2025年3月6日木曜日

私の恩師

 




私には、二人の恩師がいる。一人は鹿児島大学歯学部名誉教授の伊藤学而先生である。鹿児島大学歯学部矯正歯科講座で8年間お世話になった。私自身、多くの教授と知己があるが、中でも伊藤先生は飛び切りの教授であった。そのため日本矯正歯科学会長にも選ばれ、日本学士院会員にも選ばれた。地方の大学から学会長や学士院会員に選ばれることは少ない。

 

伊藤先生は、よく言われたことで今でも実践しているのは

1.仕事は早く終わらせ、次に回す

何か頼まれたりした場合、つい面倒で先送りすることがある。結局はしないといけない仕事なので、どんどん溜まっていく。さらに仕事が溜まっていくと忘れてしまう。そのため仕事があるとできるだけ早く終えて、次の人に回すようにしている。例えば、メールでの問いわせがあると、簡単でもいいのですぐに返事をする。大抵の場合はこれで終わるが、もう少し時間のかかる仕事でも、できるだけ急いで一週間以内に返事して終了するようにしている。一流企業の会社員はこうしたことに慣れているが、一番ひどいのは学者で、彼らは2、3週間くらいしてから返事をするのが普通と思っている人が多い。かなり長文の資料や著書を送っても、全く返事すらない学者が多い。

2.70%でいい

どんなことでも100%が良いということは少ない。伊藤先生によれば、多少問題があっても70%がよければやれという。実際に、医院経営をしていても、ごく少数者だが、お金を払わないままとんずらする患者がいる。ただこうした患者を基準に規則を作ってしまうと、ほとんどの患者には面倒なシステムとなる。100%を目指すのではなく、70%を目指す方が、楽だし、無理がない。生き方もそうである。

 

もう一人の恩師は、高校生の時に家庭教師をしてもらった、元龍谷大学准教授の松谷徳八先生である。

1.本を読め、映画を見ろ、そして旅行をしろ

勉強も大切であるが、学生時代にすべきことは、本をたくさん読み、映画もたくさん見て、そして一人で旅行しろ、その中でいろんな人物に出会い、また人生を経験する。確かに人生は一回きりであるが、本や映画の中で他人の人生を追体験することができるし、一人で旅行することで、その土地、海外の人々と交流できることは、社会人になった時の大きな財産となる。私の高校生の時に沖永良部島への旅行、大学生になってからにインド、中国の旅行は大きな影響を受けた。

2.とにかく行動せよ

昔、夏休み終わる頃に、突如、松谷先生から今から一人で旅行しろと言われた。もうすぐ学校が始まるというと、なぜ学校が始まるから旅行にいけないのだ、学校を2、3日休んでも何か問題があるのかと言われる。結局は面倒くさい、一人で旅行するのが怖いというのが実感で嫌がっていただけである。最後はお袋も行けというので、一人で神戸から船に乗って沖永良部、奄美に4、5日行ってきた。学校は2日休んだ。何かをやるときは結構勇気がいるが、実際に行動に移すとそんなにたいしたことがないことが多く、むしろ自分の中で行動に移さない心理的葛藤の方が強い。いまだに“とにかく行動せよ”というのは難しいことであるが、以前に比べると経験が多くなると行動する敷居は低くなる。そして“忙しいから”と答えることはできるだけしないようにしている。世の中、忙しいと言っても大統領や首相ほど忙しいことはないだろうし、忙しいという人で、本当に忙しい人はいない。本当に忙しい人こそ、必要なことであれば、何とか時間を作るものである。

 



2025年3月5日水曜日

トランプ政権と大アジア主義

 


アメリカのトランプ大統領は、やり放題である。グリーンランド、パナマ運河のアメリカ領、ウクライナの休戦、資源の譲渡、メキシコ、カナダ、中国への関税などなどである。

 

それに対して世界では、報復関税などの対抗手段をとっているが、ほとんど効果がなく、改めてアメリカの巨大さ、強さを思い知った。ウクライナ大統領への恫喝など見ると、かって日本がアメリカから通告されたハルノートを思い出す。太平洋戦争に至るまで、日米間は決してうまくいってはいなかったが、お互い何とか譲歩しながらやってきた。1941年もハルノートが出される前までは何とか交渉しようという意思があったが、日本にはとても飲み込めな条件を出して、日本は開戦を決意した。

 

こうした力で押し込めようとするのがアメリカのやり方であり、明治維新後、日本は中国(日清戦争)、ロシア(日露戦争)、アメリカ(太平洋戦争)など、大国と戦争してきたが、アメリカは太平洋戦争後、どこと戦争したかというと、北朝鮮(朝鮮戦争)、ベトナム戦争(ベトナム)、イラク(湾岸戦争)、アフガニスタン、他にはリビア、シリア、ソマリアなどいずれも圧倒的に軍事力が劣る国と戦争してきた。弱いものいじめである。太平洋戦争前も見ても、インディアン戦争、テキサス戦争(メキシコ)、米西戦争(スペイン)、米比戦争(フィリピン)、バナナ戦争(キューバ、ハイチ)など、弱小国に軍事的な介入をしており、まともな戦争といえば、第一世界大戦と第二次世界大戦くらいである。これも途中参戦である。つまり基本的には絶対に勝つ戦争しかしないし、何かで紛糾すれば武力で解決するのがアメリカの基本的な考えである。こうした前提で、トランプ政権のアメリカを見ると、アメリカの原点に帰ったと言ってよく、もし台湾問題が起こっても、中国との戦争は決してしないし、さらに日本への侵攻、流石に米軍基地への攻撃があれば、自動的に反撃するものの、最終的は見捨てるのははっきりしている。

 

あくまでブログ上の空想である。ならばアメリカに対抗する方法と言えば、まず日本が再軍備化することであろう。これまでのアメリカが決して許さない、空母、原子力潜水艦、核兵器の開発、所有である。そして反米国国が結集して、アメリカと軍事的に対抗できる力を持つ。おそらくは中国が主導し、これに日本がくわわることで、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、南アメリカ、中近東などイスラエルとロシアを除く国の結集ができよう。それだけアメリカは嫌われている。同時にアメリカ軍の日本からの撤退を要求する。日本を守るなら、駐日米軍基地も必要であるが、日本の防衛もしないなら、日本にある米軍基地は必要ない。日米安保条約の破棄である。トランプ大統領自身も、過去に安保条約の破棄を漏らしている。究極の大アジア主義としては、「キリスト教国は仏外の外道国の悪国指定」とし、東洋の王道VS西洋の覇道に勝利するという石原莞爾の最終戦争論に行き着く。さすがにこれは極端であるが、それでも空母「かが」のように、なし崩し式に輸送船から空母建造に向かったプロセスで、三菱重工が開発中のマイクロ原発を使った原子力潜水艦は建造できそうである。また核兵器については、すでに固形ロケット、イプシロンを持っており、1.2トンの核兵器を地球上のどこにも投下でき、広島型、長崎型の原爆重量でも全く問題ない。開発が難しい核兵器の小型化も必要ない。また小型化が完成すれば、現在開発中のブロック2B、極超音速ミサイルに搭載でき、射程3000kmを超える迎撃が困難な中距離ミサイルとなる。もちろん中国、北京も射程圏内である。

 

安保条約破棄に向かったこうした動きは誰かの意思が働いているのか、着々と進められており、安倍政権以降、平和憲法というくびきが外れたようである。トランプ政権は、アメリカ中心主義、モンロー主義に戻ろうとしているのか、世界の警察という役割を拒否している。結果として各国は警察に頼れないのであれば、自ら武装化することになり、各地での戦乱、あるいはアメリカ国内でもテロが多発していくだろう。全く困った人である。あと4年の辛抱であるが、プーチンのように憲法を変えて居座る可能性もある。


2025年3月2日日曜日

空中消火飛行艇

 




アメリカ西部での大規模な森林火災がようやく落ち着いてきたと思うと、日本でも三陸地域で森林火災が頻発している。近年、世界各国で地球温暖化のよるものか大規模な森林火災が発生し、それがまた大量のCO2放出に繋がっている。

 

森林火災の消火方法については陸上からの消防車による消火では、水源確保が難しく、アメリカ西部、ロスの場合は、大量の消火用の飛行機が使われていた。多くは旅客機を改良したもので、ニュースを見る限りさまざまな機種が使われ、それも民間の会社のもののようだ。国あるいは州がそうした空中消火専門の会社と契約して消火作業をしているのだろう。日本の岩手県、大船度の森林火災では自衛隊のヘリコプーを使って消火を行っていたが、いつも思うのは、日本が誇る飛行艇US-2を使った消火はできないかということである。

 

US-2は、新明和が1967年に開発したUS-1の後継機で、世界でも最も優れた飛行艇として有名で、これまでも多くの救難運用を行ってきた。この飛行艇を用いて山林火災などの消火活動に用いようとする試みがあったが、効果は抜群との認定を受けながら、費用効果比が低いために見送られてきた。元々、一機100億円くらいであったが、最近では物価高騰により一機220億円、維持費が年間20億円という。さらに機材提供の三菱重工、川崎重工が供給を撤退したため、生産も不可能となっている。

 

今回の大船度の森林火災では、陸上自衛隊の大型ヘリ、CH47が使われたが、この機体の価格が176億円で、機体価格としてはUS-2よりはやや安いが、バケットによる水量は5トン、それに対してUS-2は一度に15トン以上の水を放出でき、さらに基地に戻らず、近くの海、湖で給水ができるという利点を持つ。もちろんCH47の主任務は輸送であり、消火活動はバケットを使った利用法の一つで、US-2より汎用性の高いことはいうまでもない。

 

それでも森林火災以外に、近年でも能登地震の際の火災など、天然災害に伴う大規模な火災が発生し、陸路により消火活動ができない事象も増えてきており、こうした消火専門の飛行艇の活躍の場は多いのではないだろうか。さらにカナダ、アメリカ、オーストラリアなど世界を見渡せば、大規模な森林火災が頻繁に起こるところがあり、消火用飛行艇の需要があり、生産数が増えれば、価格も安くなる。と同時に、戦前から続く、日本の飛行艇の技術を継承できる。

 

US-2の航続距離は4700kmで周辺を海で囲まれた日本では、どのような場所でも給水は可能で、さらに言えば琵琶湖などの大きな湖も給水箇所として使用できる。もちろん消火方法などはまだまだ改良の余地はあろうが、地震などのよる火災などで早急に消火ができるなら、それによる人命救助も増えるだろう。さらにフィリッピンなどで給油すれば、ほぼ東南アジア全体をカバーでき、そこで起こった災害、山火事などの消火活動に活用できる。


 


2025年2月26日水曜日

博物館、美術館への寄贈

 


徳島県立美術館の修造作品数が1万点を超えるというニュースがあった。開館当初は購入による作品収集も多かったが、最近は作品を購入する予算も少なく、年間の収集点数も1-3点にとどまっている。それに反して、美術館による積極的な調査研究、収集活動が次第に効果を及ぼし、最近では市民による寄贈も多くなってきて、2023年度では359点の寄贈を受けたようだ。それにより郷土作家のまとまったコレクションとなり、収蔵作品展を頻繁に開催している。

 

一方、青森県立美術館について調べると、所蔵作品は令和元年で4767点であるが、ここも作品購入の予算が少ない上、市民からの寄贈についてはあまり積極的ではない。郷土作家といっても奈良美智さんの作品を寄贈する人はいないだろうが、他のあまり知られていない郷土作家の作品はたくさんあるはずである。先日も、棟方志功の師匠と呼んでも良い下澤木鉢郎の作品3点の寄贈を青森県立美術館に写真付きでメールした。一応、見てみて、委員会に諮ってから受け入れを決めるという。ただ委員会の開催は一年以上後とのことであった。

 

これは弘前市立博物館や弘前レンガ倉庫美術館でもそうで、原則的には市民からの寄贈や寄託は受け付けていない。まず対応する職員が少なく、また保管するスペースもないからである。ただよく考えていただきたいのは、博物館、美術館は、所蔵作品を市民に見せる場でもあるが、同時に市民の宝を保存する場所でもある。放っておくと、家のある古いものはどんどん捨てられてしまう。たとえば、世界中で話題になっているボロ、ツギハギだらけの衣料も田中忠三郎さんの努力によりコレクションされているが、これなど汚いものとして捨てられる運命であるし、今でもどこも寄贈できないのであれば、捨てられていっている。個人的にあれほど弘前で盛んであった弘前木綿がほとんど残っていない。

 

もちろん市民が寄贈を希望するものの多くはガラクタに類するものかもしれないが、それでも後世に残すべき作品もあるはずで、少なくとも専門家が仕訳をしなくてはいけない。最初に述べた徳島県立美術館の場合、1。寄贈を受けるため所有者や関係者のもとに足繁く通う、2所有者の代替わりに際して寄贈の相談を受けるなどの、継続的な活動を行い、さらに寄贈品はそのまま無条件で収蔵するのではなく、館内で熟議し、専門家と協議した上にコレクションにするという。

 

特に青森県では、耐震強度の問題で、青森県立郷土館が休館のままになっている。ここは青森県でも比較的寄贈を受け入れるところだっただけに、このまま休館が続くのは寂しいし、その間も貴重な歴史的資料が失われている。元々アメリカで言うと、美術館や博物館は市民の寄付や寄贈で作られてきたため、財政的にも国、州、市に依存しておらず、地元会社や個人の寄付で成り立っている。市民ボランティアも多く活用している。それに対して、日本の多くの博物館や美術館は公的予算で成り立つところが多い。もちろん私設美術館はそうではないが。

 

弘前博物館でも、実は後援会があるがほとんど知られていない。安い会費で、企画展など無料で観覧できるので、お得なものであるが、ほとんど広告していないせいか、会員数は減っている。これなどもっと市民にアピールすべきである。また市民からの寄贈については、まず美術館のスタッフの増員、あるいは収容スペースの確保とともに、もっとボランティアを活用すべきである。リタイヤした老人の中にも美術品が好きな人もいるだろう。図書館ではそうしたボランティアの人も見かけるが、あまり博物館や美術館では見かけない。

 

図書館、美術館、博物館というのは住む人の文化的な顔である。文化的な都市を目指す弘前市であるならば、もう少し予算、作品収集ではなく、スタッフ予算を増額、あるいは積極的なボランティアの募集、後援会の拡大など、やりようはあると思う。人口17万人の街に、博物館と美術館があるのは贅沢なことであるが、なんとか市民も含めて支えていきたい。


2025年2月22日土曜日

宮本輝 「潮音」 第一巻



楽しみにしていた宮本輝さんの新著が出たので、早速買って読み終えた。弘前市は、紀伊国屋書店、ジュンク堂書店がなくなり、近所にも本屋がなくなったので、宮本さんの新刊が出たのを知ったのは新聞の広告であった。最近は宮本さんの本が出るやいなや、すぐの書評をブログに上げるということをしてきたが、今回は発刊してからかなり時間がたった。

 

まず新刊「潮音」でびっくりしたのは、時代小説とは。これまで宮本輝さんはほぼ現代小説ばかりだったので、時代小説はどうかなあというのがまず最初の感想であった。ところが10ページも読まないうちにこれはまったくの杞憂であり、さすがに才能ある小説家はいとも易々と新しい分野、時代小説をものにした。ここらはさすがにベテラン小説家のなせる技である。

 

100ページくらい読むうちになぜか、既視感がある。小説の時代設定、感触が何かの小説に似ている。しばらく考えると、あの島崎藤村の名著「夜明け前」に似ている。といってもこの小説自体、10年ほど前に読もうと思って本は買ったが、一部の前編しか読んでいない。それでも幕末の、新しい時代と古い時代の狭間、こうした不安な空気がそこにある。ただ「夜明け前」は藤村にとってはけっして時代小説ではなく、父親の生涯を描いたものであり、宮本さんの作品でいうなら「流転の海」に近いものとなる。幕末、明治といえば、若い人からすればかなり昔のことのように思えるかもしれないが、1947年生まれの宮本輝さんからすれば、父親、熊市が1897年生まれ(明治30年)であり、その父、宮本さんの祖父の時代が幕末、明治となる。それゆえ、「流転の海」で父親の時代を描いたなら、「潮音」は祖父あるいは曽祖父の時代を描いたものであり、けっして時代小説ではないのかもしれない。

 

それでも富山の薬売り、あまりこうした職業をベースにした小説はなく、細かい設定を調べるには相当な年数を要したのだろう。純粋な現代小説であれば、登場人物の職業や趣味の設定を調べる必要があるが、それでも資料調べの時間はそれほど必要ない。一方、「流転の海」でもそうであるが、過去の日常の様子をいきいきと描写するためには膨大な資料とそれの読み込みをしなくてはいけない。かなり大変であっただろうし、時間も要したであろう。

 

この小説「潮音」は間をおかず、四巻を一気に出版していくようであるが、宮本さんのパワーには驚かされる。あの司馬遼太郎さんも1987年、司馬さん64歳の時の「韃靼疾風録」を最後に長編小説は書かず、それ以降は短編小説あるいはエッセイが多いが、宮本さんもすでに77歳、それでも毎年のように長編小説、それも本作のように4巻の大長編をいまだに書き続けることに驚嘆する。普通ならライフワークの「流転の海」が完結したなら、そろそろさぼりたくなるのが、それ以降の作品、「灯台からの響き」、「よき時を思う」そして本作「潮音」と立て続けの出版しており、その創作意欲には敬意を払う。

 

本作でも、主人公の回想という形で話が進んでいくが、この方法は、映画の間奏のような効果があり、息継ぎができる。まだ三巻あるようなので、楽しみが増えた。映画化、ドラマ化の予感がする。大好きなBS時代劇“商い世傳 金と銀”のような作品になってほしい(この続編はいつになったら見られるのでしょうか)。


 

2025年2月19日水曜日

祖母のこと

 

祖父の葬式


晩年の祖母と私

父方の祖母は、私が2歳頃に亡くなった。確か亡くなったのは70歳くらいで、テレビが好きで毎晩、遅くまで見ていた。朝方、母親が見に行くとテレビがついたままで、横に寝ている祖母を起こそうとしたが、亡くなっていたという。

祖父の本籍地は徳島県板野郡吉野町というところなのはわかっているが、祖母の実家がどこなのかはわからない。多分、近郊の在であったのだろう。広瀬の家は、1500 年代に名古屋から四国に流れ着いて、そこでずっと百姓をしていた。家には家系図があり、かなりいい加減な代物であるが、それでも徳島の檀家寺から記録を集めたのか、室町末くらいからの記録はほぼ正しい。というのは全く無名の広瀬姓の名が続いているからであり、それもずっと百姓であった。

 

祖父と祖母は結婚して、しばらくすると大阪に出てきていろんな商売をしたようだ。最終的には、大阪の堀江、新町遊郭で栄楼という遊郭を開業したものの、昭和5年、祖父が40歳の若さで亡くなり、そこからは祖母一人で一家を支えた。家族は、長女、次女、長男(父親)、次男の5人家族だったが、こうした商売は儲かったのか、叔父、叔母ともにあまり金には困らなかった。実家のある徳島には豪華な家を建て、父親はそこから旧制中学校、そして上京して東京歯科医専(現:東京歯科大学)に入った。昔のことだが、歯科医にするのは結構金がかかった。

 

両親は、私たちの子供には、父母のこうした商売のことは触れずに、大阪で広い土地を持っていたが、戦後のどさくさで土地をなくしたと言っていた。実際は、長女夫妻が戦後、電気風呂という事業をするが、うまくいかず、抵当の土地を取られたようだ。そのため、私が1歳、昭和32年ころに、祖母は無一文で尼崎の家にきた。当時、私の家には父親、母親、姉、兄、と私の5人家族だけでなく、母親の妹2人が大阪の洋裁学校に行くためにいて、さらに祖母がそこに加わった。計8人がいたことになるが、わずか13坪くらいの家で、それも一階の大部分は診療室だったので、2階の8畳2間と一階の台所4畳半にこれだけの人数が寝泊まりした。

 

姉、兄は小さかったからか、急に現れた祖母に「クソババア」などきつい言葉を言っていたので、父親の兄弟からはあまり好かれていなかったが、私は赤ちゃんでいつも抱っこされていたので、今でも親類では一番好かれている。晩年は、ようやく家に入ってきたテレビが好きで、一日中見ていたようだが、今、考えるとまだ70歳くらいで、当時の写真を見てもかなり老けている。夫を早く亡くしたにも関わらず、なかなか女手では難しい仕事をして、子供を育て上げた。人と交渉するときは、必ずタバコを吸って心を落ち着かせながら話したという。

 

個人的には、祖母は今の家内と結婚するきっかけになった。ある日、夢の中で祖母が現れ、この人と結婚すると良いと勧めてくれた。あまりにリアルな夢だったので、これはお告げと信じ、結婚を決意した。早速、両親に夢の話をすると、特に父親は喜んでくれ、全く反対もなく、結婚に至った。自分にとって祖母は全く記憶になく、残っている写真だけの存在であるが、今でも何かあれば、祖母に助けを求める存在である。不思議なことである。思うに晩年、全てを失った祖母にとって、幼子の私を抱っこしてあやすのが、何よりも楽しいことだったのかもしれない。同居していた母親の妹によれば、本当によく可愛がったという。そうした思いは、亡くなって60年たつが、両者とも色濃く残っている。



2025年2月15日土曜日

建物紹介番組を考える


 

          アアルトの自宅 すごしやすそうな部屋である。



          リサ・ラーソンの自宅リビング 壁には絵を


「渡辺篤史の建もの探訪」や「となりのスゴイ家」などの建物を紹介する番組は好きで、よく見る。多くは建築家の自宅で、宣伝も兼ねて番組出演しているようだが、どうも気になる点がある。つまりあんまり生活感がないのである。夫婦二人の子ども二人いれば、相当生活感があるはずであるが、番組で紹介されている住宅には物がほとんどない。確かに番組の取材にくるのだから綺麗に片付けたといわれれば、その通りであるが、それでも何だかモデルルームのような家が多い。

 

これは建物を扱った番組だけではなく、雑誌「モダンリブング」やインテリア雑誌をみても、本当に何にもない家が多い。シンプル、何もない家に憧れがあるのか。真っ白な壁、黒のソファー、床も大理石、大型のテレビ、こんな感じか。なかなか緊張する部屋だし、寝っ転がってポテトチップスも食べられない。ましてや子どもがいる場合、彼らは遊びまわるし、汚し回る、これから白い壁、床をどう守るか、お母さんとのけんかが絶えないだろう。こうしたすべて、新品に囲まれたシンプルな家、日本人が好きな家である。

 

一方、欧米の雑誌をみると、リビングの雰囲気は全く違う。いかに生活しやすい、くつろぎやすいを主体として、温かい、少し雑然とした家が多い。多くのものがあり、それらを見ると住む人の趣味や好みがわかる。

 

日本の家、といっても雑誌などで紹介する理想の家は、基本的には何もない家であるのに対して、欧米のこれも理想の家は、住む人がくつろげる空間となっている。すなわち日本の家は外から見られるモデルルームのような新品の家が好まれるが、欧米では、外からどうみられるよりは住む人が快適な家をめざしている。具体的にいえば、欧米の家では床に絨毯などを敷くことが多い。何種類も、大きさや柄の異なった絨毯がいたるところに置いている。和室であれば畳自体が快適であるが、洋間のフローリングは寒いし、温かみ欠けるため、絨毯などラグで覆う。さらに日本では白い壁であれば、そのままであるが、欧米ではここに絵や写真を飾ることが多い。また壁に大きな棚を作り、そこに趣味の人形や陶器を飾っている。そして新品というよりは使い込まれたインテリアで部屋をまとめている。

 

こうしてみると日本の家は何もない新品の家に対して欧米の家は、モノ囲まれた中古の家と言ってもいいのかもしれない。実際、日本では新築の需要が70%以上なのに対して、欧米は逆に中古住宅の需要が80%を超えていて、そうしたことも部屋の内装に違いが出ているのかもしれない。エコの観点からも、そろそろ日本人も新品嗜好から足を洗い、好きなものに囲まれた気の休まる家に回帰する時代になってきたのではなかろうか。そうした意味でも、新しい家ばかり取り上げる建物番組から古くてもいいが、おしゃれなくつろぎやすい建物も取り上げてほしいものである。新しく家、建築予算いくらというものではなく、古い家をリフォームし、絨毯をしいて、家具を入れ、絵を飾るとこうなったといった番組もありかと思う。

2025年2月12日水曜日

美術館への寄贈

 





最近は断捨離の一環として、集めてきた本や絵画などを図書館や博物館に寄贈しようと考える人は多い。

まず本について言えば、図書館に持って行っても、まず100%は受け取ってもらえない。例え有名作家の初版本やサイン入りのものでも、ていよく断れるのがオチである。まず図書館の使命としては、市民に本を貸すことであり、別に本をコレクションしているわけでないので、こうした希少本は必要ない。ただ弘前市立図書館のように付属の文学館がある場合は、郷土作家の初版本や手紙など資料的な価値のあるものは引きとってくれる。一度、笹森儀助の「南島探検」の初版本(明治26年)を成田書店で2000円だったので、購入し、図書館に寄贈しようと持って行ったところ、図書館にすでに1冊あるので受け入れないと言われた。古書価格では10万円近く高価な本だが、復刻版もあり、国会図書館のデジタルアーカイブでも読めることから、必要ないとしたのだろう。もちろん生原稿や手紙であれば、図書館も受け入れるだろうが、古書に関しては基本的に受け付けていないし、購入もしていない。

両親の死後に残された古い掛け軸や陶器あるいは書物を価値があると思い、美術館や博物館に寄贈しようとする人は意外に多い。最初は担当者がきちんと対応していたものの、実態はほとんどガラクタなので、最近は基本的に寄贈を断っているところが多い。こうした依頼を受けるだけの人員もいないし、時間もないためである。

そうなると「おたからや」などの買取ショップに持ち込みであるが、こうした店では金やロレックスの腕時計のように価値がはっきりしたものは高額買取するが、訳のわからない絵や骨董などは二束三文の買取となる。昔からある骨董屋は客の高齢化による次第になくなってきており、絵や陶器などの骨董品を結局はどこも引き取ってくれずに、最終的にはゴミとして処分される。テレビの「開運 お宝鑑定団」では、古い骨董品に高い値段がつくことがあるが、あれはあくまで骨董屋の売値であって、買い値は、その1/10あるいは1/100である。お宝鑑定団で100万円と言われた掛け軸を骨董屋に持って行ってもせいぜい10万円くらいが買取価格で、絶対に100万円では買ってくれない。骨董屋にしても今どきこうした絵に興味を持つ人はかなり限られていて、そう簡単に売れないからである。仮に売れると分かっていても、利益を上げようと買取価格はできるだけ低くする。 

今回、アメリカのシンシナティー美術館に土屋嶺雪に作品20点と他の明治から昭和の中堅日本画家の作品15点を寄贈する予定であるが、一応、嶺雪の活躍した兵庫県加古川市の美術館にも問い合わせたが、寄贈は受けないということだった。もちろん応挙や若冲の絵であれば、喜んで受け入れるが、あまり有名でない日本画家の作品を受け入れるような美術館や博物館は日本にはほとんどない。調べるとシンシナティー美術館の収蔵品数は6万点、日本美術だけでも5千点以上されている。大阪中之島美術館で6千点、東京国立博物館近代美術館で13000点、それに比べて大英博物館は800万点以上、メトロポリタン美術館は300万点以上と日本の博物館や美術館の収蔵品に比べて1桁どころか2桁の違いがある。これは欧米の美術館は市民や会社からの寄贈を積極的に受け付けているのに対して、日本の美術館や博物館では消極的なためである。そもそも、日本のように原則的に寄贈を断っている限り、収蔵品は増えない。さらにいうと欧米の美術館や博物館では、寄贈を受け入れるためのスタッフや運営費もきちんとあるのだろう。私の場合で言うと、まず寄贈する作品のカタログを作り、これを美術館の館長の承認を受けたのちに、委員会で討議され、寄贈が決まると輸送費などの予算がつく。こうしたことがかなりルーチンに行われているようだが、日本の場合は寄贈、討議、予算といった流れがあまりないし、収蔵するスペースもないとよく言われる。

最近の話題として、中里の宮越家の襖絵が大英博物館にある「秋冬花鳥図」の対であることが判明し、大変な価値があることがわかった。ただもしこうしたこともなく、そのまま骨董屋に売られても、せいぜい10万円くらいの買取値しかつかないであろう。今どき襖絵ほど売れない骨董品はなく、普通の家では襖絵を飾る場所がそもそもない。東京のお金持ちは投資として現代絵画を買うことがあっても、こうした江戸時代の襖絵を買うことはなく、買うとしたら美術館だけである。作者は他の襖絵も含めて狩野永徳の弟、宗秀の門人、狩野重信とされているが、国宝、重文指定の作品もなく、日本人の個人コレクターでこうしたものを買う人は少なく、中国を中心に海外の流出することも多い。




2025年2月7日金曜日

高額医療制度の改悪




石破首相のあの顔は好きになれないが、とうとう世界に誇る日本の医療制度の支柱である高額医療制度の見直しに言及した。現役世代の保険料負担を少なくするために負担額を引き上げるという試算らしい。年収所得層の多い370万円から770万円では現行の月額8万円から13万9千円に上がるという。たとえば、年収500万円の人では、手取りは30万円くらいになるが、このうちの139千円を取られては、ほぼ生活できないレベルとなる。

 

日本の医療制度が世界一と断言できる。世界各国から日本に住む外国人が口を揃えて褒めるのが日本の安全とこの医療制度である。日本に英語を教えにくるALTという語学教師の中には、アメリカでの手術は莫大な費用がかかるために、日本で就職する人もいるくらいである。たとえば、歯科矯正の分野でも、顎変形症の治療がある、これをアメリカでするとなると矯正治療は日本と同じくらい100万円程度であるが、手術費が1500万円くらいかかり、入院も2日くらいとなる。翻って日本では、まず矯正治療費も健康保険が効くので、実際の窓口の支払いは総額で20-30万円、毎月の支払いは3000-10000円くらいとなる。さらに保険の手術費の点数が低く、一週間の入院費も含めて30-50万円くらい、そして高額医療制度による実際の支払いは80000円程度となる。民間の健康保険に入っていると、さらに入院1日あたり8000円の7日で、実際の支払いは2.5万円程度となる。これががん治療などもっと入院期間が長くな

り、治療費もかかるようになるとこの高額医療制度の恩恵は極めて大きい。

 

昔、外資系の健康保険会社が日本に進出しようとした際の一番大きな障壁が、この高額医療制度であった。こんな素晴らしい、いくら医療費がかかっても支払いがこれほど少ない医療制度があれば、誰も民間の生命保険に入らないと。その後、実際にアフラックなどの外資系生命保険会社が参入したが、日本の医療制度に対応した内容となっている。すなわち高額医療制度の前提の上、入院時に必要な自己負担金を援助すべき、安い保険料で、売るという方法である。自国では、保険料に多少による受けられる医療サービスは違っており、安い掛け金であれば、高度の医療は受けられない仕組みとなっている。これはアメリカだけではなく、隣国の社会主義国の中国でもそうである。逆に日本のような高額医療制度は世界でもない素晴らしい制度である。

 

もし自民党政権が、この世界に誇れる医療制度を改悪するなら、私は48年間応援してきた自民党政権を見限るつもりである。この制度は日本の宝物の制度であり、すべての国民が近所の病院を、安い費用で、最高の医療を受けられる権利は日本における根幹の制度である。確かに医療費の増大に伴う財政悪化はわかるが、それでもそれを理由にこの高額医療の負担金を一気に上昇させるのは、アメリカの保険会社を喜ばせるだけである。最初に述べたような、手取り30万円の人が病気になり入院すると、月に139千円払いとなると、残りは約16万円、家族4人いて、家のローンなどがあればとても生活できない。それを危惧すると、高い生命保険に入らないといけなくなり、それがまた家計を圧迫することになる。さらに石破首相は若い人の負担を減らすというが、病気は全世代に起こるし、80歳以上になると逆にそれほど高額になる手術や治療法は行われない。むしろ高額医療制度の恩恵を受けるのは若い世代、まあ60歳以下で、ガンにかかり、何とかして命を助けたいというようなケースであろう。たとえば、40歳で乳がんになり、子供がまだ小さい場合は、高い薬や治療でも最高の治療を受けたいと望むのは当たり前のことである。それが自己負担金が高くなると、そうした高度の医療を受けられない場合も出てくる。これまで保険適用でない高額な治療を受ける場合の問題点が議論されてきたが、今回の石破首相の案は保険適用の治療を受けられないことであり、全く次元の違う話となる。

 

日本の医療制度については、ほとんど国民はあたかも水道水のようにその恩恵をそれほど感じていないかもしれないが、これこそが日本が世界に誇る制度である。これに真っ先に手をつけようとする石破首相は相当なバカであり、もし財務省の口車に乗り、この試案を実行するなら、自民党は野党に転落するかもしれない。それもほとんど議論せずに、試案を通そうとしているが、国の根幹に関わる問題なので十分に議論してほしい。一方、いくら高額医療制度があるからと言って、認知症薬「レカネマブ」のように年間の薬価費用が300万円を超えるようなものについては、保険適用にするには対費用効果からの検討も必要であろうし、また開発費の回収のためにありえないほど高い薬価を要求する製薬会社についても、国民やマスコミからのもう少しきつい突き上げがあっても良さそうである。異梁性白質ジストロフィ向けの薬「Lenmeldy」の価格は63750万円というが、生涯賃金の3倍という薬価はどうだろうか。

2025年2月5日水曜日

掛け軸の寄贈 美術館への

 

シンシナティ美術館のメンバー向け雑誌、寄贈した”芳園”名の”弁慶と義経”



前回は買取業社の査定について書いたが、同じように古着も家具も、リサイクル店に持ち込んでも、二束三文か、買取できませんということになるのだろう。逆に捨てるのも金のかかるようなので、それならいくら安くても買い取ってもらった方が良いということか。

 

私の好きな掛け軸など、今の家には和室、床間がないため、さっぱり人気がなく、それこそ1本、1000円以下で買い取られるのだろう。それを売ると言っても、買うのは、年配の方が多く、その人が亡くなれば、またただ同然で買い取られることになる。それがリサイククルということなのだろう。ただ近年、そこに進出してきたのが、メルカリである。この世界では売り手が、骨董屋、古着屋などを通さずに、そのまま買い手を探し、売ることができるのは画期的であり、かなり高価で販売できる。例えば北欧に家具、わかりやすく言えば、ハンス・ウエグナアーのYチェアは人気の家具で、新品を買うと10万円くらいはする。これを近くの2ndストリートに持ち込み、査定してもらってもせいぜい12万円であるが、メルカリでは送料込みで8万円前後で買われている。昔、大鰐のホテルの食堂で、このYチェアが20台以上使われていた。このホテルが倒産したが、おそらく業者は一台一千円くらいで買い取ったのだろう。安く買えれば買えるほど儲けが多い商売である。ただあんまり買取価格が安すぎると、特に掛け軸につては人気がないので、1本、500円と言われれば、だったら捨ててしまえと思う人もいるが、その中には、かなり重要な作品もあろう。絵の価値については、わかる人がフィルターをかけてみてくれればいいが、結局はわからないので、全て一緒くたになって捨てられてしまう。これはしょうがないことかもしれない。

 

私の掛け軸のコレクションは、全く無名の明治から昭和の画家の作品がほとんどで、それゆえ、オークションでの買値も1万円以下の安いものである。作品自体はしっかりしたいいものであるが、それでも人気はなく、おそらく骨董屋に持って行っても買い取られないか、1000円以下の買取価格となろう。それなら死ぬまで持ち続けるかというと、それは残された家族に迷惑をかける。できれば美術館や博物館で引き取ってくれれば良いが、これも各地の美術館は収容物でいっぱいで原則寄贈はお断りというところも多い。20作品ある土屋嶺雪の絵については、加古川市の松風ギャラリーで以前、「播磨ゆかりの日本画家3人展:福田眉仙、森月城、土屋嶺雪」の企画展示をこともあり、興味を持ってくれるかもしれない。また3点保有する田中蘭谷については出身地の山梨県立美術館で作品を保有していることから、ここへの寄贈も可能かもしれない。また香川芳園については、出身地の京都の京都京セラ美術館に納めたいのだが、以前、これまでの研究結果を京セラ美術館のキュレーターに送ったが、そのまま返事もなく、あまり興味がなさそうである。そのため、知人のいるアメリカ、オハイオ州のシンシナティー美術館に寄贈を考えている。これまで作品としては3点ほど寄贈し、館内でも展示してくれている。海外の美術館では作家名より、作品そのものが美術館の展示の面白いかを見るので、たとえ5千円で買ったものでも展示してくれる。現在、土屋嶺雪の作品20点、田中蘭谷3点、山元春汀3点、香川芳園2点、望月玉泉1点、三浦文治1点、近藤翠石1点、前川文嶺1点、立脇泰山1点のカタログを作り、それをシンシナティー美術館の友人に送った。その中から選んでもらって寄付することにした。何点選んでくれるかわからないが、作者のとっても自分の作品が海外の美術館で展示されるのは名誉なことである。


シンシナティー美術館は全米でも最も古い美術館の一つで、創立は1881年。全米美術館、博物館ランキングでは31位で、シンシナティーの市民が作った美術館として市民から愛されている。収蔵品は67000点、日本美術コレクションだけでも3000点ある。運営は財産と企業、個人寄付 で成り立っている、メトロポリタン美術館の収蔵品数は300万点に比べて東京国立博物館で12万点と、日本に比べてアメリカの方が寄贈を受け入れやすい環境にあるのだろう。

 





2025年2月2日日曜日

買取業社の査定


 

           大橋歩さんの原画 ピンクハウス 査定0円

   

1940年代のイラン、セネのキリム 査定 5千円


最近は断捨離のために、コレクションの一部を処分しようと思っている。そのため、検索でヒットした無料買取に写真を送って評価してもらっているが、これが厳しい。

 

大橋歩さんの原画を数年前にヤフーオークションで購入した。無料で鑑定ということで写真を添えて送ると、すぐに算定結果が送られてきた。「掲載されている本も一緒なら2千円、本がなければ引き取れません」ということだった。掲載している本、「すべてが好き 大橋歩のファッション・イラストレーション集」(文化出版、1990)の古書購入価格が2000円なので、算定額はゼロ円ということでお断りした。この本の後書きで、大橋さん自身が“用ずみ原画再登場”のタイトルで、原画は基本的に売らず、出版社とのやり取りの中でなくなるものがあることを嘆いている。この絵は、この本に載っていたことから1990年以降に流出したものだと思うが、あまり大橋歩さんの原画が世間に出回らないであろうと購入した。若者にも人気のあるイラストレターで、メルカリで小さな版画が12500円、54300円で、またドーロイングコラージュが40000円、で売れている。好きな人であれば、4、5万円では売れるかと思い、見積もりをしてもらい、その10%、5千円くらいで引き取ってくれるかと思っていただけに、評価額〇円はショックだった。同様に趣味で集めていた1940-1950年代のイランの2つのキリムも無料鑑定に出してみた。どちらも5千円という査定であった。いずれも購入費は20万円くらいしたので、多分、日本の絨毯業社がイランの店舗に行って、これが2、3万円なら仕入れるだろう。

 

古書店、骨董店の感覚で言えば、できるだけ購入価格を抑えて高く売りたい。なかなか売れないものだけに、売値の10%以下で買いたいのはよくわかるが、流石にゼロ円ということは売れないと判断されたことになる。友人に言うと、メルカリに出品すれば、もっと高く売れると言われたが、面倒なので好きな人にプレゼントした方がマシなくらいである。

 

二年前に、1976年に購入したロレックスのオイスターパーオペチュアルを5社同時に鑑定というサイトがあり、写真を送った。これもすぐに返事が来て、最初のサイトが20万円、最高は40万円で算定され、驚いたことがあった。1976年に購入したときに価格が10万円だったので2、4倍に上昇したことになる。おそらく引き取りして店頭に出すとすぐに売れるので、引き取り価格が高いのだろう。また店により20万円から40万円という価格差もびっくりした。おそらくは、実際に一番高い店に時計を送り、実際に見てもらった上で、算定してもらうと、いろんなクレームがあり、かなり値段が下がるのだろう。

 

知り合いの中古家具屋さんに行っていろんな話をするが、このオーナーは直接にヨーロッパに仕入れに行って、購入して、コンテナの一部を借りて日本に輸送する。例えば、北欧の陶器を日本で5万円で売りたいと思っても、そんなに売れる商品でなく、数年売れないこともある。そうすると仕入れ値は5千円、多くても1万円以下でなくてはいけないが、デンマークに行っても、蚤の市、あるいは問屋のようなところに行っても、そこの店はデンマークの人から引越しなどで不要な商品を買って、それに利益を載せて売る。ここでもそれほど売れる商品でないので、仕入れ値の5から10倍の価格で売ることになる。つまり元の仕入れ値が500円のものをデンマークの問屋は5000円で、日本人のバイヤーに売り、それを日本で5万円で売るということになる。つまり仕入れ値の100倍で売ることになるが、実際にこうした商品はかなり少ない。その点、古書店は直接、本の持ち込む人から一冊50100円で買って5001000円で売れるので、仕入れは容易である。逆に難しいのは、古着屋で、これもアメリカなどでじっくり買い付けを行えば、仕入れ値の利益を載せても安く売ることができ、安ければ客が買ってくれるということになるが、間に問屋を入れるようになると、これも小売値が高くなり、売れなくなる。

 

趣味で購入したものは、一生、持ち続けるか、誰かにあげた方がよほど良い。



2025年1月29日水曜日

プラモデル趣味


子供の頃、昭和40年代はプラモデルの全盛期で、多くの子供がプラモデルに熱中した。父親が歯科医であったことからか、手先が器用になるということでプラモデルだけは自由に買えた。といっても高いものはダメで、せいぜい200円以内のものだった。よく作ったのは、タミヤの1/100、ミニジェットシリーズで、確か当時100円くらいであった。当時のカタログを見ると、作ったのはMig19, 21、ライトニングMk6、ミラージュIIIC、サーブJ35Fドラケン、F104スターファイター、などなどで、他にはレベルの1/72の飛行機や、1/481/32の主として日本陸軍、海軍の戦闘機を作った。

 

最初は接着剤でベタベタになりながら、色も塗らずに作っていたが、次第にラッカー塗装で色を塗るようになり、そのうち、世界の傑作機シリーズも購入するようになった。小学4年生頃から中学3年生頃まで作っていたが、中学の受験勉強、運動部に練習、それにテレビもたくさん見ながら、よくプラモデルを作る時間があったものである。

 

高校生になると、かろうじて航空ファンという雑誌は時々買っていたが、ほとんどプラモデルを作ることはなかった。1994年に鹿児島から弘前に来たが、近所に西村模型という店があったので、また少しずつ作るようになった。その後、タミヤの1/48ソードフィシュのコクピットを作って頓挫し、子供の通っていた和徳小学校のバザーに出したのが最後であった。調べるとソードフィシュの販売は2007年なので、18年前である。

 

3年前に萬屋の弘前城東店で90式艦上戦闘機が1000円くらいで売っていたので、急に作りたくなって買ったものの、そのまま3年間、診療所の技工コーナに下に置かれたままだった。最近、ようやく診療も暇になり、この未完成のキットを組み立てたのが先日、塗装するために塗料や筆、ピンセット、セメント、糸など、一通り揃えると34000円くらいかかり、かえって高いものになった。さらにアマゾンで95式戦闘機を購入し、ちょっと複葉機にもチャレンジしようと思い、久しぶりに西村模型店を訪ねると、びっくりするほどプラモデルの値段が上がっている。とても子供の買える金額ではなく、欧米のメーカーのものであれば、一個3000-5000円くらいする。そこでヤフーオークションで調べると、単体のプラモデルはここでも安くはないが、まとめて売るものはかなり安く買えることが判明した。そこで、欧米の複葉機を中心にチェックするとイタレリや聞いたこともない欧米のメーカー、Classic Air FramesRodenなどの機体12機の詰め合わせが0円スタートであった。一機1000円までとして入札し、結局11000円で落札できた。おおまかに販売価格を調べると62000円くらいになるので1/5くらいで落札できたことになる。さらに他の出品者からモノグラム、レベル、ハセガワ、LSなどメーカーの9機の詰め合わせが3100円だったので、これも落札した。ただこれは埃まみれで、少し作った形跡もあり、完全にジャンクものであった。ただ総計で20機の未組み立てのプラモデルが手に入った。プロモデル好きの人は、模型店に入るととりあえず、買っておくという人が多く、その人たちの部屋に行くと未組み立てのプラモデルの箱で囲まれている情景はよく目にする。こうした人たちが、断捨離、あるいは病気、亡くなってプラモデルのコレクションを手放すのであろう。おそらく一個34000円くらいのプラモデルでも買取値は100円くらいで、これは全く古書の世界と同じである。

 

若い人はほとんどプラモデルには興味はなく、主なファンは年配者であり、プラモデルだけは年配になると目が悪くなり、集中力もなくなるので、何しろ完成しない。作るより買うキットの方が多くなり、結果的には未組み立てのキットの山となる。これがヤフオクに出品されているのである。プラモデルは究極の暇つぶしで、完成するのはかなり日日を必要とするので、今回買った20機で、数年は持つだろう。そう考えると決して高い趣味ではない。歯科の機材はプラモデル作りには便利で、診療所を閉院しても、技工用のマイクロモータ、照明、レジン、光重合機は捨てないが、流石に塗装用に歯科用のコンプレッサーは大きすぎる。筆塗りで我慢である。

 

俳優の石坂浩二さんや首相の石破さんもプラモデル好きで有名であるが、どうも女の人からは嫌われる趣味のようである。


 

2025年1月26日日曜日

毛沢東とスターリン

 


私の102歳の母が最近コロナウイルスに感染し、心配したが、なんとか回復した。新型コロナウイルスもようやく従来のインフルエンザ並みのものになってきたようだ。それでもこの新型コロナウイルスによる感染者は、全世界で32千万人、死者数もWHOの報告では550万人、実際は1500万人ほどが亡くなったという。

 

第二次世界大戦後、何らかの事件でこれほど多くの死者数が出たのは、まず一位は1957年から中国で行われた大躍進運動に伴う餓死者で、犠牲者数には諸説あるが少なくとも1600万人から3000万人と言われる。第二位は1966年から始まった中国の文化大革命のよる犠牲者で、これも数値がいろいろあるが、間接的な死亡も含めると1000万から2000万人くらいが亡くなったようである。そして第三位が新型コロナウイルスによる死者数で500-1500万人くらいとなる。第四位は1930年代のスターリンによる大粛清、強制移送で800-1000万人、ウクライナ飢饉も含めればもっと多いかもしれない。五位はベトナム戦争で、北ベトナム、南ベトナムの兵士、民間人の犠牲者数は合わせて800万人、六位は朝鮮戦争で南北朝鮮、アメリカ軍、中国軍、民間人の犠牲者を合わせて640万人、その後はカンボジアのポルポト虐殺で180万人、ルワンダ大虐殺の80万人などとなる。

 

これら第二次世界大戦以降の自然、災害死以外の大量の犠牲者は、多くは社会主義、共産主義が関係している。まず一位の中国の大躍進による死者は、全て中国の毛沢東と硬直した官僚主義による。その経過を知ると、自由主義国では絶対にあり得ない事件である。さらに第二位の文化大革命も、毛沢東が起こした政権抗争に起因するもので、今から見ると全く無駄なことであった。ナチスおよびヒットラーの場合は戦争による犠牲者が大半なので、戦争以外の史上最大の犠牲者を産んだ人物は毛沢東だといえよう。さらに第三位の新型コロナウイルスは、ほぼ中国の武漢研究所で人工的に作られたものが流出したと言われており、トランプ大統領がいうように中国が原因であることは間違いない。三位までは全て中国由来のものである。さらに四位はスターリンの狂気が成し得たもので、五位のベトナム戦争は、米露冷戦によるもので、ソ連、中国が北ベトナムを支援し、アメリカが南ベトナムを支援して戦った。ソ連は武器、資金援助を、中国は武器、資金援助のほか、10万人以上の兵士を出兵させた。六位の朝鮮戦争も同様な構図で、中国人民志願兵が出兵し、その死者だけでも17万から100万人という。朝鮮戦争について言えば、中国人民義勇兵が出兵しなければ、朝鮮半島の分裂は起こらず、その後の北朝鮮の餓死者などもなかったはずである。この出兵もほぼ毛沢東の独断による。

 

ここまで書いてきて、第一の大躍進、第二位の文化大革命、第六位の朝鮮戦争は、全て毛沢東が関係している。さらに歴史にもしということがあれば、もし毛沢東がいなければ、中国は蒋介石の国民党が統一したはずで、社会主義国の中国は誕生しなかったはずである。そうすると第三位の新型コロナウイルスも発生しなかった可能性もあるし、第四位のベトナム戦争もソ連一国の支援では戦争することができなかった可能性もある。中国は、始皇帝以来、基本的には絶対君主制で、専制君主の帝王が緻密な官僚制度の上に君臨した。共産主義、社会主義は、もともとソ連のレーニン、スターリンに見られるような巨大な官僚主義による一党独裁を原理にしていたため、中国古来からのシステムにマッチした。その頂点が中国共産党の毛沢東で、彼は古代中国でいうなら、秦の始皇帝、漢の劉邦、明の朱元璋、清のヌルハチの匹敵する帝国の創始者であり、絶対であった。死ぬまで誰も文句を言えない存在で、そんな巨大な存在のよりおそらく中国国内で8000万人以上の人々が死んだ。

 

私自身、高校生の頃は毛沢東語録を読み、毛沢東を礼賛したし、朝日新聞、はじめ多くのマスコミ、京都大学教授の竹内好や作家高橋和巳はことあるごとに毛沢東とその文化大革命を絶賛した。よく考えれば、8000万人以上の犠牲者を出した人を褒めていたことであり、ひどい話である。おそらく千年後の歴史では、毛沢東は中華人民共和国の創始者であるが、人類史上最大の犠牲者を産んだ指導者として記憶されるであろう。二番目の1500万人の犠牲者を出したスターリンも流石にレーニン廟からは改葬されたが、ヒトラーほど忌み嫌われているわけではない。毛沢東、スターリンとも、個人的な資質だけでなく、それと共産党、社会主義が結びついて、これだけの犠牲者を産んだことは間違いない。


2025年1月22日水曜日

社会にとって進歩は必要か

 





テレビドラマ「JIN-仁」をネットフリックスで見ている。16年前のドラマで、だいぶ内容を忘れているせいか、もう一度見ても面白い。2000年から1862年にタイムスリップする話であるが、この140年ほどの社会の変化はすごく、これぞタイムスリップものという内容となっている。それに対して最近放送された「不適切にもほどがある」は1986年から2024年のタイムスリップである。約40年前へのタイムスリップである。番組では阿部サダオが演じる中年おじさんの考えのギャップが面白く描かれているが、主人公はすぐに未来社会に馴染んでしまうし、逆に2024年の人が昔にタイムスリップしても同様である。例えば1860年から50年後、1910年(明治43年)の差は明治維新を挟んでかなり大きな変化があり、さらに50年後の1960年(昭和35年)との差も太平洋戦争を挟んでいて世の中は一変している。ただその後の50年、2010年と1960年さらにいうと、大阪万博があった1970年と今の2025年ではそれほど大きな変化はない。もちろん1970年当時では携帯電話、スマホもないし、パソコンも普及しておらず、インターネットすらない。ただ人々の生活というと、テレビ、洗濯機、冷蔵庫など、今の家電のほとんどは普及しており、服装だってそれほど違わないし、音楽もそうである。当時に比べて女性の社会進出は目覚ましく、今は共稼ぎが普通になっているが、生活そのものはそれほど大きな変化はなく、多分、2024年から50年前の1974年にタイムスリップしてもすぐに慣れるだろうし、逆もそうであろう。

科学の進歩はいずれプラートーになっていく。新しいものが生まれ、そして急速に進歩して、停滞する。ほとんどのものがこの過程となる。例えば、自動車の発明は1769年であるが、実際に普及したのはT型フォードが売られた1908年、その後、40年くらいでほぼ今の車の形態が出来上がっている。同様に飛行機、例えば旅客機について言えば、ボーイング707が就航したのが1958年、それ以降、大きな変更はない。船について言えば、現在の旅客船舶とタイタニック号は、それほど差がない。短いところで言えば、パーソナルコンピュターについても1980年頃から急速に普及し、その後の開発速度は恐ろしいほどであったが、ここ10年ほどはその速度もかなり落ちてきていて、パソコンの能力もそれほど拡大していない。I-phoneも同様で、全てのものが急激に進んで、プラトーになっている。今はAIの全盛期であるが、これもあと20年でプラトーになるだろう。

 

要するに人間の生活に必要なものは、ほぼ満足できる状態にまでなったのが現代で、あとは核融合発電が軌道に乗り、安価なエネルギーが確保できれば、地球に住む限り、あまり進歩が必要でなくなる時代が来るのではなかろうか。最初に述べたように全ての発明は急激に発達してからプラトーになることを考えれば、もはや今以上の生活を我々人類は求める必要はなくなってきている。平均寿命が80歳から90歳、100歳に伸びても、それほど幸福ではなかろう。最近も1980年頃もコカコーラの宣伝を見たが、当時のまま全く進歩しなくて、そのまま40年経ってもそんなに不幸ではないだろう。欧米では環境問題に主眼を置く脱成長論が話題になっているが、それをさらに進めて、もうこれ以上社会的な進歩は必要ないように思われる。ことに日本という限定した空間でいえば、貧困問題などいろんな社会問題はあるにしろ、多くの日本人にとって日本は住み良い環境にあると断定できる。戦争状態のウクライナに比較しなくても、日本以外の国、韓国、中国、東南アジア、アフリカなど他国にある問題に比べると日本が持つ問題は実に些細なことで、例えば、日本では生活する上で最も大事な医療について、金がなくて世界でもトップレベルの医療を受けることができる。こうしたことができる国は世界でもそれほど多くない。そして生活する上で次に大事なのは安全性で、これも日本は世界でもトップレベルの安全な国である。就職率もよく、サラリーは世界基準に比べると安いものの、家賃や食費も他国に比べて安く、貧富の差もそれほど大きくはなく、さらに共産主義国に比べると自由度も高い。何も不満に思うことがあるのかということである。もちろん上を向いたらキリがないが、多くの人々はそこそこの生活はできている。いい時代に生まれたものである。

 




2025年1月18日土曜日

映画「石中先生行状記」 ロケ場所の特定

 



上記キャプチャーは「なつかしの映画をカラーでJapanese  Nostalgic Cinemas」
(YouTube)より引用、フルムービーでみてください。


弘前商工会議所五十年史(昭和33年、弘前商工会議所編)


映画「石中先生行状記」のロケ地についての問い合わせがあった。以前このブログで取り上げたので、引用許可のお願いである。なんでも成瀬巳喜男監督の研究をされている方で、きちんとされた方である。私のブログは出典さえ明示していただければ、自由に使ってもらって結構だし、私自身も基本的には出典を明示して引用している。

 

石中先生行状記は昭和25年の作品で、前年に弘前市でロケが行われ、ざっと見ただけだが、弘前市の郊外の農村地、草原と市内の土手町、本町、弘前大学医学部附属病院などでロケが行われたのはわかる。

 

さらにどこで撮影されたかもう少し、具体的に探そうとするとこれはなかなか難しい。この映画は3つのストーリからなり、一話に出てくる弘前市のシーンは土手町の蓬莱橋付近である。二話では、セットとロケが組み合わされているが、池部良が自転車で店を出て走るシーンがあるが、ここが土手町のどこかということになる。

 

まずヒントとして店の前に“青森県スポーツ社弘前支局”の看板がある。この会社は1948-49年に青森県スポーツという週刊誌をだしていた出版社で、それ以外の記録はなく、住所は同定できなかった。お店の看板は、“卓球用品  トキワヤ”と読めるが、ここも該当するスポーツ店はない。また“石鹸小売販売店”という看板があるが、これもヒントにはならなかった。

 

次のシーンで、池部良が自転車に乗り込みところでは、前方左の三角屋根の時計台がある。これは現存する一戸時計店で、距離から推定すると、石井果実店かその隣当たりと推定できる。ただこれも使っている撮影レンズで望遠よりのレンズであれば、圧縮効果で近くに見える。

 


さらに続くシーンをみると、左の大きな商店が見られる。土手町、昭和25年に限定して、手持ちの弘前商工会議所五十年史(昭和33年、弘前商工会議所編)を見ていると、土手町89に慶応3年創業、明治35年建築の福永商店、奥他福永履物店の写真がある。屋根の形状、看板の配置、隣の白い蔵?なども完全に一致する。ただ最初のシーンでは石井果実店あたりから一戸時計店、西方向に自転車を走らせているが、このシーンでは奥他履物店が奥にあることから東方向に自転車は走っており、逆向きとなる。おそらく最初のシーンと次のカットでは撮影方法を変えたのではないかと推測する。

 

三話では、主人公が姉を見舞いに大学病院を訪ね、その帰りに土手町を散歩するシーンがある。店の前に旗があるが、逆向きになって店名がわからない。これもキャプチャーで画面を撮影し、反転すると“きたや呉服店”の店名がわかる。きたや呉服店は明治35年創業の老舗呉服店で、住所は土手町146番地となる。上土手町で、現在は駐車場になっている。大学病院から土手町に行くとなると、西側の下土手町から中、上土手町に歩くはずであるが、このきたや呉服店が画面奥にあるということは主人公は逆向き、東から西方向に歩いていることになる。これも第二話と同じで、カットによって最適なバックを選ぶ、こまやかな撮影を成瀬監督が行なっているようだ。





「なつかしの映画をカラーでJapanese  Nostalgic Cinemas」
(YouTube)  反転












2025年1月12日日曜日

今年の雪は異常である 2

 






落ちてくる屋根雪を隣のアパートに落ちないようにするフェンス


私は兵庫県尼崎市に生まれ、その後、宮城県仙台市、鹿児島県鹿児島市、宮崎県宮崎市に住んだ。このうち、冬に雪が降るのは仙台市くらいであるが、日本海側の仙台市の積雪はしれたもので、一晩で10cm以上雪が降ることはほとんどない。もちろん鹿児島市や宮崎市で雪が降るのは数年に一度くらいだし、尼崎市の雪が積もったという経験は数えるほどしかない。こんなに雪の降るところで住むようになったのは、1994年に移り住んだ青森県弘前市だけである。

 

鹿児島にいた時は車に乗っていたが、弘前まで車を運ぶのが大変なので、鹿児島で車を売ってやってきた。しばらくは家内の実家で暮らしていたが、ここには車を止めるスペースもなく、取り立てて車を持つ必要性もなかったので、弘前に来ても車を買わなかった。もう一つ、車を持たなかった理由は、とてもあの雪道を運転する自信がなかったこともある。そのまま30年間、車には乗っていない。よく友人から車なしでよく生活できるなあと言われるし、子供の小中学校でも車を持っていない家は一軒もなかった。不便は不便ではあるが、住まいと職場が歩いて7分、病院、スーパーなので日常生活に必要な場所も全て歩いていける環境なので何とかやっていける。

 

雪が降り始めるのは、毎年12月の中頃で、それが3月末くらいまで続く。今年の雪の量は異常であるが、例年は今頃から本格的な雪のシーズンで、これが2月末くらいまで続き、3月になると雪の量は増加から減少に向かう。4月になってもあちこちに雪の残渣は残り、全く雪が視野からなくなるのは4月の中頃で、一度は5月の桜祭りの期間に積もるほど雪が降ったことがあった。つまり雪で本当に大変な時期は1月と2月の2ヶ月間であるが、青森県津軽地方ではこの2ヶ月のために、全ての生活が関わる。

 

まず灯油代が高騰する。ボイラーによる融雪を行っている家では、冬季の灯油代がバカみたいに高い。ある医院では、10台分の駐車場があり、ボイラーによる融雪を行っているが、冬場1ヶ月の灯油代が実に40万円以上かかる。また違う歯医者さんでは、冬場の除雪を業者に頼んでいるが、シーズンで25万円、さらに排雪するために一回数万円、全部で50万円以上の支出となる。こうした雪に対する費用は雪が降らない、少ないところではゼロだけに、全く無駄な費用といえよう。さらにいうなら、雪が落ちない無落雪の家では数トン以上の雪が屋根に乗っかっているので、家屋の痛みも激しく、一冬すぎると、屋根や壁、庭木などあちこちに被害が出る。もちろん車高の低いスポーツカーなどは冬場乗れないし、ポルシェなどの高級車も雪道は走れない。

 

細かなことを言うと、私の家では、冬になると庭木を縛ったり、支えをつけたりなどの雪囲いを業者さんに頼み、さらに一階の窓全てに柵を張り巡らせる。あらかじめ窓枠に細長い板を差し込むようなフックを取り付け、雪が降る前に小屋に保存していた幅10cm、長さ50cmくらいの板を全ての窓に差し込む。また雪の重さで壊れないように庭に水道やエアコンの室外機、灯油タンクなどには大きな板で囲む。リビングの大きなガラス戸には、特注した大型の雪用の防雪柵をつける。四つの大きな柱を斜めにガラス戸の上下の立てかけ、そこに1.mくらいの長い板を20本くらい差し込み、柵にし、雪からガラス戸が壊れるのを防ぐ。この取り付けも歳をとると年々厳しい。

 

私のところは、屋根には雪止めをつけておらず、全ての雪が下に落ちるようにしている。家の痛みは少ない反面、家の周りが雪だらけとなり、その処分が大変である。家の周りにできた高さ4mくらいの雪山を崩し、周りに雪を平らにする。そこに行くまでが大変で、スコップで雪を削りながら、雪が一番高くなった場所まで到達するのであるが、新雪があると足が50cm以上も潜ってしまい、そこから脱出するのも一苦労である。特に家の裏手は到達するまでも大変で、裏にアパートの駐車場があるので、万一うちの雪が崩れて車に被害があると大変なので、数年前に頑丈な雪のガードをつけた。

 

雪用のプラスティックのスコップが3本、シャベルが5本、鉄、アルミ製のスコップが3本、スノーダンプが3台、氷割りコンパル、ツルハシ、さらに電動の除雪機が2台、まだまだ除雪用の道具があるし、これも毎年買い換える消耗品である。ある意味、津軽人は雪の2ヶ月を過ごすために全ての生活を集中しているといえる。津軽人の性格形成に大きく関与しているのは間違いない。