2014年6月6日金曜日

旧伊東家


 相変わらず今東光関係の書物を漁っている。ほとんどの本が絶版のため、近所の古本屋やアマゾンを利用して、主として青年期のことが書かれている本を購入している。昨日は、弘前市立図書館に行って、「悪童」(現代社、1957)と姣童」(講談社、1969)を読んだ。一般図書のところには今東光の本は一冊もなく、書庫から出してもらった。現在では忘れられた作家ということか。

 関西学院中等部から豊岡中学校、東京への青春期の物語は、大まかな筋はおなじであるが、内容自体はかなり違う。ある小説では、手をつけなかった女子に、別の小説では手をつけたりと、まあ小説なので創作はしかたない。それでも基本的な登場人物は名前が違っても一致する。さらに昔の小説では、例えば伊東家については武田家、自分の名前も別名で書いているが、これが晩年の作品となると、かなり実名での記載が多くなる。自伝的な物語では、登場人物、あるいはその関係者が在命のうちはプライバシーのこともあり、ぼかすが、晩年になるとそういった制約も吹っ切れたのであろう。

 今東光の書物を読むと、彼は結局、中学校を退学させられて、その学歴は中学中退になるが、記憶力にはついては驚く。昔のことを実によく覚えている。宮本輝についてもそうだが、小説家の一種の才能にひとつに記憶力があるのかもしれない。当然、小説家であるので、創作も多いが、筋とはあまり関係のない文章は事実と思われる。例えば、今東光が初めて弘前に帰省した時(中学一年生)に泊まった伊東家について、次のような記載がある。

 「従兄の武田の家は三百年余を経た手斧削の旧家で、かって文部省保護建造物の建築技師なども見に来たこともある建物だった。黒光り光った家の大家族の中に私達は融け込んでいった。従兄と私は急速に仲が良くなって行った。従兄も文学志望で、そのために医者の父親と意見が衝突を来して睨み合って暮らしていた。二間続きの二階の彼の部屋に私は寝た。弟の文夫や清太郎は下の家族のところに寝て、大方は子供らしく無邪気に遊んでいる。従兄と私は放恣な生活をした」と書いている(悪童、現代社、昭和32年)。


 ここでの従兄とは伊東五一郎のことで、文夫は日出海のことで、また現在、若党町に残されている旧伊東家は江戸末期、19世紀初等にできたもので、300年は経っていない。ただ今東光が泊まった伊東五一郎の部屋は写真の二階の屋根裏部屋であろう。屋根裏部屋のために天井は低いものの、8畳はありそうな広い部屋である.ここには以前は今東光、日出海兄弟が泊まったという解説文があったが、いつの間にかなくなっている。上の文を参考にすると、泊まったのは今東光のみのようである。

 以前、佐藤紅緑の家がこの伊東家の隣だったと聞いたので、旧伊東家の係の方に、今の伊東内科の敷地のどこにこの旧伊東家屋敷があったのかと尋ねたところ、プライバシーに関することで、答えられないとのことであった。確かに子孫がいる場合、プライバシーとの境目が難しいところであり、今東光の小説の場合、特に晩年のそれは、登場人物の子孫からすれば、腹立たしい記載もあろう。ただこの伊東家のそうだが、仲町には旧岩田家、梅田家、笹森家の4つの武家屋敷があるが、もっと歴史的な展示があってもよさそうに思われる。弘前市ではこれらの武家屋敷を貸館できるようで、終日借りても1200円から1800円と安く(半日:600円から900円)、観光に何か活用できそうである。
http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gyosei/koho/kouhou/h251001/pdf/10-11.pdf

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