2011年4月28日木曜日
英式操練所連棟の地
「明治2年弘前絵図」の出版はようやく校正のつめに入っているが、調べるほど訂正箇所が出て来て、ここ1月ほどはできるだけ資料は読まないようにしている。というは資料をあたればあたるほど、新たな知見が見つかったり、記載の間違いが出てくる。これではいくら時間があっても完成しない。専門家でもないので、間違いがあってもここらで出版したいと考えている。
ところが暇な時は古本屋や図書館に行く癖があり、たまたま原子昭三先生の「津軽奇人伝」(小野印刷 昭和59年)を見てしまった。原子先生もこの頃は若い。この本はいささか毛色が変わっていて、いわゆる偉人と呼ばれる、偉いひとだけを載せているわけではなく、ちょっとかわった人物も紹介されている。
その中で奇人ナンバーワンの郷土史家として紹介されているのが、松野武雄さん(1898-1978)で、この人が一番尊敬していたのが、佐藤紅緑の父親の佐藤弥六だそうだ。奇人をして初めて奇人を知るとのことか。
この松野武雄さんの兄治敏さんと父平次郎さんは、ともに明治4年の廃藩置県のころ、藩の洋服を着た兵隊だったようで、「津軽奇人伝」から引用する。
「私の父親たちは、ここで、フランス式の軍隊訓練をやった。ダンブログをはいて、帽子も靴もないまま、ハダチ(茂森新町)の擂鉢山(スリバチヤマ)で訓練をした(今のリンゴ公園)。 あの山は、嘉永元年につくった山で、一万人の人でこしらえた山だ。これはうちのジサマの日記に書かれている。あの山は鉄砲の練習場として、つくられたのである。そして近くには、寄宿舎があって、はじめて器械体操が行われた。あの山で、はじめて青森県のラッパが鳴ったのだ。そして、その器械体操を教えた人は、吉野芳次郎という人だった。この人は、江戸から隊長として部下を引率してきた人だ。部下がラッパや鉄砲、それから軍楽隊、鼓笛隊などをやった。この人たちには、一日にママを二度しか食わせなかったそうだ。その兵隊たちが、明治4年の廃藩置県で、殿様がなくなった時に、近衛兵になった」
明治4年絵図では、擂鉢山は「大星場と称す。嘉永七年八月に落成、工事人夫九千八百五十四人仕用す」となっており、松野さんの記述とほぼ一致する。隣の操練営所のところは明治2年絵図では文字がかすみはっきりしないが、「明治3年清野房二郎? 英式操練営所連棟の地」と解釈して、本ではそのように書いた。ところがこれは松野さんの記述が正しく、本当は「明治3年芳野房二郎(吉野芳次郎の間違い)英式操練所連棟の地(仏式の間違い)」と変更しなくてはいけない。さらに安田寛氏の論文「弘前における洋楽受容のはじまり」には「また明治3年7月8日、同藩では兵制を改革することにし、「七月二十日、先是、佛式陸軍操法を練習せしめん為め、旧幕臣吉野芳次郎及喇叭手六名を教師として雇聘し、此日開業」ということになった。 略 この六名のラッパ手の名前は、矢吹恒蔵、白井悦三郎、大内四郎吉、三宅恒三郎、松尾慎堂、服部㤗次郎である」と記述され、どうやらこの仏式操練訓練所では2つの訓練生の寄宿舎があり、フランス人から陸軍の信号ラッパの教育を受けた先生から、訓練兵は行進の仕方や器械体操などの習ったのであろう。ただややこしいのは明治2年11月に弘前藩の海軍は英式、陸軍はオランダ式から英式に改めたとの記述がある(弘前今昔 第五)。明治元年3月に藩の陸軍は従来の山鹿流軍制からオランダ式に変更し、さらに明治3年にイギリス式に、そして訓練は仏式とかなり混乱していたようだ。
江戸時代のひとは、手と足が同時に出るいわゆる「なんば歩き、走り」をしていたようで、現在のような手と足が交互にでる歩き方は一般的ではなかったようだ。この訓練所では、当時の武士たちは勝手が違い、さどかし苦労したであろう。そういった意味ではこの訓練所は津軽ではじめて現在風の歩き方を教えられたところでもあった。
ここの訓練生が選抜され、近衛兵になったようで、松野武雄さんの父親も西南戦争では熊本に従軍している。なお松野さんの父親の日記には明治元年の函館戦争の時に、桐野利秋と一緒に西郷隆盛も青森に来たとのことである。西郷は函館には船で来ているが、すでに函館戦争は終了していたため、函館に降りることなく、すぐに東京に引き返した。弘前に来た事実はない。
まだまだ誤りはいっぱいあるが、キリがなく、専門外の本を出すのは本当に難しい。
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