2012年1月26日木曜日

明治二年絵図データーベース


 明治二年弘前絵図に載っているすべての戸主、屋敷主の名前をデータベース(ファイルメーカー)に入力した。なかなか疲れる作業であったが、これで検索は本当に簡単になった。ただ、読めない名前、確定ができない名前が結構あり、出来るだけ、他の文献を当たって修正していきたい。その数2029軒、中には神社の社主,町年寄なども含んでいるので、地図上に記載されている実際の士族の戸数は2025軒である。新屋敷長屋や陸尺長屋に住んでいる武士を合わせるともう少し増える。

 足軽、同心などの下級士族は、明治3年以降、卒族と称されるようになったが、2025軒のうち、富田、和徳、紺屋町足軽町の119軒が、これに当たる。ただ馬喰町の監獄関係のもの、首切り人、馬喰頭の2、3名、あるいは穢多、非人頭の2名などは、これに含まれるないだろう。明治三年の帰田法公示の際の家禄15俵以上の士族数は1938名とされており、今回の結果、2025−119−4の1902軒とは36名近く差がある。同じ家で2名以上、家禄15俵以上をもらっていたものや、長屋住まいのものを含めるとこうなるのかもしれない。あるいは弘前城下以外の藩内に屋敷があったものもいたであろう。だいたい絵図上からも2000軒(戸数)くらいが、明治初期の弘前藩の士族戸数と思われる。

 明治2年の調査では弘前藩全体で士族戸数は2066軒、卒族戸数2261軒、士族数12460名、卒族10215名とされている。ほとんどの士族が弘前に集中したようだ。士族戸数については、もう少し、データベースを検討し、正確な数を出したい。

 弘前という町は、明治初期の人口は3万余りで、2000軒の武家があり、一戸あたり、家族も含めると5人はいるとすると、1万人、さらに使用人も足すと、人口の半分は士族関係者といってもよかろうが、その人たちが明治を境に職を一気に失うことになる。これは現代に置き換えれば、市役所などに勤務する全公務員の数倍の人数のものが一挙に失職することに相当する。大きな転換期である。一方、全人口の半分に当たるものが、何ら生産的なことをせず、藩から扶持をもらっていたと考えると、これもまたおかしな状況である。士族特権というものであろう。

 人口の半分の者が一気に職を失った状況を打破するため、弘前藩、明治政府も各種の殖産事業を行ったが、これだけの人数を食わせることは不可能であり、失業率50%といった状況では、その不満が政府攻撃に移るのは明らかで、明治初期の要人暗殺やそれに続く、士族の反乱、自由民権運動などに繋がっていく。それとともに食べるために、故郷を離れ、東京や北海道に移り住む。江戸期は人の行き来は非常に少なく、婚姻関係も半径数kmで済まされていたような時代であったが、明治以降、一気に大規模な転住がなされ、弘前藩の士族の多くも各地に散らばった。

 コンデコマ、前田光世が弘前中学の時に柔術の修行をしていた斉藤道場(導場)は師である斉藤茂兵衞の住まい近くにあることがわかりました。


*これまで各地から弘前にいた先祖を探してほしいとのメールが多く来ましたが、実際探すとなると絵図上を片っ端から調べ、大変時間がかかりました。データベースができましたので、簡単に検索できるようになりました。もし先祖の住んでいたところを調べたいという方がいましたら、お気軽にお問い合わせください。ただ江戸期のひとは通名、字、俗名など色々な名前を持っていましたので、出来ましたらすべての名前お知らせください。さらに戸主、屋敷主の名前で絵図に載っていますので、幕末、明治前後の家系図がありましたら、お教えいただければ、よりくわしく調べられます。

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