2024年11月17日日曜日

和日庵 鳴海要吉  (上林暁)

 




私自身、私小説というものはあまり好きでない。高校の時も、文章がうまくて学校誌にエッセイや読書感想を書いていた友人がいたが、私にはそんな才能はひとかけらもないと思っていた。大学に入ってからはかなり本を読むようにはなったが、それでも純文学の本についてはいまだに苦手であり、唯一好きな作家は宮本輝さんで、彼の小説は出版されればすぐに買って読むし、楽しみである。そうしたこともあり、本屋で買う本というと、郷土史、評伝もの、戦記、ノンフィクションなど、純文学以外のジャンルのものが主体となる。

 

ところが2、3年前に弘前の昔の繁華街、土手町の横道にあるかくみ小路に「まわりみち文庫」という今風の古書店ができてから、純文学の本、エッセイ集を買うことが多くなった。10坪もない小さな店内なので、置かれる本のジャンルも絞られ、私の好きなジャンルはあまりなく、若い方が好むような本が多い。昔は土手町に紀伊国屋書店弘前店があり、その後、中三デパートにジュンク堂ができたので、こと本に関しては全く不自由しなかったが、いずれもなくなると本格的な本屋はなくなり、好きなジャンルの本を大型店でぶらぶらして買うことができなくなった。

 

今回、紹介する「星を撒いた街」(上林暁傑作小説集、夏葉社)も、このまわりみち文庫で買った本である。この本屋がなければ一生巡り会わなかった本である。

 

まず文体が素晴らしい。綺麗な、上品なというはこうした文体なのだろう。戦前の文体のせいか、現代の我々からするとわかりにくい表現もあり、文の途中で考えてしまう。この本の中でも最も好きなのは、津軽が産んだ詩人、変人、鳴海要吉の飄々とした生き方を描く「和日庵」で、この中にも“掌を口蓋に当てながら附け足した”との文がある。“附け足した”は数秒考え、ああ“つけたした”と分かったが、はて“掌を口蓋に当てながら”とは。掌は「しょう」としか読めないが、意味は手のひら、あるいは「掌を返す」を“たなごころをかえす”というのだから“たなごごろをこうがいに”あるいは“てのひらをこうがいに”と読むのか。それでも手のひらを口蓋に当てるとはどんな格好だが、最後までわからない。美しい文で、これだけでも買った甲斐がある。

 

鳴海要吉については拙書「津軽人物グラフィティー」の中の“今東光と津軽の人たち”の中でも取り上げたが、奇人の多い津軽でも、楽しい奇人として群を抜いており、さまざまな小説家が彼を取り上げた。田山花袋は「トコヨゴヨミ」という要吉の発明した万年暦のことを、秋田有情は「緑の町」、岩間泡鳴は「1日の労働」で、今東光は「うらぶれた詩集」と「東光金蘭帖」で彼を取り上げている。とりわけおもしろいエピソードは「東光金蘭帖」にある。

 

「僕の知人鳴海うらはるという詩人は津軽の産で、短躯矮小、色が黒かったが美男に属した。しかしながら、鳴海の貧乏といえば名代のもので、田山花袋は「怖るべき貧乏」の代名詞に「恐るべきうらはる」と名付けたほどで、僕の家などに遊びに来るにも履き物を見ただけで、この恐るべき理由がわかった」、片方が草履で、片方が下駄で、よく歩けるものだと感心し、「こんなのを履いて訪問されるとどうしたって新しいのが、古くても満足な自分のを提供せざるにはいられない。田山花袋さんならずとも、僕は心ひそかに懼れをなしていたのは当然だった」としている。貧乏でも全く気にしておらず、超然としている。

 

こうしたエピソードを聞くと、同じく津軽出身の福士幸次郎や版画家の棟方志功を思い出す。また私小説の葛西善蔵や佐藤弥六―佐藤紅緑―イチローの佐藤一族にも当てはまる。それでは近年の津軽の奇人と言われて、思いつくのは、奇跡のリンゴで有名な木村秋則さんで、一度お会いしたことがあるが、不思議な魅力を持つ人物だった。弘前ロータリークラブのパーティに招待され、確か弘前市長もきていたが、作業服で出席され前歯が欠けていた。どんな話をしたか忘れたが、ボソボソ喋り、津軽弁もあってあまりわからなかった。確か映画の話をしたような記憶がある。それで思い出したのは、考現学で有名な今和次郎もいつもジャンバー姿で、宮中に招かれた際もジャンバーで行こうとした逸話がある。

 

今和次郎、木村秋則さんの動画をあげるが、津軽のある種の人物の雰囲気が二人にはある。

 

 




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