

今年は、本多庸一(1849-1912.3.26)の没後百周年に当たります。そしてちょうど今日が、100年目の命日となります。
院長を務めた青山学院では、5月に本多庸一先生昇天100周年記念事業が行われ、礼拝、シンポジウム、感謝祭、気賀健生著「本多庸一」の改訂版を出す予定です(青山学院資料センターだより)。弘前でも弘前教会、弘前学院で記念事業が行われるようですが、東奥義塾では特に記念事業はないようです。
本多庸一の墓は、ふたつあり、ひとつは東京の多磨霊園にあります。もともとは東京青山墓地にありましたが、昭和7年に多摩霊園に移されました。詳細については「津軽と江戸」http://kasatetu.exblog.jp/10749883/のブログに書かれています。もうひとつの墓は、故郷の弘前市、本多家先祖代々の菩提寺、新寺町本行寺にあるようです。小さなもので「本多庸一久亨墓」といかにも武士らしい名が刻まれています。明治19年、本多の妻みよ子が急死した際、本多家の菩提寺の本行寺に会葬者とともに葬列が到着しましたが、宗派の違いのため寺門は閉じられたままとなりました。何とか交渉して脇の通用門から通ることが許され、埋葬できたようです。後に本行寺の高僧と本多は親交を結ぶことになったようで、本多自身の会葬はこういった問題もなかったと思われます(津軽を拓いた人々より、相澤文蔵著)。この本行寺の本多の墓については確認していませんが、こういった小さな墓は来訪者がいないと整理されてしまいますので、探しにいくともうなかったということも度々あります。
本多の生誕地にも、この没後100周年を記念して説明板が建てられるようですが、場所は確実に特定でき、今の弘前大学医学部正門前のアパートのところです。門は在府町に面しているので、できればそちらに建てた方がよいでしょう。明治3年。本多家は藤崎に移住し、藤崎町の庄屋清水理兵衞宅に住んだと藤崎学エコミュージアムに記載されていますが、明治4年士族引越際の地図を見ると隣の中田彦五郎には△印がありますが、本多八郎左衞門(本多庸一父)のところには△印はなく、明治3年には本宅を残したまま移住した可能性があります。
(http://www.fujisakimachi.jp/apple-history/150-2011-03-28-06-49-04)
ついでにいうと、本多東作久貞と西舘俊子(西舘孤清伯母)の間に男子がいなかったため、分家の本多忠左衞門の息子を長女とも子の養子にして、本多家10代本多東作久元となりました。この久元が、本多八郎左衞門で、本多庸一の父親となります。それ故、本多庸一の武士として、本多家11代としての正式な呼び名は、本多庸一久亨(久の字を代々つける)となります。なお分家の本多忠左衞門の長男は、長坂町の本田軍蔵(本多の間違いか)と思われます。故郷の菩提寺には先祖代々の名前を刻んだのは、本多の士族としての誇りによるものかもしれません。
本多庸一は、最初東長町の清藤という漢方医の家で伝道所を開きましたが、場所は特定できません。その後、明治10年に今の弘前教会のある所に住まいと伝道所を移しました。櫻庭家の邸宅を購入したとなっていますが、明治2年絵図では、斉藤掃部の屋敷となっています。明治4年の地図では、それぞれ元は斉藤良助、今は町家となっており、ここが櫻庭家だったのでしょう。さらにおもしろいのは、今の教会の隣の喫茶店あたりは浴室となっていますし、道を挟んだ高屋恒之進宅は明治四年より劇場となっています。おそらく福士幸次郎の父親が働いていた柾木座のことでしょう。
本当に弘前博物館にお願いします。何とか明治四年士族在籍引越際之地図並官社学商現在図、なんとかデジタル化してください。館内に収蔵しても、何ら役には立たず、公開して初めて市民に活用できます。費用も明治二年弘前絵図でデジタル化した程度でしたら、数万円でできます。明治二年と四年の地図、両方を公開することで、比較ができますし、資料の保存の観点からも重要です。ちなみに今回は弘前市史に入っている付録資料の明治四年士族在籍引越之際地図を図書館で拡大コピーしたものを使用していますが、ほとんど判読できないものです。明治二年絵図を参照に何とか読めますが、一部の研究者のみに原本を見せて、写真撮影をさせるやり方はどうもあまりよいやり方ではないように思えます。