2012年1月29日日曜日
北斗七星および斉藤導場
拙書「明治二年弘前絵図」の紹介が、月刊弘前2月号に載る予定で、北方新社から雑誌をいただいきました。その中に、東北女子大学の佐々木隆教授が地上の星座という題のコラムを書いておられ、大変興味深く拝見しました。私のお恥ずかしいブログの説もご紹介いただき、大変恐縮しています。
門外漢の私には全く知りませんでしたが、北斗七星信仰は水と関係があり、佐々木教授によれば弘前の神宮宮、八幡宮、熊野奥照神社、大杵根神社、東照宮、住吉大社、稲荷神社の7つの神社は土淵川に沿って建てられ、北斗七星の柄杓は水と縁があり、四神のひとつ青龍に喩えられる川を祭ったということです。そして最後に稲荷神社に代わり、大円寺(最勝院)を新たに入れています。
私自身は単に絵図上から型だけで、勝手に空想で、稲荷神社の代わりに胸肩神社を入れていましたが、どうも違うようです。この当たりがアマチュア研究家のいいかげんなところです。
ただ佐々木教授はおやさしい方で、私の説にも胸肩神社は弁天様を祭ったところで、弁天様は龍神の娘で、全く水とは縁はないというようなことを書いていただきました。
もう一度、明治二年弘前絵図で胸肩神社を見てみます。どうも「胸」の字は間違いありませんが、次の字は「肩」ではありません。ここで影山先生からいただいた漢和辞典の登場です。かたっぱしから近似した字をみていくとどうも「眷」という難しい漢字に行き当たります。「けん」と読み、振り返ってみるという意味で、胸眷とは心のうちを振り返って見るという意味になり、当て字かもしれませんが、よほど胸肩よりはいい名前です。さらに神社の中には清水との記載があります。わざわざ清水と書かれているのは、きれいな水が湧き出ていた所だったのでしょう。まんざら胸肩神社も水とは関係ないというわけではなさそうです。
インターネットで胸肩神社を検索すると、明治六年に弁天宮から胸肩神社に改称したとなっていますが、明治2年の段階ですでに胸眷神社と言われていたことがこの絵図からわかります。明治元年に神仏分離令が出されましたが、実際の仏教施設の破壊、統合が起こったのは、もう少し後で、明治二年絵図でも最勝院はまだ移転しておらず、田町のところにあります。胸眷神社だけが、いち早く明治二年にはすでに弁天宮より改称したというより、幕末にはすでに、こう呼ばれていたのかもしれません。
ついでに先のブログでは、もうひとつに北斗七星の柄杓として、八幡神社、熊野奥照神社、杵根神社、神明宮、春日神社、紺屋町稲荷神社、淡島神社(保食神社)を結ぶ線も示しましたが、よく考えれば、いずれも大久保堰沿ってあり、大久保堰を一種の川に見立てれば、土淵川と同様な意味をなすと考えられるかもしれません。さらに今は保食神社となって寂れた神社ですが、駒越の淡嶋神社は水に関係するのはいうまでもありません。
話は変わりますが、コンデコマこと前田光世が弘前中学の時代に柔術を習った斉藤茂兵衞の家が植田町片山町にあることはすでに知っていましたが、今回データベースの作業途中で、植田町に斉藤導場というところがあるのを発見しました。人名に隠れてわかりませんでした。この道場は柔術道場であろうと思われ、若き日の前田光世もここで稽古したのかもしれません。
いつも楽しく拝見させていただいております。ありがとうございます。北斗七星のお話しは、なるほど・・・と興味深く拝見していました。
返信削除ところで、胸肩神社と水との関係ですが、胸肩神社には「掟(どて)清水」という清水が古くから境内に湧いており、こちらの名水を求めて毎朝通う人もいるとか。また、飲むと美人になるとか、も言われているそうです。(巷の噂話かもしれませんが)
また、こちらの宵宮の日は、かなりの確率で雨になることが多いのです。
ですから、胸肩神社も水と関係している、と私は思っておりますが、いかがでしょうか?
北斗七星の柄杓に沿って神社が並べられたという佐々木先生の説は、本当にそうだと思います。各々の神社の由来などくわしく検証しなくてはいけないようですが、案外記録はないようです。佐々木先生の提唱している北斗七星神社めぐり、これもいい観光コースになるかもしれません。紛糾している東照宮の件も、何とかなりそうです。
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