2024年5月3日金曜日

兼松石居の月儀帖?

 



次のページ、このページが悩まされる、兼松石居の書?



兼松石居は、幕末の弘前藩を代表する儒学者で、同時に洋学も学んだ知識人であった。森鴎外の「渋江抽斎」にも登場する人物であるが、近年はほとんど忘れられた存在となっている。藩校であった稽古館が今の東奥義塾に移行していったのは、この人物の大きな存在が働いている。東奥義塾の創立者の一人といってもよかろう。

 

十年ほど前のことか、突然、兼松石居の直系の子孫の方から冊子が送られてきた。家にあっても宝の持ち腐れなので利用してほしいというものだった。「石居兼松誠成言遺稿」と題されたものであった。表紙裏は明治16年3月7日の日付の新聞で、石居が亡くなったのが、明治1012月なので、死後五年くらいにまとめられたものである。表題は「再帰 月儀帳」となっている。月儀帳とは1月から12月までの章草体の手紙の手本であり、中身はよくわからないが、そうした文章が書かれている。

 

もらってすぐに弘前図書館に持っていったが、特に興味を持たれることがなく、必要なさそうなムードであったので寄贈をためらわれた。弘前博物館の人が昔言っていたが、博物館は物の墓場であり、ここの来るともはや社会に流通することはないという意味である。本に関しても、図書館の寄贈用紙に記入し、そのまま図書番号をつけられ、所蔵庫の奥深くにしまわれ、二度と日の目をみないのはわかりきっている。

 

寄贈を躊躇われたもう一つの理由は、遺稿となっているが、兼松石居本人に書であるか、はっきりしなかったことがある。久しぶりに見てみると達筆な書で、流石に星野素関に書を学び、幕末の名筆家、平井東堂と並び称せられる力量を持っている。また明治の弘前を代表する書家、高山文堂は石居の弟子の一人である。本といったが、実際は、書面をとじたもので、一冊限りの書帖に近いものである。この書帖の途中に印が入っている。これまでなんとはなく見てみたが、急に森林助の「兼松石居先生傳」に石居の書が載っていたのを思い出した。その写真の印をみると完全に一致し、この書帖は兼松石居自身の遺稿であることがわかった。

 

書の上手さについては素人なのでよくわからないが、躊躇わない真っ直ぐで、自在な書であり、種々の書体を悠々と使っていて楽しい。遺稿とあるので、兼松石居本人の書であると思われるが、あまり他の手紙や書がないので、比較検討ができない。


一番大きな疑問は月儀帖の最後に 


「以高山氏蔵本謄写 明治十四年孟夏之吉 兼山山一弓」となっていて、“高山文堂が所蔵している兼松石居の書を書き写した 明治14年の初夏 兼山山一弓”と読めそうである。兼松石居は兼兼山という号を持つが、兼山一弓という別号はないし、門下生にもこうした名はない。誰かわからないが、この遺稿自体をこの兼山という人が書いたのか。ただ、その前面の印章は間違いなく兼松石居のものであり、兼松石居の月儀帖を兼山という人がコピーし、石居の印を押し、さら遺稿として直系の子孫に残すというのはどうかなあと思ってしまう。

 

このページがなければ兼松石居本人の遺稿と考えられ、公的機関に寄贈したいと思っているが、この点が解明されなくてはいけない。誰か詳しい人がいれば教えて欲しい。














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