2025年8月24日日曜日

テレビドラマ史上最高の番組 ホジュンー宮廷医官への道

 


私自身、年間100冊以上の本を読むし、映画も映画館やAmazonプライムを入れるとこれも100本以上見ているし、漫画も好きなので100冊近くは買っている。こうした生活を30年以上しているのだから、総計するととんでもない数となる。ただ一度読んだ本をもう一度読むかといえば、本を書くときの資料として同じ本を何度か読むことはあっても、面白いからという理由で、2度読んだ本はない。漫画についても二度読みをすることはない。

 

映画については、好きな作品はDVD を買って、これは何度も見ることがあり、一番多く見たのが、オードリ・ヘップバーンの「いつも2人で」は4回見たし、「マイフェアーレディー」、「ローマの休日」も同じくらい見た。これはオードリーのフアンである要素が強い。内容だけで3回以上見た映画は、「砂の器」、これは名作である。「八甲田山」、高倉健がかっこいい。「東京物語」、「麦秋」、「秋刀魚の味」などの小津安二郎の作品も何度も見ている。戦争ものでは、「トラトラトラ」は何度見ても、すごいと思うし、アニメでは「紅の豚」もいい。本は読むのに少なくとも2、3日はかかるのに対して映画は2時間くらいなので、何度も見ることのできるものである。

 

ところが、ここにテレビのドラマ、連続番組というジャンルがある。一話は30分、1時間でも何十話となるとさすがに何度も見ることはない。最近ではテレビ番組もDVD化されて、高校の時に夢中になった「スタートレック」と「タイムトンネル」のDVDを買ったが、まだ全巻見ていない。

 

その中でも、個人的に中毒性のある番組がある。韓国ドラマの「ホジュン」である。日本で放送されたのが1999年なので、26年前のドラマで、全64話である。2013年にも内容はほぼ同じで、キャストが変わった「ホジュン 伝説の心医」という作品がある。最初の1999年のホジュンは再放送の度に何となく見てしまい、少なくと5回以上は見ている。筋はすでに覚えているが、何度見ても全く飽きない。一つは主演のチャン・グアンリョルの演技がすごいだけでなく、周りのキャストの演技もよく、特に師匠、ユ・ウイテ役のイ・スンジュも彼の最高の役である。また、何度再放送されても私のように中毒性のある人が全国に多く存在するのだろう。再放送されてもある程度の視聴率が取れるので、何度も何度も再放送される。おそらく日本のテレビ史上でもアニメを除くとこれほど再放送されるのは、「暴れん坊将軍」、「鬼平犯科帳」くらいか。個人的にはホジュンの再放送回数の方が多いように思えるのだが、誰か教えて欲しい。

 

韓国ドラマといえば、まず最初に日本でブームになった「冬のソナタ」があったが、今見るとあまりに古臭く二度と見る気はしないし、当時のものはどれも古臭くて、見る気にはならない。そうしたこともあり、冬のソナタも最近ではほとんど再放送されない。あれだけ日本中を夢中にした「宮廷女官チャングム」もそれほど再放送されていない。逆にいうと、これだけ韓ドラがあるにも関わらず、25年以上前の作品がいまだに何度も再放送されているのは、ホジュン以外の韓ドラにない。それだけ突出して番組といえよう。

 

テレビ、映画にも言えるのだが、いわゆる名作、何度でも見られる作品には、まず脚本が良いこと、キャストが良いことが揃っていないといけない。特にキャストについては、主人公だけでなく、全てのキャストが有機的に連動して名作となる。おそらくは監督は、それほど厳選してキャストを選んだわけではなく、結果的にそうなったのだろう。実際、ホジュンの続編、「ホジュン 伝説の心医」は、前作の人気があまりに高かったので、セリフも含めて内容はほぼ一緒で、キャストを変えた。ただそれだけで、全く見る気がしない作品となった。内容のいい作品は、映画では何度もリメークされるが、ことホジュンについては、リメークはあまりうまくいかなかったので、オリジナルを何度も再放送することになった。

 

もし見ていない人がいたら、今もBS日テレでやっているので是非見てほしい。本ドラマの最大の見せ場、師匠ユ・ウイテの死と死体の提供がある。これはすごい場面である。


2025年8月17日日曜日

日本歯科専門医機構 矯正歯科専門医

 



日本歯科専門医機構の矯正歯科専門医をようやく取得できた。といっても認定状が来たわけではなく、日本歯科専門医機構のホームページに「2024年度機構認定 矯正歯科専門医」に載っているので間違いではなさそうである。今年いっぱいでやめるので、今更専門医を取得しても全く無意味である。3年ほど前になるのか、最初の日本歯科専門医機構の試験があったが、この年、症例審査、筆記試験、面接は全て合格し、あとは専門医機構の共通研修を受けるだけという段階だったが、この研修を受け損ねてしまった。受講申し込みはネットで行い、その受講料は当然、ネットで、カードで支払ったばかり思い込んでいた。ところが講義のある前日になっても連絡が来なかったので、調べてみると、受講料は銀行振り込みで、もう締め切りが終了したという。かなり焦ったが、近々閉院するので、取っても無意味と思いそのままにしていた。ところが、懇意にしていた先生が、実は日本専門医機構の理事、それも矯正歯科専門医担当ということがわかり、矯正歯科専門医の問題点は地域偏在があり、東京では多いが、県によっては一人も専門医がいないのは問題であると言われた。青森県も私が取らなければ、専門医のいない県になってしまう。そこで、遅ればせながら専門医をとることにした。当初は機構の研修を受ければOKと考えていたが、結局は全ての資料をもう一度作り直し、提出した。これがおよそ1年前で、今回、ようやく合格したようだ。

 

現状では、ホームページに掲載可能な名称としては、“日本歯科専門医機構、矯正歯科専門医” となる。従来からある “日本矯正歯科学会 専門医、臨床指導医” の名称は、これまで△として記載はグレーであったが、今後は掲載不可となる。現在、日本矯正歯科学会の更新には、医院のホームページのチェックがあるが、認定医、臨床指導医の名称は削除を求められるだろう。

 

今回34名の新たな合格者を加えて、現在、235名が日本歯科専門医機構認定の矯正歯科専門医といえよう。日本矯正歯科学会の臨床指導医(381名)が矯正歯科専門医になるための条件であるが、順次、認定医(3000名)まで広げていき、最終的には1000名くらいが資格を持つようにしようと考えている。それでも毎年100名ずつ専門医になっても、10年くらいはかかりそうで、東京など都会では数は充足していても、青森県のような地方ではかなり少ない資格となろう。

 

最近では、矯正歯科認定医をとるには、卒業して矯正歯科の医局に入り、少なくとも6、7年、研修医期間を足すと78年必要である。あまりにも長くかかりすぎて、嫌がる学生も多い。アメリカでも3年間の専門大学院を卒業すれば矯正歯科専門医になれることを考えれば、効率が悪い。日本矯正歯科学会の認定医ができたのが1990年、その後、矯正歯科専門医(臨床指導医)が2006年にできた。矯正歯科では日本矯正歯科学会、日本成人矯正歯科学会、日本矯正歯科協会の3つの専門医制度があり、厚労省からなんとか統一しろの言われて、5年ほど前に統一矯正歯科専門医審査がおこなわれた。ところが試験形式が矯正歯科学会と機構とが違ったりして、混乱し、2年前からようやく口腔外科、小児歯科、歯科麻酔、歯科放射線に続いて専門医として認められた。最初の認定医制度から35年かかったわけで、私自身も審査員などでかなり長いこと関わってきただけに、今後の制度の定着を祈っている。

 

ただ医科の専門医制度も含めて、国民に専門医についてあまり知られていない。日本では専門医のライセンスがなくても診療科を標榜可能なので、矯正歯科と看板に書いていてもライセンスがない場合が多い。矯正歯科治療をするなら専門医のところで治療という流れを作るべきであり、そのためには、まず現行の保険制度と専門医のライセンスを連動させるべきであろう。具体的に言えば、反対咬合などの小児の不正咬合が健康保険扱いになった場合は、現行の口蓋裂患者の矯正治療の施設基準の一部を変更する。現行では「当該療養を行うにつき十分な経験を有する専任の歯科医師が一名以上配置されていること」を、「当該療養を行う矯正歯科専門医(日本歯科専門医機構)の資格を有する専任の歯科医師」にすれば良い。“十分な経験”という表現はあまりに曖昧すぎる。今年度から学校歯科で不正咬合を指摘された場合の診断については一部保険適用となった。この先、重度の不正咬合が保険適用にならないと制度上おかしなことになるし、重度の不正咬合を治療するのは矯正歯科専門医でないとダメである。ただ日本歯科専門医機構の理事に言われたように、今のところ青森県では専門医が私だけで、それも今年で閉院するので、誰もいなくなる。重度の不正咬合であっても青森に住む患者は他県に通院するか、自費治療になる。これは厳しい。


2025年8月14日木曜日

宮崎駿監督のミリタリー好き



久しぶりの宮崎駿の「紅の豚」をみた。5度目くらいだろうか。宮崎作品の中でも最も好きな作品である。おそらく宮崎監督自身、この作品と「風立ちぬ」が最も作りたかったものだったのではと。宮崎駿のミリタリー好きは有名で、飛行機オタクの「スケールアヴィエーション」や「モデルグラフィック」などの雑誌によくインタビュー記事が載っていた。実際、「モデルグラフィック」に連載していた作品をまとめたのが「宮崎駿の雑想ノート」や「飛行艇時代」で、後者はそのまま「紅の豚」の原作となっている。

 

宮崎駿は1941年(昭和16年)生まれで、終戦時は4歳、戦争のことは全く覚えていないし、いわゆる戦前の軍国主義にも染まっていない世代である。小学校入学するのは昭和22年で、当時は、戦前の軍国主義の反動か、民主主義の極端な教育が行われていた一方、世の中は復員軍人で溢れ、殺伐とした時代であった。ただ親が戦前、軍需産業に関わっていたことから、周囲には軍隊を思い出すものが多かったのだろう。

 

実は、昭和20年後半くらいから、アメリカの占領政策から解放され、戦争ものが多くなった。例えば、撃墜王の坂井三郎の「坂井三郎空戦記」(のちに大空のサムライ)が出版されたのが昭和28年、今も続く軍事雑誌の丸が創刊されたのが昭和23年、円谷英二が特殊監督をした「太平洋の翼」が昭和28年、とサンフランシスコ平和条約が締結され、日本が独立国家となった昭和27年以降にようやく大手を振って軍事ものを作れるようになった。また今でも航空機の好きな人の愛読書、雑誌「航空ファン」の創刊が昭和27年で、戦争に生き残った日本人は、次々と戦時中のことを語り出した。

 

ちょうど中学生の感受性の高い時代に、宮崎駿少年も戦記ブームの洗礼を受けた。宮崎監督と私では15歳も年齢が違うが、それでも自分の親も含めて周りに大人は全て戦争経験者であった。そもそも男の子は飛行機や自動車などのメカものは好きで、ソリッドモデルやプラモデルの飛行機や戦車、軍艦が出てきたのもその頃で、夢中になった。「少年」、「マガジン」など次々創刊される月刊誌、週刊誌も戦艦大和や零戦などを取り上げた。戦争については全く実感がないが、それでも絶対にしてはいけないものという思想的な重しがあるものの、とにかく格好いいという感情が先に立つ。プラモデルで零戦を作っては一人で空中戦をする。特に戦争中の武器は、とにかく多種のものが大量に作れたので、今では考えられないようなおかしなものもあり、人を殺すという武器ではあるが、機械として面白いものが多い。

 

宮崎監督にすれば、映画として「となりのトトロ」のような作品を期待されがちであるが、本当に好きなのはミリタリーで、おそらくは「紅の豚」、が製作側とギリギリの接点で、これが我儘の言える最後だと思っていたのだろう。それでも抑えきれず、もう一度作ったのが「風立ちぬ」で、これでも大分抑えた方なのだろう。それでも戦争は嫌いだが、戦闘機は好きという矛盾した気持ちはダダ漏れである。同様に「この世界の片隅に」の片渕須直監督も無類のミリタリーオタクで、特に日本軍機の塗装についてはその分野では権威に近い。映画でもミリタリーオタクの片鱗は呉港に入る軍艦や飛行機の描写に出ている。片渕監督は昭和35年生まれで、宮崎監督より21年若いが二人とも戦争ものの洗礼を同じように浴びていて、スタジジブリでもこの二人は極め付けで、左翼からも叩かれている。

 

実はこのブログを書いている私もミリタリーオタクで、何より軍事ものが好きで、これはやめられない。オタクになるとだんだん誰も知らないことに異常に興味が出て、飛行機も有名機にはあまり興味がなくなる。こうしたこともあり、世界の傑作機シリーズも、最近はほぼオタク向けの知られていない機体が取り上げられ、本当のことをいうと傑作機ではなく、駄作機に近い。最近のドイツ機体で言えば、メッサーシュミットME323Fw189、アラドAr196 などは渋すぎるし、極め付けはF2Yシーダートというジェット水上機には生産数五機の機体を取り上げている。


 

2025年8月10日日曜日

シンシナティー美術館への追加寄贈


 

田中蘭谷





田能村直入落款






前回のブログで述べたように、シンシナティー美術館へ39点の作品を寄贈した。その後、オークションで田中蘭谷の「芙蓉美人図」という作品を落札したので、これもシンシナティー美術館に寄贈した。館長がすごく気に入って、今年のホリデイカード(クリスマスカード)にしようと意気込んでいる。というのは、まだ詳細は不明であるが、来年、日本でシンシナティー美術館の西洋画、ゴッホやピカソなどの巡回展を日本で開くそうだ。そのための寄付金集めにこの田中蘭谷の美人図のホリデイカードを使うという計画なのである。涼しげな、夏らしいいい絵である。細いことを言うと、上村松園などの美人画家に比べると、線の美しさが違い、松園のような細くて綺麗な顔、衣の輪郭線が描ききれていない。それでもいい作品である。

 

実は、もう一点、寄贈しようと思っている作品があった。母親の遺品、厳密に言うと父親の母、私の祖母の掛け軸である。戦前、大阪で遊郭を経営していた祖母は裕福で、多くの骨董品を持っていて、一部が残っている。その中でも、田能村直入の「白衣観音図」がよく描かれている。これも一緒に寄贈しようと思い、実家から持ち帰り、こちらで調べている。美術館では原則的には本物、偽物の鑑定はしていないので、偽物の疑いのあるものは決して受け入れない。100%本物以外は受け入れない。これまでシンシナティー美術館に寄贈した作品は、香川芳園、田中蘭谷、など無名の作家の作品で、偽物はない。唯一、比較的名前が知られている望月玉泉くらいか。作風、落款、印章はほぼ一致し、また玉泉はそれほど偽物がないため、本物として送った。シンシナティー美術館の調査でも本物と思われると言う答えだったので寄贈した。

 

今回、寄贈しようと思った田中蘭谷の偽物は絶対にない。一方、田能村直入は、戦前、人気のあった画家で、偽物が多いので有名な画家である。また祖母が骨董屋から買った作品は偽物が多い。一つは土佐光貞の伊勢物語の大和絵であるが、箱書きには適当な鑑定書があるが、程度の低い贋作であった。もう一つは翠石の落款のある南画で、これは虎図で有名な大橋翠石の作とされていたが、調べると大阪の近藤翠石という画家の作品であった。ほぼ無名の画家で、いずれの作品も祖母が骨董屋から大金を払って購入したのだろう。ならば、この直入の作品も贋作の可能性がある。

 

大きな観音と子供という絵の構図は、少し奇妙であるが、同じような類型は本物の田能村直入にある。輪郭線は狩野派のタッチで太いが、観音の表情が良い。また全体の雰囲気は良いし、画賛の文字もほぼOKである。多少、画質が劣るが、早書きであれば、この程度かと思う。ただ決定的な問題点は印章で、2つの印章、特に上の印章が微妙に違う。印章の鑑定は難しく、朱肉の付きによっても変わってくるが、これはないという違いである。画、画讃、署名は本物と考えてもいいかもしれないが、落款印が違うため、贋作とした。田能村直入のように贋作が多い画家でなければ、ギリギリ本物となったかもしれないが、購入した骨董屋のことも含めると贋作といえよう。

 

ただこれは言えるのは、もはや日本画、掛け軸の贋作はでないであろう。掛け軸そのものの価値が低下し、時間と手間をかけて贋作を作っても全く売れないからである。一方、オークションの中には本物、贋作が、玉石混交で溢れている。通常、本物は偽物よる値段は高いものでが、今では同じ値段で売られているので、全く値段だけではわからない。もちろん骨董屋も贋作をつかまされないように勉強しているものの、白黒はっきりすることは不可能で、グレーの部分が広い。AIを用いれば、もっと鑑別は容易になるかもしれない。ただAIといっても誰かがデータベースを作成しなくてはいけなく、それほど世界的にも日本画が需要は少なく、無理なような気がする。ピカソやゴッホのような洋画家の方が鑑別AIの開発は早いだろう。






田能村直入 印章集





2025年8月7日木曜日

東奥日報の記事

 


先日の東奥日報に記事が載った。取材に来てもらったのが1ヶ月前なので、ボツになったかと気を病んだが掲載されてホッとしている。

 

友人の反応は、せっかく集めたコレクションをなぜ手放しのか、もったいないという声が多かった。一方、美術関係の人からは、よくコレクションを美術館で引き取ってくれたなあ、普通なかなか引き取ってくれないぞと、こちらの意図をわかってくれた。記事では日本の美術館と欧米の美術館の違いについて説明しなかったが、このブログで記事の背景について少し説明する。

 

欧米、特にアメリカは図書館と博物館あるいは美術館は、市民が作るものという感覚がある。ボストン美術館やメトロポリタン美術館もそうで、今回、絵を寄贈したシンシナティ美術館も、市民が金を出し合い、絵を寄贈して、創立され、今も運営されている。二年前にもオハイオ州の夫妻が亡くなりその資産1800万ドルをシンシナティの3つの主要美術館に寄贈したというニュースがあった。1ドル150円とすると27億円という莫大な寄贈である。またシンシナティー美術館にあるピカソ、ゴッホの名品も全て市民の寄贈による。

 

すなわち、日本の美術館は作品を購入して収蔵するのが基本なのに対して、欧米の美術館は市民による寄贈が基本となる。もちろん日本でも寄贈を受け入れることもあるし、欧米でも作品を購入することはある。欧米の美術館では市民による寄贈の申し出があれば、基本的にはすぐに対応し、必要だと判断すれば委員会、理事会を開いて寄贈を受け入れる。一方、日本では、寄贈を申し出た時点で、今は寄贈を受け付けていないと返答され、調査さえしない。まず人と時間がない。両親の集めていた絵を地元の美術館に寄贈しようと思っても、こうした対応をされてしまう。

 

 一方、日本では和室が急速になくなり、それに伴い床間にかける掛け軸も人気がなくなった。父や祖父が残し大量の掛け軸があっても、処分に困り、骨董屋に見てもらっても一つ500円といった安い値段にしかならない。骨董屋は買い取った掛け軸をネットオークションで公開し、最近は中国人が買っている。近年、掛け軸を中心として日本美術が急速に消滅している

 

徳島県立美術館の収蔵作品数が1万点を超えるというニュースがあった。開館当初は購入による作品収集も多かったが、最近は作品を購入する予算も少なく、年間の収集点数も1-3点にとどまっている。それに反して、美術館による積極的な調査研究、収集活動が次第に効果を及ぼし、最近では市民による寄贈も多くなってきて、2023年度では359点の寄贈を受けたようだ。それにより郷土作家のまとまったコレクションとなり、収蔵作品展を頻繁に開催している。

 

青森県立美術館について調べると、所蔵作品は令和元年で4767点であるが、ここも作品購入の予算が少ない上、市民からの寄贈についてはあまり積極的ではない。郷土作家といっても奈良美智さんの作品を寄贈する人はいないだろうが、他のあまり知られていない郷土作家の作品はたくさんあるはずである。先日も、棟方志功の師匠と呼んでも良い下澤木鉢郎の作品3点の寄贈を青森県立美術館に写真付きでメールした。一応、見てみて、委員会に諮ってから受け入れを決めるという。ただ委員会の開催は一年後とのことであった。

 

これは弘前市立博物館や弘前レンガ倉庫美術館でもそうで、原則的には市民からの寄贈や寄託は受け付けていない。まず対応する職員が少なく、また保管するスペースもないからである。ただよく考えていただきたいのは、博物館、美術館は、所蔵作品を市民に見せる場でもあるが、同時に市民の宝を保存する場所でもある。放っておくと、家のある古いものはどんどん捨てられてしまう。たとえば、世界中で話題になっているボロ、ツギハギだらけの衣料も田中忠三郎さんの努力によりコレクションされているが、これなど汚いものとして捨てられる運命であるし、どこも寄贈できないのであれば、捨てられていく。あれほど弘前で盛んであった弘前木綿がほとんど残っていない。

 

もちろん市民が寄贈を希望するものの多くはガラクタに類するものかもしれないが、それでも後世に残すべき作品もあるはずで、少なくとも専門家が仕訳をしなくてはいけない。最初に述べた徳島県立美術館の場合、1。寄贈を受けるため所有者や関係者のもとに足繁く通う、2。所有者の代替わりに際して寄贈の相談を受けるなどの、継続的な活動を行い、さらに寄贈品はそのまま無条件で収蔵するのではなく、館内で熟議し、専門家と協議した上にコレクションにするという。

 

特に青森県では、耐震強度の問題で、青森県立郷土館が休館のままになっている。ここは青森県でも比較的寄贈を受け入れるところだっただけに、このまま休館が続くのは寂しいし、その間も貴重な歴史的資料が失われている。アメリカの美術館や博物館は市民の寄付や寄贈で作られてきたため、財政的にも国、州、市に依存しておらず、地元会社や個人の寄付で成り立っている。市民ボランティアも多く活用している。それに対して、日本の多くの博物館や美術館は公的予算で成り立つところが多い。弘前博物館でも、実は後援会があるがほとんど知られていない。安い会費で、企画展など無料で観覧できるので、お得なものであるが、ほとんど広告していないせいか、会員数は減っている。これなどもっと市民にアピールすべきである。また市民からの寄贈については、まず美術館のスタッフの増員、あるいは収容スペースの確保とともに、もっとボランティアを活用すべきである。リタイヤした人の中にも美術品が好きな人もいるだろう。図書館ではそうしたボランティアの人も見かけるが、あまり博物館や美術館では見かけない。

 

図書館、美術館、博物館というのは住む人の文化的な顔である。文化的な都市を目指す弘前市であるならば、もう少し予算、作品収集ではなく、スタッフ予算を増額、あるいは積極的なボランティアの募集、講演会の拡大など、やりようはあると思う。人口17万人の街に、博物館と美術館があるのは贅沢なことであるが、なんとか市民も含めて支えていきたい。

 

 


2025年8月6日水曜日

来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について 3

 



 
阿部はな


前回のブログで、来年度のNHK朝ドラの主人公、大家直美は、孤児で、教会の牧師に引き取られ、看護師になるという設定だそうだ。共立女学校でもフェリスでも、明治期の生徒の多くはお金持ちのお嬢さんで、この学校に孤児の子供が通学するのはかなり設定に無理がある。今の生徒層に近い、あるいはさらに上流のお嬢さんが通うところであっただろう。もちろん、今の共立学園、フェリス女学園に孤児の子供が通学するというのは絶対ないとは言えないが。ただ共立女学校設立の最初の目的が、当時、横浜に増えていた混血孤児の教育であり、校費生として貧困家庭出身の生徒がいたようだ。一つの例として、須藤かくと一緒に渡米して、アメリカの女子医科大学を卒業して女医となった阿部はながいる。

 

阿部はなについては、はっきりしていないが、父親の名前が、東京都出身の阿部定右衞門であることは、安倍純子さんの研究、「女性宣教医Dr.アダリーン・ケルシ-」に記載されている。キリスト公会の受洗簿に載っていたという。阿部定右衞門について検索すると、明治5年相原村戸籍に、阿部定右衞門 53歳 家族の人数 男2名 女2名 石高315となっている。また「日本近世商業史の研究」でも、阿部定右衞門(53歳)、長男桉吉(15歳)と女の家族が住んでおり、石高0.315石の貧農で、同地域で盛んであった養蚕業に長男が奉公人として出ていたことがわかる。阿部定衛門という名前だけで、この人物が阿部はなの父とするのは無理があるが、それでも阿部はなが渡米する際の外国旅券下付表では神奈川県、他の記録では神奈川県となったり、東京都出身となったりしている。相原村は現在の相模原市と町田市の境、つまり東京都と神奈川県の県境にあり、その所属も最初は相模原、その後に町田になったので、出身地が神奈川であったり、東京であったりするのは、この相原村であれば、嘘ではない。こうしたことから阿部はなの出生として、相原村の貧しい農家の生まれで、何かのきっかけで共立女学校に進学することになったという仮説は立てられよう。

 

当時の共立女学校の学費と寄宿代を合わせて月に5ドルくらいであった。阿部はなついてはアメリカ側に個別の支援者がおり、Phillipsという夫人から1881年には102ドル、1886年には58ドルに寄付があった。102ドルは5年分、52ドルは1年分の学費、寄宿代に相当する。まあまあの額であり、将来的に宣教師になる前提での支援だったのかもしれない。阿部はなは、慶応2年(1866)生まれ、1879年頃の共立女学校に7歳くらいで入学、1886年、20歳ころに卒業した。共立に7歳から20歳頃までいて、卒業後はアデリン・ケルシーの医療助手などをしていた。1891年、25歳で渡米し、アメリカ、シンシナティーのローラ・メモリアル女子医科大学を卒業、1897年に日本に帰国した。

 

須藤かくについては、その家族のことも記録に残っているし、日本での医療活動をやめてアメリカに再渡米する際にも妹の一家(成田家)を呼び寄せて、最終的にはこの家族と共に過ごすが、阿部はなについてはこうした親類の姿は見えない。父親の受洗記録もあるので、おそらくは一家でクリスチャンとなったであろうが、阿部はなとの直接的な関わりはない。1911年、ニューヨーク州、カムデンという小さな町で結核のために48歳の若さでなくなった。

 

ドラマの主人公、大家直美が、明治初期、もし孤児で牧師に引き取られたとすると、そこの養子にならなければ、通常は尋常小学校までの教育となろう。孤児から日本で初めての看護師になり、アメリカに留学希望するというストーリになるためには、貧しい農家からアメリカに留学して女医となった阿部はなのような設定が必要であろう。牧師は任命制で、信者の浄財で生活しているため、預かっている孤児、大家直美を横浜共立女学校のような金のかかる学校に行かせるわけにはいかない。あくまで校費生として学校に受け入れられて初めて高等教育を受けられる。

 

また鈴木雅の夫、鈴木良光少佐については、Wikipediaによると歩兵第9連隊(大津)、第2大隊の大隊長として記載されており、皇居三の丸尚蔵館に写真がある。激戦地の田原坂の戦いに投入され、多くの犠牲者が出た。この写真には、陸軍歩兵少佐従六位勲三等鈴木良光 静岡県士族 三十二歳の説明がある。これも孤児の大家直美が、鈴木良光に嫁ぐには、当時の感覚から家柄で難しいように思える。士官以下の少し階級を下げないと辻褄が合わない。ドラマはフィクションであるが、少なくとも時代背景には合致しないとおかしなことになるので、特に明治以降を舞台にしたドラマは難しい。

2025年8月3日日曜日

金髪の小学生




近所のスーパーに行くと金髪に染めている小学2、3年生を見かけることが多い。両親、弟妹もメッシュやハイライト、あるいは髪の毛の一束のみ長くしている。まさか子供の方からこうした髪型を望むことはないし、かなり費用もかかるので、親の要望によるものだろう。子供にしたいファッションをさせているだけだという論理で、校則もない小学校では先生からも文句は言えない。

 

SDGSの流れの中でも、自由という概念が拡大解釈され、なぜ、子供が化粧していけないのか、髪の毛をパーマにしてはいけないのか、金髪にしてはいけないのか、はてはなぜ、ピアスをしてはいけないのか、タツー(刺青)をしてはいけないのか、自由じゃないのかという。この論理の問題点は自由の解釈をどこまでにするかという点だ。小学生の子供に金髪させている親は、子供が中学、高校生になってピアスを入れたい、刺青を入れたと言われても反対できないし、もちろん勉強をしたくない、学校に行かない、さらに働きたくないと言われても何も言えないだろう。

 

先日のニュースでは、全国学力テストの結果が昨年より相当悪く、その理由としてスマホのやりすぎと、学校生活が楽しければ、良い成績を取ることにはこだわらない親が増えていることを挙げていた。親の世代がいわゆるゆとり教育を受けた世代で、子供が健康で、楽しければいいと考えている。中国や韓国の受験戦争が凄まじくなっているが、日本では逆の方向に進んでおり、このままいくと公立学校では校則などで生徒を処罰できないので、なし崩しに自由になっていくだろう。私立中学校では校則に厳しく、私のいた六甲学院では、親が学校の方針に文句を言えば、校長は即、ならばやめてくださいと一言で片付けていたし、実際にやめる子供もいた。これは今でもそうで、もし東京の有名私立小学校、例えば、学習院で子供が金髪に染め、注意しても直さなければ退学となろう。

 

子供に勉強しなさいと口酸っぱく言わなければ、大抵の子供は勉強しない。テレビ、ゲーム、音楽、ダンスなどもっと楽しいことはいっぱいある。もちろんこうした子育てはそれでもいいが、一方、こうした子供に影響されたくない親は、勢い子供を私立の学校に入れようとする。そのため東京、大阪では公立中学校と私立中学校では生徒の質が異なり、ある意味この段階で差が出てしまう。良い成績を取ることにこだわらない親は公立中学、そうでない親は中学受験を目指すことになる。ドイツでは10歳になると、大学に進むためにはギムナジウムに、そうでなければ基幹学校、実科学校に進むかを決める。同じようなことが日本でも起こっている。

 

中国、韓国の親は、子供を自分より金持ち、幸せになってほしい、そのためには勉強して、いい大学、医者になってほしいと、子供の頃から塾に行かせ、尻を叩いて勉強させている。それに対して、日本では、勉強なんかするな、学校が楽しくて、健康であればOKという親が増えている。このことはある意味、勉強しなく、学歴がなくても、そこそこの生活ができ、あえて勉強をして大学に進学する意味がないと言える社会となっているのだろう。成熟社会になるにつれ、ホワイトカラー>>ブルーカラーという図式が少なくとも給料面では差が少なくなっており、むしろホワイトカラー>>ホワイトカラーというように、同じホワイトカラー間で給与差は大きい。少し不思議な社会になろうとしている。

 


 

2025年8月1日金曜日

来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について 2

 










前回の続き、 鈴木雅が横浜共立学園出身とする文献



「女たちの約束 M.T.ツルーと日本最初の看護婦学校」(亀山美和子、人文書院、1990


「生徒は、当初の計画どおり、六人が選ばれていた。その六人とは、ツルーが横浜の山手211番(ミッションホーム)時代に教えたことがある鈴木雅(旧姓加藤)、ツルーに信頼を寄せていた牧師植村正久の勧めで入学することになった。旧黒羽藩家老の娘大関和、固い決意を示すため断髪姿で桜井女学校に入学した広瀬うめーーーーー」

「ヴェッチの通訳を引き受けたのは共立女学校出身の鈴木雅だった。ブライトンやピアソンたちの教育の成果はこんなところにも表れた。結婚生活によって英語から長い間遠ざかっていた雅は、桜井女学校に入ったとき再びその能力をとり戻したのである。」

*文中の横浜の山手211番(ミッションホーム)は、おそらく山手212番の間違いであろう。横浜共立学園(アメリカン・ミッション・ホーム)のことである。

 

「横浜の女性宣教師たち 開港から戦後復興の足跡」(横浜プロテスタン史研究会編、2018


「来日とマリア・トゥルー その後のベントン母子の生活は不明であるが、彼女は十年余り経った1873(明治六))WUMS本部に宣教師の志願書を提出した。この時リディアは11歳の息子を本国に残しアメリカの教育を受けさせることにし、単身で日本へと向かった。同年1026日に横浜に到着し、アメリカン・ミッション・ホーム(現横浜共立学園)の教師となった。四十代の新たな出発であった。そのほぼ一年後の1874114日、WUMSから中国へ派遣され北京の女学校で教師をしていたマリア・トゥルーが、任地を変えて養女のアニーを連れて来日し、ミッション・ホームの教師としてリディアの同僚となった。旧知の二人は日本での再会を喜び、協力して教育に当たり、西田(岡見)ケイ、加藤(鈴木)まさ、菱川やす、桜井ちかなど、後に明治社会において女性医師や看護婦、女子教育者として先駆的な活躍をした女性たちに大きな影響を与えた。

 

「明治の横浜:英語・キリスト教文学」(小玉晃一、小玉敏子、笠間書院、1979


「学校移転の頃の生徒は東京大学付属病院の看護婦長となった加藤まさ、明治学院総理井深梶之助夫人となったせきなどがいた。」

*共立女子学園は、山手48番から明治5年に山手212番地(現在の場所)に学校移転

 

「横浜共立学園120年の歩」(横浜共立学園120周年の歩み編集委員会、1991


「加藤まさ(鈴木雅) 明治五年ごろに入学。ホームでトゥルーに教わる。鈴木氏と結婚した。夫の病死後、桜井女学校の看護婦学校に入り、卒業した。英語力は抜群であった。帝大医科大学の看護婦取締をし、「婦人衛生会雑誌」の編集もした。1891(明治24)年11月、「慈善看護婦会」(東京看護婦会)を創設した。この会は日本における派遣看護婦の最初のものである。「衛士園」の委員もしていた。

 

「日系アメリカ人最初の女医 須藤かく」(広瀬寿秀、北方新社、2017


「共立女学校の卒業生の多くは結婚して家庭に入ったが、先に述べた桜井女塾を創設した桜井ちか、後に須藤らと一緒に横浜慈善会病院を作った社会事業家のに二宮わか、東京帝大看護婦長となった鈴木マサなど、明治期の女性運動を積極的に引っ張ったパイオニアがいる。」

 

調べた限り、鈴木(加藤)雅が横浜共立女学校に在籍していたとする文献は、前のブログも併せてこれだけある。また鈴木雅がバラから受洗した記録は、横浜の海岸教会にあるようで、彼女がクリスチャンだったのは間違いない。

 

NHKならびに脚本家の吉澤智子さんの話では、

https://www.nhk.jp/g/blog/in53ohblxf-y/

 

鈴木雅をモデルにした大家直美は、「生後まもなく母親によって捨てられ、物心がついた頃にはキリスト教の牧師に育てられていた。その後、教会を転々として来たので、家族と呼べる存在はいない。幼い頃から何も悪いことをしていないのに貧しく恵まれていない人に多く接してきたため、神も人も心から信じきれないところがある」

とあるが、実際の鈴木雅は士族の出身で、クリスチャン、15歳にできたばかりのアメリカン・ミッションホームに入学し、24歳頃まで在籍して英語を習得し、陸軍中佐の鈴木良光と結婚した。NHKのキャラ設定とはほぼ180度違い、ここまで違うとモデルといえまい。純粋にドラマとして楽しんだ方がいいだろう。