現代アートを引っ張るアートギャラリー経営者、三潴末雄さんの「アートにとって価値とは何か」(2014、幻冬舎)に弘前出身の奈良美智さんのことが書いていたので紹介したい。
“ただこれは私の勝手な想像だが、一見無国籍なキャラクターのように思える奈良の少女たちの奥底には、彼の出身地の青森にまつわるオシラサマや座敷童のような、民俗学的なイマジネーションがあるのではないかという気がする。もちろん、はっきりとは意識していないだろうが、高度成長期に奈良が幼少期を過ごした風土の体験は、どこか東北の神話的な世界の古層につながる表現に結実したのではないか、機会があれば、奈良がどんな子供時代を過ごしたか、訊ねてみたいと思う。”
“津軽人物グラフィティー”で書いたように津軽には極めて個性的な独創的な人物が多い。版画家の棟方志功、小説家の葛西善蔵、太宰治、愛生園の佐々木五三郎、奇跡のリンゴの木村秋則、スキーの三浦雄一、柔術の前田光世、ジャーナリストの陸羯南、冒険家の笹森儀助、考現学の今和次郎, 女医、須藤かくなどなど、本当にたくさんいるし、共通項でまとめられるような性格がある。まず群れない、一人で活動し、周りから何を言われようと突き進む。チームとして活動するのは苦手で、大きな会社の創業者で津軽出身者は少ないし、金持ちはいない。これは厳しい自然も関係するが、あまり枠にはまらない、非常識な人物が出るところであり、周囲もそれを去勢したり、面白がるところがある。実はバカにしているのだが。そうした強烈な個性がそのまま残され、いわゆる変人を生む風土となっている。ある韓国の歴史学者が“日本の歴史を見て、羨ましいのは多くの奇人がいることだ”と言っていたが、これは新しいこと、革新的なことは奇人変人から始まるというである。真面目な秀才型の人物は勉強で育つが、こうした変人は風土が生む。これだけ奇人変人の多いところは日本でも稀であり、自分の好きなことを、金にならなくても、人に認められなくとも、楽天的にやり抜く人物が生まれることは誇ってよい。さらに彼らにとって、津軽以外の世界は全て外国であり、感覚的には東京もニューヨークも変わらず、海外への敷居は低い。
奈良にとって、青森、あるいは弘前とは三潴さんのいうような民俗学的、神話的なと言った大げさなものではなく、周りのこうした風変わりな奇妙な変人がいる世界であったのだろう。太宰治の故郷に対する有名な言葉に“汝を愛し、汝を憎む”があるが、多くの津軽人が持つ気持ちである。普段は無口なくせに、我が強く、酒を飲めば人の悪口を言い、喧嘩をする。人が成功すれば妬み、不幸を喜ぶ。こうした津軽の中で生きていくためには、自分自身が強く、まっすぐに進んでいかなくては行かず、そうした決意を奈良の少女の瞳に見るし、小説家、葛西善蔵、太宰治の孤独も同じである。笹森儀助が琉球を見る目、前田光世がブラジルで見る目と奈良の少女の目は同根であり、はるか先を見続けている。奈良の少女は、故郷、そこに住む人々に対する奈良自身であり、喋ると訛りが出るほど故郷に染まっていながら、故郷の濃密な雰囲気に馴染めず、孤独であり、それを突破する強い意志、これは東京などの都市部の孤独とは少し違うが、作品に表現される。うまい例ではないがが、津軽人のこうしたねじれた故郷感は、在日コリアンが本国に持つ感情に近いかもしれない。在日コリアンは自分のルーツは朝鮮であると十分に理解しているが、いざ韓国(北朝鮮)に帰るとその生々しい人間関係に我慢できず、日本での生活の方がよほどよいという。故郷の濃厚な人間関係は、懐かしいものであるが、毎日その中で生活するのはきつく、息が詰まる。寺山修司の胡散臭い自己顕示もそうした故郷への津軽人独特の反発であり、奈良の作品にもそうした要素を見出す。
奈良が今後、どのような方向に進むかはわからない。ピカソのように常に新しい画風を模索するのが画家としては理想的なのかもしれないが、これはピカソだからできることで、洋画家、小磯良平のように1950年代、時代遅れと言われ、スランプに陥り、抽象画などを模索するが、結局は原点の具象に戻ったような例がむしろ普通である。人の命は短いと考えるなら、同じ方向性でより高度で、深い表現にする富岡鉄斎や葛飾北斎の生き方が一つの理想となろう。コロナ騒動に対して奈良自身、芸術家としての回答はない。この鬱々とした社会をうまく表現するのは芸術しかなく、奈良の代表作が登場する可能性もあり、期待している。