる。そして実際に来院して、院長からおおまかな治療方針や、料金の説明を受け、よければ次回、検査をして治療に入る。

 

暇なので、実際の患者の身になって、病院を決めようと、コンピューターで探してみると、これがまあ難しい。まずネット検索で上位のところは、必ずしも治療実績の多いところではないこともある。例えば、大阪、東京など大都市では、ほぼ宣伝費に費用を払っているあまり勧めたく歯科医院が並ぶ。矯正歯科で有名な優れた先生のところのホームページは検索の3ページくらいでようやく名前が出る始末である。普通に調べると、まずここが候補にあがることはない。そうかといって口コミサイトも、必ずしも正確でないことも多い。私の診療所もGoogleも口コミでは散々なことが書かれている。まあ嘘が書かれてはいないにしろ、電話応対の対応だけで、星1つはないだろうと思う。ラーメン屋に電話して、店にも寄らず、食べもしないで、電話応対だけでその店の評価を1にするのはおかしい。

 

結局は、これだけ情報が溢れていても、実際に治療を受けようと思うのは、知人や友人からの口コミで、案外、アナログな手法で情報収集している場合が多い。個人的には、かかりつけの歯科医がいて、その先生が信頼おけるなら、その先生に相談して、いい矯正歯科医院を紹介してもらうのが良い。子供の早期治療なら一般歯科のところ治療してもらうのもいいかもしれないが、マルチブラケット装置を使った本格的矯正治療は、やはり矯正歯科専門医で診てもらった方が良い。できれば院長の経歴を見て、大学病院で矯正歯科の専門教育を受けているか、認定医、専門医の資格を持つかを調べてほしい。今時は周囲に矯正治療をしていたという人はたくさんおり、矯正治療をしたいとあちこちで話題にすれば、おすすめの歯科医院を紹介してもらえるだろう。