朝ドラのあんぱんでは、主人公の柳井が軍隊に入隊するが、毎日の上官からのしごきに先は思いやられると思っていたが、幹部候補生試験に合格して立場は変わった。戦争中、旧制の中学校卒業の若者は、上官の推薦があれば、幹部候補生試験を受けることができる。試験は甲と乙の2種類があり、甲の試験に通ると士官学校に入学して、将校となる。乙の試験合格者は下士官になるため、主人公の柳井も軍曹の階級となる。この昇進スピードが速い。
うちの父親の場合、東京歯科専門学校(現:東京歯科大学)を卒業し、昭和17年2月1日に入隊する。4月1日に幹部候補生試験を受け、一等兵に、そして4月20日に上等兵に進み、同日、甲種幹部候補生に、その後、豊橋の陸軍教導学校に進み、6月1日は伍長、9月1日に軍曹になり、10月17日に曹長、見習い士官となる。その後、10月27日に少尉となり、満州の輸送、測量部に所属した。昭和18年の11月30日に現役満期となり、12月1日に予備役となるが、同日に招集されて関東軍の測量部に所属する。そのまま勤務して、終戦後に、新京の収容所に入り、昭和20年12月にモスクワ南部のマルシャンスク収容所に入る。少尉から中尉になるのは通常2、3年かかるので、もう少しすれば中尉になったであろう。結局はポツダム昇進で、軍人年金などでは中尉扱いとなっている。収容所から日本に着いたのが昭和23年6月で、収容所は戦地扱いになるため、軍隊生活は昭和17年2月から昭和23年6月の6年4ヶ月なので、軍人恩給は結構多かった。
ただ日本では長男の存在は特別で、長男が戦死すると一家が消滅するため、激戦地には次男、三男などから配属された。親父の場合も長男ということで、輸送部隊、測量部隊と全く実際の戦闘に加わらない部隊にいた。徳島から招集された兵士の多くは、中国大陸から南方戦線に転出されたが、親父だけは中国に残った。こうした配慮は旧軍でも確かにあった。
戦争というのは残酷で、家族構成が時代に合ってしまうと、多くの犠牲者を出す。昭和10年くらいから20から40歳の世代が戦争に駆り出された。明治40年から大正10年、もう少し幅をとって昭和元年生まれくらいまでが参戦した世代である。親が明治10年から20年生まれの家では、5人の男の子がいれば、全て戦争で戦死したということが起こり得るし、少なくとも子供の一人くらいが戦死したであろう。一方、家内の父親の場合、7人兄弟で、男が4人、女が3人だが、一番上が昭和5年生まれなので、兄弟誰一人として参戦していない。また祖父が明治38年より前の生まれであれば、招集は免れた。5年か10年の年齢差で男の子全て戦士という家もあるし、出征しなくても良い家もいた。
また戦地によって扱いはひどく違い。ロータリークラブにいた時、お世話になった方は、召集されてからずっとタイ、バンコクに勤務して、ナイトクラブに行ったり、映画をみたりと結構楽しかったと懐かしんでいた。戦後も早い時期に日本に輸送され、日本の食生活に驚いたとようだ。逆に知人のご主人は、東京大学工学部を卒業後、第36師団として学徒出陣でニューギニアに派遣された。ニューギニア戦線はひどく、戦闘と飢餓で全兵の80%が戦死した。南方戦線は兵の消耗がひどく、中国戦線の方がまだマシだが、戦後、親父のように最初に捕虜になった兵士は、モスクワ南方、ドイツ軍捕虜などの一緒の捕虜収容所だったので生活はそれほど厳しくなかった。一方、中国大陸で捕虜になった兵士の多くはシベリアの収容所に入れられ、厳しい寒さのために多くの日本人が亡くなった。また南方戦線でアメリカ軍の捕虜になった兵士は捕虜生活もそれほど大変でなく、捕虜になるのもソ連、アメリカで違うし、ソ連でもどこの捕虜収容所に行くかでも違った。
実際のやなせたかしさんは、戦争中、病気になったり、食糧がなく苦しんだが、暗号係で、実戦経験はなく、捕虜生活もしていない。同じ漫画家の水木しげるの戦争経験とは雲泥の差がある。
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