2024年5月16日木曜日

津軽地域の唇顎口蓋裂患者



7月に弘前市歯科医師会で講演を頼まれた。2年後に閉院ということでの依頼だったので、これまでの30年の矯正臨床を振り返ってみようと、先日から過去の症例を調べている。主として唇顎口蓋裂患者と外科的矯正患者に絞って調べている。

 

1995年に開業して29年、弘前大学医学部附属病院形成外科とタッグを組んで、唇顎口蓋裂患者の矯正治療を行なってきた。総数で174名であった。だいたい形成外科からは3,4歳ころに紹介され、最初は虫歯予防、口腔衛生指導を主体とした治療を行い、上の前歯が出てくること、小学1、2年生頃から一期治療を開始し、その後、骨移植などを行いながら、中学2、3年生頃からマルチブラケット装置による二期治療を開始、終了後、2年間の保定で卒業とする。ここまで約15年、174名の患者のうち、ここまでいく患者は半分もいない。残りの半分は一期治療でこなくなる場合が多い。費用は、市町村の補助や自立支援援助でカバーできるので、負担はないが、それでも長期にわたって通院するのは難しいのだろう。北秋田やむつなど遠方から来る場合は、さらに厳しい。また経済的理由で、費用はかからないと言っても子供の矯正治療どころでない場合も多い。おそらく他の医院で矯正治療はしていないと思うので、不正咬合のままであろう。18歳以上になっても保険は適用できるので、是非とも受診されたら良い。

 

開業したての95年度は18名の患者数がいた。これは形成外科がこれまで持っていた患者を開業と同時に紹介した結果ではあるが、その後、10年くらいは10名程度の患者がきた。ところがここ10年ほどは5名以下となっている。当初は、近くに矯正歯科医院が3軒できたからかと思ったが、実際に他院で口蓋裂の患者はほとんど見ていない。もっぱら弘前大学形成外科―>当院という流れのようである。最近では、年間の紹介患者数も3名程度になっている。

 

一つの要因として、手術医療機関の多様化が挙げられる。インターネットなどで口唇裂の手術件数やランキングなどが紹介されており、地元の大学病院でなく、わざわざこうした病院で手術するケースも見受けられるようになった。そのため矯正治療が始まる頃になると、東京の歯科大学などから紹介される症例もたまにあるようになった。こうした歯科大学では、矯正歯科もあるので不正咬合の治療は矯正歯科でと言うことになろうが、実際に1ヶ月おきに治療に行くのは難しく、そのままになっている場合も多いだろう。それ以上の問題としては、出生数の低下が挙げられる。弘前市、五所川原市、藤崎町、平川市、板柳町、黒石市、つがる市を合わせても昨年度の出生数は約1500人、最近の調査では、唇顎口蓋裂児の出生率は1万人に17人、約600人に一人で、この計算からすれば、弘前市周辺の推定の唇顎口蓋裂児の出生数は2ないし3人となる。おそらく青森市の出生数1300人を加えても、八戸などの南部を除く津軽エリアの毎年の唇顎口蓋裂患者数は5、6名程度となろう。青森県全体でも、10名程度である。当院では、唇顎口蓋裂患者以外にも、トリチャ・コリン症候群、第一第二鰓弓症候群、クローズン症候群などの先天性疾患の患者も25名ほどいるが、さらに頻度は小さくなる。

 

出生数の低下により、こうした疾患数は低下するのは、当たり前のことであるが、一方、形成外科、矯正歯科ともに、ある程度の臨床レベルを獲得するためには、症例数を必要とする。ところがこのように症例数が少なくなると、形成外科では手術、矯正歯科では矯正治療をする経験が少なくなることを意味し、それは臨床レベルの低下を意味する。そうであるなら、臨床を集約化して、そこで治療を受ける方法もある。例えば、第一第二鰓弓症候群では小耳の子供が多く、その再建手術が必要となるが、これは高度な手技が必要となる。そのため、東日本ではほとんど札幌医科大学形成外科の四柳先生が手術をしている。年間で120-130症例の手術を行なっている。そもそも第一第二鰓弓症候群の頻度は5千人に一人と言われ、2023年の日本の出生数75.8万人で計算すると150人と言うことになる。もちろん再手術なども含めてケース数であるが、それでも、ほぼここで集約して手術が行われている。おそらく年間1、2例のところに比べると結果も雲泥の差があると思う。この考えで言えば、唇顎口蓋裂患者の手術については、東北のどこかに拠点を決めてそこで、集中的に手術をした方が、ドクターの教育あるいは患者にとっても良い結果が得られるかもしれない。ただ、矯正治療については、マルチブラケット装置になると少なくとも2年間月に1度通うとなると負担が相当に大きい。例えば、仙台に拠点を置くとすると、青森県から毎月、通院するのはかなり厳しい。

 

現実的には、患者数が減っても地元の矯正歯科医で見てもらうことになりそうだが、これだけデジタル化が進んでいる時代、こうした少数症例については、東北大学などにデーター集約の拠点を設け、診断、治療法などのAIを使ってある程度サポートするシステムを作っても良いかもしれない。


 

2024年5月13日月曜日

青森県立美術館 美術館堆肥化宣言

マチスです








子供の頃から絵は上手い方であった。小学5年生の時であったか、図工の時間、クラスの女の子が空を紫色に塗っていて驚いたことある。当時、図工の猪俣先生に習った、筆を洗った水で空を描くというテクニックに有頂天になっていただけに、なんで空が紫なんだという感覚は忘れられない。現実にある風景をいかに忠実に表現しようかとしていただけに、青い空、曇った空を紫に表現する彼女の感覚にびっくりしたし、図工の猪俣先生も絶賛していた。ただ彼女は絵の才能が特別あったのではなく、たまたまこの時、紫色の空にしただけであった。

 

昨日、フランク・ロイド・ライト展が最終であったので、家内と一緒に青森県立美術館に行った。建築家の展覧会というのは難しく、写真と設計図いっぱいの展覧会で、あまり面白くはなかった。普段は企画展だけいくのだが、今回は一般展も見たが、とりわけ棟方志功のでっかい肉筆の壁画には驚いた。大きな鳥を描いたもので、わずか2日と書き上げたというが、まるで富岡鉄斎の代表作の富士の絵に匹敵する迫力があった。これを見たただけでも行った価値はあった。おまけの展覧会の「美術館堆肥化宣言」という変わった企画展が開催されていて、現代アーティストから農家の人、写真家など様々な人々の作品が展示されていて、これは面白かった。とりわけすごいと思ったのは、いわゆるブリュットアートと言われる障害をもった人々の作品で、これについては以前から興味があって、2016.11.2ブログと2016.9,8のブログでも紹介した。今回、発表したのは弘前大学教育学部有志という集団で、作家の名前も書いていたが、記録するのを忘れた。強烈な個性を全面に出した色彩とフォルムで、こうした作品を見て、私が小学校の時に味わった紫の空と同じようなショックを覚えた画家も多いだろう。

 

まず女性の3点の肖像画、紹介では“子どもあとりえプランタン蔵(2022)”となっているが、マチスの傑作である。フォルムと色使いはすごいとしか言えない。ピカソ的とも言えようが、全く影響は受けていない。二点目の作品は、斜め線を多く描いたもので、うちの家内はたくさんの鯉のぼりと言えっていたが、私には楽しそうな小魚に見えた。色使いと余白、あるいは縦に流れた線もアクセントになっている。説明には「ほほえみおらんど蔵」(2023)となっている。ニューヨークのメトロポリタン美術館にあってもおかしくはない。作品から多くの発想を産むのは、現代抽象画にとっては重要な要素となる。三番目の作品は、ブリュットアートかどうかわからないが、完成度が高く、どこかで売っていれば書いたいと思った程だ。逆に完成されすぎて、最初の二点ほどのインパクトはないが、それでも売れる作品であり、画家として十分に生活できるであろう。

 

最後に棟方志功の鳥の絵を紹介するが、あんなにでかい2、3mある鳥は見たことがない。写真で見ると四曲の屏風のように思えるが、実物は遥かに大きく、壁画である。個人の家の依頼で描かれたというが、よくこんな大きな作品を家に入れられたものだと思った。あの大きな美術館でも狭いくらいであった。棟方も子供の頃から目が悪く、ある意味、ブリュットアートの範疇でみた方が良いかもしれない。左目はほぼ失明、右目の視力も低く、本人も言うようにモデルを使ってもよく見えないため、心に感じたものを表現した。もし棟方の視力がよければ、彼の作品は違ったものになったかもしれない。

 

草間彌生は、統合失調症の幻覚、幻聴から逃れるために絵で表現したとしているが、彼女しか見えない、感じられないものが作品として強烈な個性を放っているし、モネも晩年はほとんど視力がない中で、蓮池の連作を描き続けた。アンリー・ロートレックは、骨形成不全症で身体発育不全であったし、ゴッホも間違いなく統合失調症などの症状があった。山下清は日本のブリュックアートのはしりと言ってもよかろう。つまり偉大な芸術家の中にも、今ではブリュットアートとされる人も多くいて、殊更健常者と区別する必要もないかもしれないが、やはり、特別な教育も必要であろう。今回の展覧会では、あえてブリュックアートと言う括りを外して展示していたが、それでも強烈な個性を発揮していた。もっと画商なども積極的に応援、支援し、販売につながるようなところにきているように思える。さらに多少の技工が必要で費用もかかる、油彩画にもチャレンジしてほしい。さらに言うなら商売、あるいは作家として生活できるように、作品の販売も含めた支援も必要であろう。





2024年5月11日土曜日

 歯科医師国家試験の思い出

 



私が歯学部を卒業して、歯科医師国家試験を受験したのは、昭和56年であった。筆記試験と実技試験の二つがあった最後の方の年で、確か数年後には実技試験が廃止された。

 

筆記試験の準備は、1年ほど前からクラスの成績優秀者数名が担当委員となった。東京で行われる全国的な対策委員会に出席して、傾向と対策を伝授され、持ち帰ってクラスで説明する。国家試験の問題は各大学の教授が作り、ある程度、教授名が絞られるので、そこの大学の学生が傾向を調べてくる。最初の頃は数ヶ月ごとの集まりだが、受験日が決まると、頻回な集まりとなり、受験日直前になると電話で、こんな問題が出るぞといった伝言がしょっちゅう回ってくる。実際、ほとんどがガセネタであったが、唯一、ある大学から出た情報は正しく、事前に問題が漏れていた。後に問題となり、新聞でも取り上げられた。今は物忘れが酷いが、当時は暗記ものが得意であったので、それほど受験に苦労した記憶がない。歯学部、医学部の授業についていえば、暗記ものが得意な学生は楽である。受験が終わると、自己採点のために、みんなが解答を持ち寄り、正誤の検討をする。私は12回生であったが、開校以来国家試験に誰一人落ちたことはなかったので、初めて落ちると、大変なことになるというプレッシャーがあった。今でこそ合格率が常に100%ということはあり得なかったが、これがずっと100%であったのはよく考えると奇跡的であった。幸い私の学年も全員合格したのでほっとした。国試の結果発表前に、私は母校の小児歯科講座に入局したが、講師、助手の先生とその年の国家試験の小児歯科の問題を解いていた。答えに苦しむような問題だったが、突然、教授室から教授が出てきて、その問題について懸命に説明する。自分が作った問題だったようだ。

 

今は無くなった実技試験を紹介しよう。親父の世代の実技試験というと、実際の患者さんを大学病院に連れてきて、その手技を見て試験官が採点するというものだった。この方法は患者集めに苦労するが、今でも世界中で行われている試験方法で、最も実践的な試験法である。私らの時代では、実技試験は2日にわたって行われる。全部床義歯の人工歯配列は、咬合器に装着した蝋堤に人工歯を配列していくのであるが、何しろ、学生の頃はこの工程だけで2日を要したものを、2時間で仕上げる。もちろん筆記試験が終わり、実技試験までの1ヶ月、毎日、朝から夕方までひたすら実技試験の練習をするのであるが、実際に受験する頃になると、1時間くらいでほぼ配列し、あとがずっと研磨して仕上げる。試験監督のリーダーは、よその大学の教授であったが、補助官は自分の大学の教官であったので、試験中に問題があれば、肩を叩かれ、こそっと注意をもらう。補綴の実技試験のときは、突然、試験場に吉田教授が現れ、受験生の作品を見ながら、でかい声で「今年の学生は上手だ」と言い放つ。試験監督が母校の後輩と見越しての圧力である。他には歯型彫刻、根管口明示、二級インレーの形成とワックスアップなどがあった。この実技試験は、落とすと、次回には仕返しをされるので、落とせないという事情があった。実際に全国の試験でも実技試験で落とすことはなかったので、次第に試験をやる意味がなくなり、廃止された。ただ卒業し、国家試験にも合格し、医局に入局しても、そのまま基礎訓練ができていたが、実技廃止後は、医局内で基礎訓練が必要となった。実技試験の評価は難しく、実際の採点は、かなり感覚的であり、報復を恐れれば試験官の教授は、どうしても不合格者は出せなかっただけ、ある程度の基準を作れば、試験としては問題なかった。実際に、日本矯正歯科学会の臨床指導医(旧専門医)の症例試験で言えば、細かな採点基準があり、合格者は30%くらいであった。国家試験の実技試験でも、通常のゆるい基準でも、歯科医に向いていない手先の器用でない人が必ず存在し、5%くらいの不合格者が出ても不思議でない。それを言えば、臨床研修医でも、研修の最後には、研修医の評価を行い、不合格ということもありうるのだが、実際はほぼ100%合格する。以前、担当者に診療研修医に不合格になる医師、歯科医について聞いたところ、精神的な問題で、不合格になる人がたまにいるとのことであった。

 

私が知る限り、日本を除く他のすべての歯科医師国家試験では実習試験がある。アメリカの場合は、州ごとに試験を受けなければ、開業はできず、実際の患者の治療を試験官が採点する。韓国の国家試験では、支台歯形成やセファロ分析もあるという。


2024年5月6日月曜日

細見くんのこと

 



子供の頃、小学4年生の頃だったろうか。友人の細見くんの家に行ったことがある。当時、週刊漫画雑誌の全盛の頃で、最初にマガジンとサンデー、少し遅れてキングの3冊が毎週発行されていた。子供に人気があったのはマガジンであったが、サンデー連載のサブマリン707も読みたかった。一家で2冊の漫画を買うことは許されていなかった。それでうちはマガジン、お前はサンデーを買い、読み終わったら取り替えっこしようと友人と協定を組むこともあった。ただ細見くんだけはクラスで唯一、マガジン、サンデー、さらにキングも購買していた。キング自体はそれほど好きでなかったが、それでも工夫して百万円貯める「フータくん」という藤子不二雄さんの漫画を読みたかった。

 

細見くんの家に行くと、ランドセルを捨てて、玄関前の部屋でサンデーとキングを貪るように読んでいた。ある日、細見くんがうちの父親の勲章を見せてやると言われ、入ったこともない奥の部屋にこっそり忍び込み、勲章を見せてもらった、数個はあっただろうか。細見くんのお父さんは2、3度見たことがあるが、かなり年配の人で、最初はおじいさんかと思った。お母さんとはずいぶん歳は離れていた。細見くんは、うちのおとんは昔、戦争中、将軍だったと漏らしたことがあった。小学生でも戦争ものはよく漫画で読んでいたので、すでにその頃、少将、中将、大将という軍隊の階級は知っていた。将軍というのは映画や雑誌などでは知っていた存在だが、身直に知ったは初めてで、へえと思った。うちの親父も陸軍中尉であったので、親が軍人だっというのは珍しくはなかったし、祖父が将軍、将官であったとしてもおかしくはない。ただ親が将官であるのは驚きで、そのため今でもこのエピソードを覚えている。

 

小学4年生というと、西暦でいうと1966年頃で、終戦後21年経過している。ポツダム昇進で大佐から少将になったとしても、早くて陸軍士官学校の39期、昭和2年(1927)の卒業となる。終戦時の年齢は40歳くらいとなる。通常、少将になるのは大正10年卒(1921)の33期くらいからなので、終戦時、45歳以上、私が細見くんの家に行ったころは66歳頃となる。確かにこのくらいの年齢であったように思える。細見惟雄中将という人物もいるが経歴は違う。当時は、まだまだ親父も含めて太平洋戦争などに従軍していた人は普通にいたというより、大人はほとんど元軍人であった。

 

今になって思うのは、細見くんのお父さんも戦後、かなり苦労したのだろう。うちの母の妹の旦那、叔父さんは戦前、脇町中学校でもトップに近い成績で、陸軍士官学校、さらに陸軍大学校を出た軍人エリートで、最終階級は少佐であった。戦前は皆から憧れ、尊敬もされていたしが、戦後は逆風となり、徳島県脇町で小さなお菓子屋をしていた。また同じ町のおじさんの友人は、これも海軍兵学校卒業のエリートであったが、戦後は牧師をしていた。元軍人といった人々の人生も戦後、大きく変わった。細見くんのお父さんも、うがって考えると、妻子とも空襲などで失い、戦後に細見くんの母親と知り合い、ひっそりと暮らし、歳をとって生まれた我が子を溺愛したのかもしれない。

 

尼崎の繁益先生は、太平洋戦争中にラバウル航空隊で零戦に乗っていたという。戦後、命からがら内地に戻り、歯科大学に入学し、歯科医となって、親父の歯科医院の近くで開業し、親父とも仲が良かった。ラバウル航空隊というと撃墜王の坂井三郎を思い出すが、繁益先生が赴任した頃は、大きな空中戦もなく、ひたすら逃げていたと笑って話していた。親父にしても、昭和16年に招集されて、満州に行き、戦後は、捕虜になってモスクワ南方のマルシャンスク捕虜収容所に収容され、日本の帰ってきたのは昭和23年であったので、7年間、軍人生活をしたことになる。酒巻和雄少尉は、脇町中学校の歴史の中でも最も優秀な生徒であった教師をしていた長谷川の叔父さんが言っていたが、真珠湾攻撃で日本人初めての捕虜となった。

 

歴史的に考えると、明治では日露戦争(明治37年)までは、まだまだ江戸時代、戊辰戦争を経験した人が主力であったろうし、昭和10年頃はまだまだ日清、日露戦争を経験した人が幅を利かせていたのだろう。そして昭和40年頃までは大東亜戦争、太平洋戦争の経験者が普通にいた時代で、そうした意味では、周りに戦争を経験したことが全くない、久しぶりの時代なのだろう。終戦から79年、大坂夏の陣が終了したのが慶長20年(1615)、それから79年というと1694年、元禄時代。今は戦争のない、いい時代なのだろう。


2024年5月3日金曜日

兼松石居の月儀帖?

 



次のページ、このページが悩まされる、兼松石居の書?



兼松石居は、幕末の弘前藩を代表する儒学者で、同時に洋学も学んだ知識人であった。森鴎外の「渋江抽斎」にも登場する人物であるが、近年はほとんど忘れられた存在となっている。藩校であった稽古館が今の東奥義塾に移行していったのは、この人物の大きな存在が働いている。東奥義塾の創立者の一人といってもよかろう。

 

十年ほど前のことか、突然、兼松石居の直系の子孫の方から冊子が送られてきた。家にあっても宝の持ち腐れなので利用してほしいというものだった。「石居兼松誠成言遺稿」と題されたものであった。表紙裏は明治16年3月7日の日付の新聞で、石居が亡くなったのが、明治1012月なので、死後五年くらいにまとめられたものである。表題は「再帰 月儀帳」となっている。月儀帳とは1月から12月までの章草体の手紙の手本であり、中身はよくわからないが、そうした文章が書かれている。

 

もらってすぐに弘前図書館に持っていったが、特に興味を持たれることがなく、必要なさそうなムードであったので寄贈をためらわれた。弘前博物館の人が昔言っていたが、博物館は物の墓場であり、ここの来るともはや社会に流通することはないという意味である。本に関しても、図書館の寄贈用紙に記入し、そのまま図書番号をつけられ、所蔵庫の奥深くにしまわれ、二度と日の目をみないのはわかりきっている。

 

寄贈を躊躇われたもう一つの理由は、遺稿となっているが、兼松石居本人に書であるか、はっきりしなかったことがある。久しぶりに見てみると達筆な書で、流石に星野素関に書を学び、幕末の名筆家、平井東堂と並び称せられる力量を持っている。また明治の弘前を代表する書家、高山文堂は石居の弟子の一人である。本といったが、実際は、書面をとじたもので、一冊限りの書帖に近いものである。この書帖の途中に印が入っている。これまでなんとはなく見てみたが、急に森林助の「兼松石居先生傳」に石居の書が載っていたのを思い出した。その写真の印をみると完全に一致し、この書帖は兼松石居自身の遺稿であることがわかった。

 

書の上手さについては素人なのでよくわからないが、躊躇わない真っ直ぐで、自在な書であり、種々の書体を悠々と使っていて楽しい。遺稿とあるので、兼松石居本人の書であると思われるが、あまり他の手紙や書がないので、比較検討ができない。


一番大きな疑問は月儀帖の最後に 


「以高山氏蔵本謄写 明治十四年孟夏之吉 兼山山一弓」となっていて、“高山文堂が所蔵している兼松石居の書を書き写した 明治14年の初夏 兼山山一弓”と読めそうである。兼松石居は兼兼山という号を持つが、兼山一弓という別号はないし、門下生にもこうした名はない。誰かわからないが、この遺稿自体をこの兼山という人が書いたのか。ただ、その前面の印章は間違いなく兼松石居のものであり、兼松石居の月儀帖を兼山という人がコピーし、石居の印を押し、さら遺稿として直系の子孫に残すというのはどうかなあと思ってしまう。

 

このページがなければ兼松石居本人の遺稿と考えられ、公的機関に寄贈したいと思っているが、この点が解明されなくてはいけない。誰か詳しい人がいれば教えて欲しい。














2024年5月1日水曜日

不思議なことがありました

 



 





菊地九郎の手紙



不思議なことがあった。4月29日に弘前、養生会の114回目の松蔭祭に呼ばれて1時間ほどの講演をさせていただいた。この会も会員の年齢も高く、近年亡くなる人も多いため、存続が大変である。午前中の講演が終了し、養生幼稚園から歩いて3分の本町の成田書店を久しぶりに訪れた。少し本の入れ替えもあったので、数冊の本を購入したあと、店主と雑談になった。その折、最近では未使用の切手より使用済みの切手が貼っている手紙の方が人気があると話した。すると店主は最近こんなものを入手したと、古い手紙を見せてくれた。本を引き取った際に、本と本の間に混ざっていたとのことである。

 

住所をみると、驚いたことに先ほど講演した養生会の創立者の伊東重の宛先となっている。差出人をみると、1通は陸実となっている。これはすぐに陸羯南とわかった。陸羯南から伊東重への手紙であるが、やや新しい感じがする。もう1通は、?池九郎と呼べる。”菊”の崩しがすごいが、間違いなく東奥義塾の創立者の菊池九郎から伊東重宛の手紙である。さらに3通目は伊東重の弟の基への手紙であることはすぐわかった。今東光の母親を調べていた時に知った名前である。養生会に講演に来て、養生会の創始者宛への手紙を見つけた。全く偶然のことで驚いた。

 

このことを店主に告げ、いくらなのか聞いてみたが、わからない、そちらの方で値段をつけてくれという。これは困った。あまり安いと、それほど価値のないものかと自問してしまうし、そうかいって、私にとっては、とても重要な手紙であるが、一般の方からすれば、ほとんど価値はないだろう。数秒悩んだ挙句、妥当と思われる金額で購入した。個人的には貴重なお宝と思っているが、この手紙を最初に見て、陸羯南、菊池九郎、伊東基の手紙と思いつく人はあまりいないであろう。

 

内容のついては、達筆でほとんど読めない。とりわけ、菊池九郎の書、手紙については、あまりグーグルなどで検索しても出てこないので、比較ができない。消印をみると菊池九郎からの手紙は、明治4128日(1908)で、住所は東京芝区二本榎町1-61となっており、当時の住所とほぼ一致している。また陸羯南からの手紙は明治29?(1896)、住所は東京下谷区上根岸町85番地とまさしく、正岡子規の隣の番地である。当時としては珍しく、すでに住所、氏名が印刷されている封筒を使うあたり、手紙を多く

出すジャーナリストらしい。伊東基の手紙は明治28426日(1896)となっている。菊池基は菊池重の弟で、当初は東大で医学を学んでいたが、途中から文学部ドイツ文学科に移り、仙台二校などでドイツ語を教えた。菊池九郎の履歴をみると、明治412月は衆議院全院委員長になった年で、翌年に議員を引退したものの、担ぎ上げられ、明治44年に弘前市長に再度就任している。49歳の時の手紙である。陸羯南の履歴では、明治29年と言えば、39歳、まだまだ元気で、日本新聞を作って、積極的に活動していた時期である。内容のついては年棒など言葉が散見され、少しプライベイトな内容かもしれない。

 

取り立てて、明治の弘前の偉人の書を集めているわけではないが、それでも佐藤紅緑の父親、佐藤弥六の書、本多庸一の2幅の書、珍田捨巳は4通の手紙、そしてこれに菊池九郎、陸羯南、伊東基の手紙が加わった。他には真珠湾攻撃で有名な南雲忠一中将の書や弘前藩の儒学者、兼松石居の遺稿もある。あと欲しいのは探検家の笹森儀助の書か手紙があれば最高である。先日もヤフーオークションで佐藤愛麿の原稿が出ていたが、落札価格がかなり上がり、諦めた。


こうした古い手紙や書をみるたびに、引退後は古文書の勉強をして何とか読みたいと思っている。将来の宿題にしたい。