2025年8月3日日曜日

金髪の小学生




近所のスーパーに行くと金髪に染めている小学2、3年生を見かけることが多い。両親、弟妹もメッシュやハイライト、あるいは髪の毛の一束のみ長くしている。まさか子供の方からこうした髪型を望むことはないし、かなり費用もかかるので、親の要望によるものだろう。子供にしたいファッションをさせているだけだという論理で、校則もない小学校では先生からも文句は言えない。

 

SDGSの流れの中でも、自由という概念が拡大解釈され、なぜ、子供が化粧していけないのか、髪の毛をパーマにしてはいけないのか、金髪にしてはいけないのか、はてはなぜ、ピアスをしてはいけないのか、タツー(刺青)をしてはいけないのか、自由じゃないのかという。この論理の問題点は自由の解釈をどこまでにするかという点だ。小学生の子供に金髪させている親は、子供が中学、高校生になってピアスを入れたい、刺青を入れたと言われても反対できないし、もちろん勉強をしたくない、学校に行かない、さらに働きたくないと言われても何も言えないだろう。

 

先日のニュースでは、全国学力テストの結果が昨年より相当悪く、その理由としてスマホのやりすぎと、学校生活が楽しければ、良い成績を取ることにはこだわらない親が増えていることを挙げていた。親の世代がいわゆるゆとり教育を受けた世代で、子供が健康で、楽しければいいと考えている。中国や韓国の受験戦争が凄まじくなっているが、日本では逆の方向に進んでおり、このままいくと公立学校では校則などで生徒を処罰できないので、なし崩しに自由になっていくだろう。私立中学校では校則に厳しく、私のいた六甲学院では、親が学校の方針に文句を言えば、校長は即、ならばやめてくださいと一言で片付けていたし、実際にやめる子供もいた。これは今でもそうで、もし東京の有名私立小学校、例えば、学習院で子供が金髪に染め、注意しても直さなければ退学となろう。

 

子供に勉強しなさいと口酸っぱく言わなければ、大抵の子供は勉強しない。テレビ、ゲーム、音楽、ダンスなどもっと楽しいことはいっぱいある。もちろんこうした子育てはそれでもいいが、一方、こうした子供に影響されたくない親は、勢い子供を私立の学校に入れようとする。そのため東京、大阪では公立中学校と私立中学校では生徒の質が異なり、ある意味この段階で差が出てしまう。良い成績を取ることにこだわらない親は公立中学、そうでない親は中学受験を目指すことになる。ドイツでは10歳になると、大学に進むためにはギムナジウムに、そうでなければ基幹学校、実科学校に進むかを決める。同じようなことが日本でも起こっている。

 

中国、韓国の親は、子供を自分より金持ち、幸せになってほしい、そのためには勉強して、いい大学、医者になってほしいと、子供の頃から塾に行かせ、尻を叩いて勉強させている。それに対して、日本では、勉強なんかするな、学校が楽しくて、健康であればOKという親が増えている。このことはある意味、勉強しなく、学歴がなくても、そこそこの生活ができ、あえて勉強をして大学に進学する意味がないと言える社会となっているのだろう。成熟社会になるにつれ、ホワイトカラー>>ブルーカラーという図式が少なくとも給料面では差が少なくなっており、むしろホワイトカラー>>ホワイトカラーというように、同じホワイトカラー間で給与差は大きい。少し不思議な社会になろうとしている。

 


 

2025年8月1日金曜日

来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について 2

 










前回の続き、 鈴木雅が横浜共立学園出身とする文献



「女たちの約束 M.T.ツルーと日本最初の看護婦学校」(亀山美和子、人文書院、1990


「生徒は、当初の計画どおり、六人が選ばれていた。その六人とは、ツルーが横浜の山手211番(ミッションホーム)時代に教えたことがある鈴木雅(旧姓加藤)、ツルーに信頼を寄せていた牧師植村正久の勧めで入学することになった。旧黒羽藩家老の娘大関和、固い決意を示すため断髪姿で桜井女学校に入学した広瀬うめーーーーー」

「ヴェッチの通訳を引き受けたのは共立女学校出身の鈴木雅だった。ブライトンやピアソンたちの教育の成果はこんなところにも表れた。結婚生活によって英語から長い間遠ざかっていた雅は、桜井女学校に入ったとき再びその能力をとり戻したのである。」

*文中の横浜の山手211番(ミッションホーム)は、おそらく山手212番の間違いであろう。横浜共立学園(アメリカン・ミッション・ホーム)のことである。

 

「横浜の女性宣教師たち 開港から戦後復興の足跡」(横浜プロテスタン史研究会編、2018


「来日とマリア・トゥルー その後のベントン母子の生活は不明であるが、彼女は十年余り経った1873(明治六))WUMS本部に宣教師の志願書を提出した。この時リディアは11歳の息子を本国に残しアメリカの教育を受けさせることにし、単身で日本へと向かった。同年1026日に横浜に到着し、アメリカン・ミッション・ホーム(現横浜共立学園)の教師となった。四十代の新たな出発であった。そのほぼ一年後の1874114日、WUMSから中国へ派遣され北京の女学校で教師をしていたマリア・トゥルーが、任地を変えて養女のアニーを連れて来日し、ミッション・ホームの教師としてリディアの同僚となった。旧知の二人は日本での再会を喜び、協力して教育に当たり、西田(岡見)ケイ、加藤(鈴木)まさ、菱川やす、桜井ちかなど、後に明治社会において女性医師や看護婦、女子教育者として先駆的な活躍をした女性たちに大きな影響を与えた。

 

「明治の横浜:英語・キリスト教文学」(小玉晃一、小玉敏子、笠間書院、1979


「学校移転の頃の生徒は東京大学付属病院の看護婦長となった加藤まさ、明治学院総理井深梶之助夫人となったせきなどがいた。」

*共立女子学園は、山手48番から明治5年に山手212番地(現在の場所)に学校移転

 

「横浜共立学園120年の歩」(横浜共立学園120周年の歩み編集委員会、1991


「加藤まさ(鈴木雅) 明治五年ごろに入学。ホームでトゥルーに教わる。鈴木氏と結婚した。夫の病死後、桜井女学校の看護婦学校に入り、卒業した。英語力は抜群であった。帝大医科大学の看護婦取締をし、「婦人衛生会雑誌」の編集もした。1891(明治24)年11月、「慈善看護婦会」(東京看護婦会)を創設した。この会は日本における派遣看護婦の最初のものである。「衛士園」の委員もしていた。

 

「日系アメリカ人最初の女医 須藤かく」(広瀬寿秀、北方新社、2017


「共立女学校の卒業生の多くは結婚して家庭に入ったが、先に述べた桜井女塾を創設した桜井ちか、後に須藤らと一緒に横浜慈善会病院を作った社会事業家のに二宮わか、東京帝大看護婦長となった鈴木マサなど、明治期の女性運動を積極的に引っ張ったパイオニアがいる。」

 

調べた限り、鈴木(加藤)雅が横浜共立女学校に在籍していたとする文献は、前のブログも併せてこれだけある。また鈴木雅がバラから受洗した記録は、横浜の海岸教会にあるようで、彼女がクリスチャンだったのは間違いない。

 

NHKならびに脚本家の吉澤智子さんの話では、

https://www.nhk.jp/g/blog/in53ohblxf-y/

 

鈴木雅をモデルにした大家直美は、「生後まもなく母親によって捨てられ、物心がついた頃にはキリスト教の牧師に育てられていた。その後、教会を転々として来たので、家族と呼べる存在はいない。幼い頃から何も悪いことをしていないのに貧しく恵まれていない人に多く接してきたため、神も人も心から信じきれないところがある」

とあるが、実際の鈴木雅は士族の出身で、クリスチャン、15歳にできたばかりのアメリカン・ミッションホームに入学し、24歳頃まで在籍して英語を習得し、陸軍中佐の鈴木良光と結婚した。NHKのキャラ設定とはほぼ180度違い、ここまで違うとモデルといえまい。純粋にドラマとして楽しんだ方がいいだろう。