2011年3月29日火曜日

岸谷隆一郎


 山田良政、純三郎兄弟の甥に拓殖大学の佐藤慎一郎氏がいる。氏とは直接会ったことはなく、その点では実に残念である。生前の氏を知る人物からは今でも強く追慕され続けている。津軽の精神を体現した人物で、その生き様、教えは教え子の中に息づいている。氏を知る人々による座談会が以下のところからダウンロードできるので、一読を勧める。こういった真の教育者は今ではいない(http://ci.nii.ac.jp/naid/110000037354)。

 佐藤慎一郎氏の拓殖大学の最終講義が残っている
(http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/19f9884971d8e0c40098abfa5557000c)。その中で、満州国高官として活躍した黒石市出身の岸谷隆一郎のことが載っているので、その部分を引用する。

 「弘前中学の先輩岸谷隆一郎さんは、終戦の時には満州国熱河省次長(日系官吏の最高職)でした。八月十九日、ソ連軍が承徳になだれ込んできた。岸谷さんは、日本人居留民を集めて、 「皆さんは帰国して、日本再建のために力を尽くしてくださいと、別れを告げ、数人の日系官吏とともに官舎に引き揚げた。岸谷さんはウイスキーを飲み交わしながら、動こうともしない。人々は再三にわたって、「ソ連からの厳命の時間も過ぎた。一緒に引き揚げましょう」と、促した。岸谷さんは、「そんなに言ってくれるなら・・・」と起ち上がって、奥の部屋の襖を開けた。そこには日満両国旗に飾られた仏壇があって、香が焚かれていた。仏壇の前には純白の和服姿の八重子夫人(四十二歳。同志社大卒)が、澄み切った顔をして端 座していた。その隣には晴衣姿に薄化粧した玲子ちゃん(十七歳)、明子ちゃん(十五歳)二人のお嬢さんが静かに座っていた。人々は、「せめて奥さんとお子さんだけでも、私たちに預けてください。必ずお守りしますから」と頼み込んでみた。「僕は満州国が好きで好きでたまらないのだ。この辺で日本人の一人ぐらい、満州国と運命をともにする者があってもよかろう」とポツンと言われた。奥さんは、「いろいろお世話になりました。私は主人と行動をともにします」ときっぱりと言われました。二人のお嬢さんの、かすかな泣き声。人々も、もはやこれまでと別れを告げた。岸谷さんは人々を玄関から送り出して、内から鍵をかけた。奥さんと二人のお嬢さんは、窓から手を振って さようーなら をしていた。岸谷さん一家はその直後、自決された。岸谷さんは四十五歳であった。十余年前から岸谷さんの家にいたボーイの王君は、主人の覚悟を察知して、主人の日本刀を隠したり、「不好、不好」(これはいかん)と、泣きながら訴えて歩いていたという。 王君は主人の自決を知るや、直ちに李民生庁長宅に急報し、官舎に引き返して、両手に拳銃を構えながら、夜通し遺骸を見守っていたという。李民生庁長らはソ連軍の入場という混乱の中で、岸谷さん一家のために最高の寝棺を買いととのえ、承徳神社の境内に丁重に葬ってくれた。そしてこの李庁長もその後、中共軍入場とともに銃殺になったと伝えられている。」

 岸谷は、青森県黒石市の鍛冶屋の長男として1901年(明治34年)に生まれた(本名は岸谷一郎)。実家は鍛冶屋兼農業をしていたが生活はきびしく、弟の俊雄はいくら働いても楽にならない両親の生活をみてマルクス主義に傾倒するようになった。兄一郎は日本人の生活を豊かにするには満州の権益を利用した方がマルクス主義運動よりよほど現実的と考え、新しく設立されることになった日露協会学校の受験を決意し、青森県の受験者11人の中からただひとり県費留学生に選ばれた。1899年に東亜同文書院に入学した山田純三郎とだぶる。もともと日露協会学校(ハルピン学院)と東亜同文書院は、ロシア、中国と対象はちがうが、非常に似通った学校であった。ここでロシア語を徹底して学んだ岸谷は、卒業後、1923年(大正12年)に日露協会学校の助教授になるも、1927年には満鉄に入社し、調査部ロシア班に配属される。その後1932年には、満州国の官吏となり、黒河省、通化省、国務院などで働き、主として匪賊と呼ばれる中国共産党ゲリラを追討していた。その後、通化省の警務庁長時代には中国東北抗日軍の掃討作戦にも加わったため、現在でも中国、北朝鮮では悪魔呼ばわりされている。そして熱河省次長として終戦を迎える。

 現代中国、朝鮮では、岸谷は共産党ゲリラを討伐した東洋鬼として悪名高い人物だが、これはあくまで歴史の一断面であり、最後の死の潔さを見る時、ソビエト軍が侵略するや、急いで逃げ出した東大出の官僚、士官学校出の関東軍高級軍人に比べてよほど誇り高い日本人の姿をそこに見る。土壇場になると、人間の本性がみごとに現れる。

 なお終戦時、支那派遣軍総司令官の岡本寧次大将の妻は、黒石市出身の衆議院議員加藤宇兵衞の娘であった。

 なお岸谷の写真は、満州傀儡政府の東洋鬼として紹介されている中国のHPから引用した。意図とは別に実直そうな官吏の姿を見る。
 *岸谷のことは、「満州の情報基地 ハツビン学院」(芳地隆之 新潮社 2010)から引用した。

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