2024年5月1日水曜日

不思議なことがありました

 



 





菊地九郎の手紙



不思議なことがあった。4月29日に弘前、養生会の114回目の松蔭祭に呼ばれて1時間ほどの講演をさせていただいた。この会も会員の年齢も高く、近年亡くなる人も多いため、存続が大変である。午前中の講演が終了し、養生幼稚園から歩いて3分の本町の成田書店を久しぶりに訪れた。少し本の入れ替えもあったので、数冊の本を購入したあと、店主と雑談になった。その折、最近では未使用の切手より使用済みの切手が貼っている手紙の方が人気があると話した。すると店主は最近こんなものを入手したと、古い手紙を見せてくれた。本を引き取った際に、本と本の間に混ざっていたとのことである。

 

住所をみると、驚いたことに先ほど講演した養生会の創立者の伊東重の宛先となっている。差出人をみると、1通は陸実となっている。これはすぐに陸羯南とわかった。陸羯南から伊東重への手紙であるが、やや新しい感じがする。もう1通は、?池九郎と呼べる。”菊”の崩しがすごいが、間違いなく東奥義塾の創立者の菊池九郎から伊東重宛の手紙である。さらに3通目は伊東重の弟の基への手紙であることはすぐわかった。今東光の母親を調べていた時に知った名前である。養生会に講演に来て、養生会の創始者宛への手紙を見つけた。全く偶然のことで驚いた。

 

このことを店主に告げ、いくらなのか聞いてみたが、わからない、そちらの方で値段をつけてくれという。これは困った。あまり安いと、それほど価値のないものかと自問してしまうし、そうかいって、私にとっては、とても重要な手紙であるが、一般の方からすれば、ほとんど価値はないだろう。数秒悩んだ挙句、妥当と思われる金額で購入した。個人的には貴重なお宝と思っているが、この手紙を最初に見て、陸羯南、菊池九郎、伊東基の手紙と思いつく人はあまりいないであろう。

 

内容のついては、達筆でほとんど読めない。とりわけ、菊池九郎の書、手紙については、あまりグーグルなどで検索しても出てこないので、比較ができない。消印をみると菊池九郎からの手紙は、明治4128日(1908)で、住所は東京芝区二本榎町1-61となっており、当時の住所とほぼ一致している。また陸羯南からの手紙は明治29?(1896)、住所は東京下谷区上根岸町85番地とまさしく、正岡子規の隣の番地である。当時としては珍しく、すでに住所、氏名が印刷されている封筒を使うあたり、手紙を多く

出すジャーナリストらしい。伊東基の手紙は明治28426日(1896)となっている。菊池基は菊池重の弟で、当初は東大で医学を学んでいたが、途中から文学部ドイツ文学科に移り、仙台二校などでドイツ語を教えた。菊池九郎の履歴をみると、明治412月は衆議院全院委員長になった年で、翌年に議員を引退したものの、担ぎ上げられ、明治44年に弘前市長に再度就任している。49歳の時の手紙である。陸羯南の履歴では、明治29年と言えば、39歳、まだまだ元気で、日本新聞を作って、積極的に活動していた時期である。内容のついては年棒など言葉が散見され、少しプライベイトな内容かもしれない。

 

取り立てて、明治の弘前の偉人の書を集めているわけではないが、それでも佐藤紅緑の父親、佐藤弥六の書、本多庸一の2幅の書、珍田捨巳は4通の手紙、そしてこれに菊池九郎、陸羯南、伊東基の手紙が加わった。他には真珠湾攻撃で有名な南雲忠一中将の書や弘前藩の儒学者、兼松石居の遺稿もある。あと欲しいのは探検家の笹森儀助の書か手紙があれば最高である。先日もヤフーオークションで佐藤愛麿の原稿が出ていたが、落札価格がかなり上がり、諦めた。


こうした古い手紙や書をみるたびに、引退後は古文書の勉強をして何とか読みたいと思っている。将来の宿題にしたい。





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