2024年12月22日日曜日

プラモデル 90式艦上戦闘機

 




本当に久しぶりにプロモデルを作った。最後に作ったのは確かタミヤから出ていたイギリス機、ソードフィシュを買った時だから2007年、17年前となる。このプラモデルも途中から作らなくなり、娘が通っていた和徳小学校のバザーに提供したため、最後まで作っていない。

 

以前にも紹介したが、矯正用のワイヤーを使ってミニチュア自転車を作ったが、その際に、飾りとして1/24のタミヤの「キャンパスフレンズセット」を購入した。これは製作というよりは塗装が中心のもので本格的なプラモデルとは言えない。ただその際に多くの塗装を買ったので、一度使うだけではもったいないと思い、近所の萬屋に行くと、古いプラモデルが安く売っていた。ファインモールドの90式艦上戦闘機で、ややマニアックなものである。確か1000円くらいであったと思う。複葉機で、これは厄介たが、これくらいは作れるかと思い、診療所の片隅に置いて少しずつ作っていった。これが今年の3月。

複葉機を作ったのは中学生以来で、当時の苦々しい記憶が蘇る。上下翼の固定が難しく、また張り線が面倒である。実際に作ってみると、上下の翼を支える4つの翼柱が微妙に合わず、瞬間接着剤を使ってもうまく固定できない。結局、一本の柱の長さが足らずパテで延長して固定した。さらに中学生の頃の作った時は、母親の裁縫箱から黒の絹糸を取り出し、ピンバイスで穴を開けて、そこに糸を通して固定したが、これがなかなか引っ付かず、結局、接着剤だらけで完成した。その後、プラモデル雑誌だけは作らなくても買っていたので、そこに小さな金属製フックをでつけると簡単に張り線ができると書いてあったのを思い出した。ワイヤでフックを作るのはお手のものなので、0.4mm線で10本くらいフックをこしらえ、機体、翼の必要箇所につけていった。さらにホワイトメタル製の機銃があるはずだが、どこを探してもない。仕方なく0.5mm0.4mmの矯正用ワイヤーをろう着して自作した。

 

塗装、汚しも終わり、ようやく張り線に挑戦したが、ここで老眼の問題、前後の距離感がわかりにくい、小さな穴に糸を通し、それを結んでいくのであるが、1mm以内の距離感が掴めない。それでもなんとか30分ほどで完成し、瞬間接着剤で固定し完成した。

写真を撮ると、なんだかこの張り線用のフックがひどく大きい。1mm径の穴を持つフックでも、1/72サイズなので、大きさは72mmとなる。こんな大きな固定具はない。これが1/48なら48mm1/32なら32mmとなり、それほど違和感はない。やはり1/72では大きすぎる。さらに2mm径のフックもあり、不自然である。少なくと1/72のフックを使った張り線は、やめた方が良い。

 

Wikipedeaに載っている90式艦上戦闘機の写真をみると、どこかの草原の基地に機体が置かれている。下は芝生のような場所なので、一応、ジオラマ風に仕上げようと、100均でそれっぽいものを買ってきた、少し着色し、プラスティック板に糊付けし、さらに割り箸で作った留め具をつけた。

 

結局、1000円で買ったのに、新たな塗装、張り線、接着剤などでかなりの出費となってしまった。ICMというウクライナの会社の作った1/72の最後の複葉機、95式戦闘機、が990円という安値でアマゾンで売っていたので買ってしまった。コメントを読むと初心者が作るには難しいキットと紹介されており、またまた完成には期間がかかるだろう。矯正治療という細かな治療の合間に張り線作業をしているのを従業員は呆れた目で見ている。老後はプラモデルでも作ろうと思うが、最近のプラモデルはすごく高いし、エッチングパーツをつける作業は年寄りには向いていない。






2024年12月19日木曜日

第三大臼歯の抜歯

 


最近、大学病院で第三大臼歯の抜歯を紹介したところ、検査、処置、投薬全てが保険扱いにならず、自費扱いになり、患者から泣きつかれた。領収書を見せてもらうと、毎回の支払いが、やれCT撮影で?万円、処置で?円、投薬で?万円、かなり生活に困っている家庭で気の毒であった。顎変形症の患者で、下顎骨の後退の際に埋伏している第三大臼歯があると、切断、プレート接合に邪魔になるために前もって抜歯してもらっている。調べると、保険扱いしている患者もいれば、そうでない患者もいる。青森県歯科医師会の担当理事に連絡し、厚生局の担当者に聞いてもらったが、保険扱いできるということで、大学病院の担当医に連絡したが、歯根未完成で歯胚扱いになるので、保険適用できないとのことであった。いわゆる歯胚摘出(Enucleation)である。鹿児島大学にいた頃も、歯胚段階であれば簡単に摘出できるということで、年間、それこそ数十例の手術を、矯正歯科で行っていた。将来ほとんどの第三大臼歯が埋伏するからである。この時も10歳くらいの小児に対する歯胚摘出術は保険適用になるかという議論があり、その時はギリギリ保険適用になった記憶がある。

 

現在、第三大臼歯の抜歯に対しては、“智歯周囲炎”の診断名で保険適用され、さらに将来的に問題を起こす可能性があるという理由で“埋伏”の診断名でも保険適用されていると思われる。それに対して歯胚摘出については埋伏予防の処置であり、これに対しては必ずしも認められたものではない。10歳の子供に対して“埋伏”の診断名で抜歯するのは、一般的でなく、自費扱いと考える先生もいるだろう。ただ歯根の完成まで歯胚としてしまうと大人になっても、18歳でもまだ完成していない場合があり、その場合は自費ということになる。これは一般的でない。

 

顎変形症患者の抜歯については、手術に必要な抜歯は保険適用となり、術前矯正のために抜歯される上顎第一小臼歯の抜歯も保険適用されるようになった。ところが手術の邪魔になるため抜歯される第三大臼歯の抜歯が歯根未完成なために抜歯できないのは、どうしてもおかしいと思い、いろんな施設に問い合わせたが、どこも保険適用であった。もう一度、大学病院に抗議し、ようやく何とかなりそうになった。

 

ただアメリカで第三大臼歯を抜歯するとなると、口腔外科医に紹介され、一本の抜歯で1220万円くらいする。日本の保険制度では難抜歯(埋伏)でも処置点数で言えば1080点、つまり一万円くらいで、検査、投薬費用も含めて患者負担は5000-10000円程度で、アメリカの1/20程度となり、極めて安い。口腔外科医からすれば、抜歯、特に埋伏歯の抜歯は、神経を傷つけ、術後障害を残すリスクもあり、こうした安い点数ではやりたくないというのはわかる。実際に、第三大臼歯が何か問題を起こすとなると、最初に述べた智歯周囲炎による痛みくらいで、完全埋伏している第三大臼歯はそれほど症状を引き起こすことは少ない。矯正の先生の中には、矯正治療後の後戻り防止のために、全ての患者に第三大臼歯の抜歯を勧める先生がいるが、論文的に第三大臼歯の有無による矯正治療後の後戻りには差は見られない。

 

そのため、埋伏している第三大臼歯を抜歯するかどうかについては、私自身否定的で、Enucleationのように簡単に抜歯できるなら予防的に抜いておくのはいいが、成人になって骨を削除して、下歯槽管神経損傷のリスク、術後の腫れを考えると、あまり勧めたくない。第三大臼歯については、他の永久歯のように完全に萌出し、咬合に参加する可能性は極めて低く(90%以上は埋伏あるいは半埋伏)、それを考えれば日本人には基本的に第三大臼歯は必要ないものとして、学童期の歯胚摘出について新たな処置項目として保険適用にしてほしい。


2024年12月14日土曜日

アークテリックスのベーターLTジャケット、 カイヤナイトジャケット

ベーターLTジャケット



カイヤナイトジャケット





細かい糸くずが大量発生(腕内側)


擦れない腕の外側はきれい


23年前からカナダのアークテリックスの服が若者に人気があり、製品によってはなかなか買えないようだ。値段の高く、アウトドアメーカーでいうと、LLビーンの2倍、パタゴニアより1.5倍といったところか。ということもあり、おじさんには関係ないと思っていたが、私の好きな、YouTubeチャンネル「わたぬき社長・アパレルの勝算」で、このアークテリクスのことが何度か紹介されていて、会社は比較的、きちんとした登山ツールメーカーということがわかり、格好いいだけでなく、機能も優れているのがわかった。そうなると急に欲しくなり、今年の9月に最初に買ったのは、ベータLTジャケットというもので、現行はSLジャケットになっている。ゴアテックスの最新のePEメンブレンを使った軽量タイプである。この生地は従来のゴアテックスの比べて軽いだけでなく、少しやわらなくなり、ゴワゴワ感が減っている。さらに環境汚染で問題になっているフッ素化合物を使っていないのが最大の特徴となっている。ゴアテックについては、モンペルのものを持っているが、それに比べてもかなり薄く、軽く、動きやすい。ただ耐久性はフッ素化合物を使って従来型よりは劣るという。まだこの生地を使っているメーカーは少なく、実際の登山での機能評価はわからない。少し涼しくなった10月頃からずっと使っているが、さすがに12月になり雪が降る季節になると、使う機会はあまりなくなり、ダウンの季節となる。

 

中間着としては、ここ10年ほどずっとパタゴニアのR2を中心にR1、R3を使ってきたが、アークテリックスのものとしては、カイヤナイト、デルタ、コパートなどのフリースがある。このうち、実店舗でポーラテックの Power Stretch Proを使ったカイヤナイトジャケットが動きやすそうなので、どんなものか買ってみた。

 

結論からいうと、非常に着心地がよく、それでいて暖かい。R2は起毛したフリースで少し厚みがあるが、カイヤナイトはそれよりはるかに薄いにも関わらず、暖かさはそれほど変わらない。軽くて動きやすく、暖かい。冬の中間着、室内着としては理想的である。見た目は通常のコットンのスポーツジャージであるが、機能は全く違い、高い製品であるが、十分に価値がある。

 

ただ耐久性が高いといっているが、買ってわずか3日、実質数時間で、右腕の内側に毛玉がたくさんできた。3万円近いものなので、さすがに3日で、毛玉はできるのはどうかと、買った店に相談すると、アークテリックの会社に送って調べてみるということになった。二週間後に連絡があり、取りに行くと、生地の性格上、毛玉になるのは仕方がないとのことであった。会社の方で少し毛玉は取ったようだが、すぐにまた毛玉が発生した。その後、毎日使っていると左腕の内側にもできてきたが、黒のジャケットを買ったので、それほど目立たないので、最近は全く気にならなくなった。何らかの耐久性を高める加工ができ、毛玉が発生しなければ、星5つの製品である。

 

アークテリックの製品を2つ買ったが、いずれもかっこよく、若者に人気があるのは頷ける。ただ私のような年寄りが着ると、そうならないのが不思議で、ほぼくたびれたジャージを着ているおじさんである。












 

2024年12月11日水曜日

映画「冬物語」 ネタバレあります


冬の弘前を舞台にした「冬物語」をみてきた。平日の9時という上映時間だったが、そこそこのお客さんが来ていた。ただ年配の方が多く、できれば若い人にみてもらい、おしゃれな弘前の街を映画から感じてほしい。

 

映画自体は1時間くらいのショートムービーで、弘前のPR映画のような感じがした。地元民にとっては馴染みのある店が出ているというと微妙で、例えば、カレーのかわしまや喫茶店ひまわり、戸田のうちわ餅は皆知っているだろうが、中古レコード店のJOY-POPというと私も存在はよく知っているが行ったことはないし、Slow-Porkも知人からはよく話は聞くが行ったことはない。また活版印刷をしている「Sunday Seaside」という店もネットで見たことがあり、名刺を作ってもらおうと思ったこともあるが、それほど知られてはいないし、またジャズ喫茶の「SUGA」も昔からある店で一度は行きたいと思っている店だが、ここも一部のジャズファンしか知らない名店である。おそらく今の弘前と昔の弘前の両方を知っているブレーンがいて、その人の選択でこうした店がロケ地に選ばれたのかもしれない。いずれもおしゃれな感じで、まるで東京の下北沢のお店のように撮影されている。

 

普通、津軽、弘前を舞台の映画というと、寺山修司の映画に見られるように、貧しい、暗い、津軽弁、ましてや冬となると、じっと暗い家に閉じこもるといったイメージで描かれることが多い。ところがこの映画では、津軽を舞台にした映画として、初めて津軽らしさを前面に押し出さない映画であり、あたかも東京郊外の普通の街にように扱っている。実際、津軽弁が話されるのは、津軽塗りの職人に所でのシーンだけで、他のシーンに、津軽らしさは全くない。主人公もその彼女も津軽人ではない。一種の他県民サイドでの津軽映画とみなすこともできよう。

 

内容的には、最初の半分くらいは非常にテンポのいい雰囲気で、特にかわしまでカレーを食べているシーンは、観客にもあの女性は誰だという不思議な感覚、まるで幽霊写真を見ているような感覚を覚え、楽しかった。実店舗を映画の舞台に使うのは難しいが、本映画ではどのシーンも見事に決まっていた。空間的な制約もあり、カメラアングルなど難しかったであろうが、SUGAの奥行きのあるカウンターのシーンもうまく撮っていた。

 

喫茶「ひまわり」、主人公は、自分は脚本家で、その脚本をその日初めて会った女性に見てほしいと頼む。それも強引に今すぐに見てほしいと頼む。ここから回想シーンとなるが、ここでの男女の会話が興味深かった。回想な中の美しい女性と主人公は、カレーライスを作りながら激しいキスをし、その後、一緒の布団に寝ている。女性の方が、「あなたは今、興奮している?」と聞くと、横にいた主人公はもちろん興奮していると答え、キスしていいかというと、女性は「さっきは興奮していたが、今はそうでないので、ごめん」と謝り、カレーのためのラッキョを買ってきてと頼み、帰ってみるとその女性はいないという設定であった。

 

私たちの世代、1970-80年代であれば、女性が男性のアパートに来て、一緒に布団に寝ていて、女性にまずキスしていいかなどとは絶対に聞かないし、仮に聞いたとしても女性は、今はしたくないとは言わないだろうし、さらに言ったところで、何もしないわけはない。今の若者は男女一緒に朝まで同じ部屋にいても、何もないのが普通であり、もし何か男性側がHをしようとするのは犯罪ということらしい。この映画はいわゆるラブストーリであるが、今風のラブストーリなのか、淡々として流れで、あまり激しさはない。

 

全体的には、非常によくできた映画であるが、エピソードの一つに、ローマの休日のグレゴリー・ペックが真実の口に手を入れるシーン、ああした魅力的なシーンがほしかった。私だったら、代官町の歩道が雪のために高さ1mくらいのスロープになっており、それを登るのは大変で転んだ、こんなシーンも入れたい。また禅林街の栄螺堂の迷路を二人で上り、ベンガラで靴下が赤く染まったようなシーン、弘南鉄道大鰐線からの冬の車窓、夜の雪の禅林街、デートコースとしてSUGAに行くなら、その前にあるまわりみち文庫もシーンに入れて欲しかった。旧杉山医院の家具屋、PPPもロケ地としては素晴らしい。撮影の三部正博さん、次回作では取り上げてください。できれば春物語、夏物語、秋物語の4部作を。

 

最近見た冬を扱った映画として、日台合作映画「青春18×2 君へと続く道」があり、この「冬物語」とは比較するべきではないのだろうが、藤井道人監督が描く、王道の恋愛映画の方が年寄りにはグッとくる。ただ弘前の冬の魅力を発信するツールとして、本作は非常に優れており、台湾やタイ、ベトナムでも、弘前市が広報の一環としてこの映画の使用許可費用を払い、ネットやテレビ、映画館などで公開したらどうだろうか。これを見て是非とも冬の弘前を観光したいという人はいる。台湾のデパートなどでの弘前観光物産展の一環としての上映会やベトナム、タイの旅行会社を招いての観光プロモーションなどにも使えそうである。

 

弘前市でもこうした観光宣伝のツールとして、計画と予算を立てて、本作を十分に活用すべきだと考える。さらにおしゃれな町というイメージを定着させることは、長い目で見ると、若者離れを防ぐ、あるいはUターンを増やすことに繋がり、衰退の激しい土手町に出店を増やす機会にもなる。映画に登場するかわしま、ひまわり、SUGASea Porkもほぼ土手町と言ってよかろう。若者が店を開こうとするのを行政でもサポートし、できれば中心地の活性化として土手町に出店する場合の改築費や家賃の補助あるいは金融機関の紹介など、簡単に他の地域より開業しやすくしてほしい。福岡生まれの監督、奥野俊作がいいと感じた弘前は、ほぼ土手町と言ってよく、やはり弘前の顔として残すところだと映画をみて、あらためて感じた。頑張れ土手町。


代官町の歩道 わかりにくいが1mくらいの段差がある。ほぼ山登り


 

2024年12月10日火曜日

矯正歯科におけるデジタル印象

 



近年、これまでの印象材を使った印象にかわって、デジタル印象が普及してきた。歯科医院に行って口の型を取った経験を持つ人も多いと思うが、あの吐き気がする型取りは何とかならないかという人は意外に多い。当院の患者さんの中にも、毎回印象のたびに激しい吐き気がしてトラウマになっている患者さんもいる。こうした患者さんにとって小さな口腔内スキャナーで口の型をとるデジタル印象は朗報である。まだスキャナー自体大きいものの、印象材を使った従来の印象に比べてはるかに楽である。

 

歯科医自身も模型を作らないで、技工に回わしたり、その場で咬合の確認、特に矯正歯科では舌側方向からの臼歯の咬合を確認したいが、これを使えば容易である。私も安くて小さく、いいものがあれば、買いたいと思っていたが、閉院予定のために、購入はギブアップした。

 

ただ矯正歯科でのデジタル印象については、デメリットも多い。まず日本矯正歯科学会の認定医、臨床指導医などの試験では、デジタル印象を使った模型は認められていない。なぜという声も多いが、受験者の中には、デジタル画像を加工して噛まなかった歯を咬ますようにしたりする先生もいるそうだ。特に舌側方向からの咬合は、試験の際に真っ先に確認する箇所であるが、これについては口腔内写真ではわからず、あくまで模型でしか確認できない。そのために、デジタル印象で噛ませるように加工されると評価ができないからである。ある程度、慣れると、口腔内写真から特に抜歯症例で、第二小臼歯が噛んでいるかわかるが。

 

そのため、専門医試験などでは、今のところデジタル印象とそれによる模型は認められておらず、初診時、動的治療終了時、保定2年後の印象は従来の印象材を用いた印象をしなくてはいけない。そのため、デジタル印象の設備を持っていても、試験のために使ってはいけないことになる。インビザラインのようにデジタル印象を基本にしている治療法は将来、試験で認められても、模型で引っかかることになる。

 

さすがにこうした流れの中で、デジタル印象を試験に使えるように改善していかなくてはいけないが、アメリカ矯正歯科専門医試験(AB0)でもまだデジタル印象よる模型は認められていない。まず模型を加工したなら即、試験は不合格にし、それ以降も提出できなくする。さらにデジタル情報を添付させ、オリジナルの加工されていない情報かチェックできないであろうか。デジタル印象からデータを加工して、模型を作って提出されると、それがオリジナルなものか、加工したものか判断できない。他の方法として思いつくのは、口腔内写真と模型が一致するか、AIで調べるようなソフトができないだろうか。加工するとすれば、大臼歯、小臼歯の傾斜あるいは形態修正だと思われる。デジタル印象のよる模型を試験に提出する場合は、切歯部の下からの写真、左右頬側の上下からの写真など何枚かの写真添付を義務付ければ、ある程度は視診で判断でき、疑われる症例については、こうしたソフトを使う手もある。また咬合紙を噛ませ、マークがついた時の上下顎の口腔内写真も参考になる。

 

基本的には受験者の良心を信じるべきであろうが、審査のほとんどが模型による現状を考えると、今のところデジタル印象は不正の可能性が高いだけに、より慎重な扱いが必要であろう。将来的には、デジタル印象のメーカーの協力が得られれば、最初のオリジナルデータであるか、どこかの暗号を仕込んでもらえれば、それを確認すれば良いので、審査自体を全てオンライン上でできるかもしれない。

 

現在、日本矯正歯科専門医機構による第三者による専門医制度が医科、歯科ともに始まっている。歯科では口腔外科、小児歯科、歯科麻酔、歯科放射線、補綴歯科、保存歯科、そして矯正歯科が広告可能な専門医として認められている。矯正歯科については、210名の専門医が今年の10月から認められているようになったが、一方、従来の日本矯正歯科学会の認定医、臨床指導医について広告は基本的にできなくなる。つまり認定医の更新に際してはホームページのチェックが行われるが、“日本矯正歯科学会 認定医”は限定解除要件を満たしたのみ掲載可能となる。現状では、この新しい矯正歯科専門医はあまりに少ない。

 

患者からすれば、歯科の専門医と言ってもあまり関心はないと思う。歯の根っ子の治療をするなら、歯科保存専門医で診てもらおうと思わない。とりわけ患者からすれば、おそらく歯科の専門医で少し参考になるのは、口腔外科、小児歯科、矯正歯科、そしてまだ認められていないが、インプラントくらいでなかろうか。それでも今後10年もすれば、大学の矯正歯科講座で研修し、日本矯正歯科学会の認定医を取って、開業し、そして5-10年くらいで、日本歯科専門医機構の矯正歯科専門医をとるというのが一般化していくのであろう。全国で2000名程度、どの県でも二名程度以上の専門医が必要と思われるし、少なくとも地方では、一般開業医で治療ができない、より難度の高い口蓋裂のような先天性疾患、あるいは口腔外科との連携の必要な顎変形症の治療ができなくてはいけない。


2024年12月8日日曜日

初代ボンダルI-Mac とI-Mac G4

 



古いパソコンが何台かあり、早く処分しなくてはいけない。診療所で使っていた最初のパソコンはApple LC630で、これも倉庫にまだある。二台目は美しいボンダルカラーの初代I-mac G3、そしてお椀型をした未来的なI-mac G4、さらに3代目、4代目、5代目、6代目と、新しくなるたびに購入しているが、古いパソコンは捨てられないで置いている。

 

初代I-macI -Mac G4はインテリアとしても人気があるので、近くにあるインテリアショップPPPに、動作しているようなら譲るよと言ったが、全く動かない。You tubeで調べると、I-mac G4については内臓電池切れの可能性もあるので、アマゾンで古い型の内蔵電池を購入し、分解して取り付けてみた。全く動かない。これは捨てるしかしょうがないと考えたが、付属している小型スピーカーは何とかならないか。このスピーカーは、有名なスピーカーメーカー、ハーマン・カードン製なのだが、このIMacしか使えない特殊なジャックとなっている。そこでYou-tubeで調べると、少し細工をして小型パワー・アンプを購入すれば、使えるとのことであった。

 

まず、スピーカから出ている線を切り離し、内部のリード線は出してきて、これを小型のパワーアンプにつけて鳴らす。早速、アマゾンで中国製の一番安いパワー・アンプ、3000円くらいのを買って、診療所にあるI-macにつないでみた。このアンプは、ブルーツース、USB、イヤホン端子で接続可能であるが、USBが一番音質がよい。今のI-macは以前のものに比べて格段に音質が良くなったものの、こうして小型のスピーカーに繋ぐと、さらに音質は良くなった。もちろん、20年も前の、それもパソコン付属のスピーカーなので、最新のスピーカーに比べると音質は劣るであろう。特に低音はあまり出ない。ただボーカルは素直な音で、パソコンの前で聴くならこれくらいで十分である。

 

パソコンの横におく小型スピーカーはあるようであまりなく、デスクの大きさを考えると、できるだけ小さいものが良い。IMac付属のスピーカーはそれこそ10cm足らずのものなので、あまり場所をとらないのでちょうど良い。他に良さそうな大きさのスピーカーというと、エレコムやバッファローのものなどがあるが、見た感じで良さそうなのはJBL PebblesCreative Pebbleが良さそうである。また音質を聞いたことがあるスピーカとしてはEclipse TD307がクリアな音質で最高である。現行のTD307MKは昔のものより大きくなったので、パソコン用のスピーカーとして旧式の3脚タイプのものが良い。ただパワー・アンプが必要である。

 

初代のIMacも何とかならないかと、You-tubeに解説に沿って分解してみたが、途中で、どうしてもネジが特殊ドライバ−でなければ外せないので、諦めた。少し前に韓国ドラマで、主人公がこの初代ボンダイI-macを使っていた。このI-macはブラウン管のモニターを使っているので、これを取り除けば、かなり大きな容量があるので、おそらく液晶モニターに変えて、中に例えば、アップルミニなどを入れれば、十分に使えそうである。

 

まだまだたくさんのパソコンがあるが、どんどん捨てていきたいが、廃棄するのは結構面倒である。




2024年12月5日木曜日

ヤコブセンのオイルランタン、インガー・パーソンのティポット

 





スウェーデンのMother Swedenという主として北欧陶器を扱うネットショップをよく利用する。これまで4回ほど利用したが、期待通りの良品が届けられ、満足している。ただスウェーデンからの発送のために3ヶ月くらい、忘れた頃に届く。ところが今回は11/24に注文して、12/4に届いた。ちょうど10日である。送料は3500円なので、急行便ではないが、早い。国際書留便だそうだ。

 

娘にやろうという口実で、以前から北欧陶器を買っているが、実際、二人の娘はそれほど欲しがっているようでもない。歳をとるとそろそろ断捨離も考えなくてはいけず、少しずつ整理しているが、それでも欲しいものが出てくる。今回は、Mother Swedenのネットを見ていると、ヤコブセンのオイルランプ、30000円のが、半額の15000円で売っていた。以前からオイルランプには憧れがあり、ゆらゆらした炎を見ると落ち着くなあと考えていたが、どうもキャンプをするわけでなく、屋内用のおしゃれなものを探していた。ヤコブセン、いいなあと思った。

 

ヤコブセンというと、デンマークのデザイナーのArne Jacobsenの名を浮かべる人が多いと思う。私も最初見た時、アルネ・ヤコブセンはこんなオイルランタンのデザインもしていたのかと思ったが、実はこのオイルランタンは、スウェーデンのHans agne Jakobssonのデザインしたものであった。彼は、照明デザイナーで、北欧産のパイン材を使った照明器具は日本でも人気がある。

 

少しオイルは入っている真鍮の容器が汚れているが、通常3-5万円くらいするので、安いと思う。せっかくスウェーデンまで注文するなら、送料は同じなので、他にも何かいいのがないかと探すと、インガー・パーソンのティーポットが9000円だった。小さなサイズのものはよくあるが、大きなサイズのものは珍しい。通常、これも3万円くらいするのでお買い得である。オイルランタンと一緒に注文した。

 

本日、届けられ、ティーポットはほぼ新品で、使われた形跡はない。日本茶のポットで言えば、5杯分くらいの大きさである。こうしたポットは日常的に使っていった方がいいのかもしれない。オイルランタンは火を使うので、屋内で使うのはちょっと怖い。そこでアマゾンで超小型のRED電球を3つ注文した。ランプの真ん中にあるガラス筒の中に入れれば、REDランプになると考えたからである。同時に、オイルとチャッカーも注文して、怖いが外でランタンに火をつけてみたい。

 

どうも大阪人は、安くなると一気に購買欲が出る本性があるようで、オイルランタンも半額でなければ購入しなかっただろう。こうして荷物は増えていくのだが、やめられない。ただデザイナーものは丁寧に使えば、欲しがる人がいて、ゴミにはならないと信じている。それにしても中古家具、あるは中古雑貨、陶器を扱うお店は大変である。以前は、スウェーデンのネットショップに日本語でオーダーでき、10日で着くなんてありえなかった。日本の業者はわざわざ北欧に行き、あちらのショップに行って商品を仕入れ、コンテナ船便で日本に送る。2、3ヶ月はかかるだろう。商品を購入してもすぐに売れるものではないため、仕入れ値の少なくと2、3倍の価格をつけなくてはいけないが、あまり仕入れ値が高いと、売れない。どれだけ安く、売れそうなものを仕入れるかにかかっている。ところが最近では、このMother Sweden以外にも日本語で注文できる海外のネットショップがあり、E-bayなどでも買える。そうかといって実店舗で商品を見てもらってから買ってもらうためには、上客が多い、いい場所で店を日本にもつ必要があり、家賃も高い。逆にこれだけ円安であれば、日本の陶器や雑貨などを英語、フランス語、ドイツ語で、ネットで欧米で売れば、そこそこ儲かるかもしれない。古伊万里の200年以上前にものでも、100ドルでは売れるだろう。23千円で仕入れれば、儲けが出る。


パラフィンオイル


小型LED3個











2024年12月1日日曜日

大鰐線廃止

 



1127日の報道で、弘前と大鰐を結ぶ弘南鉄道大鰐線が2027年度末で廃止を前提として休止にするということになった。ピーク時は390万人の利用者がいたが今では30万人しかおらず、経営的にも限界にきたためだとしている。会社側はずっと廃止を考えていたが、沿線の自治体から継続を請願され、支援も受けていたので、何とか続けていた。ところがコロナ禍による乗客の減少や脱線事故で、もはや継続できないと決意したわけで、さすがに弘前市側も民間の経営にこれ以上口だすわけにいかず今回ようやく認めたのであろう。

 

最近は、こんな話ばかりで、おそらく大鰐線が廃止される2027年になると残念がる市民が増え、急に乗客が増え、大混雑になるのだろう。今泉書店、ホテルニューキャッスル、紀伊国屋書店、弘前食品中央市場、開雲堂、イトーヨーカドー、毎度である。あまり利用しないくせに、なくなると、寂しいという。大鰐線といっても車のある人からすれば、ほとんど利用しないだろう。私は車を持っていないので、年間、4、5回は利用する。特に大鰐温泉に行くときは、弘前―大鰐の往復乗車券とワニカムの入浴券とお買い物券がついて1000円という“さっパス”というセットをよく利用した。季節ごとに変わる車窓の景色を見ての鉄道は、ちょっとした旅行気分に浸れる。

 

大鰐線が廃止されると、通学に支障が出るため、代替わりのバス運行になるかというと、これも、そもそも弘南バス自体の経営は厳しく、また運転手不足から、厳しい状況である。さらにいうならもう一つの私鉄、黒石までの弘南線は存続するといっても、ここも年間9600万円程度の赤字であり、補助金で何とかやっている状況である。大鰐線がいらないというのと同じ論理で、弘南線も必要ないと言える。

 

駅前、土手町にまず映画館がなくなり、スーパー、デパートもなくなり、さらに本屋、鉄道もなくなり、駐車場だけがある。これは街というよりは空疎な空間というもので、人々は広い空間に散らばって住み、車で必要な店に行って買うという社会である。ドーナツ化現象と呼ばれるもので、基本は車社会を前提としており、車がない若年者、老人、病人には住みにくい社会である。さらにいうと、車も一家に一台では足りず、一人一台必要であり、結果的には五人家族で、5台車があるという家も珍しくない。さらにいうと完全な車社会となると、道路整備だけでなく、雪国の青森では除雪、排雪作業も必須となり、大きな出費となる。今後もガソリン価格や車の保険料は高くなる一方であり、車にかかる個人の負担も増えていく。一方では、国は高齢者の免許返納を訴えながら、唯一の移動手段の鉄道、バスもないとどうするのだろうか。

 

このブログでもこれまでも何度も大鰐線の廃止を反対してきた。それは車がなくなったらどうするのかということにつながる。弘前市会議員の中にも大鰐線を廃止しろと強く言う人もいるが、こうした人は一度、車のない生活をしたことがあるのか。昔と違い、土手町に行けば、弘前駅前に行けばと言う時代ではなく、何か欲しいと言えばその店に行かなくてはいけず、自分の家からそこまで車なしでどういくのかを考えてほしい。新しい冬用の靴を買おうとしよう。私が住む坂本町は市内の中心なので、便利は良い。まずヨーカドー、今はシーナシーナに歩いて行くか、ヒロロにいく。またビブレに行こうとするなら、まず弘前駅裏まで歩いて、そこから百円バスに乗り、ビブレに行く。あるいは自転車やタクシーで行くことになる。それでは中心から少し離れた弘前市新町から弘前駅に向かうとしよう。工業高校前のバス停から弘前駅に向かうバスは1日に12便だが、朝夕以外は2時間に一本、さらにビブレに向かうにはここから百円バスに乗り換えることになる。費用も片道300円となる。さらに遠方の高杉くらいになると、高杉南口から弘前駅までは3便しかない。このように駅に行くバスが10分おきに出ている東京や大阪とは、状況が全く異なり、地方ではバスによる移動は非常に制約される。これなら定刻運転される鉄道の方がよほど移動しやすい。バスによる移動は便数が多いと、便利であるが、地方にように1日に数便しかないと、日常的に利用するのはかなり困難となり、利用客は減る。実際に弘南バスを見ても百円バスはかろうじて乗客がいるが、その他の便は朝夕を除けばほとんど利用客がおらず、経営的に厳しく、将来的にはバス路線も赤字で便数を減らす、廃止されることは覚悟しておかなくては行けない。

 

つまり大鰐線の廃止は赤字によるものであれば、黒石までの弘南線も廃止されるし、これまで弘南バスがカバーしていたバス網もなくなることになる。車を持っていない人は、歩くか、自転車かタクシーしか使えないことになる。公共交通機関というのは、交通インフラの基本的なものであり、是非とも国県市町村が整備すべきものである。簡単に交通弱者を排除して良いものではない。少数の人々に対象に税金を使うのはもったいないという合理的な観点でいうなら、聴覚障碍者の音響式信号機は必要ないし、視覚障害者に対する点字ブロックも必要ないと言えるが、健康な人々でもいつ、こうした障害を持つかわからないので、こうした設備は必要なことになる。大鰐線で言えば、乗客が減ったとはいえ30万人の利用者がいる。大鰐線の廃止するのではなく、弘前市が買取り、費用がかからないBRTに変換できないだろうか。BRTとはBus Rapid Transitの略で、簡単に言えば線路を舗装道に、電車をバスの置き換えたもので、初期投資はかかるものの、維持費は安く、定時便、例えば15分おきの運行も可能となる。さらに通常道路の走行も可能なので、弘前駅から直接に乗ることも可能となる。専用道なので自動運転も可能かもしれない。またBRTといった大袈裟なものでなくても、バス専用道として、弘南バス、スクールバスや観光バスのみ利用できる道にするような方策はないのであろうか。廃止は仕方ないが、何らかの代案を検討してほしいし、国、県の補助など資金面も含めて、弘前市、市長の手腕が求められる。


2024年11月24日日曜日

令和6年 弘前市立博物館後援会視察研修

 






10年以上前から知人に誘われて弘前市立博物館の後援会に入っている。たしか年間3000円くらいの会費で、展覧会の入館料が無料になる。特別企画展になると入館料が1000円くらいになるので、年に何回かの展覧会に行けばペイする。ただし通常展については65歳以上であれば、弘前市民であれば無料である。

 

この後援会では、年に一度、視察旅行を行なっており、魅力的な企画をしているが、私の診療所は土曜日が一番忙しくて、なかなか行けなかった。ところが1123日(土曜日)が休日で、初めてこの後援会の視察研修に参加できた。昨年度は、最勝院の五重塔の内部を探検するという魅力的なものであったが、当日の豪雪のためにこの五重塔だけの視察しかできす、他施設の視察をできなかった。そこで今回は昨年できなかった視察を行う、題して「弘前の宝を歩いて観よう! 最勝院境内・新寺町編」。

 

まず最勝院では、修理が終了した仁王像、堀江佐吉碑、キリスト信徒の墓などの解説、案内の後、つい最近寄贈となった青森ねぶた牛頭天王の除幕式に参加した。2023年度のねぶた大賞を取った力作で、頭部と手が寺宝、牛頭天王がある場所に設置された。牛頭天王の名は知っていたが、どういった仏かは記憶になく、具体的なイメージがわかない。ただ病魔退陣を願う仏のようなので、将来的にはコロナ惨禍の記念碑的なものになろう。

 

その後、弘前高校の横にある。袋宮寺の十一面観世音立像を見させていただいた。以前にも観覧されている観光客がいたので、お声かけして入り口のドアを開けて一緒に見た記憶があるが、今回は中に入ってじっくりと拝むことができた。6m近い大型の仏像で、まずその大きさに驚く。さらに通常、こうした大型仏は、それを安置する建物も大型であるが、この仏について言えば、ギリギリの大きさで、単に周りを建物で囲んだようなもので、お顔を見るのが難しい状態になっている。以前、アメリカの美術館のキュレーターに高照神社にあった江戸時代の絵馬を見せたことがあったが、外の寒気がそのまま入る室内の保管状況を相当心配していたのを思い出す。この仏も野晒しとは言えないが、冬は周りが雪で覆われた寒い弘前では、保存の点からすれば最勝院の仁王像同様に厳しい環境にある。

 

次に訪れたのは報恩寺、ここの木像の藩主坐像を見学した。報恩寺は、江戸時代、新寺町でも大きさでは大円寺、慈雲院に次ぐ寺で、今は当時の1/3程度の敷地になっている。弘前藩主の墓があり、禅林街の長勝寺とともに寺格が高い寺である明治二年弘前絵図を見ると、入り口には善入院、一乗院、万智院、理教院、観明院、光善院、正善院などの塔頭寺院が見られる。寺内には檀鐘(壇鐘?)、経蔵、本堂、座敷、庫裡とともに御霊家、御影堂がある。ここに安置されていたのが、八代藩主、津軽信明坐像、九代藩主、津軽寧親像、その他である。二体はほぼ等身大の坐像で、特に丁寧親像はかなりリアルで生前の藩主を彷彿させる。徳川家康が東照宮に祀られるように武士像が神式の神殿に祀られるのは親和性があり、問題ないのだが、神鏡が異常に大きく、正面からは藩主の顔が見えない。さすがにこれは、坐像製作当時のものではなかろう。江戸末期の各地で30cmを超える巨大和鏡が作られたが、その流行からなのだろうか。

 

次に行ったのは西福寺の円空作の仏像で、これも実物はかなり大きい。ほぼ実物大、150cmあろうか。円空仏というのはもう少し小さなものと思っていた。下にはスラムダンクの作者、井上雅彦さんの似顔絵色紙と哲学者、梅原猛さんの色紙が飾ってあった。漫画家の井上雄彦さんは円空の大ファンで、本まで出しており、青森にも円空仏を拝観のために来たようである。

 

最後は、貞昌寺の釈迦涅槃像を見た。貞昌寺は、山田兄弟の碑があるため、以前はよく行ったし、綺麗な庭も中に入らせてもらったこともあったが、この釈迦涅槃像は初めて見た。2mを超える大型の仏像で、涅槃像の絵はたくさんあるが、像は珍しい。

 

今回の企画では、なかなか普段行けない、見られないものを視察できて個人的には大変満足している。弘前にはこうしたまだまだ知られていないお宝がさりげなく飾られている。この界隈だけでも、なかなか一般の人が見られないところとしては、まず北新寺町にある「中舘家住宅」がある。先日、訪れたが、中は明治期に建てられた近代和風建築で、今年、国の登録有形文化財に登録された。当主から建物の説明を受けたが、今後、明治期の建物も弘前のお宝になりそうである。貞昌寺から近い加藤味噌醤油醸造元も明治4年の建築で、中はどうなっているか見てみたい。また近くの旧町田家住宅も古い。このあたりには明治以降の近代建築が多い。またお宝といえば、一番小学の朝陽小学校も古い記録があるはずで、見てみたい。和徳小学校については、千葉寿夫先生の研究で、古い教育資料が充実していることがわかったが、そうした資料の展示はない。

 

今回のコースなどはもっと小中学校の遠足あるいは課外授業で取り入れるべきで、まず街を好きになるためにはお宝を見学するのも一つの方法であろう。身近なところにもお宝はある。











2024年11月21日木曜日

兵庫県知事選挙に見るファシズム(ナチ、旧日本軍)による情報統制との相似性

 

ナチスによる国会議事堂他事件 共産党員の仕業とされた



兵庫県知事選挙では、パワハラ、おねだり疑惑でマスコミに叩かれていた齋藤元彦さんが圧勝した。あんな悪人がどうして圧勝できたのか、ここ数日、じっくりYou-tubeを見ていると疑問点が多く、ある意味、兵庫県民の良識を見た思いである。

 

知事を辞職し、最初の選挙演説ではわずか一名の視聴者に訥々と演説していた写真は、かわいそうだとは少し思ったが、それ以上によくもう一度選挙に出たなあとその強心臓に驚いた。2、3ヶ月前までは、毎朝、ワイドショーで徹底的に叩かれ、片山副知事を含めて、テレビ、水戸黄門に出てくる悪徳代官さながらに扱われて、もう完全にこの人は終わったと思っていた。今回の大逆転は将来、ドラマになるかもしれない。

 

NHK党の立花さんは、クセが強く、すごく嫌いな人であったが、今回の活躍はすごい。特に県民局長の自死の原因を不倫関係と関係づけ、これまでのパワハラによるとされる筋書きを変えたことにある。

 

個人的に、最も危惧感を感じたのは、まず県会議員、NHK、各社新聞記者、民法テレビ局が、県民局長の自死の原因の一つに、コンピューターにあった不倫相手の情報だと分かっていながら、全て情報をシャットアウトした点にある。自分たちに筋書き、知事のパワハラによる自死、を押し通した。今回暴露された百条委員会の非公開の音声によると、片山副知事が不倫関係のことを言おうとすると、朝日新聞の記者は猛然と、個人情報を出すな、不倫相手が死んだらどうすると脅して、一切の情報を遮断した。私が知る限り、新聞、雑誌、テレビ、などあらゆるマスコミで、週刊現代を除き齋藤知事を擁護したところは一つもなかった。

 

私自身も、今回ばかりはマスコミに洗脳され、齋藤知事はとんでもない最低の人と思っていた。普段から情報は広く集め、自分で判断すると考えていただけに、こんなに簡単に洗脳されるのかと情けなくなった。一方、マスコミが真実を遮断して、自分たちの都合のいい情報のみを流せば、普通の人にとって、真実を知ることはできないとも感じた。戦前の日本においては、戦争について情報管理が行われて、敗戦についての情報は完全に統制された。ミッドウエイ海戦で負けてもその事実は伏せられた。正しい情報が伏せられると、我々市民はどうしようもない。柳条湖事件やナチスによる国会議事堂放火事件もそうである。前者は中国軍による挑発、後者は共産党員に犯罪とされ、戦争、弾圧に使われた。

 

戦後のマスメディアは、こうした戦争への加担の反省から始まった。ところが今回の騒ぎで悪質なのは、県民局長の本当の自死の原因を知りながら、マスコミ、左翼は、自分たちが正義と考える、知事のパワハラで自死したという筋書きを押し通したことである。それも全てのマスコミが同じ方向をとり続けた。戦前の翼賛体制と同じであり、いくら戦争に負けていても、勝っていると国民を騙し続けた体制と瓜二つなのである。まだしも戦前は、軍部主導の体制を批判した斎藤隆夫議員がいたが、今回は誰一人、叩かれていた齋藤知事を援護、濡れ衣だと唱えるジャーナリストがいなかった。自由に冤罪をマスコミが作り、それも全員一致で行われる恐怖がある。

 

齋藤知事当選後は、あれだけ知事を批判していた県会議員、マスコミは、全て口にチャックしているが、こうした集団的な処刑は、彼らが最も嫌がるファシズムの基本的な手法であり、今回の件でももう少しで成功しそうであった。彼らは自分たちがナチス、旧日本帝国と同じことをやっている自覚はあるのだろうか。自分たちは全くファシズムと同じことをし、真実を捻じ曲げて、自分たちが考える正義を押し付けようとしていることを、よくよく反省すべきである。これは若者を中心に、既存のマスコミに対しる不信感を招くことに繋がり、今度はSNSによるカリスマ的な盲目的な信仰、例えば第二のヒトラーを出現させる萌芽となる。

 

もしマスコミに自浄作用があるとすれば、今回の事件に関与した、特に県民局長の公用パソコンの内容を知りながら、それを伏せた記者、マスコミ関係者は、マスコミ全体の信用を貶めた点では会社の金の横領と同程度の罪に当たり、社内での第三者による調査と、きちんとした公開説明が求められる。また同様に百条委員会の県会議委員についても、無理やり知事を辞職させ、県政を混乱させた責任を、今度は知事と入れ替わって、きちんとした説明を公の場で釈明しなくてはいけない。もちろん齋藤知事にも問題があるならきちんと調査した上、結論を出すべきで、今後の弁護士による第三者による調査委員会の結論を待ちたい。というよりなぜ県会議員は早急に不信任案を提出して、知事の辞職に追い込んだのか、これも反省すべきである。


2024年11月20日水曜日

マイシューズ

 


今でこそ、冬用のブーツだけで5足以上、普通の靴で10足以上あり、家の大きな靴箱もいっぱいになっている。

 

子供の頃を考えると、高校卒業する1970年代後半まで、常に靴は一足であった。破れて履けなくなると、母親にそれを示して、新しい靴を買ってもらった。その際もすぐに足が大きくなるので、大きめの靴を買うように言われた。私の場合は、三和商店街の一番奥にある靴屋さんまで母親と一緒に買いに出かけた。汚れないようにビニールに包まれた靴見本から好きな靴を探し、奥からサイズに合う靴を試着した。買ってしばらくはうれして、家の中で履いて怒られた。

 

こういう状況は、中学になっても同じで、普通の紐のズック靴を履いていた。高校になると、サッカー部だったので、黒のサッカーシューズ以外にトレーニングシューズが必要でオニツカタイガーのリンバーを買ったのを思い出す。毎日に通学、運動、場合によってはクラブの練習にもこの靴を履いていたので、大体一年くらいで破れてきて、その都度、母親から小言を言われた。今は歳をとって激しい運動もできないのか、靴の寿命も伸びて二十年前の靴もまだ現役である。

 

同世代の友人に聞いても子供時代の靴は一足であったという。ただ青森県でいうと、冬用の靴として長靴があった。ゴム製の黒い長靴で、薄くて、厚い靴下を履いても冬場は寒かったという。さらに雪が長靴の中に入るのか、いつも足先が霜焼けで、家に帰り、靴を脱ぐと、痒かったという。うちの家内は家に帰ると、母親が暖かいお湯で足を洗ってくれたという。そういうことで北国では冬用の長靴とそれ以外の靴の2足が標準であった。

 

こうしたことは子供だけでなく、大人、女の人が別だが、うちの父親の場合も、下駄と革靴2足しかなかった。下駄は何種類かあって、近所に散策用と飲み屋に行く時用は別であった。滅多に靴を履くことはなかったが、会合などに出かけるときは黒の革靴を履いた。昔の人は物持ちがよく、1、2足の革靴を何度も修理して履いていた。そういうこともあり、尼崎にいたときは五人家族であったが、各自の所有する靴の数は知れているので、小さな靴箱で十分であった。今ではこの大きさの靴箱で一人分である。

 

当時、靴はそんなに高かったのか、よくわからないが、それでも子供用の普通の運動靴はせいぜい1000から2000円くらいで(もっと安かった?)、物価を考慮しても今の1万円には決していかない。むしろ靴は一足、破れたら買い替えるというルールがあったのではなかろうか。実際、運動会の徒競走用のゴム足袋は運動会のわずか1日しか持たない代物であったし、200-300円はしたように思えるが、皆買った。家内に聞いても足袋を買ったというが、うちの医院の衛生士、60歳に聞くと普通の運動靴で運動会を走ったという。おそらく昭和昭和40年代後半までのことであろう。

 

思い起こせば、昭和30年、40年代は日本もまだまだ貧しく、また戦争を体験した世代も多かったことから、何でももったいないという人が多かった。今と違って既製服が少なかったことから、自分で洋服を縫っていた人も多かった。当時の婦人雑誌には必ず、本で紹介した洋服の型紙があり、生地を買って、この型紙で服を作るとというのが普通であった。流石にスーツやブレザーなどは自分で作れないので、子供服でも近所の洋装店で誂えることが多かった。私の子供心に近所に洋装店でサイズを測って注文服を作った記憶がある。

 

こうしたこともあり、当時は服も靴も高く、少数のものを使い回して使用していた。子供であれば、尼崎であれば、年に一足、青森では冬用の長靴も合わせて2足、尼崎であればほぼ年中短パンであったような気がするし、多分数種類の上着とズボンだけであったと思う。小学校の6年生の時にLeeかリーバイスのジーパンを買ってもらったが、それこそ大きくなってサイズが合わなくなるまで、夏も冬も毎日履いていた。多分、洗濯も滅多にしなかった。個人的に一足以上の靴を持つようになったのは、大学に入り、雑誌ポパイなどを読み始め、ファッションに目覚めた頃からだ。

2024年11月17日日曜日

和日庵 鳴海要吉  (上林暁)

 




私自身、私小説というものはあまり好きでない。高校の時も、文章がうまくて学校誌にエッセイや読書感想を書いていた友人がいたが、私にはそんな才能はひとかけらもないと思っていた。大学に入ってからはかなり本を読むようにはなったが、それでも純文学の本についてはいまだに苦手であり、唯一好きな作家は宮本輝さんで、彼の小説は出版されればすぐに買って読むし、楽しみである。そうしたこともあり、本屋で買う本というと、郷土史、評伝もの、戦記、ノンフィクションなど、純文学以外のジャンルのものが主体となる。

 

ところが2、3年前に弘前の昔の繁華街、土手町の横道にあるかくみ小路に「まわりみち文庫」という今風の古書店ができてから、純文学の本、エッセイ集を買うことが多くなった。10坪もない小さな店内なので、置かれる本のジャンルも絞られ、私の好きなジャンルはあまりなく、若い方が好むような本が多い。昔は土手町に紀伊国屋書店弘前店があり、その後、中三デパートにジュンク堂ができたので、こと本に関しては全く不自由しなかったが、いずれもなくなると本格的な本屋はなくなり、好きなジャンルの本を大型店でぶらぶらして買うことができなくなった。

 

今回、紹介する「星を撒いた街」(上林暁傑作小説集、夏葉社)も、このまわりみち文庫で買った本である。この本屋がなければ一生巡り会わなかった本である。

 

まず文体が素晴らしい。綺麗な、上品なというはこうした文体なのだろう。戦前の文体のせいか、現代の我々からするとわかりにくい表現もあり、文の途中で考えてしまう。この本の中でも最も好きなのは、津軽が産んだ詩人、変人、鳴海要吉の飄々とした生き方を描く「和日庵」で、この中にも“掌を口蓋に当てながら附け足した”との文がある。“附け足した”は数秒考え、ああ“つけたした”と分かったが、はて“掌を口蓋に当てながら”とは。掌は「しょう」としか読めないが、意味は手のひら、あるいは「掌を返す」を“たなごころをかえす”というのだから“たなごごろをこうがいに”あるいは“てのひらをこうがいに”と読むのか。それでも手のひらを口蓋に当てるとはどんな格好だが、最後までわからない。美しい文で、これだけでも買った甲斐がある。

 

鳴海要吉については拙書「津軽人物グラフィティー」の中の“今東光と津軽の人たち”の中でも取り上げたが、奇人の多い津軽でも、楽しい奇人として群を抜いており、さまざまな小説家が彼を取り上げた。田山花袋は「トコヨゴヨミ」という要吉の発明した万年暦のことを、秋田有情は「緑の町」、岩間泡鳴は「1日の労働」で、今東光は「うらぶれた詩集」と「東光金蘭帖」で彼を取り上げている。とりわけおもしろいエピソードは「東光金蘭帖」にある。

 

「僕の知人鳴海うらはるという詩人は津軽の産で、短躯矮小、色が黒かったが美男に属した。しかしながら、鳴海の貧乏といえば名代のもので、田山花袋は「怖るべき貧乏」の代名詞に「恐るべきうらはる」と名付けたほどで、僕の家などに遊びに来るにも履き物を見ただけで、この恐るべき理由がわかった」、片方が草履で、片方が下駄で、よく歩けるものだと感心し、「こんなのを履いて訪問されるとどうしたって新しいのが、古くても満足な自分のを提供せざるにはいられない。田山花袋さんならずとも、僕は心ひそかに懼れをなしていたのは当然だった」としている。貧乏でも全く気にしておらず、超然としている。

 

こうしたエピソードを聞くと、同じく津軽出身の福士幸次郎や版画家の棟方志功を思い出す。また私小説の葛西善蔵や佐藤弥六―佐藤紅緑―イチローの佐藤一族にも当てはまる。それでは近年の津軽の奇人と言われて、思いつくのは、奇跡のリンゴで有名な木村秋則さんで、一度お会いしたことがあるが、不思議な魅力を持つ人物だった。弘前ロータリークラブのパーティに招待され、確か弘前市長もきていたが、作業服で出席され前歯が欠けていた。どんな話をしたか忘れたが、ボソボソ喋り、津軽弁もあってあまりわからなかった。確か映画の話をしたような記憶がある。それで思い出したのは、考現学で有名な今和次郎もいつもジャンバー姿で、宮中に招かれた際もジャンバーで行こうとした逸話がある。

 

今和次郎、木村秋則さんの動画をあげるが、津軽のある種の人物の雰囲気が二人にはある。

 

 




2024年11月13日水曜日

矯正治療中の患者の要望

 



当院ではマルチブラケット装置による治療終了後、保定に入ってから、1ヶ月後にレントゲン検査(セファロ、パントモ)を行い、その後、2ヶ月後、さらにそれから3ヶ月後に保定装置の着用は夜間だけとなり、今度は6ヶ月ごとにみていく。保定2年で、最終検査をして模型、レントゲン(セファロ、パントモ)、口腔内、顔面写真を撮って、問題がなければ終了とし、何かあれば連絡してもらうようにしている。

 

最近は2年検査を終わって時点で、患者に矯正治療をして良かったかと聞くとほぼ100%はしてよかった、みんなから歯並びがきれいと言われる、人生が変わったなどの感想を聞く。もちろん多少不満があっても聞かれるとこう答えると思うが、それでも治療者としてはこうした声はうれしい。

 

矯正治療の目的は、教科書的には咀嚼機能の改善、発音の改善などの機能的改善も書かれているが、ほぼ90%は見た目の改善が大きい。とくに成人患者の場合は、ほぼ100%は見た目の改善を希望して来院する。そのため最終的に患者が治療結果に満足したかが最重要となる。残念ながら、不満足のまま終わることもあるが、術者としては常に最善の治療結果を求めている。とくに治療後期になってくると、かなり細かい要望が増え、それに対応することが多いが、中には勘違いもあるので、ここのまとめてみる。

1.上の前歯の段差

上の真ん中の一番大きな前歯、中切歯と隣の側切歯との段差が気になる患者は多い。これは中切歯と側切歯では幅が違い、コンタクトポイントをきれいな曲線にするためには必ず段差ができる。以前のスタンダードエッジワイズ法ではここにファーストベンドを入れたくらいである。どうも真ん中の前歯に比べて隣の前歯が引っ込んでいるという患者にはこうした説明をしている。また切縁部も本来は中切歯に比べて測切歯は少し低くなるが、これも不満に思う患者さんがいる。バイオプログレッシブの流派ではここを揃えることもあるので、患者が希望すればベンドをいれて修正する。

2.ブラックスペース

上下の前歯の歯肉に三角形のスペースができることがある。これをブラックスペースというが、前歯の形態が三角に近いほど、あるいは歯の長さが長いほど、こうしたブラックスペースが出来やすい。この場合は、隣接面を細いバーでディスキングして隙間を閉じれば、かなりブラックスペースが減少するので、上顎切歯では多用している。一方下顎切歯ではもともと歯が小さいので、できればディスキングしたくないので、そのままの場合も多い。

3.歯と歯の隙間

歯と歯の間の隙間、問題になるのは第一小臼歯抜歯ケースでは第二小臼歯と犬歯の隙間を気にする方も多い。もちろんこの隙間は原則的には閉じるのが基本であるが、前歯部、臼歯部の咬合関係が緊密な場合、なかなか閉じない、閉じてもまた開くことがある。保定中に開いた場合は、犬歯の遠心にレジン充填で形態修正をすることもある。

4.前歯のねじれ

前歯のねじれを気にする方も多い。一見してもほとんどねじれがわからないほどのものでも、ねじれていると主張する。基本的には患者が満足するまで修正する。


5.口唇の突出感

非抜歯で治療した場合、最初にいくら説明しても、口元の突出感を気にする人が多い。多くの場合は4本の小臼歯を抜歯することになるが、治療方針の変更のために治療期間が延びる。個人的な意見では、日本人などアジア人は白人の横顔、口元が入った顔貌を好むため、70%の症例は抜歯症例となる。そのため、抜歯症例が不得意なアライナー矯正では患者も不満がでるだろう。

以上、治療における患者の要望を列挙したが、装置撤去前であれば要望にそえることもできるが、撤去前に何度も次回はずすが気になる点はないかと確認してから外しても、あとでここが気になると言い出す患者がいる。これは術者としては再装着の材料代や時間を考えると避けたい。


2024年11月8日金曜日

子供の頃思い出3

 





尼崎の父の診療所に住んでいた頃、昭和37年から43年頃の近所の様子を述べよう。診療所の左隣にはクリーニング店があり、その横には牧病院があった。この病院は、軍医だった牧先生が治療していたが、怖い先生だった。玄関で靴を脱ぐと前に受付があり、廊下を挟んで右手のドアの中が診療所で10畳くらいの広い部屋が診療室で、大きな机、上には顕微鏡、机の横にはベッドがあった。かぜが何かで熱が出ると病院に行くとベッドに寝かせられ、お尻に注射をした。そして帰りにはガラス瓶に入った茶色のシロップ液を渡され、それを飲んだ。甘いが変な味がした。病院の2階は入院室となっていた。小学校5、6年生の時の同級生のKさんが、中学生三年生の時に腎臓ネフローゼで、この病院で亡くなった。後でこのことを聞いてショックを受けた。私は近所の三角公園のバス停から阪急塚口までバスに乗っていたが、中学生になったKさんのことを二度ほど見た記憶がある。昔はこの病気で亡くなる子供が多かった。Kさんは勉強ができ、いつも学級委員長か副委員長を私と交代にした。

 

歯科医院の前には、菓子を作るHというお菓子屋があり、ここの娘が同級生だったので、何度か店の中にも入ったが、おじさんはいつもお菓子を作っていて、できたお菓子をよくもらった。中学生頃になるとこのお菓子屋もなくなり、その隣が今度は小売のお菓子屋となり、パン、ジュースや当時登場したインスタント麺もここで売っていたし、関東炊き(おでん)のコーナーもあった。歯科医院の右横のかどの家はサラリーマンの家だったが、その向こうは牛乳屋で、毎朝、牛乳瓶を木製のケースを詰めて、自転車で各家に配達していた。朝早くから牛乳瓶が擦れる音がしてうるさかった。牛乳の紙の蓋を使った遊びが流行り、空瓶にまれにある蓋を集めたこともある。牛乳屋の前には酒屋があり、ここでは角打ちもあったため、夕方頃になると大勢の労働者が一杯やっていた。道を挟んで向こうには木製の塀に囲まれた土地があり、朝鮮人の家族が小屋に住んでいた。時々、門が開いていて中が見えたからである。西部劇に出てくる砦のような構造であった。

 

診療所の前の道は、労働者が通るコースで、自動車も少なかったのか、大勢の労働者がこの道を歩いていた。そのため、牧病院の向こうには、味噌醤油屋、薬局、朝日新聞配達所、お好み焼き屋、少年マガジンなどを売っていた駄菓子屋、タバコ屋、ホープという散髪屋などがあって、賑やかであった。三和商店街に行くこの道は、今はラブホテル街になっているが、昭和40年頃までは小さな工場がいっぱいあり、朝から工場で何かを作る音が聞こえていた。国道沿いには天崎柔道道場があり、その向こうには近藤病院があった。さらに行くと今はモータープールになっているところは、芝居小屋の三和会館、その後、ストリップショーをしていた三和ミュージックになった。立ちんぼもいて夜は怖いエリアであった。

 

ホープ理髪店とたばこ屋の間から難波小学校に行く道は怖いところで、殺人事件もあった。青線地帯で、訳のわからない飲み屋が何軒もあり、昼間から酒か薬で暴れている人がいた。ここだけは避けるようにしていたが、友人がここに住んでいて、幅2mくらいの小路が迷路のようになっていて、途中にはお婆さんが店番をしている駄菓子屋があった。この友人の家というのは、ここらに多くあった安っぽいアパートで、8畳くらいの一室で家族五人くらいが暮らしていた。炊事は共同であったので、多くの家族はこの狭い小路に七輪を並べて、サンマなどを焼いていた。お父さんがいると、大抵は昼間から酔っ払っていて、機嫌がいいと子供達に10円玉をくれ、大喜びした。昔は、今と違い子供に金をやるというのは、それほど抵抗なく、子供もそれを期待して大人の機嫌を取ったりした。当時の10円は今の100円くらいの価値があり、何軒か友人の家を回ると2030円になることもあったし、父親の言いつけでタバコを買いに行くとお釣りは小遣いとなった。正月でなくても小遣いをくれる親類がいて、人気があった。今でこそ、教育のためと言って子供にあまりお金をあげないが、昔は子供が一番喜ぶものとしてお金を与える大人が多かった。

 

こうした小遣いを持って子供が行くのが、近所の駄菓子屋で、私の場合は、家の3軒隣の駄菓子屋がメインで、小路のばあさんの店やセンター市場近くの駄菓子屋もよく行った。子供縄張ごとに駄菓子屋があったので、尼崎市全域では相当数の駄菓子屋があったのだろう。お年玉や太っ腹の親類から五百円、一千円札をもらうと行くのは、難波小学校正門前に西村文房具店で、ここにはプラモデルや竹ひご飛行機などが売っていた。もう少し大きくなると、三和商店街から出屋敷方向に行ったコンドル模型店に行った。また少年マガジンは歯科医院にも置いていたので、そのお金は出してくれたが、月刊少年などは西村文具店から三和商店街に行く途中の本屋でよく買った。ここは多くの雑誌がスタンドではなく、平な台に平積みに置かれていた。少年のような付録の多い雑誌は嵩張るので、かなりの高さになっていた。

 

自転車に乗るようになると、かなり遠くまで行くようになったが、それでも普段の遊び場は自宅から半径500mくらいに集中していたように思える。




2024年11月6日水曜日

尼崎市立難波小学校 運動会閉会の歌

 







「 夕日 西に落ち 運動会は終わります

  先生 みなさん ありがとう

  最後にお口をそろえ 

  難波の学校のバンザイを 声の限りに歌いましょ」

 

これは難波小学校の運動会終了の歌である。もちろん難波小学校でも校歌があるが、校歌以外の歌としてはこれだけしか記憶にない。卒業して56年も経つがなぜか覚えている。運動会の最後に歌った曲で、年に一回しか歌わない曲であるが、なぜか悲しい感じがしてリフレインする。最後のフレーズだけ変えて、他の学校でも歌っていたのかもしれない。

 

この曲のフレーズを聞くと、「たんたんたぬきのーーー」を思い出す人もいるかもしれないが、原曲はバプテスト教会の讃美歌の「Shall we gather at the river」という曲である、日本では「タバコヤの娘」として替え歌が昭和12年頃に流行ったようだが、讃美歌から童謡、あるいは唱歌になった曲は多い。難波小学校の運動会の閉会の歌も最後の「難波の学校のバンザイをーー」のフレーズなどは戦前の匂いを感じる。

 

三和本通りの入り口をまっすぐに出屋敷の出口付近で、靴屋があった。普段は運動靴などがビニールで包まれ、飾られていたが、運動会シーズンになると地下足袋が大量に売り出される。後ろの金具を差し込んでしめる足袋であるが、底の部分がゴムでできている。本当の脆いもので、ほぼ一日、運動会で使うと潰れてしまう。運動会専用の靴ということになる。確かに足袋なので運動靴に比べると軽いとは思うが、それほど差はないが、それでも生徒たちには絶大な人気があり、この足袋を履けば早くなると信じていた。親に駄々をこねて運動会の前の日に三和商店街に行って買ってきた。

 

運動会のメインイベントは徒歩競争で、6、7人並んで、ピストルの号砲を待って一斉にスタートする。私はあまり走りには自信がなく、いつも真ん中くらいで、いつも待っている間はドキドキした。一度、前を走っている二人がこけて、漁夫に利で一等賞になったことがあったが、嬉しかった。徒歩競走は、勉強はできないが、足の早い子にとっては年に一回の楽しみで、その日だけは英雄になれた。今と違って、一位になると鉛筆などの商品をもらえた。足の速い子供はクラス対抗のリレー選手にも選ばれるので、滅多に学校に来ない親も、この日ばかりは大きなゴザを引いて親戚一同で応援している。昔は子供の数も多かったせいか、運動会の陣取りも大変で、朝早く起きて、陣取りに行った。家族、あるいは親戚も集まり、いっぱいご馳走を作り、運動会は数少ない娯楽の一つであった。集まった家族の中には昼間から酒を飲みやからもいて、ワアワアと賑やかなイベントであった。

 

おそらく運動会は世界でも、日本くらいしかしていない行事であろうが、今、考えると結構楽しいものだった。昔、鹿児島の南、十島村というところに巡回診療に行ったことがある。一度、中之島の運動会に遭遇したことがあったが、全校生でも20人程度でるが、運動会には村中の住民が集まって騒いでいた。小学校の行事を超えて村の行事になっていた。そういえば、昔は会社の運動会というものも割合あった。職場の親睦を図るものとされたが、今はさずがに会社の運動会はないだろう。

 

高校では、3年生が主導となって体育祭をするが、総合得点で必ず高校3年生が優勝しなくてはいけなかった。そこでクラスの宇都宮くんが応援団長となり、佐伯孝夫作曲の「若い力」の替え歌

「 若い力と感激に  燃えよ高三 胸を張れ 歓喜あふれるユニフォームーー0」とほぼ原曲に近いがこれも運動会1ヶ月前に覚えたが、いまだに大体覚えている。