2025年9月15日月曜日

県立郷土館の後継

 


青森市にあった県立郷土館が耐震問題で休館しており、今後どうするかが議論になっている。おそらくは従来の建物を改修するのではなく新築するようだが、建築場所を従来通りに青森市にするか、弘前市、あるいは八戸市にするかで揉めている(今の場所は津波で水をかぶる恐れがある)。

 

青森市には県立美術館があり、弘前市には弘前れんが倉庫美術館と弘前市立博物館、八戸市には八戸市美術館、博物館がある。青森市は県庁所在地であるし、これまでの郷土館も青森市にあったのだから、新しく作るとしても当然、青森市以外にはあり得ないし、青森には博物館がないと考えている。一方、八戸市、弘前市からすれば、何で県立の施設が青森市ばかりにつくられるのかという不満もある。どうしても博物館が欲しいなら、弘前市、八戸市同様に青森市立博物館をつくればよい。そもそも郷土館の意義は、青森県のお宝を収集、保護して、県民に見てもらい、学んでもらおう、おおまかにはこうした内容であろう。美術品の多くは県立美術館に移管されたことから、青森県のお宝のうち、美術品を除くものといえよう。

 

美術品を除く青森県のお宝といえば、まず歴史的な資料、これは縄文から現在までの遺跡、考古品、文書、絵図、絵が挙げられる、さらに民俗的な資料としては、祭りや庶民の生活雑貨や家具など、そして自然資料としては、青森県特有の動物、植物などとなる。縄文土器については、八戸市の是川縄文館、青森市の縄文時遊館、つがる市に縄文住居展示資料館があるし、旧郷土館、弘前市立博物館、弘前大学にもある。また弘前藩の資料のほとんどは、弘前博物館と弘前図書館、高岡の森弘前藩歴史館、弘前大学が所有している。そして民具や雑貨は、旧郷土館が一番多く保有し、弘前市立博物館、八戸市立博物館、あおもり北のまほろば歴史館、山車展示館(弘前)、八戸市民俗資料収蔵館、五所川原市市浦歴史民俗資料館、十和田郷土館、十和田歴史民俗資料館などかなり数多くある。

 

一方、現在、世界的に着目されているBOROと呼ばれるつぎはぎのテキスタイルは、田中忠三郎氏のコレクションで有名になったが、青森県にはまとまった展示はないし、津軽こぎんについても、弘前市立博物館やこぎん研究所にそこそこあるが、これもまとまったコレクションとはいえない。ねぶたについては、青森市のねぷたの家、ワラッセ、弘前市のねぶた村、五所川原市の立佞武多の館などがあるが、津軽三味線、尺八、琴、民謡などの音楽資料、あるいは津軽の誇る相撲の歴史資料なども分散して各地に展示されているだけである。またこけしについては、黒石の津軽伝承工芸館、津軽こけし館や弘前市の津軽ねぷた村にあるが、これもまとまった形ではない。また津軽発祥の玩具、例えば弘前の『_弘前馬コ』、「下河原焼人形」の名品などもあまり見かけない。津軽塗り、ぶなこ、弘前木綿、津軽裂織などのコレクションもない。

 

津軽は、美術品を除いても、後世に伝えるべき、優れたお宝をいっぱい持っている。ただそれを大規模に収集して展示する場所は意外に少なく、郷土館が唯一と言ってもよかった。現在、郷土館は休館状態になっており、一刻も早く新しい資料館が必要である。

1.この資料館では、まず県民からの寄贈、寄付を第一として、調査ができる職員数、場合によっては購入できる予算が必要である。これがこれまでの博物館、美術館で最も欠けていたもので、器のみ作り、収蔵、展示までは気が回らなかった。おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなった遺品で珍しいものがあれば、ここに連絡してすぐに調査してくれる環境が望ましい。

2.もう一つは、市民による運営を目指すためには、後援会組織の充実と寄付金が必要であろう。アメリカの多くの美術館は市民による寄付で運用されており、入館料など取らないこともあり、図書館、美術館、博物館がもっと市民に活用されている。

3.さらにこれも非常に大事なことであるが、保管庫の充実が必要で、将来的に拡大も可能な広い敷地がいるだろう。弘前市立博物館や図書館でも収蔵庫が小さく、そのために市民からの寄贈、寄付を断るケースが多かった。従来の郷土館でも同様な問題が発生し、その管理が指摘されたこともある。

4.県民、あるいは県外、国外からの観光客に喜ばれる施設になってほしい。一つの例として、青森市にある三内丸山遺跡にある縄文時遊館、この施設はかなり金のかかったものであり、館内にも多くの展示室があり、それなりに展示の工夫をしているが、あまり面白くない。青森駅前のララッセについても、当初は見学のみでものの10分で見て終わりの施設であったが、いつからか案内の人がいて、説明、あるいは踊りを教えたりしたところ、人気が出てきた。同様に、弘前市のねぷた村も、中はいろんな催しがあり、それこそ10回くらい訪れているが、楽しい。つまり参加体験型の展示が望まれる。

 

弘前市長は、弘前城周辺の市保有地への誘致を表明している。城内は国の許認可が難しく、ここでの建設はない。となると旧青森銀行前の広場なのだろうか。ここは前市長が、追手門広場にあった旧市立図書館、東奥義塾外人教師館を移設するために設けた広場であるが、現市長の号令で中止となり、空いたままになっている。ただここだとすると、やや上記の文化資料を十分に収蔵、展示するには狭い。少なくともれんが倉庫美術館前の広場くらいは欲しいところである。

 

他に細かいことになるが、個人的に最も気になるのは、宙ぶらりんになっている「松野コレクション」で、これは県の方できちんと調査して、予算も組んで、新しい郷土館には展示してほしい。また旧郷土館では、青森の歴史資料の多くがコピーで、原本は弘前博物館、図書館にあるものが多かった。新しい郷土館が弘前にできたとしても、弘前博物館、図書館の協力がなく、同じようなコピー展示で、競合的な施設になるなら無意味となる。さらに小川原民俗博物館のように建物の老朽化で、資料の保管、管理ができない施設が出てきた。ここ以外にも県内に同様な事例はあるだろう。そうしたコレクションを全て引き受けられるような資料保管倉庫のような役割も求められる。

 

 

 


2025年9月12日金曜日

日本人の英語

 



私が卒業した六甲学院は、イエズス会系の学校で、在学当時は多くの外国人神父がいた。校長も含めて職員の10人ほどが外国人で、その母国もスペイン、ドイツ、アメリカと様々であった。英語については、スペイン生まれ、ミシガン大学卒業のディアス先生が6年間、担当した。基本的には国語、数学などの主要科目の先生は中高6年間、継続して担当する。さらに英語については、日本人教師による授業もあり、6年間でいえば、ディアス先生と日本人英語教師の2名が担当した。さらに1年ほど、アメリカ、ボストン生まれのハンコック先生からも英語を習った。

 

私はひどく発音が悪く、もう1人、後に埼玉大学の副学長になったN君と双璧であった。彼は、消しゴム、eraserをエラセルと堂々と発音し、それ以降、エラセルがあだ名となった。私も同様で、ある日、“go to here”をゴー ツー ヘルと発音し、カソリックの神父にお前は私に地獄へ行けというのかと激怒された経験を持つ。そんな私でも、今はひどいジャパニーズ英語であるが、何とか英語で会話できるし、エラセルくんも海外の研究者と普通に会話している。六甲学院の英語は、バスケット部の顧問であったフリン先生が作った、プログレス イン イングリシュという独特の教科書を使い、より実践的な内容になっていた。教科書に沿って、カセットテープも作られ、それを授業の度に渡され、聞くように言われた。もちろん、そんなカセットテープはほとんど聞かず、すぐにゴミ箱に。ただ身近に外国人がいたせいか、卒業後も外国人と話すのはそれほど苦ではなかった。

 

英語教育というと、話す、聞く、読む、書くの四つからなる。私の場合、受験勉強のために読む、書くはそこそこできたが、話す、聞くがあまりできなかった。その後、外国人留学生に矯正臨床を英語で教えたり、20年前からは週に1回、アメリカ人教師から英語を習っているので、少しくらいは話す、聞くはできるようになった。全く予習、復習もせず、歯科医の友人四人とアメリカ人教師1名がわいわいワインを飲みながら話しているだけである。発音はめちゃくちゃ、語彙も乏しいが、内容な濃く、トランプ政権下の移民政策などを議論している。

 

弘前の東奥義塾は、明治時代、英語教育で全国的に有名であった。特にその初期の学生は、ほとんど授業をアメリカ人から英語で習い、東京に出て物理を勉強しようにも、英語でしか習っていないので、しばらくわからなかったという。そのためアメリカに留学した生徒もすぐにアメリカの大学生活に溶け込み、弁論部に入り、優勝したり、いずれも優秀な成績で卒業している。一方、もう少し後になるが、弘前中学校から早稲田に進学し、その後、アメリカに留学した笹森順造の場合、当初、ほとんだ何を言っているか理解できず、小学校の授業を受けていた。今の日本人は中高校と英語を6年間も習ってもアメリカに留学するとわからない、これと同じ状況である。つまり読む、書く、を学んでいても、聞く、話すには、外国人教師による直接的な指導、それもかなり濃い指導が必要と言える。

 

横浜の共立女学校の場合、明治5年には早くも寄宿制をとり、生活の全てを英語づけにした。寄宿生同士の会話は日本語であるが、朝から晩までアメリカ人宣教師と同居して英語を学んだ。ここからは岡見京、菱川やす、須藤かく、阿部はななどがアメリカの女子医科大学に留学し、優秀な成績で卒業している。医学部はネーティブのアメリカ人女性でも卒業は難しい学部であるが、日本人留学生は特に読む、書く能力が優れており、聞く能力は外国人教師と生活する間に学んだのだろう。さすがに話す能力は幼児の時に外国語に触れていないとネーティブ並みになるのは難しいが、それでも読む、書く、聞く、の能力があれば十分に留学ができる。共立女学校を見ても、寄宿生であれば、留学しても全く問題ないレベルの英語能力はあると思うが、ただ通学生ではどうかという疑問がある。もちろん授業の多くが英語でされていれば、自然と英語は上達するであろうが。

 

 


2025年9月8日月曜日

台湾有事

 



アマゾンプライムで、中国による台湾侵攻を描いた「零日攻撃」が見られる。直接的な中国軍による台湾侵攻を描くのでなく、サイバー攻撃や、マスコミへの浸透工作など、有事の別の戦争をリアルに描いている。

 

ウクライナ戦争は、これまでも戦争概念を一変した戦争として歴史に残る。当初は、ロシア軍による電撃的な侵攻ですぐにウクライナが降伏するかと思われたが、実際の戦闘が始まると、従来の戦争様式と全く変わり、実践経験の多いロシア軍もどうしようもなくなっている。従来の戦争概念であれば、制空権を握られると、もはやどうしようのなく一方的にやられる方程式であったが、大型の防空システムだけでなく、兵士1名が持ち運べるスティンガーのような携帯型地対空ミサイルも活躍しており、コスト/パーフォマンスから高い航空機が使えなくなっている。またこれほどドローンが兵器で用いられた戦争は初めてで、全ての戦闘方法論を変えることになる。

 

個人的に、一番恐れたのは、ロシアによる核使用で、もしウクライナ戦争で、ロシアが核兵器をウクライナの首都、キエフはじめ、主要都市に使うと、これほど安上がりの兵器はない。核兵器を持たないウクライナからすれば、ロシアが核攻撃をすれば、これは降参しか方法はない。さらにこれほど簡単で、費用の安い兵器はなく、もし最初にロシアが核攻撃すれば、ロシア側のこれほど犠牲者を出さなくてもよかった。ロシアの指導者からすれば喉から手が出るほど使いかった兵器であろう。ただ流石にウクライナへの核攻撃は、北朝鮮も除く全世界からの非難をおそれ、ブーチン大統領も使えなかった。これは被爆国、日本のこれまでの核廃絶運動も影響したのだろう。

 

例えば、映画のように中国が台湾に侵攻したとしよう。現状では、中国の上陸能力ではとてもじゃないが、台湾には侵攻できない。ある研究によれば、現状の中国の渡海侵攻能力は数万人の兵士を運ぶ程度であり、非常事態の台湾は100万人の戦闘動員が可能で、3万人の中国軍の上陸はほぼ壊滅する。中国政府として中国兵の死者がもっとも少なく、費用もかからない方法と言えば、核攻撃しかない。高雄に一発、次に台中の一発、核攻撃で、次は台北いえば、ほぼ降伏するであろう。核兵器ほど安くて効果的な兵器はない。

 

台湾の面積は、ほぼ九州と同じ、人口は九州が1390万人に対して2340万人と約一千万人多い。太平洋戦争は、広島、長崎の原爆とソ連の満州侵攻で終戦となったが、もし通常兵器で降伏をさせようとするなら、日本へ上陸しなくてはいけない。九州上陸作戦はオリンピック作戦と言われた。その作戦計画では、投入戦力はおよそ200万人、航空戦力は6000機以上、艦艇は正規空母20隻、軽空母6隻、軽空母45隻、駆逐艦422隻、戦艦24隻、という途方もない規模である。こうした戦力を持ってしても、九州を全て占領するには20-50万人の戦死者とその数倍の戦傷者を出すと予想された。

 

当時に日本軍は、特攻作戦に代表されるような死をも恐れない狂信的な軍事組織であったので、これとは比較はできないにしても、ウクライナ戦争でのロシア軍の戦傷者数を見ると、台湾侵攻による中国人の死傷者も相当な人数になると予測される。さらにいうなら、イギリス、日本のような四方を海に囲まれた国を侵攻し、占領するのは、陸続きの国への侵攻に比べて数倍の労力を必要とする。特に台湾に場合、西側の海は大陸棚で浅いが、東側の深く、自衛隊の最も得意な深海底での潜水艦待ち伏せ攻撃の格好の的で、中国海軍の艦艇は一切、航行は怖くてできない。これは中国の原子力、通常動力の潜水艦でも同様で、中国の台湾侵攻が始まれば、自動的に日本、アメリカの潜水艦は台湾東海域に派遣され、中国の海中、海上船舶の破壊活動を行う。戦闘機による支援は日米の介入があからさまになるが、潜水艦の支援は見えないので、まずこの方法をとり、台湾への海上交通路を確保する。

 

いずれにしても島国に対する戦争は第二次世界大戦のおけるドイツによるイギリスの攻撃くらいしか思いつかず、これも完全に失敗した。中国人民解放軍の本格的な戦争は、朝鮮戦争と中越戦争くらいしかなく、すでに45年、いずれの戦争も勝利したとはいえず、一人っ子政策を相まって、中国軍の実力は疑問視される。一方、台湾でも、ドラマに見られるように戦争が始めれば逃げるという人も多く、頑強な抵抗があるかは不明である。ドラマのような、政治家、マスコミに対する浸透工作をして、台湾を親中国国家にし、自然に統合していくプロセスが現実的な路線であろう。かって社会党の議員で、絶対戦争反対、自衛隊がいらないという人がいた。中国から攻められたらと質問されると、その場合は、すぐに降伏すれば命ばかりは取られない。現に日本はアメリカに占領されたが、発展したと言っていた。結構、説得力のある意見で、これをマスコミ、ネットで徹底的に流し、国民を洗脳すれば、核を使わず、軍隊で大きな損害、費用も使わず、侵略が可能である。

 

さらにいうと先見の明のある安倍元首相の発案で、沖縄、南西諸島への地対艦ミサイルの配備をしてきた。これは台湾の武力侵攻を狙う中国にとっては、喉元の棘となり、大きな抑止力となる。安倍元首相の置き土産で、重要な布石である。日本の南西諸島へのミサイル基地への先制攻撃は、日米との開戦を意味し、さすがの中国も第三次世界大戦につながる戦争を起こす勇気はない。


2025年9月4日木曜日

医学はサイエンスに基礎を置いたアートである

 



著名な医学者、ウィリアム・オスラーは「医学はサイエンスに基礎を置いたアートである」と述べた。ここでいうアートとは芸術の意味ではなく、技術、経験といった意味である。むしろ今では「医学とはエビデンスに基づいた経験、技術である」と言った方がわかりやすいかもしれない。

 

ここでいうエビデンスとは医学、医療エビデンス、きちんとした統計的な手法を用いて、効果があったとする治療法のことで、教科書的な標準治療法と言っても良い。現在、ほとんどの疾患、病気は、各医学学会で、その治療法についてのガイドラインが出されており、基本的にはこのガイドラインに沿って治療がなされる。ただこれはあくまで、統計的に有意であった治療法というだけで、個々の患者に対して効果があるかはやってみないとわからない。統計といっても、医療系の研究は、二つの集団の差の検定あるいは、あるいは傾向があるかどうかを調べる相関の検定が多い。薬を飲んだ集団と飲まなかった、あるいはプラセボの薬を飲んだ集団に差があるか、タバコと肺がんの関係などである。

 

今後、AI技術の発展に伴い、このエビデンスについてはさらに強化されていくであろうし、診断、治療法については、かなりコンピューターでできるようになるであろう。ところがオスラーのいうところのアートについては、いくらA Iが発達しようが、これだけは経験して、自分で学び取っていく以外に方法はない。最初に言ったようにアートの意味には、技術的な側面と経験的な側面があり、数をこなし、経験を積むだけでなく、個人の資質が関係する。いくら頭がよくても不器用であれば手術はできないし、手先が器用で早くても失敗が多いのでは医学の面では致命的な欠陥となる。

 

矯正治療は、このようにアートの占める割合が高く、実際、治療費は高額であるが、その90%は技術料と考えて良い。最近、流行しているインビザラインは、コンピュータで治療開始前から終了までのプロセスをコンピューターで分析して、マウスピースを作り、歯を動かす。非常に科学的な方法で、患者にとって治療後のシュミレーションが見えることは安心である。これがサイエンス、エビデンスがあるかというと怪しいが、それでも簡単な症例ではこれで治るというサイエンスはある。ところがこの治療を行う先生の多くは、矯正歯科の素人で、アートの部分の能力はかなり低く、現状の日本矯正歯科学会の認定医、臨床医の症例審査に通るだけの力量を持つ歯科医はほとんどいない。また多くの友人に聞いても、インビザライン単独で治せる症例は少なく、特に抜歯症例ではほとんど、マルチブラケット装置が必要という。

 

個人的に、このアートの分野で最も難しい判断は治療を勧めない場合である。実例で言うと、精神疾患を有する患者の矯正治療では、多くの場合は問題ないが、中には治療中断や不穏な結果に終わることがあり、治療をすべきでなかったと悔やまれる症例がある。また子供の場合でも、親が熱心であっての子供がやる気がない場合、矯正治療で歯並びがきれいになってもう蝕だらけという状況になることもある。こうした症例を初診段階で、治療を拒否すれば患者からはクレームがつくが、断固として断る勇気もアートの領域である。また下顎の前歯部だけの叢生の治療については、経営的には美味しいが、後戻りのことを考えると断る症例であるし、反対咬合の二期治療についてももし手術の可能性があれば、成長が終了するまで、あるいは本人の意思決定ができるまで二期治療をすべきでない。

 

レスキューファンタジー、他の医師が治療できなくても自分なら治せると言う幻想は、若い先生が陥りやすい症状である。特に歯科医の場合は、大学病院、大規模病院に勤務する経験が少ないので、自分のアート、あるいはサイエンスの足りない部分を指摘されることがなく、独善的になりやすい。自分ではすごいと思っても、他の先生からみるととんでもない治療をしていることがままある。サイエンスの部分を高めるのは、本を読んだり、学会に出席したり、講習会に受講することで学べるが、アートの部分は他者からの評価を必要とする。優れた指導者、専門家から、自分の治療のアートの部分を評価し、正してもらう。こうした工程がアートの部分を高める。矯正歯科医の場合は、認定医、臨床医、あるいは専門医の資格を得る、更新時に自分が治療した症例を試験官によって評価される。また転医の際してもこれまでの経過も含む、すべの症例を送るため、ここでも転医先の先生から評価される。また同門会のメーリングリストで治療について相談することもある。

 

近年、歯学部学生は卒業して、大規模のチェーン店に勤務することが多くなったが、そこがサイエンスとアートの両方を学べるところか、どうかよく考えてほしい。どの分野でも、優れた医師、歯科医は世界の最高水準の治療法、治療結果を知っている。矯正歯科分野でも、専門医であれば、世界各国から転医患者が紹介されるし、こちらから海外の専門医に紹介することは普通にある。またヨーロッパやアメリカの矯正歯科専門医試験に合格している日本人の先生も多いし、海外の学会に行き、症例報告を見れば、だいたい世界トップの臨床水準は理解できる。日本矯正歯科学会の臨床医(臨床指導医)の試験は、世界でも最もむずかしい資格試験の一つであるのは間違いない。大袈裟に言えば、日本の矯正歯科医は、常に世界のトップレベルの臨床水準で治療を行っているし、実際に日本人の矯正歯科医のレベルは世界的にも高い。一方、一般歯科医が世界最高水準のレベルを知っているか、あるいは治療できるのか、ここが問題となる。医師の60%以上は専門医の資格を持っており、彼らは世界的な水準を知っているが、歯科では専門医を持っている先生は5%しかおらず、一般歯科の先生が世界的なレベルでの治療をしているだろうか。私のような田舎の矯正歯科専門医でも、これまでアメリカ、ベトナム、韓国、中国などから十数名の転医患者があったし、こちらからもアメリカ、ドイツ、中国に治療の継続を依頼したことがある。保険治療という枠組みがあるにしろ、日本の若い歯科医はサイエンス、アートともに世界最高レベルの歯科治療を目標にしてほしい。


2025年9月2日火曜日

将来的に壊す前提で歯科医院を建てる



最近では、建築費の高騰で、地方で新規に歯科医院を開業するには、1億円以上かかるらしい。近くの歯科医院は2億円かかったと聞いた。保険点数があまり上昇していないし、患者数も減っているので、経営はかなりきついだろう。歯科医の場合、35歳で開業してだいたい70歳くらいで引退するので、現役で開業するのは35年くらいとなる。そして引退すると医院は継承するか、売却することになる。売却の場合、建物は壊して、更地にしか売れないので、開業に費やした資金のうち土地代以外は無くなることを意味する。

 

コンビニは、借地に耐用年数が20年程度のローコスト、短い納期、さらには簡単に撤去できる建物を建てる。建物自体に資産価値を認めず、あくまで減価償却の要素として建物を見ている。簡単に安く作り、儲けて、客が来なくなれば、壊すという流れであり、建築費と撤去費は高くできない。2025年の相場で、建築費が坪25-40万円、内装費が坪10-30万円、といわれ、標準的な60坪のコンビニで2100-3600万円とされている。おそらく歯科医院の建築費の半分から1/3くらいである。

 

歯科医院を開業する若手の先生で、開業の時点で、閉院のことを考える先生はまずいないと思うが、経営的な視点からは35年持つ歯科医院であれば良い。さらにいうなら設備品の撤去、建物の解体期間、費用も安い方が良い。

 

アメリカのA-decの歯科用ユニットは、開業医の平均期間を40年と見て、40年間は持つように設計されている。そのため、共通部品を多く使い、パーツの在庫も徹底し、故障も少ない。日本の歯科用ユニットのメーカーは、例えばヨシダのユニットは製造より10年を過ぎれば、故障しても保証はしないとしているが、これでは困る(実際はもっと修理するが)。一度買えば、買い替えしなくても引退までもって欲しい。実際、私のところでは、このA-decのユニットを2台、20年近く使っているが、故障した場合は、部品を送ってもらい、簡単に修理できた。さらに驚いたことに、いつも世話になっている東京のノーヴランドにこちらの歯科材料屋が電話連絡すると、完全に機械を知り尽くしていて、ここのパネルを外して上から3番目のネジを外して、こうした指導で簡単に修理ができた。何とか閉院まで持ちそうである。

 

家を建てるとなると一生住みたいと思い、できるだけ頑丈な家を建てようとする。最近では中古住宅も注目されているので、途中で引越しがあっても売れるだろう。ただ歯科医院についていえば、継承がなければ壊すしかない運命で、あまり立派に作ってしまえば、かえって撤去費用がかかる。もちろん将来事務所などの他の仕事場に簡単に変更できるような設計であれば、壊さずに済むかもしれない。配管の設備などを考えるとかなり特殊な建物と言える。

 

開業の時点で、だいたい何歳ごろに閉院するという大まかなスケジュールを立てることは大事であるが、新規開業する先生は、そうしたことは考えていないようである。設備についても同様で、デジタルレントゲン、CAD/CAMなどの電子機器は、だいたい10年で、機能、性能が陳腐化するので、安い価格の物を多くの頻度で使い、予想使用率から10年間の収益を算出すべきである。開業時に揃えるのは収益予想もできず、隅に放置されることもありうる。逆に閉院10年前に購入する機器は10年何とか持てばいいので、中古機器で十分である。こうした発想をする先生は多い。

 

さらにいうなら備品については、ものすごく安くて、捨てるのに惜しくないもので揃えるか、逆にブランド品で揃えるかとなる。最近では、物を捨てるにもお金がかかる。例えば事務椅子でも、ハーマンミラーやスチールケースなどのブランドであれば、20年くらい経っても中古家具屋さんで引き取ってくれるし、アルネ・ヤコブセンのテーブルライトであれば、閉院後も家で使ってもいいし、子供にあげても良い。閉院しても、売れるもの、家に持って帰るもの、子供、友人が欲しがる物であれば、経費で落とせる額を考えても購入は勧められる。医院に飾る絵やインテリアもそうである。

 

世の中、断捨離、シンプルライフの時代であり、その点から見ると、歯科医院経営においても、閉院のことを考えて、必要最低限、無駄なく開業することが望まれる。


 

2025年8月24日日曜日

テレビドラマ史上最高の番組 ホジュンー宮廷医官への道

 


私自身、年間100冊以上の本を読むし、映画も映画館やAmazonプライムを入れるとこれも100本以上見ているし、漫画も好きなので100冊近くは買っている。こうした生活を30年以上しているのだから、総計するととんでもない数となる。ただ一度読んだ本をもう一度読むかといえば、本を書くときの資料として同じ本を何度か読むことはあっても、面白いからという理由で、2度読んだ本はない。漫画についても二度読みをすることはない。

 

映画については、好きな作品はDVD を買って、これは何度も見ることがあり、一番多く見たのが、オードリ・ヘップバーンの「いつも2人で」は4回見たし、「マイフェアーレディー」、「ローマの休日」も同じくらい見た。これはオードリーのフアンである要素が強い。内容だけで3回以上見た映画は、「砂の器」、これは名作である。「八甲田山」、高倉健がかっこいい。「東京物語」、「麦秋」、「秋刀魚の味」などの小津安二郎の作品も何度も見ている。戦争ものでは、「トラトラトラ」は何度見ても、すごいと思うし、アニメでは「紅の豚」もいい。本は読むのに少なくとも2、3日はかかるのに対して映画は2時間くらいなので、何度も見ることのできるものである。

 

ところが、ここにテレビのドラマ、連続番組というジャンルがある。一話は30分、1時間でも何十話となるとさすがに何度も見ることはない。最近ではテレビ番組もDVD化されて、高校の時に夢中になった「スタートレック」と「タイムトンネル」のDVDを買ったが、まだ全巻見ていない。

 

その中でも、個人的に中毒性のある番組がある。韓国ドラマの「ホジュン」である。日本で放送されたのが1999年なので、26年前のドラマで、全64話である。2013年にも内容はほぼ同じで、キャストが変わった「ホジュン 伝説の心医」という作品がある。最初の1999年のホジュンは再放送の度に何となく見てしまい、少なくと5回以上は見ている。筋はすでに覚えているが、何度見ても全く飽きない。一つは主演のチャン・グアンリョルの演技がすごいだけでなく、周りのキャストの演技もよく、特に師匠、ユ・ウイテ役のイ・スンジュも彼の最高の役である。また、何度再放送されても私のように中毒性のある人が全国に多く存在するのだろう。再放送されてもある程度の視聴率が取れるので、何度も何度も再放送される。おそらく日本のテレビ史上でもアニメを除くとこれほど再放送されるのは、「暴れん坊将軍」、「鬼平犯科帳」くらいか。個人的にはホジュンの再放送回数の方が多いように思えるのだが、誰か教えて欲しい。

 

韓国ドラマといえば、まず最初に日本でブームになった「冬のソナタ」があったが、今見るとあまりに古臭く二度と見る気はしないし、当時のものはどれも古臭くて、見る気にはならない。そうしたこともあり、冬のソナタも最近ではほとんど再放送されない。あれだけ日本中を夢中にした「宮廷女官チャングム」もそれほど再放送されていない。逆にいうと、これだけ韓ドラがあるにも関わらず、25年以上前の作品がいまだに何度も再放送されているのは、ホジュン以外の韓ドラにない。それだけ突出して番組といえよう。

 

テレビ、映画にも言えるのだが、いわゆる名作、何度でも見られる作品には、まず脚本が良いこと、キャストが良いことが揃っていないといけない。特にキャストについては、主人公だけでなく、全てのキャストが有機的に連動して名作となる。おそらくは監督は、それほど厳選してキャストを選んだわけではなく、結果的にそうなったのだろう。実際、ホジュンの続編、「ホジュン 伝説の心医」は、前作の人気があまりに高かったので、セリフも含めて内容はほぼ一緒で、キャストを変えた。ただそれだけで、全く見る気がしない作品となった。内容のいい作品は、映画では何度もリメークされるが、ことホジュンについては、リメークはあまりうまくいかなかったので、オリジナルを何度も再放送することになった。

 

もし見ていない人がいたら、今もBS日テレでやっているので是非見てほしい。本ドラマの最大の見せ場、師匠ユ・ウイテの死と死体の提供がある。これはすごい場面である。


2025年8月17日日曜日

日本歯科専門医機構 矯正歯科専門医

 



日本歯科専門医機構の矯正歯科専門医をようやく取得できた。といっても認定状が来たわけではなく、日本歯科専門医機構のホームページに「2024年度機構認定 矯正歯科専門医」に載っているので間違いではなさそうである。今年いっぱいでやめるので、今更専門医を取得しても全く無意味である。3年ほど前になるのか、最初の日本歯科専門医機構の試験があったが、この年、症例審査、筆記試験、面接は全て合格し、あとは専門医機構の共通研修を受けるだけという段階だったが、この研修を受け損ねてしまった。受講申し込みはネットで行い、その受講料は当然、ネットで、カードで支払ったばかり思い込んでいた。ところが講義のある前日になっても連絡が来なかったので、調べてみると、受講料は銀行振り込みで、もう締め切りが終了したという。かなり焦ったが、近々閉院するので、取っても無意味と思いそのままにしていた。ところが、懇意にしていた先生が、実は日本専門医機構の理事、それも矯正歯科専門医担当ということがわかり、矯正歯科専門医の問題点は地域偏在があり、東京では多いが、県によっては一人も専門医がいないのは問題であると言われた。青森県も私が取らなければ、専門医のいない県になってしまう。そこで、遅ればせながら専門医をとることにした。当初は機構の研修を受ければOKと考えていたが、結局は全ての資料をもう一度作り直し、提出した。これがおよそ1年前で、今回、ようやく合格したようだ。

 

現状では、ホームページに掲載可能な名称としては、“日本歯科専門医機構、矯正歯科専門医” となる。従来からある “日本矯正歯科学会 専門医、臨床指導医” の名称は、これまで△として記載はグレーであったが、今後は掲載不可となる。現在、日本矯正歯科学会の更新には、医院のホームページのチェックがあるが、認定医、臨床指導医の名称は削除を求められるだろう。

 

今回34名の新たな合格者を加えて、現在、235名が日本歯科専門医機構認定の矯正歯科専門医といえよう。日本矯正歯科学会の臨床指導医(381名)が矯正歯科専門医になるための条件であるが、順次、認定医(3000名)まで広げていき、最終的には1000名くらいが資格を持つようにしようと考えている。それでも毎年100名ずつ専門医になっても、10年くらいはかかりそうで、東京など都会では数は充足していても、青森県のような地方ではかなり少ない資格となろう。

 

最近では、矯正歯科認定医をとるには、卒業して矯正歯科の医局に入り、少なくとも6、7年、研修医期間を足すと78年必要である。あまりにも長くかかりすぎて、嫌がる学生も多い。アメリカでも3年間の専門大学院を卒業すれば矯正歯科専門医になれることを考えれば、効率が悪い。日本矯正歯科学会の認定医ができたのが1990年、その後、矯正歯科専門医(臨床指導医)が2006年にできた。矯正歯科では日本矯正歯科学会、日本成人矯正歯科学会、日本矯正歯科協会の3つの専門医制度があり、厚労省からなんとか統一しろの言われて、5年ほど前に統一矯正歯科専門医審査がおこなわれた。ところが試験形式が矯正歯科学会と機構とが違ったりして、混乱し、2年前からようやく口腔外科、小児歯科、歯科麻酔、歯科放射線に続いて専門医として認められた。最初の認定医制度から35年かかったわけで、私自身も審査員などでかなり長いこと関わってきただけに、今後の制度の定着を祈っている。

 

ただ医科の専門医制度も含めて、国民に専門医についてあまり知られていない。日本では専門医のライセンスがなくても診療科を標榜可能なので、矯正歯科と看板に書いていてもライセンスがない場合が多い。矯正歯科治療をするなら専門医のところで治療という流れを作るべきであり、そのためには、まず現行の保険制度と専門医のライセンスを連動させるべきであろう。具体的に言えば、反対咬合などの小児の不正咬合が健康保険扱いになった場合は、現行の口蓋裂患者の矯正治療の施設基準の一部を変更する。現行では「当該療養を行うにつき十分な経験を有する専任の歯科医師が一名以上配置されていること」を、「当該療養を行う矯正歯科専門医(日本歯科専門医機構)の資格を有する専任の歯科医師」にすれば良い。“十分な経験”という表現はあまりに曖昧すぎる。今年度から学校歯科で不正咬合を指摘された場合の診断については一部保険適用となった。この先、重度の不正咬合が保険適用にならないと制度上おかしなことになるし、重度の不正咬合を治療するのは矯正歯科専門医でないとダメである。ただ日本歯科専門医機構の理事に言われたように、今のところ青森県では専門医が私だけで、それも今年で閉院するので、誰もいなくなる。重度の不正咬合であっても青森に住む患者は他県に通院するか、自費治療になる。これは厳しい。


2025年8月14日木曜日

宮崎駿監督のミリタリー好き



久しぶりの宮崎駿の「紅の豚」をみた。5度目くらいだろうか。宮崎作品の中でも最も好きな作品である。おそらく宮崎監督自身、この作品と「風立ちぬ」が最も作りたかったものだったのではと。宮崎駿のミリタリー好きは有名で、飛行機オタクの「スケールアヴィエーション」や「モデルグラフィック」などの雑誌によくインタビュー記事が載っていた。実際、「モデルグラフィック」に連載していた作品をまとめたのが「宮崎駿の雑想ノート」や「飛行艇時代」で、後者はそのまま「紅の豚」の原作となっている。

 

宮崎駿は1941年(昭和16年)生まれで、終戦時は4歳、戦争のことは全く覚えていないし、いわゆる戦前の軍国主義にも染まっていない世代である。小学校入学するのは昭和22年で、当時は、戦前の軍国主義の反動か、民主主義の極端な教育が行われていた一方、世の中は復員軍人で溢れ、殺伐とした時代であった。ただ親が戦前、軍需産業に関わっていたことから、周囲には軍隊を思い出すものが多かったのだろう。

 

実は、昭和20年後半くらいから、アメリカの占領政策から解放され、戦争ものが多くなった。例えば、撃墜王の坂井三郎の「坂井三郎空戦記」(のちに大空のサムライ)が出版されたのが昭和28年、今も続く軍事雑誌の丸が創刊されたのが昭和23年、円谷英二が特殊監督をした「太平洋の翼」が昭和28年、とサンフランシスコ平和条約が締結され、日本が独立国家となった昭和27年以降にようやく大手を振って軍事ものを作れるようになった。また今でも航空機の好きな人の愛読書、雑誌「航空ファン」の創刊が昭和27年で、戦争に生き残った日本人は、次々と戦時中のことを語り出した。

 

ちょうど中学生の感受性の高い時代に、宮崎駿少年も戦記ブームの洗礼を受けた。宮崎監督と私では15歳も年齢が違うが、それでも自分の親も含めて周りに大人は全て戦争経験者であった。そもそも男の子は飛行機や自動車などのメカものは好きで、ソリッドモデルやプラモデルの飛行機や戦車、軍艦が出てきたのもその頃で、夢中になった。「少年」、「マガジン」など次々創刊される月刊誌、週刊誌も戦艦大和や零戦などを取り上げた。戦争については全く実感がないが、それでも絶対にしてはいけないものという思想的な重しがあるものの、とにかく格好いいという感情が先に立つ。プラモデルで零戦を作っては一人で空中戦をする。特に戦争中の武器は、とにかく多種のものが大量に作れたので、今では考えられないようなおかしなものもあり、人を殺すという武器ではあるが、機械として面白いものが多い。

 

宮崎監督にすれば、映画として「となりのトトロ」のような作品を期待されがちであるが、本当に好きなのはミリタリーで、おそらくは「紅の豚」、が製作側とギリギリの接点で、これが我儘の言える最後だと思っていたのだろう。それでも抑えきれず、もう一度作ったのが「風立ちぬ」で、これでも大分抑えた方なのだろう。それでも戦争は嫌いだが、戦闘機は好きという矛盾した気持ちはダダ漏れである。同様に「この世界の片隅に」の片渕須直監督も無類のミリタリーオタクで、特に日本軍機の塗装についてはその分野では権威に近い。映画でもミリタリーオタクの片鱗は呉港に入る軍艦や飛行機の描写に出ている。片渕監督は昭和35年生まれで、宮崎監督より21年若いが二人とも戦争ものの洗礼を同じように浴びていて、スタジジブリでもこの二人は極め付けで、左翼からも叩かれている。

 

実はこのブログを書いている私もミリタリーオタクで、何より軍事ものが好きで、これはやめられない。オタクになるとだんだん誰も知らないことに異常に興味が出て、飛行機も有名機にはあまり興味がなくなる。こうしたこともあり、世界の傑作機シリーズも、最近はほぼオタク向けの知られていない機体が取り上げられ、本当のことをいうと傑作機ではなく、駄作機に近い。最近のドイツ機体で言えば、メッサーシュミットME323Fw189、アラドAr196 などは渋すぎるし、極め付けはF2Yシーダートというジェット水上機には生産数五機の機体を取り上げている。


 

2025年8月10日日曜日

シンシナティー美術館への追加寄贈


 

田中蘭谷





田能村直入落款






前回のブログで述べたように、シンシナティー美術館へ39点の作品を寄贈した。その後、オークションで田中蘭谷の「芙蓉美人図」という作品を落札したので、これもシンシナティー美術館に寄贈した。館長がすごく気に入って、今年のホリデイカード(クリスマスカード)にしようと意気込んでいる。というのは、まだ詳細は不明であるが、来年、日本でシンシナティー美術館の西洋画、ゴッホやピカソなどの巡回展を日本で開くそうだ。そのための寄付金集めにこの田中蘭谷の美人図のホリデイカードを使うという計画なのである。涼しげな、夏らしいいい絵である。細いことを言うと、上村松園などの美人画家に比べると、線の美しさが違い、松園のような細くて綺麗な顔、衣の輪郭線が描ききれていない。それでもいい作品である。

 

実は、もう一点、寄贈しようと思っている作品があった。母親の遺品、厳密に言うと父親の母、私の祖母の掛け軸である。戦前、大阪で遊郭を経営していた祖母は裕福で、多くの骨董品を持っていて、一部が残っている。その中でも、田能村直入の「白衣観音図」がよく描かれている。これも一緒に寄贈しようと思い、実家から持ち帰り、こちらで調べている。美術館では原則的には本物、偽物の鑑定はしていないので、偽物の疑いのあるものは決して受け入れない。100%本物以外は受け入れない。これまでシンシナティー美術館に寄贈した作品は、香川芳園、田中蘭谷、など無名の作家の作品で、偽物はない。唯一、比較的名前が知られている望月玉泉くらいか。作風、落款、印章はほぼ一致し、また玉泉はそれほど偽物がないため、本物として送った。シンシナティー美術館の調査でも本物と思われると言う答えだったので寄贈した。

 

今回、寄贈しようと思った田中蘭谷の偽物は絶対にない。一方、田能村直入は、戦前、人気のあった画家で、偽物が多いので有名な画家である。また祖母が骨董屋から買った作品は偽物が多い。一つは土佐光貞の伊勢物語の大和絵であるが、箱書きには適当な鑑定書があるが、程度の低い贋作であった。もう一つは翠石の落款のある南画で、これは虎図で有名な大橋翠石の作とされていたが、調べると大阪の近藤翠石という画家の作品であった。ほぼ無名の画家で、いずれの作品も祖母が骨董屋から大金を払って購入したのだろう。ならば、この直入の作品も贋作の可能性がある。

 

大きな観音と子供という絵の構図は、少し奇妙であるが、同じような類型は本物の田能村直入にある。輪郭線は狩野派のタッチで太いが、観音の表情が良い。また全体の雰囲気は良いし、画賛の文字もほぼOKである。多少、画質が劣るが、早書きであれば、この程度かと思う。ただ決定的な問題点は印章で、2つの印章、特に上の印章が微妙に違う。印章の鑑定は難しく、朱肉の付きによっても変わってくるが、これはないという違いである。画、画讃、署名は本物と考えてもいいかもしれないが、落款印が違うため、贋作とした。田能村直入のように贋作が多い画家でなければ、ギリギリ本物となったかもしれないが、購入した骨董屋のことも含めると贋作といえよう。

 

ただこれは言えるのは、もはや日本画、掛け軸の贋作はでないであろう。掛け軸そのものの価値が低下し、時間と手間をかけて贋作を作っても全く売れないからである。一方、オークションの中には本物、贋作が、玉石混交で溢れている。通常、本物は偽物よる値段は高いものでが、今では同じ値段で売られているので、全く値段だけではわからない。もちろん骨董屋も贋作をつかまされないように勉強しているものの、白黒はっきりすることは不可能で、グレーの部分が広い。AIを用いれば、もっと鑑別は容易になるかもしれない。ただAIといっても誰かがデータベースを作成しなくてはいけなく、それほど世界的にも日本画が需要は少なく、無理なような気がする。ピカソやゴッホのような洋画家の方が鑑別AIの開発は早いだろう。






田能村直入 印章集





2025年8月7日木曜日

東奥日報の記事

 


先日の東奥日報に記事が載った。取材に来てもらったのが1ヶ月前なので、ボツになったかと気を病んだが掲載されてホッとしている。

 

友人の反応は、せっかく集めたコレクションをなぜ手放しのか、もったいないという声が多かった。一方、美術関係の人からは、よくコレクションを美術館で引き取ってくれたなあ、普通なかなか引き取ってくれないぞと、こちらの意図をわかってくれた。記事では日本の美術館と欧米の美術館の違いについて説明しなかったが、このブログで記事の背景について少し説明する。

 

欧米、特にアメリカは図書館と博物館あるいは美術館は、市民が作るものという感覚がある。ボストン美術館やメトロポリタン美術館もそうで、今回、絵を寄贈したシンシナティ美術館も、市民が金を出し合い、絵を寄贈して、創立され、今も運営されている。二年前にもオハイオ州の夫妻が亡くなりその資産1800万ドルをシンシナティの3つの主要美術館に寄贈したというニュースがあった。1ドル150円とすると27億円という莫大な寄贈である。またシンシナティー美術館にあるピカソ、ゴッホの名品も全て市民の寄贈による。

 

すなわち、日本の美術館は作品を購入して収蔵するのが基本なのに対して、欧米の美術館は市民による寄贈が基本となる。もちろん日本でも寄贈を受け入れることもあるし、欧米でも作品を購入することはある。欧米の美術館では市民による寄贈の申し出があれば、基本的にはすぐに対応し、必要だと判断すれば委員会、理事会を開いて寄贈を受け入れる。一方、日本では、寄贈を申し出た時点で、今は寄贈を受け付けていないと返答され、調査さえしない。まず人と時間がない。両親の集めていた絵を地元の美術館に寄贈しようと思っても、こうした対応をされてしまう。

 

 一方、日本では和室が急速になくなり、それに伴い床間にかける掛け軸も人気がなくなった。父や祖父が残し大量の掛け軸があっても、処分に困り、骨董屋に見てもらっても一つ500円といった安い値段にしかならない。骨董屋は買い取った掛け軸をネットオークションで公開し、最近は中国人が買っている。近年、掛け軸を中心として日本美術が急速に消滅している

 

徳島県立美術館の収蔵作品数が1万点を超えるというニュースがあった。開館当初は購入による作品収集も多かったが、最近は作品を購入する予算も少なく、年間の収集点数も1-3点にとどまっている。それに反して、美術館による積極的な調査研究、収集活動が次第に効果を及ぼし、最近では市民による寄贈も多くなってきて、2023年度では359点の寄贈を受けたようだ。それにより郷土作家のまとまったコレクションとなり、収蔵作品展を頻繁に開催している。

 

青森県立美術館について調べると、所蔵作品は令和元年で4767点であるが、ここも作品購入の予算が少ない上、市民からの寄贈についてはあまり積極的ではない。郷土作家といっても奈良美智さんの作品を寄贈する人はいないだろうが、他のあまり知られていない郷土作家の作品はたくさんあるはずである。先日も、棟方志功の師匠と呼んでも良い下澤木鉢郎の作品3点の寄贈を青森県立美術館に写真付きでメールした。一応、見てみて、委員会に諮ってから受け入れを決めるという。ただ委員会の開催は一年後とのことであった。

 

これは弘前市立博物館や弘前レンガ倉庫美術館でもそうで、原則的には市民からの寄贈や寄託は受け付けていない。まず対応する職員が少なく、また保管するスペースもないからである。ただよく考えていただきたいのは、博物館、美術館は、所蔵作品を市民に見せる場でもあるが、同時に市民の宝を保存する場所でもある。放っておくと、家のある古いものはどんどん捨てられてしまう。たとえば、世界中で話題になっているボロ、ツギハギだらけの衣料も田中忠三郎さんの努力によりコレクションされているが、これなど汚いものとして捨てられる運命であるし、どこも寄贈できないのであれば、捨てられていく。あれほど弘前で盛んであった弘前木綿がほとんど残っていない。

 

もちろん市民が寄贈を希望するものの多くはガラクタに類するものかもしれないが、それでも後世に残すべき作品もあるはずで、少なくとも専門家が仕訳をしなくてはいけない。最初に述べた徳島県立美術館の場合、1。寄贈を受けるため所有者や関係者のもとに足繁く通う、2。所有者の代替わりに際して寄贈の相談を受けるなどの、継続的な活動を行い、さらに寄贈品はそのまま無条件で収蔵するのではなく、館内で熟議し、専門家と協議した上にコレクションにするという。

 

特に青森県では、耐震強度の問題で、青森県立郷土館が休館のままになっている。ここは青森県でも比較的寄贈を受け入れるところだっただけに、このまま休館が続くのは寂しいし、その間も貴重な歴史的資料が失われている。アメリカの美術館や博物館は市民の寄付や寄贈で作られてきたため、財政的にも国、州、市に依存しておらず、地元会社や個人の寄付で成り立っている。市民ボランティアも多く活用している。それに対して、日本の多くの博物館や美術館は公的予算で成り立つところが多い。弘前博物館でも、実は後援会があるがほとんど知られていない。安い会費で、企画展など無料で観覧できるので、お得なものであるが、ほとんど広告していないせいか、会員数は減っている。これなどもっと市民にアピールすべきである。また市民からの寄贈については、まず美術館のスタッフの増員、あるいは収容スペースの確保とともに、もっとボランティアを活用すべきである。リタイヤした人の中にも美術品が好きな人もいるだろう。図書館ではそうしたボランティアの人も見かけるが、あまり博物館や美術館では見かけない。

 

図書館、美術館、博物館というのは住む人の文化的な顔である。文化的な都市を目指す弘前市であるならば、もう少し予算、作品収集ではなく、スタッフ予算を増額、あるいは積極的なボランティアの募集、講演会の拡大など、やりようはあると思う。人口17万人の街に、博物館と美術館があるのは贅沢なことであるが、なんとか市民も含めて支えていきたい。

 

 


2025年8月6日水曜日

来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について 3

 



 
阿部はな


前回のブログで、来年度のNHK朝ドラの主人公、大家直美は、孤児で、教会の牧師に引き取られ、看護師になるという設定だそうだ。共立女学校でもフェリスでも、明治期の生徒の多くはお金持ちのお嬢さんで、この学校に孤児の子供が通学するのはかなり設定に無理がある。今の生徒層に近い、あるいはさらに上流のお嬢さんが通うところであっただろう。もちろん、今の共立学園、フェリス女学園に孤児の子供が通学するというのは絶対ないとは言えないが。ただ共立女学校設立の最初の目的が、当時、横浜に増えていた混血孤児の教育であり、校費生として貧困家庭出身の生徒がいたようだ。一つの例として、須藤かくと一緒に渡米して、アメリカの女子医科大学を卒業して女医となった阿部はながいる。

 

阿部はなについては、はっきりしていないが、父親の名前が、東京都出身の阿部定右衞門であることは、安倍純子さんの研究、「女性宣教医Dr.アダリーン・ケルシ-」に記載されている。キリスト公会の受洗簿に載っていたという。阿部定右衞門について検索すると、明治5年相原村戸籍に、阿部定右衞門 53歳 家族の人数 男2名 女2名 石高315となっている。また「日本近世商業史の研究」でも、阿部定右衞門(53歳)、長男桉吉(15歳)と女の家族が住んでおり、石高0.315石の貧農で、同地域で盛んであった養蚕業に長男が奉公人として出ていたことがわかる。阿部定衛門という名前だけで、この人物が阿部はなの父とするのは無理があるが、それでも阿部はなが渡米する際の外国旅券下付表では神奈川県、他の記録では神奈川県となったり、東京都出身となったりしている。相原村は現在の相模原市と町田市の境、つまり東京都と神奈川県の県境にあり、その所属も最初は相模原、その後に町田になったので、出身地が神奈川であったり、東京であったりするのは、この相原村であれば、嘘ではない。こうしたことから阿部はなの出生として、相原村の貧しい農家の生まれで、何かのきっかけで共立女学校に進学することになったという仮説は立てられよう。

 

当時の共立女学校の学費と寄宿代を合わせて月に5ドルくらいであった。阿部はなついてはアメリカ側に個別の支援者がおり、Phillipsという夫人から1881年には102ドル、1886年には58ドルに寄付があった。102ドルは5年分、52ドルは1年分の学費、寄宿代に相当する。まあまあの額であり、将来的に宣教師になる前提での支援だったのかもしれない。阿部はなは、慶応2年(1866)生まれ、1879年頃の共立女学校に7歳くらいで入学、1886年、20歳ころに卒業した。共立に7歳から20歳頃までいて、卒業後はアデリン・ケルシーの医療助手などをしていた。1891年、25歳で渡米し、アメリカ、シンシナティーのローラ・メモリアル女子医科大学を卒業、1897年に日本に帰国した。

 

須藤かくについては、その家族のことも記録に残っているし、日本での医療活動をやめてアメリカに再渡米する際にも妹の一家(成田家)を呼び寄せて、最終的にはこの家族と共に過ごすが、阿部はなについてはこうした親類の姿は見えない。父親の受洗記録もあるので、おそらくは一家でクリスチャンとなったであろうが、阿部はなとの直接的な関わりはない。1911年、ニューヨーク州、カムデンという小さな町で結核のために48歳の若さでなくなった。

 

ドラマの主人公、大家直美が、明治初期、もし孤児で牧師に引き取られたとすると、そこの養子にならなければ、通常は尋常小学校までの教育となろう。孤児から日本で初めての看護師になり、アメリカに留学希望するというストーリになるためには、貧しい農家からアメリカに留学して女医となった阿部はなのような設定が必要であろう。牧師は任命制で、信者の浄財で生活しているため、預かっている孤児、大家直美を横浜共立女学校のような金のかかる学校に行かせるわけにはいかない。あくまで校費生として学校に受け入れられて初めて高等教育を受けられる。

 

また鈴木雅の夫、鈴木良光少佐については、Wikipediaによると歩兵第9連隊(大津)、第2大隊の大隊長として記載されており、皇居三の丸尚蔵館に写真がある。激戦地の田原坂の戦いに投入され、多くの犠牲者が出た。この写真には、陸軍歩兵少佐従六位勲三等鈴木良光 静岡県士族 三十二歳の説明がある。これも孤児の大家直美が、鈴木良光に嫁ぐには、当時の感覚から家柄で難しいように思える。士官以下の少し階級を下げないと辻褄が合わない。ドラマはフィクションであるが、少なくとも時代背景には合致しないとおかしなことになるので、特に明治以降を舞台にしたドラマは難しい。

2025年8月3日日曜日

金髪の小学生




近所のスーパーに行くと金髪に染めている小学2、3年生を見かけることが多い。両親、弟妹もメッシュやハイライト、あるいは髪の毛の一束のみ長くしている。まさか子供の方からこうした髪型を望むことはないし、かなり費用もかかるので、親の要望によるものだろう。子供にしたいファッションをさせているだけだという論理で、校則もない小学校では先生からも文句は言えない。

 

SDGSの流れの中でも、自由という概念が拡大解釈され、なぜ、子供が化粧していけないのか、髪の毛をパーマにしてはいけないのか、金髪にしてはいけないのか、はてはなぜ、ピアスをしてはいけないのか、タツー(刺青)をしてはいけないのか、自由じゃないのかという。この論理の問題点は自由の解釈をどこまでにするかという点だ。小学生の子供に金髪させている親は、子供が中学、高校生になってピアスを入れたい、刺青を入れたと言われても反対できないし、もちろん勉強をしたくない、学校に行かない、さらに働きたくないと言われても何も言えないだろう。

 

先日のニュースでは、全国学力テストの結果が昨年より相当悪く、その理由としてスマホのやりすぎと、学校生活が楽しければ、良い成績を取ることにはこだわらない親が増えていることを挙げていた。親の世代がいわゆるゆとり教育を受けた世代で、子供が健康で、楽しければいいと考えている。中国や韓国の受験戦争が凄まじくなっているが、日本では逆の方向に進んでおり、このままいくと公立学校では校則などで生徒を処罰できないので、なし崩しに自由になっていくだろう。私立中学校では校則に厳しく、私のいた六甲学院では、親が学校の方針に文句を言えば、校長は即、ならばやめてくださいと一言で片付けていたし、実際にやめる子供もいた。これは今でもそうで、もし東京の有名私立小学校、例えば、学習院で子供が金髪に染め、注意しても直さなければ退学となろう。

 

子供に勉強しなさいと口酸っぱく言わなければ、大抵の子供は勉強しない。テレビ、ゲーム、音楽、ダンスなどもっと楽しいことはいっぱいある。もちろんこうした子育てはそれでもいいが、一方、こうした子供に影響されたくない親は、勢い子供を私立の学校に入れようとする。そのため東京、大阪では公立中学校と私立中学校では生徒の質が異なり、ある意味この段階で差が出てしまう。良い成績を取ることにこだわらない親は公立中学、そうでない親は中学受験を目指すことになる。ドイツでは10歳になると、大学に進むためにはギムナジウムに、そうでなければ基幹学校、実科学校に進むかを決める。同じようなことが日本でも起こっている。

 

中国、韓国の親は、子供を自分より金持ち、幸せになってほしい、そのためには勉強して、いい大学、医者になってほしいと、子供の頃から塾に行かせ、尻を叩いて勉強させている。それに対して、日本では、勉強なんかするな、学校が楽しくて、健康であればOKという親が増えている。このことはある意味、勉強しなく、学歴がなくても、そこそこの生活ができ、あえて勉強をして大学に進学する意味がないと言える社会となっているのだろう。成熟社会になるにつれ、ホワイトカラー>>ブルーカラーという図式が少なくとも給料面では差が少なくなっており、むしろホワイトカラー>>ホワイトカラーというように、同じホワイトカラー間で給与差は大きい。少し不思議な社会になろうとしている。

 


 

2025年8月1日金曜日

来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について 2

 










前回の続き、 鈴木雅が横浜共立学園出身とする文献



「女たちの約束 M.T.ツルーと日本最初の看護婦学校」(亀山美和子、人文書院、1990


「生徒は、当初の計画どおり、六人が選ばれていた。その六人とは、ツルーが横浜の山手211番(ミッションホーム)時代に教えたことがある鈴木雅(旧姓加藤)、ツルーに信頼を寄せていた牧師植村正久の勧めで入学することになった。旧黒羽藩家老の娘大関和、固い決意を示すため断髪姿で桜井女学校に入学した広瀬うめーーーーー」

「ヴェッチの通訳を引き受けたのは共立女学校出身の鈴木雅だった。ブライトンやピアソンたちの教育の成果はこんなところにも表れた。結婚生活によって英語から長い間遠ざかっていた雅は、桜井女学校に入ったとき再びその能力をとり戻したのである。」

*文中の横浜の山手211番(ミッションホーム)は、おそらく山手212番の間違いであろう。横浜共立学園(アメリカン・ミッション・ホーム)のことである。

 

「横浜の女性宣教師たち 開港から戦後復興の足跡」(横浜プロテスタン史研究会編、2018


「来日とマリア・トゥルー その後のベントン母子の生活は不明であるが、彼女は十年余り経った1873(明治六))WUMS本部に宣教師の志願書を提出した。この時リディアは11歳の息子を本国に残しアメリカの教育を受けさせることにし、単身で日本へと向かった。同年1026日に横浜に到着し、アメリカン・ミッション・ホーム(現横浜共立学園)の教師となった。四十代の新たな出発であった。そのほぼ一年後の1874114日、WUMSから中国へ派遣され北京の女学校で教師をしていたマリア・トゥルーが、任地を変えて養女のアニーを連れて来日し、ミッション・ホームの教師としてリディアの同僚となった。旧知の二人は日本での再会を喜び、協力して教育に当たり、西田(岡見)ケイ、加藤(鈴木)まさ、菱川やす、桜井ちかなど、後に明治社会において女性医師や看護婦、女子教育者として先駆的な活躍をした女性たちに大きな影響を与えた。

 

「明治の横浜:英語・キリスト教文学」(小玉晃一、小玉敏子、笠間書院、1979


「学校移転の頃の生徒は東京大学付属病院の看護婦長となった加藤まさ、明治学院総理井深梶之助夫人となったせきなどがいた。」

*共立女子学園は、山手48番から明治5年に山手212番地(現在の場所)に学校移転

 

「横浜共立学園120年の歩」(横浜共立学園120周年の歩み編集委員会、1991


「加藤まさ(鈴木雅) 明治五年ごろに入学。ホームでトゥルーに教わる。鈴木氏と結婚した。夫の病死後、桜井女学校の看護婦学校に入り、卒業した。英語力は抜群であった。帝大医科大学の看護婦取締をし、「婦人衛生会雑誌」の編集もした。1891(明治24)年11月、「慈善看護婦会」(東京看護婦会)を創設した。この会は日本における派遣看護婦の最初のものである。「衛士園」の委員もしていた。

 

「日系アメリカ人最初の女医 須藤かく」(広瀬寿秀、北方新社、2017


「共立女学校の卒業生の多くは結婚して家庭に入ったが、先に述べた桜井女塾を創設した桜井ちか、後に須藤らと一緒に横浜慈善会病院を作った社会事業家のに二宮わか、東京帝大看護婦長となった鈴木マサなど、明治期の女性運動を積極的に引っ張ったパイオニアがいる。」

 

調べた限り、鈴木(加藤)雅が横浜共立女学校に在籍していたとする文献は、前のブログも併せてこれだけある。また鈴木雅がバラから受洗した記録は、横浜の海岸教会にあるようで、彼女がクリスチャンだったのは間違いない。

 

NHKならびに脚本家の吉澤智子さんの話では、

https://www.nhk.jp/g/blog/in53ohblxf-y/

 

鈴木雅をモデルにした大家直美は、「生後まもなく母親によって捨てられ、物心がついた頃にはキリスト教の牧師に育てられていた。その後、教会を転々として来たので、家族と呼べる存在はいない。幼い頃から何も悪いことをしていないのに貧しく恵まれていない人に多く接してきたため、神も人も心から信じきれないところがある」

とあるが、実際の鈴木雅は士族の出身で、クリスチャン、15歳にできたばかりのアメリカン・ミッションホームに入学し、24歳頃まで在籍して英語を習得し、陸軍中佐の鈴木良光と結婚した。NHKのキャラ設定とはほぼ180度違い、ここまで違うとモデルといえまい。純粋にドラマとして楽しんだ方がいいだろう。

 

 




2025年7月25日金曜日

とにかく暑い

 


暑くて、日中外の出る気もおこらない。私がこちらにきた1994年頃、30年前はまだ弘前の夏も大したことはなく、盛夏でも312度で、朝夕は比較的涼しく、エアコンをつける日は夏季で7日くらいであった。弘前ネプタの終わるお盆過ぎになると窓を開けて眠れないほど涼しかった。当時は、エアコンのない家、車も結構あったが、今は各部屋にエアコンがある。温暖化の影響は間違いなくありそうである。

 

連日の暑さで、避暑のイメージの強い北海道でも40度を超えるところがニュースで報道され、エアコン普及率の低かった北海道でも近年はかなりエアコンを設置する家も増えたようだ。こちら青森県もそうだが、日本列島が沖縄のような夏冬の2シーズンしかない気候になってきており、弘前の場合でいうと12月から4月までは冬、春が4、5月の2ヶ月、そして夏が6月から9月、秋が1011月の2ヶ月で、冬が4ヶ月、夏が4ヶ月となる。

 

日本でもこんな暑さなのに、もっと暑い国だとエアコンなしでは生きていけないと思ったが、実際、世界のエアコン普及率を調べると、アメリカは90%以上と非常に高く、日本、韓国、台湾も同様に90%を超える。ところが東南アジアのタイやベトナムで30-50%、フィリッピンでは25%くらい、あの暑いインドはエアコン普及率が7%しかないという。貧困層が多いため、エアコンが購入できないためかもしれないが、欧米のエアコン普及率を調べると、イタリアは普及率が50%と高いものの、スペインでは30%、フランスでは25%、ドイツでは何と普及率は3%、イギリスも同様に5%未満とされている。私たちが考える以上のヨーロッパのエアコン普及率は低い。さらに世界でも最も暑いところ、アフリカのエアコン普及率は、エジブトは比較的高く35%程度だが、全体では3%前後とされている。世界のエアコン普及率をみると、日本を始め東アジアとアメリカ、オーストラリアなどで普及率が高いが、世界全体でみると、想像するよりは低い印象を受ける。日本以上の暑い、インドやアフリカの普及率の低さをみると、ある意味、エアコンは最高のぜいたくなのかもしれない。

 

私の家でエアコンを入れたのは、昭和40年ころで、診療所にアメリカGEのクーラーを入れた。これはすごく強力で、つけ始めると、寒暖差で風がでるところが白くなるほどであった。喫茶店などの外ガラスに「クーラーあります」の紙が貼っていた時代で、店や病院などでようやくクーラーが普及し始めた頃で、自宅にクーラーが入ったのはさらに遅く昭和45年くらいであった。もちろん今のように各部屋にあるわけでなく、リビングに一台あるきりであった。そのため受験期になるとクーラーの効いている図書館や公民館で勉強した。

 

人類の歴史をみていくと、寒さに対する戦いが主であり、暑さに対するものはなかった。寒さに対しては、服をきて、毛皮を着て、火を起こし、抱き合って寝た。ところが暑さに対してはせいぜい水浴びをするくらいで、風通しのよい、日が当たらない場所にいれば何とか我慢できたし、水さえあれば死ぬこともなかった。暑さで死ぬのは、作物がとれず、水がない場合だけで、何万年の間、人類は暑さを我慢してきた。アメリカでようやく家庭でエアコンが使われるようになったのは1950年ころからで、いまでは一箇所に冷蔵、暖房装置を設置して、冷風、温風をダクトで各部屋の運ぶセントラル空調が主流となっているが、日本では壁にかけるウィンドー型が主力である。ただ中国はじめ世界的には日本式のダクトレス式に人気があり、世界シェアでいうとダイキンは一位、三菱電機が5位と検討している。エアコンは耐久性と省エネが重要であり、今後、世界の気候が熱くなると、性能のよい日本製エアコンは世界中でますます売れるだろう。s


2025年7月23日水曜日

インビザラインでは口元の突出感を解消するのは難しい





以前のブログで「不動産Gメン滝島」を取り上げたが、この中で、以前、大手ワンルームマンション販売会社に勤務していた人がゲスト出演し、その闇について話していた。その中で、騙されてワンルームマンションを買わされた被害者の多くが、その加害者、営業担当者のことをいい人だったという。この不思議な現象について、元ワンルームマンション営業マンは、現役時代まったく悪いことをしていない、むしろお客様の利益になっていると信じているからだ。毎日、朝から晩までひたすら電話勧誘し、月に15件くらいのアポを取り、2、3ヶ月に一人、投資向けのマンションを買わせると年間10001500万円の収入になるので、詐欺をしているという感覚は一切ないと思っており、自信を持って客に勧めていた。

 

この構図は、なんだか、矯正分野におけるインビザラインの勧誘に似ている。一般歯科の先生、特に若い先生はインビザラインによる治療を診療項目の中に入れている。ところが矯正歯科専門医から見ると成人の不正咬合患者のうち歯を抜かなくても良い症例は全症例の10-20%で、他の80-90%は小臼歯抜歯や外科矯正などを必要とする。インビザラインでも抜歯症例も治療できるが、これは一部の先生ができることで、一般歯科の先生で、成人の抜歯症例をインビザラインで治療できる人はほとんどいない。つまりインビザラインによる治療は80-90%失敗することを意味する。

 

内科でも外科でも、あるいは眼科、耳鼻科、あらゆる医療において、80-90%が失敗する治療法を患者に勧めるのは犯罪であり、さらに高額な治療費を要求するのは詐欺である。日本臨床矯正歯科医会では、患者さんからのクレームを受け付けているが、近年ますます相談件数が増え、なおかつインビザランによるクレームが多い。多くの場合は治療が終わらない、あるいは思った結果が得られないなどで、通常のワイヤー矯正であれば解決する問題である。

 

それではインビザラインをしている先生は、自分が犯罪、詐欺を働いていると思っているかというと、最初に述べたワンルームマンションの営業マンと同じなのである。治療をしている先生は、全くひどい治療をしているとは思っていないからである。例えは難しいが、体操初心者が鉄棒で大車輪を成功すれば、大したものだと言われるし、自分でもすごいと思うが、これが全日本体操大会に出場となると、話にならないレベルである。開業医の先生がインビザラインで成功したという症例を日本矯正歯科学会の専門医試験に提出してください。多分、専門医の審査官からボロクソに言われ、しまいには即刻矯正歯科医を辞めなさいと言われるであろう。

 

結局は、どこをゴールにするかが決定的に違うのである。体操の鉄棒で、大回転をできるのをゴールにするのと、オリンピックのJ難度をゴールにするのとは違う。患者からすれば矯正歯科専門医で治療するのも一般歯科医で治療するのも同じと思うかもしれない。4軒の歯科医院、3軒の矯正専門医は抜歯しないと治療できないと言われたが、1軒の一般歯科医では歯を抜かない、インビザラインで治療できると言われれば、そちらで治療をするだろう。ところが3軒の矯正歯科専門医と一般歯科医のゴールは全然違うのである。一般歯科医はとにかく並べることをゴールにしており、口元の突出感やかみ合わせは気にしていない。歯科治療は医療であり、審美は対象にしていないと言う。口元の突出感のために健康な歯を抜くのはとんでもないと思っている。矯正歯科医は、修練期間を通じて、綺麗な歯並び、美しい口元、緊密な咬合を言われ続けるので、常のこの3つを中心に治療を考える。一方、一般歯科の先生は、患者の主訴がでこぼこだとすると、これの改善、綺麗な歯並びにすれば主訴は治った理解する。主訴が治ったのになぜ文句を言うのかと言うことである。

 

古い論文でタイトルは忘れたが、いろんな横顔のシルエット、鼻と顎の位置はそのままで、口元を入れた場合から口元が出た場合の数種類の白人、黒人、アジア人のシルエットを、一般男女、一般歯科医、矯正歯科医に見せて、どの横顔が一番綺麗かと調査をした。結果は、一般人、矯正歯科医はほぼ同じ、口元が少し中に入った横顔を選んだが、一般歯科医は少し口元が出ている横顔を選んだ。特に黒人、アジア人の場合はかなり口元が入った横顔を選んだ。

 

美の基準は地域や時代によって違うが、どうも白人顔が好かれるようで、鼻が高く、顎が少し出て結果的に口元が中に入っている顔が好まれる。そのため黒人、アジア人で矯正治療を始める患者さんの多くは、口元を入れて白人の顔に近づけたと思う。中国、韓国、べトナム、台湾では抜歯して口元を入れる矯正治療を行う。欧米に比べてアジアではインビザラインの普及は遅い。特に日本人では、でこぼこと口元の突出が同時にある場合が多く、非抜歯、インビザラインの適用は少ない、歯科経営コンサルタントが言うほどインビザラインの患者はいない。ところが一般歯科医では、口元を入れるという考えがそもそもないので、ディスキングをしてでこぼこが取れれば、多少、口元が出ても成功と考える。患者が、口元が出ていると言っても、そんなことない、気にしない、気にしないと相手にされない。そのまま患者は納得しないまま、矯正歯科医院を相談に行くと、これは上下顎前突で、治すのは小臼歯の抜歯とワイヤー矯正による約2年間が必要だと言われる。さらにここで非抜歯、インビザラインでは治らないと言われて、初めて最初の治療は間違いだったとわかる。以前、You-Tubeで患者の矯正日記というものが放送されていた。インビザライン、非抜歯での治療で、口元は全く変化していない。コメントでセファロの分析値を見せてもらい、上顎切歯とFH平面の角度が何度か教えてもらいなさいとコメントした。110度よりかなり大きければ、抜歯と再治療が必要だ。これは歯科国家試験でも出る内容のもので、もし主治医がこれを知らなければ、大学生の授業を持っていれば私はその学生を落とす。その後、この矯正日記は更新されていないが、多分、主治医はこうした単純なセファロ分析もしていないし、わかっていないのであろう。少なくとも矯正の単位を与えてはいけない学生であり、出身大学の矯正科の教授は反省すべきであろう。



 

2025年7月17日木曜日

弘前高校ねぷた、弘前大学附属学校


 

弘前高校の70年以上続く伝統のねぷた、弘高ねぷたが723日から始まる。ねぷた運行当日は、道路の交通規制、路線バスも迂回運行となる。市民にもある程度の負担をかけた行事である。そのため学校サイドでも道路を封鎖してまでやる意義のある行事かという自問が繰り返されている。当然である。さらにいうと、こんなことは弘前高校以外の高校、たとえば弘前中央高校はどうだ、青森高校ではどうだ、あるいは全国でも交通規制を行ってまでやる高校行事はあるのかという疑問も生まれよう。ちなみにGoogleで“高校行事 道路規制”で調べると真っ先に弘高ねぷたが検索され、他はほとんど検索されず、わずかに福島県立原町高校の仮装行列が近所を回ったくらいであった。これほど大掛かり、路線バスの迂回運行までさせる学校行事は全国でも珍しいのではなかろうか。もし他の高校でもねぷたをやりたい、市内を運行したいという申し出があれば、警察、市、あるいはバス会社は同意するかという点である。もちろん公平性の観点からは、同意しなくてはいけない。さらに津軽警備保障のホームページによると、この会社が弘高ねぷたの運行に伴う雑踏警備を行っているようで、2023年では51名の警備員を動員したという。警備費を調べると、平日の夜で一日、19000-23000円が相場という。それほど長い運行時間でないので、これほどはかからないとしても一人1万円としても51万円はいるだろう。さらにねぷた製作費は学校側からの製作費の支給はあるが、これらの費用がどこから出ているか、調べられなかった。18台のねぷたが出陣し、一クラスに3万円ずつ補助するとして54万円、総額で100万円をこえる予算となろう。体育祭、文化祭など学校行事はいろいろあるし、部活費用は、大きな意味では教育費として扱われるし、ねぷたの製作、運行は郷土文化を知る教育としては大変意味深い。小学校、中学校、高校でこうした郷土の伝統行事、文化を知る、体験するのは非常に重要であり、意義深い。問題はなぜ弘前高校だけなのかという点である。全国でも高校の行事で、道路規制、バス運行まで変わるほどの行事がいまだにしているかということである。さらにいうなら、生徒の中、ここは優秀な生徒が揃っているが、それに疑問を感じる生徒はいないのかという点である。一つの公立高校の生徒行事に、公費を使って(全ての経費がOBの寄付あるいは生徒負担で運営されているならごめんなさい)、道路規制をして、バスの迂回運行をさせて、するほどの公共性があるのか、令和6年の学校評価では、“豊かな人間性と社会性の育成”で弘高ねぷたは評価“A”となっている。学校周辺ならいざ知らず、わざわざ弘前市の中心街まで来て、堂々と運行する、ある意味、このエリート意識は、他校の生徒からすれば、鼻持ちならない行動と気づかないのかと、これが豊かな人間性の育成なのか、と兵庫県出身のよそ者は感じてしまう。

 

弘前市は、弘前高校出身者が力をもつ町である。私が知る限り、一つに高校のOB がこれほど幅を利かせているところは少ない。仙台の仙台一高、二高、郡山の安積高校、熊本市の済済黌高等学校、大津市の膳所高校も昔はそうであったが、今はそうでもない。県内の他の高校、青森高校あるいは五所川原高校、八戸高校を見ても、弘前高校出身というほど、ある種のステイタスは少ないように思える。とにかく弘前に住んで、30年になるが、弘前市における弘前高校の扱いがどうも他とは違うのである。

 

一番大きな理由は、長い間、男子がいく公立普通学校が弘前高校しなかったことである。弘前南高校が1963年にできるまで、弘前市内の高校は、弘前実業高校、弘前工業高校、私立は東奥義塾高校(男子校)、聖愛高校(女子校)、弘前東高校(高等電波学校)、柴田女子高校しかなかった。昔は、実業高校、工業高校、あるいは私立高校から大学に進学する生徒は少なく、勢い大学進学者が弘前高校に集中する。そのため、弘前市の市長、公務員、先生、新聞社、マスコミ、会社などは弘前高校出身者が多くなる。これが弘前高校のステイタスがいまだに強い理由であろう。

 

ついでに言うと、個人的に一番、腹が立つのは、弘前大学附属学校の存在である。今や弘前高校の受験予備校化し、弘前高校附属中学校となり、弘前高校に入れさせるために附属幼稚園、小学校、中学校となっている。そもそも欧米では大学の附属学校というものはほとんど存在おらず、まして進学高校の予備校化しているのであればさらに必要性は少ない。私自身は、もし附属学校というものが必要とすれば、医学部と附属病院の関係であり、医者を育てる機関であるとともに開業医が治せない患者の治療を行う高次医療機関である。それなら弘前大学教育学部の附属学校であれば、一般学校で手を焼く、問題のある生徒を積極的に受け入れる機関であるべきである。教授だって、偉そうに不登校児童の論文を書くくらいなら、不登校児童の実際の教育をすべきである。弘前高校を受験しようとする生徒は手間のかからない子供が多く、確かに教育学部の実習生にはいいのかもしれないが、むしろもっと教育がしにくい生徒を見るべきである。今、教育学部で緊急に課題は不登校児の取り扱いである。各地にフリースクールができて一見すると受け皿は増えているが、不登校児の数は増加しており、これは将来的には国の納税者が減ることにつながる。昔、肺結核は恐ろしい病気であった。そして医学部病院を中心に取り組み、肺結核により死亡者はほぼなくなった。ならば、附属学校は不登校時の問題を解決する最前線であるべきで、頭のいい子を弘前高校に入れて喜んでいる場合ではない。これほど少子化が進んでくると、国立の附属幼稚園、小学校、中学校の廃止あるいはコミュニティースクールへの転換も考慮すべきであろう。