2026年3月22日日曜日

もうひとりのナイチンゲール 鈴木雅の生涯

 


今春から始まるNHKの連続ドラマ,「風、薫る」に関連する本が出版されてきた。鈴木雅については資料が少ないため、大関和に比べてどの本も記述は少ない。ドラマの原案となった「明治のナイチンゲール 大関和物語」(田中ひかる、中央公論新社)でも、最近刊行された「戦う白衣の天使 大関和・鈴木雅ものがたり」(櫻庭由紀子、内外出版社)も、記述の多くは大関和についてであり、鈴木和については少なく、しかも横浜のフェリス出身という設定になっている。鈴木の最も大きな特徴は看護学校に入学する前に英語が堪能であったことが挙げられ、日本語のできない看護教育のヴィッチ先生の通訳をしていたほどである。英語をABCから初めて1年や2年くらいで、ネーティブの外人の授業の通訳をするほどのレベルにはならないことは、すべての日本人は知っている。ましてや英語が日本に導入され始めた日本において、ネーティブの外国人と同じように話せる女性はわずかであったであろう。英語が堪能であった鈴木雅は日本でも極めて稀な女性であり、その背景をドラマできちんと説明しないとおかしなことになる。

 

その点、先週、刊行された伊多波碧著、「もうひとりのナイチンゲール 鈴木雅の生涯」は、幕臣の父親、静岡藩での英学教育、そしてそれに触発された横浜共立女学校(現:共立学園)の入学、修練をしっかりと記述することで、これまでの本では十分説明できなかった鈴木雅の英語力を示せたと思う。ほとんど資料のない状況で、さすがに多くの著書を手がけた伊多波さんだと思う。常々思うが、本当に小説家は嘘が上手い。わずかな情報からさも本当と思わせるような嘘を紡ぎ出し、そこに読者を連れて行く。見事である。

 

NHKの朝の連続ドラマ「風、薫る」についても、ようやくその内容がわかってきた。鈴木雅をモデルにした大家直美という人物が登場する。母親に捨てられ物心がついた時から牧師に育てられ、その環境の中で外国人宣教師の妻から英語を習うという設定である。もうひとりの主人公、大関和をモデルにした一ノ瀬りんは家老格の名家の娘という設定で、大関和の史実と同じであるが、鈴木雅については履歴がはっきりしないことから、ドラマ構成上、大幅に設定が変えられている。家老の娘と孤児という対比はドラマとしては面白い。そして大家を育てる牧師としては植村正久をモデルにした吉江善作という人物が登場する。それでは、明治初期にこうした孤児が教会で育てられ、そこで英語を学ぶようなことはあったのだろうか。実際の鈴木雅(加藤雅)が横浜共立女学校に入学するのは明治五年であるので、当時、日本人が主催する教会はないが、元々、横浜共立女学校(アメリカカン・ミッションホーム)は、混血児の保護と教育を主眼としており、中には日本人孤児がいてもおかしくはなかった。確かに一期生を見てみると学費も高かったことから殿様の娘のような裕福な家庭の子供が多かったが、それでも明治12年頃には貧農の生まれ?の阿部はなが共立女学校に入学し、その学費、寄宿代費は、アメリカの支援者の寄付によって支えられていた。阿部はな自身は孤児ではないと思うが、フィリップという支援者から1881年には102ドル、1886年には58ドルに寄付があり、これは6年分の学費と寄宿代費に相当する。教会自体の運営は米国などにある本部によるもので、牧師個人で孤児を引き取り、教育させることは実際できないが、それでも支援者がいて、その人が資金を出すなら、ドラマの大家のようなケースもありえた。ドラマ内容がまだはっきりしないが、日本人の教会にくる宣教師夫人から英語を習ったという設定では、少しくらいの英語はできるようになっても、通訳できるようなレベルになるのは難しい。共立女学校の初期の教育のようにほとんどの教科が英語で授業が行われ、英語詩の暗記が英文添削など英語まみれの寄宿生活を数年以上することが必要となる。のちに青山学院大学の院長になる弘前出身の笹森順造は、青森県立第一中学校、早稲田大学を卒業し、アメリカに留学するが、全く英語が分からず、地元の小学校に入学しようとするが25歳では許してもらえず、聴講生として入学し、召使のような生活をしながら、ようやく2年後にデンバー大学に入学した。日本で17年も英語を教わったのに全く役に立たなかったと述べている。それほど英語の取得は難しい。

 

同じような外国人教師による英語教育を受けたドラマとしては「花子とアン」を思い出すが、そのモデルとなった村岡花子(1893-1968)と鈴木雅(1858-1940)とは35歳も歳が離れており、時代が全く違う。村岡が6歳の明治32年はほぼ男女とも小学校は義務教育であったが、鈴木が6歳の元治元年はそもそも近代小学校制度がなく、寺子屋世代であった。日本最古の女子校、フェリスができたのが明治三年、鈴木が12歳の時である。つまり村岡花子を描いた「花子とアン」は、次の世代、鈴木雅の娘の時代の話なのである。こうした時代背景に破綻がないか、注意深くドラマをみようと思う。

 

 


2026年3月19日木曜日

迫力暗記法



子供の頃から、暗記だけは得意であった。大量のものを短期間で暗記できた。ただ欠点はすぐに忘れることで、よく天才が一旦記憶すると写真のような形で頭に残るというが、そうした類のものではない。大学生の頃だったが、ドイツ語かラテン語の試験で、前夜に500くらいの単語を一気に覚え、答案に書いて、いざ見直そうと思うと、もう忘れており、見直しできず、そのまま試験用紙を提出した記憶がある。

 

中学、高校になっても、世界史、日本史、などの暗記ものは成績が良く、ずっと90点以上の点数であった。それに比べて、思考力を答う数学、物理はからっきし弱く、学力試験や模擬試験でもこの両科目が足を引っ張っていた。大学入試では、生物、化学、物理の3教科から2教科で受験できる学校があったため、物理を捨てることができたが、数学はどこの学校も必須であった。英語、国語(漢文、古文)、化学、生物などは、暗記ものの範疇に入るため、何とかなったが、流石に数学は暗記ものでなく、唯一、数III、微分積分が暗記ものに近かった。そのため、学校の学力試験や模擬試験でも数学の成績が決め手となり、校内の学力試験の数学が25点しか取れず、175名中159番というひどい時もあれば、逆に数学の点数がいい時は22番ということもあった。最後までこうした落差の大きい成績であった。

 

高校を卒業して、最初に大学受験した時も数学が5問中、0.5問しかできず、数学の試験が終わった瞬間、落ちたと思った。その後、神戸の大道学園という予備校の試験にも落ちて、一人、大阪のYMCA予備校を受け、豊中校には入れず、天王寺校に入ったが、ここでも数学はやはり苦手だった。ところが一浪で受けた試験では、本当にたまたまであったが、数IIIが主体で、5問中、4.5問(答えは合っていた一問は半分として)正解という奇跡が起こり、合格した。

 

私の記憶法というのは、ひたすら口でぶつぶつ喋って、何度も、何度もページをめくっていくというもので、自分で迫力暗記法と勝手に命名した。試験直前になると、例えば世界史の場合、1ページ、数秒で次々と、「ハンイバル、カルタゴ、カンナエの戦い、紀元前216年」と喋っていく。友人からはすごいなあと言われていたが、少しイッテいる人と思われていたのだろう。この暗記法は、歯学部に入ってからも活躍し、6年間の授業や国家試験でも苦労したことはない。実際、歯学部に入ると、これは医学部でもそうだが、思考力より暗記力が大事で、授業や試験のほとんどが暗記ものであった。数学のような思考力を問うものはなかった。その最たるものは歯科医師国家試験で、ほぼ100%大量の本を読み、記憶する。たぶん医学部でも、暗記ものより数学や物理の好きな人は入学後、苦労したかもしれない。一般の人には信じられないかもしれないが、解剖学では骨の名称はラテン語の正式名でひたすら暗記していく。膨大な量であるが、全く平気であった。

 

その後、月日は流れ、三年前、66歳の時に新しい矯正歯科専門医制度が発足し、筆記試験を受けることになった。最初の試験であるので、かなり大まかな出題範囲のため、プロフィットという人の書いた“プロフィットの現代矯正学”の新版を買い、何度も読み、矯正歯科の基本知識をおさらいし、さらにこれまでの歯科医師国家試験(歯科矯正)などを解いたりした。ところが若い時にあれだけ得意であった暗記が全くできない。例えばターナー症候群の特徴と咬合を述べよという問題の回答でも、以前は簡単に覚えられたのだが、66歳になると全く覚えられない。半年くらい、診療の合間に勉強したが、一週間も勉強の間があくと、前に覚えていたことをすっかり忘れている。笑っちゃうくらいの記憶力の低下である。

 

最終的には自分で問題を作り、それを回答するとやり方で何とか、覚えることができ、専門医試験でもまあまあの成績は取れたと思う。試験終了後、皆で答え合わせをするのだが、五人の先生で、“三番目の問題の回答はAだったよなあ”というと、三人に先生がそうだと答えるが、一人の先生は間違ったと落ち込んでいた。この光景は高校、大学でよく見たものである。この五人の先生はいずれも日本を代表する60歳以上のベテランの矯正歯科の先生で、その光景は面白かった。60歳を過ぎての暗記もの試験は相当厳しい。たぶん大学の教授でも受験勉強しないと難しいのでは。

 

今ではさらに記憶力が低下し、まず人の名前が覚えられないを越して、忘れていく。たぶん忘れてもAIで検索すれば簡単に検索できるという安心感も影響している。イーロンマスクはAIの進歩で医者は必要なくなると言っているが、実際、医学部の授業のほとんどが暗記ものであること、人間の暗記の限界と年齢による衰えを考慮すると、診断、治療法の多くはAIに置き変わる未来が予想される。ただマスクがいうように外科あるいは歯科治療などの手技をロボットが置き換わるようになるには、まだまだの時間が必要だろう。

 

2026年3月15日日曜日

歯科医院の資産価値

 



アメリカの1930年代の複葉旅客機 カーティスt-32 コンドルを描いてみました



AIでプロの画家風にと修正してもらいました。うまい




前回、閉院から遡って開業の仕方を考えたが、歯科医院の資産価値についてもう少し触れたい。結論から言うと、開業した瞬間に資産価値は土地価値のみとなる。

 

例えば、1000万円の歯科用CTを購入したとしよう。開業して5年目に病気で閉院することになり、業者に買い取ってもらうとする。その場合の買取価格は10万円程度で、私のところでのプランメカのデジタルセファロは8年の使用で、買取価格はゼロ円であった。デジタル機器は10年以内で無価値、処分するしかなく、数年の使用しかなくても中古販売するのは非常に難しい。基本的にはPL法の実施により、中古販売するためには製造元がきちんと整備、修理して販売しなくてはいけなくなり、その手間を考えると、製造元はこうしたことはしていない。そのため30年前にあれほどあった中古歯科機材メーカーはほとんどなくなり、歯科の分野でのリサイクはほぼないという状況である。逆に10年を超える歯科ユニット、レントゲン、歯科機材については、撤去、処分料がかかり、ユニットで一台数万から十万円の費用がかかる。撤去費だけで数十万円からテナントで原状回復を求められると3、4百万円の費用がかかることがある。

 

ついで建築した歯科医院の閉院を考えると、東京では居抜きでの売買もあるかと思うが、青森のようなところでは歯科医院の居抜きはほとんどない。歯科医院の場合、ユニットの設置関係で配管、エアーのダクトを床下に設置しなくてはいけないので床上をしている。そのため、地方では歯科医院や医院の建物は、用途が限られ、不動産として売れることはないし、売る場合も相当に叩かれる。つまり1億円で建てても、十年経つと、壊して土地だけで売買しなくては売れない。

 

結局、開業して十年での歯科医院の資産価値は歯科機材の資産価値はゼロ、歯科医院の建物の資産価値はほぼゼロ、撤去、解体費に数百万円かかることになり、なおかつ200坪以上の土地は売れない。青森県で200坪の土地、坪15万円、3000万円に、建物、機材合わせて計1億円の歯科医院を建てても、売る場合の価格は、土地がなかなか売れず、実売価格は2000万円程度になる。元金をいくらか返済していても、8000万円以上の負債となる。東京のような都市部は、今後も土地価格の上昇が見込まれ、歯科医院を建てるのもキャピタルゲイン、賃貸費用の高騰を考えると無駄ではないかもしれないが、地方は急激な人口減少が見込まれ、さらにう蝕の減少に伴う患者数の低下を考えると、大きな負債を負って開業するのはリスクが多すぎる。商売の鉄則は、いかに無駄を省き、安く仕入れて高く売るのに尽きる。歯科医院の場合、閉院する時点では土地も含めて資産価値はゼロと考えた方がよく、商売の鉄則からすれば、いかに安く開業し、少ない従業員、少ない経費で、なおかつリスクの少ない方法で経営するに尽きる。十年たてば無価値なものに億単位の金を突っ込むのは余程のリスクを持つ。ましてや会社経営もしたことはない、経営の素人の若い先生が、こうしたリスクを負うのは信じられない。会社経営の鉄則は、これも小さな企業から始めて、試行錯誤をしながら大きな企業を目指すことである。歯科医院経営の規模はピンキリであるが、チェアー4、5台、2億円の開業資金、140-50人の集客を目指す歯科医院は、上位規模と言える。平均で、1日の患者数が23名とされており、その倍の患者が来ないと経営できないのであれば、それは無謀とも言える。さらに十年で資産価値がゼロであれば、撤退もできない。

 

一方、閉院するにあたり、少し失敗したと思うことがある。私の場合5年前から閉院を考え、その間、無駄な経費を減らすために物を極力買わないようにしていた。欲しいものがあれば経費で買い、閉院してからは自宅で使えばよいということを忘れていた。原価償却期間が残っていても、年金収入だけであれば税務上問題はないと思う。私の場合、失敗したのは、6年間使っているマックのパソコンは刷新しておけばよかったし、USMハラーのキャビネットを買ったが、これも医院でも使えるので、経費で買っておけばよかった。逆によかったのはヤコブセンのシティーホールという壁掛け時計を十年前に買ったが、これは今でも重宝している。またスティールケースのGestureやイタリア、ボビーワゴン、ノルウエイのScandia chair、アルテックの椅子などは高かったが、いわゆる名作家具は座り心地もよく、ファッション性も高い。閉院後の欲しいという人が多く、娘、親類にあげて喜ばれた。閉院後も自宅で使う前提で、医院の家具や備品を買うのもいいかもしれない。


宮崎駿風に描いてもらいました


 




2026年3月11日水曜日

歯科医院を閉院して分かったこと 新規開業について

 


アメリカの歯科ユニット会社、A-decは、歯科医が開業して引退するまで30年間と想定して、その間、故障が少なく、メンテナンスが容易な歯科用ユニットをコンセプトにしている。そのため、一つの機種を最低20年以上わたり、継続して売り続け、パーツの予備も多い。私が使っていたA-dec500シリーズも販売してすでに20年以上経っているが、いまだに最上級機種として売り出しており、その前のカスケードなどのシリーズとのパーツの共用も多い。一方、日本のメーカーは数年ごとに新しい機種を発表し、パーツも7年程度しか保管していないため、20年も使ったユニットは修理不可能とされ、泣く泣く新しいユニットを買う。あと十年で引退しようと思っても、これでは無駄な出費となる。また中古ユニットを買おう、あるいはまだ五年しか経っていないので売ろうと思っても、PL法で基本的にはメーカーは引き取らない。結局、閉院する場合も比較的新しいユニットであれば友人にあげるくらいしかないが、器材屋は嫌がり、修理はしない。

 

歯科医の仕事寿命は30-40年くらいと思われる。25歳で卒業、研修医を終わり、大学の医局、開業医に勤務して、自分で開業するのは35歳くらい、そして70歳で引退するとなると35年となる。私の場合、小児歯科、矯正歯科、口腔外科の医局に残り、開業したのが39歳だったので、ちょうど30年だった。

 

地元の経営コンサルタントによれば、今や歯科医院の開業には1億円かかるという。田舎では駐車場は必須なので、200坪くらいの土地に40坪の歯科医院を建てた場合、土地代に3000万円、建物に4000万円、歯科機材に3000万円くらいかかり、計1億円とする(運転資金は除く)。35年間、働いて引退するとする。その場合、建物、歯科機材は全て解体、廃棄となる。廃棄及び解体費に500万円かかり、田舎では土地は売れない、下手すると35年後で、弘前のように人口が半分になると土地価値は半分になる可能性もある。その場合、200坪の土地は1500万円となり、解体、廃棄費、諸経費を引くと手取りで1000万円くらいとなる。35年で1億円の歯科医院が1000万円になる。銀行、35年ローンで返済するとなると2%利率で利息は4 000万円、固定資産税は30万円の35年間、1050万円で、建物、歯科機材の修理修繕、リフォーム、買い替え費で2000万円、合計で7050万円かかるので、売却した場合のマイナスは9000万円+7050万円で、16050万円となる。

 

 

弘前市でビルのテナント開業をしていたのは結局、私のところが唯一で、これは矯正歯科専門医という特殊な状況により。一般歯科の場合はやはり一戸建ての開業となる。この場合も3040年限定の商売だと考えれば無駄が省ける。まず土地は地方では下がる可能性が高く、できれば賃貸での長期契約が良い。地方では大きな土地が余っており、200坪くらいの土地でも年間150万円くらいで借りられ、35年間5250万円となる。買うよりは高くなるが、土地の固定資産税は大家持ちとなるし、賃貸料は全額経費となるし、35年後、土地価格が下がることによる含み損を考えると、実質はそれほど高くはない。もちろん土地価格が上昇する都会とは話は別である、

 

建物は、1億円かけようが10億円かけようが、35年で無価値となるため、できるだけ安いもの、35年もてばいいもので良い。そうしたコンセプトで作られたがコンビニの建物で、おおよそ30年の耐久性を持ち、建築費は一般住宅の半分以下である。また解体費も安く、歯科医院にはうってつけである。同様に、歯科ユニットはA-decを勧める。35年間はほぼ持つし、修理も可能である。レントゲン、レセコンなどデジタル機器は10年で陳腐化していくので、買い替えを前提に安いものでも良いし、CTなどは将来買うべきものである。

 

要は35年間、働いて、それにかかった開業費用はほぼゼロになると考えた方が良い。歯科医院の場合、保険診療がメインであり、結局は収入は患者数に依存する。日本の保険治療費は今後とも安いと思われ、その経営実態はコンビニなどの薄利多売の小売業に近い。多くのスーパーマーケット、コンビニは、借地、安い建設コストの店舗でしているのに、なぜ歯科医院はそうした方向を取らないのか。AIで店舗建築、土地購入に費用をかけていける業種を検索すると、最初は病院、歯科医院も出てくるが、青森県を追加すると医療介護の複合型サテライト拠点と家族葬専用セレモニーしか残らない。くれぐれも地方で歯科医院を開業する場合は、経営コンサルタントに騙されず、とにかく立地がよく、駐車場が広く、安い賃貸で借りられる土地を探し、そこに安い建築費の店舗を作ることが肝要だと思われる。閉院して全て処分すると、総計16千万円かけた医院でも、結局はほぼタダになる悲劇を十分に認識してほしい。


2026年3月9日月曜日

矯正治療のAI化

 


不正咬合の治療、矯正治療は、おおまかな治療方法はほぼ確立しているが、個々の患者の治療法となると全ての患者で違う。色々な要素が治療に絡んでくる。まずセファロ情報としては、上下の顎の関係、上下の切歯の傾き程度、鼻と口元の関係、今後の成長、気道の大きさ、などから、手術を併用した方が良いのか、抜歯した方がいいのかを検討する。オルソパントモ写真からの歯根の長さ、う蝕、エンド処置、第三大臼歯、埋伏、先天性欠如などをチェックし、さらに模型からは大臼歯、犬歯関係、オーバージェット、オーバーバイトなどを調べて、これらのデーターを総合して、治療方針を立てていく。ベテランの先生であれば、30分もあれば、ほぼ治療方針を立てられる。こうした治療方針をもとに実際の治療が行われるが、20-30%くらいはうまくいかない。咬む力が弱ければアンカレッジが弱いし、しっかり咬ませるのは難しい。舌の癖が強いと開咬になることもあるし、抜歯部が狭窄すると隣接歯の動きが遅くなったり、あるいは歯根吸収、骨性癒着、歯の動き自体が遅いこともある。さらにヘッドギーアやゴムを使ってくれない、歯磨きをしてくれない、来院してくれないなどの患者自身の問題もある。

 

ただこうしたデーターも多く揃え、細かくデーターを入力すれば、今のAI技術でかなり正確な診断ができる。昔、40年くらい前のことだが、鹿児島大学の伊藤学而先生の提案で、全国の歯科大学の矯正科と共同で、大きなデーターベースを作り、診断に役立てようとしたことがある。当時のコンピューターレベルでは、セファロ分析値などのデータくらいしか入らなかったが、今ではセファロ、パントモ、模型、顔面、口腔内写真そのものを入力し、AI技術で類似症例の検索から治療法の提案までおそらく現行の技術でも可能であろう。

 

ただ問題はここからで、多くの症例をAIで学習させれば、同じような症例が出てくるし、その治療法も出るだろう。例えば、上下左右第一小臼歯抜歯、ヘッドギアー併用、マルチブラケット装置で約2年間という結果が出たとしよう。それではこの通りに治療すれば、治るかというとそれはなかなか難しい。個々の患者、あるいは治療経過によって治療方法を修正する必要がある。毎回、毎回、検査を行い、その都度、治療方針をAIで判断していけば、確かにできるかもしれないが、時間がかかるし、ワイヤーを曲げるのは術者で、その技術に個人差がある。機械でワイヤを曲げる方法があれば、これもAIに任せることができるかもしれない。

 

つまり未来の矯正治療は、ブラケットは全てセルフライゲーションブラケットを使い、オームコがしていたような個人、個々の歯ごとのトルク、インアウトの入ったブラケットを個人トレーで装着し、AIの指示に従って、ワイヤーを交換していく。毎回、写真を撮り、これもAIの指示により、ベンド、トルクの入ったワイヤーが自動的に作製され、それをセットする。毎回、毎回、こうした手順で治療を進めていく。ゴムのサイズは自動的に距離から強さを決定する。ここまですればワイヤー矯正については、ほぼドクターなしで治療が可能かもしれない。それでもうまくいかない症例が出る。

 

マウスピース矯正については、矯正治療のプロである矯正専門医での普及率が10%くらいなので、適用症例が限られ、主流とはなっていない。まだまだワイヤー矯正を超える存在にはなっておらず、個人的な感想をいえば、今後もその傾向は変わらないだろう。優れた治療法はどのような分野であっても驚くべき速さで浸透する。マウスピース矯正も登場してはや20年以上経ち、それでいて専門家で、もっとも多くの矯正患者を見ている矯正歯科専門医でもまだ10%くらいの症例しかない現状を考えるとこれ以上の発展は難しい。現状では、AIによるワイヤー矯正治療法を確立した方がいいのかもしれない。昔、テレビドラマで、手術をAIの助言で進めていくような話があったが、最終的には術者の技量で手術の良否が決定されていた。ダビンチのようなアシストツールが自動的に手術を行うようになるのはまだまだである。

 

ただ矯正治療でいうと20-30%のうまくいかない症例についてはAIによる診断はできても、舌突出癖などAIで治るわけではなく、最終的には“舌機能の異常による開咬です。何度も舌機能訓練をしていますが、治りません。これ以上、治療を継続しても無理でしょう」という回答になろう。この場合でも、最初の診断の段階では、「舌機能の異常による開咬です。小臼歯抜歯による成功率は  %、大臼歯の圧下(アンカースクリュー)による成功率は  %、手術を併用した場合の成功率は  %、後戻りも含めて成功率は  %となります」くらいになろう。結局はどの治療法を選ぶからは術者の経験と患者との話し合いになり、AI任せにはできない。

 

一時は、未来の矯正治療として、歯の移動を促進させる物質(プロスタグランジンなど)を利用する方法も模索されたが、あまりエピデンスがなく、それほど治療期間の促進効果もないため、ギブアップ状態である。未来の矯正治療をAIで調べても、独立移動型裏側矯正装置(Bravaなど)やAIマウスピースなどが出てきるが、これはネット上の“未来の矯正治療”といった語句からだけのもので、全く無意味である。おそらく可能性として高いのは百年後も基本的には現状のワイヤー矯正が主流であろうし、それを使う優れた矯正歯科医が必要であろう。むしろう蝕は現状でもかなり少なくなり、将来的には歯周疾患、う蝕もワクチンができれば、ほぼなくなるであろう。そうした未来では、歯科医=矯正歯科医+口腔外科医になるかもしれない。その場合、口腔外科医の仕事は先天性疾患、口腔がん、嚢胞、抜歯(う蝕、歯周疾患以外の原因による)に限られ、矯正歯科が歯科の主流となりうる。


2026年3月7日土曜日

Google のジェミニを使ってみて

元の白黒写真


最初のカラー化、 カウリングが緑になっている、後ろのテントは勝手に付け加えている

カウリングは群青だが、コクピットの枠が銀色である

コクピットの枠を群青色に、芝生はロンドンの4月の状態にと指示すると勝手に遠景を付け加えた


AIAIと騒がれているので、昨年からAIをほんの少しばかり使っている。例えば、「アメリカとイランが戦争して、イランが勝つ方法など質問してみると、普通なら「絶対に勝てない」の一言で済まされるが、それなりに答えてくれる。ただこれまでのネット上の情報をまとめているだけなので、かなりいい加減で、「看護師の鈴木雅はフェリスを修了しているのか」と尋ねると、「フェリス女学校を卒業しています」となるが、「共立女学校を修了したのか」と尋ねると、「共立女学校を修了しています」となる。さらに「フェリスを卒業したのではないか」と追加して尋ねると、「結論から申し上げますと、看護師の鈴木雅が卒業したのは、フェリス女学院ではなく、横浜の共立女学校です」と答えます。さらに「以前の質問で「看護師の鈴木雅はフェリスを修了しているか」と尋ねると、「フィリスを卒業している」と答えていたが、矛盾していないか」と再度、尋ねると、「申し訳ありません。先ほどは誤った情報を提示してしまいました。厳密に確認したところ、鈴木雅が修了したのは、フェリス女学院ではなく、共立女学院が正解です。」となっている。

 

まあAIはこんなものであるが、それでも年々、確度は高まっている、数年前、白黒写真をカラーにしてくれるサービスがあったので、有料で使ってみたが、かなりいい加減で、白黒写真に色を塗ってだけのものであった。AI技術を利用したサービスも昨年あたりから出てきたので、これも有料で白黒写真をカラー化してみたが、さすがに技術の進歩によるものなのか、かなりよくなってきた。また動画にもできるので、有料で手持ちの写真を随分カラー化、動画にしてみた。

 

友人から、今はGoogleのジェミニがすごいよと言われたので、今、描いている1937年の東京―ロンドン間の神風号について利用してみた。まずGoogleで神風号がロンドンに到着した写真を探し出して、それのカラー化をジェミニにしてみた。タダである。出力されてきた写真では、カウリング部が緑色になっているが、実際の色は群青色であり、朝日新聞のロゴも赤色である。そこで今度は「飛行機のカウリング部の色は群青色、機体は銀色、朝日新聞のロゴは赤色で、それを考慮してカラー化してほしい」と指示すると、今後はより実際に近い色となった。操縦席の枠は銀色ではなく、群青色である。そこで「飛行機のカウリングとコクピットの枠は群青色、機体は銀色で、芝は4月のイギリスの状態でカラー化してください」と指示するとほぼ実際の色に近いと推察されるものとなった。ただ、飛行場の後方には、元の写真にない建物が勝手に付け加えられている。そんな指示をしていないだけに、これは怖い。

 

ただここまでの操作を全て、無料でできるのがすごい。1年ほど前であれば、有料のものでもこうした精度でカラー化は不可能であったことを思えば、技術の進歩は凄まじい。多分、生徒の宿題をAIで書かせても先生は全く区別できないだろう。おそらくAIに打ち込めばAIAIで作ったか判定してくれるかもしれない。ただAIは既存の情報をもとに答えているに過ぎず、誰か最初の人が必要となる。以前、調べた日系アメリカ人最初の女医、須藤かくの周辺で最後までわからないYosokichi Naritaについて尋ねると、自信を持って

私のブログを参考に成田与三吉が正解ですと答える。弥三吉ではないかというと誤記と断定します。そこでYosokichiは弥惣吉ではないかというと、今度は複数の表記はあり得るとなりと答えます。さらに「須藤かくと一緒に渡米した成田弥惣吉について教えてください」と尋ねると、私のブログを参考に実にまとまった答えをしてくれる。最初に記述している本人が断定できないことをAIでは断定して答えるので、ちょっと怖い感じがする。今はネット上の情報から検索しており、国会図書館のデジタルアーカイブスや各国のデジタル化された図書全てから推察しているとは思わないが、今後はさらに世界中の図書館の全ての本がデジタル化され、それから答えを出すとなると、これまでの文献検索が無意味になる。さらに古文書の崩字も、写真に撮り、ジェミニに添付して「この崩し字で書かれた手紙を判読してください」と質問すると、ほぼ正確に判読してくれる。全ての古文書をデジタル化しておけば、そこからも検索してくれるかもしれない。すごい時代になったものだ。





AI画像を参考に描いてみました




AIで上の絵を修正してもらいました、上手くなっている


さらに油絵風に修正してもらいました







2026年3月4日水曜日

歩行者優先の土手町

 

メルボルンでは街の活性化を目的に、車の侵入を制限、禁止するエリアを拡大している



弘前でも随分前からコンパクトシティー、中心市街活性化などの政策が計画されているが、それほど成果が上がっていないどころか、そのメインになる土手町の凋落がひどい。土手町近くの知人の歯科医、古書店まわりみち文庫の店主も、中三デパートがなくなってから、土手町は決定的に寂れたという。前は診察を受けてから、本を眺めてから中三に行くというパターンが崩れたという。まず今泉書店がなくなり、次に紀伊国屋書店がなくなり、サイクマ、そして中三デパートがなくなり、今は土手町に大型店自体がほとんどなくなった。大型店といえば、数年前に建ったハッピードラッグくらいで、ルネスが一度再開されたもののまた閉館したままだし、あとは銀行、マンションくらいで、最近は土手町の道沿いに普通の住宅が建てられるようになったし、空き地は駐車場になっている。代官町にいたっては、個人店がなくなり、大きなアパートが建てられており、繁華街というよりは普通の住宅地になりつつある。

 

中三デパートの跡地についても、何度か東奥日報でも取り上げられ、東京の不動産会社が取得したようで、マンション建設を計画しているという。ただ弘前の中古マンション市場を見ていると、土手町のマンションは中三デパートがなくなったため、以前より売れにくくなっており、近くに食料品を購入できるスーパーがないだけに新築マンションを建設しても売れるか、心配であろう。ここ10年くらいで新たに4つくらいのマンションが弘前でも建つが、最初ほど売れなくなり、ニューキャスルホテルの跡地もそのままになっている。

 

土手町に新たな商業施設を作っても、もはや客を呼べるようにはならないように思える。少子化、若者の流出に伴い、弘前の人口は相当減っており、大型の商業施設を作っても建築費に見合う集客は不可能であろう。こうした前提の上、実現は不可能と思うが、思い切った方法としては、土手町全体を歩行者天国、遊歩道公園にすることである。今でも土手町を通る車のほとんどはただの道として使っており、仮にこれが通行止めになっても、中央通りなど迂回路はあり、実際、カルチャロードやねぷたで通行禁止になってもそれほど問題はない。土手町で店をしている人から見れば、車が通らなくなると客が来なくなるというが、店の前に車が止まっているのは、蓬莱橋近くのクレープ店の前くらいであるし、駐車場ばかりの商店街は寂しい。

 

逆に中土手から下土手全てを、公園にして、冬場も完全に融雪、除雪するようにして、ジョギングや散歩するようにできれば、マンション、住宅の住民は家の前に公園になり、また雰囲気のいい公園なら喫茶店、レストラン、などの客も増えそうである。もちろん弘前駅から上土手町のプロムナードを見ても、全く人通りは少ないが、それでもたまには朝市があったり、子供たちが水場で遊んでいたり、高校生のカップルが歩いたりするのは楽しい。条件としては、完全な融雪と除雪で、冬場の大雪の季節でも、ここに来ればスニーカでジョギング、散歩ができる、犬の散歩もOKであることが重要である。冬場のワーキングコースとしてヒロロが解放されているが、それに続く、えきどてプロムナード、さらに旧大成小学校跡地も公園になるようなので、これに土手町が公園化されれば、弘前駅から弘前城までの遊歩道が完成する。自転車道も整備できれば個人的には嬉しい。さらにいうなら土手町で若者が新たな店を出す場合は、市から補助金が出るような制度や、キッチンカー向けの電気、水道施設の完備など、小さな映画館も欲しい。

 

これは夢のような話で、まず実現することは難しい。すでに土手町側からしか入れない駐車場もあり、車の通行止めになると商売ができないし、自宅がある人も大変である。ただ車中心の社会だから土手町もそれに合わせようとするのはナンセンスで、郊外の大型店舗に敵わない。緑があり、ゆっくり散歩しながら小さな雑貨屋さんや食堂、喫茶店、プティックに入ったり、天気がよければ、外にテーブルと椅子があり、そこでコーヒを飲みながらサンドイッチを食べるのもいい。車社会に対応するために土手町にも多くの駐車場ができたが、欠けた櫛のようになり、逆に来客数は減っている。結局、土手町の車の交通量と買い物客数とは無関係であり、むしろ実際に歩く人の数、買い物にくる人の数を測るべきである。少なくとも土手町を公園化しても今と同じように歩く人は急には多くならないと思うが、それでも居心地のいい空間になれそうである。歩行者優先の設計が必要である。

2026年3月2日月曜日

今純三

 


津軽は奇人・変人の多いところである。「津軽奇人伝」(原子昭三著)という本があるほどで、さらには一冊では書ききれず「続津軽奇人伝」まで発行された。以前のブログでも書いたが(2013.10.4)、個人的に津軽を代表する奇人、変人を挙げると、小説家の佐藤愛子の祖父、佐藤弥六、慈善運動家の佐々木五三郎、今東光の父、今武平、冒険家の笹森儀助、中国革命に協力した山田良政、純三郎兄弟、考現学の今和次郎、版画家の棟方志功、小説家の葛西善蔵、画家の平尾魯仙がいる。詩人の福士幸次郎もよほど変わっており、佐藤紅緑に息子のサトウハチロウの教育的監視を頼まれていながら、変人ハチロウも驚くほど、無邪気に過ごす人物である。これらの奇人・変人の共通するのは、多くは貧乏であり、ある意味、生活破綻者と言ってもいいかもしれない。奥さんや子供には相当な苦労を強いた。今なら、奥さんは早々に離婚していたであろう。最近でいえば、奇跡のリンゴで有名な木村秋則さんもそうである。一旦、何かに熱中すると、金も家族も目に入らず、一気に進んでいく、こうした生き方をした。

 

この津軽の奇人、変人の系譜の中に一人また加わった。画家、版画家の今純三である。兄の考現学を作った早稲田大学教授の今和次郎も一生、ジャンバーで通すという変わった人であったが、それでも早稲田の先生をしていて、生活的に困ることはなかった。ところが、弟の今純三は、青森県立師範学校の絵の先生をし、定期的な収入があり、生徒からも愛されていたが、突如、芸術は一部の金持ちのためではない、良い絵を安い値段でみんなに買ってもらい楽しんでもらおうと、学校を辞め、自宅で印刷を始めた。エッチングの薬品や機材を買って、朝から晩まで自分で作品を描いて、一家総出で印刷した。ただ絵は安くても売れず、次第に貧乏になっていく。それなのに怪我をしたカラスを拾ってきて、家で飼い、家がカラスのクソだらけになったり、またある日は、愛していたレコードを斧で叩き割り、蓄音機は分解されてエッチングの機械の一部となった。金がなく、魚屋から安値で鱈とホッケの頭50ほどを買ってきて塩辛のような酒のつまみを作って売ろうとするが、結局、娘の弁当におかずになる。そうした貧窮の中で病気となり亡くなる。遺骨は今家の墓所に埋められるが、墓石がなく、参拝者がその辺の小石を遺骨の埋まっているあたりに立てて供養する。

 

今純三の娘、小倉ミキが書いた「父・今純三のこと」にはこうしたエピソードがたくさん書かれている。県立師範学校の生徒や多くの人からは慕われ、この本には追悼文も収められている。津軽の人は情熱的な教育者になることが多く、知人の一人、浜田英一は、純三の死ぬ一週間前に病院で会った際に、次のような言葉を聞いた。全文を引用する。

 

「私は思うのだが、情熱とは、最初に思ったことを生涯やり続ける意志があることだと思う。それはなかなか大変だ。まず、カンナガラを集め、木屑の木っ葉を集めてくる。一本のマッチで点火をし、次に小割りの薪をくべてしばらく炎が勢いづき、徐々に大きな薪を燃やし、石炭も石油も燃やし続け、最後に、鉱脈の中に青い炎に点火することだ。けれども、なかなかその鉱脈に点火しがたいのだ。プツリと、そこで燃やし続けた火が消える。そんなことがあるものだ。しかし、もう一度初めに戻って、カンナガラを集め、小さな薪を燃やすことから始めようとするには、前の五倍も十倍もの勇気がいると思う。そしてまた燃やし続けるのだが、人の生命には限りがあって、途中で命が尽き、そこで倒れる。鉱脈に点火することが出来なかったりする。それだっていいじゃないかーー私はそうは思っていない。」

レンブラントの晩年の言葉に「一人広野を行く時も高く頭をもたげ微笑みてゆけ」と同じ精神だと浜田はいう。貧困のため、友人、知人からの見舞いの食品に喜ぶ子供たち、感謝する妻を残して死にゆく画家の最後の言葉である。名もない、金もない画家が人生を嘆いて、あえて負け惜しみの発言をしたわけではない。高貴な奇人である。

 


2026年2月27日金曜日

『家に探る苗字となまえ』(井戸田博史著、吉川弘文館、2025)

 

明治8年弘前地籍図 駒越付近


弘前の近代史を調べていると、江戸後期、幕末の人の苗字と名前につては、悩まされる。というのは江戸時代の士族は、多くの名を持っていて、さらに簡単に名を変えるため、同じ人物であっても、資料により別の人物のように見える。例えば、植物学者で弘前大学の学長でもあった郡場寛の父親、白戸(郡場)直世は箱館戦争で重傷を負い、その治療のために酸ヶ湯温泉を開拓した。白戸家の実家の場所を特定する際、徳田町にある白戸浪江の家が怪しいが、ところが白戸直世の父親の名は白戸東太郎である。さらに調べると東太郎は通称で、実名は白戸浪江であることがわかった。つまり白戸浪江(東太郎)―白戸直世―郡場寛となる。

 

こうしたこともあり、以前からこの苗字、通称、実名などについて整理したいと考えていた。最近、再販された『家に探る苗字となまえ』(井戸田博史著、吉川弘文館、2025)は参考になった。

 

この本を参照に少し解説する。

 

明治になるまで、日本の苗字、名前は複雑で、足利尊氏の弟、直義を例にすると

足利(名字) 左馬頭(官名、通称) 源(氏) 朝臣(姓) 直(実名) となる。

 

また乃木希典の父は

乃木(苗字) 十郎(通称)  源(氏) 希次(実名)  となる

 

氏は、源、平、藤原、橘の4つでほとんどカバーされ、また氏の尊貴を示す称号である姓も次第に無実化していき、通常は、苗字+官名、通称+実名が重視されるようになった。

 

大石内(苗字)蔵助(官名)良雄(実名)や堀部(苗字)安兵衛(官名、通称)武庸(実名)となる。さらに幼名、字、号などもあるし、改名も頻繁に行われたので、滝沢馬琴は35の名前があった。

 

士族については、こうした名前であったが、士族以外の百姓、商売人は、苗字はなく、主として通称で呼ばれていた。ただ明治になると、こうした通称のみでは近代的中央集権国家を確立するには不都合で、戸籍法の実施、徴兵制などを実施するには、全国民を苗字と名で掌握する必要が出てくる。そこでまず最初に出された法案は明治三年9月の「平民苗字許容令」で、さらに明治82月には「平民苗字必称令」が出され、ここで国民皆姓が完成した。

 

当初は、苗字+実名でしか認めなかったが、庶民の多くは通称、律令などに由来した官名(兵衛、衛門、助)を称していたので、権兵衛を権平に、太郎左衛門を太郎にしたが、一方、政府高官でも大久保一蔵(苗字+実名)は大久保利通、大隈重信(通称は八太郎)、西郷隆盛(通称は吉之助)にしたが、板垣退助(苗字+通称、実名は正形)や大村益次郎(実名は永敏)とさまざまで、特に実名を持たない庶民は困ったことになり、明治五年5月には実名か通称のいずれか一名ということになった(復名禁止令)。

 

こうした観点で、明治二年弘前絵図と明治八年弘前地籍図を比べると、前者は明治三年の平民苗字許容令以前のもので、士族しか名前が載っていないが、ここでの記載はほぼ苗字+通称で、苗字+実名は少ない。その後、明治8年には平民苗字必称令」が出るが、明治八年地籍図では、すべての平民にも苗字がついており、少なくとも弘前市内では国民皆姓となっていたことがわかる。さらに明治311月には国名、旧官名禁止令が出され、基本的には苗字+実名となっているものの、実際、明治二年弘前絵図と明治八年弘前地籍図を見ても通称から実名に変わったものは少ない(権平のように兵衛を兵にするようなものも含めて)。どうも日常では苗字+通称の方がしっくりくるように思ったのだろうが、次の代になると次郎左衛門のような通称よりは隆仁のような実名ぽい名前が選ばれるようになった。


青森県の新築住宅着工 2割減

 


225日の東奥日報によると2025年度の青森県の新設住宅着工戸数は前年度の19.8%減の3454戸になり、1961年以来64年ぶりに4千戸を下回ったことを伝えている。

 

1970年から80年頃は18000戸の新設住宅着工戸数があったことを考えると、およそ1/6になったことを意味し、減少は八年連続で、さらに着工数が減りそうである。そして新聞では、その原因を資材、金利の上昇が影響していると分析している。

 

具体的にいえば、私が家を建てた1995年、青森県の住宅建築費は普通、坪40-50万円くらい、安い工務店で建てれば40坪の家で1600万円くらいだった。80坪の土地付きで2800万円以下で立派な家が建てられた。当時の青森県の平均所得は約299万円であった。そして今は青森県でも住宅建築費は坪100万円以上かかり、建てるとなると家だけで4000万円、土地を入れると5千万円以上となる。この30年で40坪の住宅で1600万円から4千万円、土地は幾分やすくなったとしても総額で3千万円から5千万円になった。そして青森県の平均所得は2024年度が305万円で、1995年度とほとんど変わらない。また人口も1995年度が150万人、2024年度が120万人と30万人も減少している。

 

つまり所得がほとんど変わらないのに、新築の家を建てようとなると80坪の土地付き住宅(40坪)が2800万円から5000万円になったことを意味する。全額、35年で借金するとなると、金利2%2800万円では毎月9.3万円が、5000万円では毎月16.6万円となる。所得300万円、月収25万円のうち借金の返済が17万円、68%となる。共稼ぎしていても厳しい数値である。

 

これを東京で考えると一億円のマンションを購入した場合の月々の返済額は33.2万円であるが、東京の平均所得は644万円で、月収で54万円、返済額は61%となる。返済額の比率は青森県とあまり違わないが、共稼ぎの男女の収入が同じと仮定すると、青森県では25万円×2-17万円(返済)=33万円だが、東京では54万円×2―33万円(返済)=75万円が生活費となる。つまり青森県では家の返済以外の生活費が33万円しかないが、東京では75万円あることを意味する。実際、東京の方が物価は高いが、それでも光熱費、食費などは大きな差がなく、東京以上に経済的に厳しい。青森県で、5000万円の家を建て、返済して生活費に月75万円を残すには、夫婦で92万円の収入、つまり年収で4612=552万円の所得が必要となる。青森県ではこうした高収入の仕事は少ない。

 

10年前であれば、積水ホームなどの大手建築会社より地元の工務店で家を建てる方がよほど安かったので、青森県ではあまり大手メーカーの建物はなかったが、最近では、地元工務店と値段的に競合してきたので、大手メーカの建物が多くなった。なぜこうしたことが起こるのかはわからない。資材が高騰しているのは間違いないが、大手メーカーはスケールメリットと工期の短縮で値段に転化していないのか。

 

新築住宅着工は、建設会社のみならず、電気工事、水道工事、塗装工事、家具の購入、など周辺産業への波及効果が大きく、地域経済に利する。その大きな経済効果が以前の1/6になったことはそれだけ景気も悪化することを意味する。以前であれば、普通の仕事を真面目にしていれば、60坪くらいの一戸建て住宅は何とか購入できたが、今や夫婦共稼ぎでもかなり厳しい状況であり、それが婚姻件数の減少、出生数の減少につながり、さらに県人口の減少につながっている。

 

周囲を見回しても、空き家や駐車場ばかりとなり、若い人は東京などの都会に就職し、地元には年配の世代ばかりが残る。スーモなどで中古住宅の物件を見ても500万円以下の物件がかなり多い。おそらく子供が東京などの都会に住み、亡くなった親の家を処分しようとしているのだろう。これがなかなか売れず、結局は建物の解体費、固定資産税がかかり、負の遺産となっていく。こうした物件が徐々に増えており、解体費が売却費より高い場合は、相続者は遺産放棄して国の所有となるが、確か売れない場合は、相続放棄しても国に負担金を払わないといけなかったと思う。実際、青森県の郡部ではこうした土地が増えている。


2026年2月25日水曜日

マイブーム

 



弘前上空の神風号


少し前までのマイブームは、矯正用ワイヤーを用いての1/24の自転車作りであった。矯正用機材の一つ、コバルト・ニッケル合金、0.4mm0.5mm0.8mm0.9mmサイズのワイヤーが多量にあったので、これを活かして何かできないかと思ったのが、ミニチュア自転車作りであった。自転車の構成としては、ホイール+タイヤ、フレーム、ステム、ハンドル、ペダル、変速機、チェーンとなる。ロードレーサーのフレームは大体22mmくらいなので、やや細いが0.9mm線で構成すれば作れると考えた。トップ、ダウンチューブなどは0.9mm線をろう着すれば、なんとかできると考え、最初は得意の自在ろう着、つまりフリーハンドで2つ、3つのワイヤーを銀ロウでろう着した。ただ平行性などが難しく、アマゾンで自由に動くジグが安く売っていたので、これを使うと完全に思ったようにろう着できる。ステム、ハンドル、ペダルあるいはブレーキも何とか自作でき、フロントギアも腕時計の部品を使える。ただホイールについては金属製の丸リングに0.4mm線をろう着したりしたが、うまくできなかった。それでも何とかできたので、三点ほど知り合いの中古家具屋さんに東京(Tokyo Modernism 2025)に持って行ってもらって、売れるか試してもらった。3000円くらいで売れるなら、老後の趣味にしようと思っていたが、これがさっぱり売れない。

 

Facebookで調べると、埼玉のMasayuki Yamamotoさんという方が1/12であるが、超人的な技術を駆使して極めて精巧な自転車模型を作っているのを知った。チェンを一個づつ作るという信じられない精巧さで、依頼を受けて製作しているプロ?の方である。この人に作品に比べれば、私のものなど大人と赤ちゃん、虫以下のレベルで、これで自転車製作は諦めた。矯正用ワイヤー、プライヤー、ジグ、バーナも他の先生にあげた。もう作れない。

 

その後、1/24のタミヤ、ハセガワのフィギュアを作っていたが、どうもオタクぽくなり、ややエッチな路線に行きそうになったので、子供の頃に描いていた飛行機の絵を描くことにした。中学1、2年生の頃から航空ファンという雑誌が好きで、別冊の世界の傑作機シリーズも模型作りの参考に買った。そこにはおまけのような形で折りたたみ紙面でカラーの美しい飛行機の側面図が描かれていて、楽しみだった。その後、小池繁夫という天才的な飛行機画家が現れ、タミヤやハセガワのプラモデルの多くのボックスアートは彼が描いた。独特の空気感があり、飛行機イラストでは世界的に人気がある。私も彼のイラスト作品集を買ったが、本当にすごい。さすがにこの領域に行くのは無理であるが、老後の楽しみ程度で、飛行機の絵を描いてみることにした。

 

一つには戦記物漫画で有名な滝沢聖嶺さんの絵を参考に、2B鉛筆でざっとラフ画を描いていき、次第に細い鉛筆、0.01のサクラ、ピグマで輪郭を描き、水彩で着色しようと思った。飛行機のイメージは、前の家から捨てずに持ってきた世界の傑作機シリーズが百冊くらいあるので、その中から好きな飛行機を選んで、写真を探した。また最近はYouTube で飛行中の飛行機をデジタルで再現している作品がたくさんあるので、それも参考にした。他にも飛行機イラストレーターで有名なのは、ロマン・ユーゴーという方で、その著書「Angel Wings」を購入した。絵は素晴らしいが、内容はあまり理解できず、アニメのストーリーについて外国ものは違和感が強い。

 

日本の爆撃機を中心に描いてきたが、少し風景も入れようと、昭和12年、朝日新聞主催で、東京―ロンドン間を飛行した神風号を描いた。最初は着陸地のロンドン上空を飛んでいる姿を描こうと思ったが、急遽、弘前上空を飛んでいるところを描こうと思った。史実にそうしたことはない。昭和12年当時の弘前といえば、ほぼ民家は板葺で、押さえに石を多数、屋根の上に置いた。トタン屋根も少しずつ普及してはいたものの、まだまだである。そうした弘前の上空を飛ぶ神風号を描いた。今回はマスキング液を使って光沢部を描こうとした。まあまあうまくいったが、背景が全くいただけない。水彩画の基本を学ばなければいけない。

 

最近のイラストは、ほとんどデジタルで書いており、飛行機イラストも、飛行機の位置を自由に動かし、構図も色々と変更できるし、雲や海、森などの表現やボカシも自由にできる。それに比べて筆で描くのはかなり面倒であるが、逆にAIを使えばいくらでも精密な絵を描けるため、デジタルで描いた絵とAIで描いた絵の見分けはできない。




2026年2月15日日曜日

子供の頃の遊びを老後楽しむ

96式陸上攻撃機

四式重爆撃機

93式重爆撃機、宮崎駿の風立ちぬにも出ていました

一式陸上攻撃機


仕事もやめ、引退生活をしている。人からは暇でしょうと言われるが、本人はそれなりに忙しい。やっていることは、漫画を読み、本を読み、映画を見、テレビを見、絵を描き、プラモデルを作り、ブログをして、散歩をしている。これだけじゃ暇なので、以前、ふるさと納税で買った電子サックスを吹いているが、ドレミから先、シャープ、フラットキーが覚えられない。ハーモニカは、マンション生活で近隣の迷惑になるかもしれないので、吹けない。ネットオークションもマンションの収納が少なく、むしろさらに断捨離をしないといけないくらいで、買うと確実に家内に叱られる。靴、服もできるだけ減らしたいので、新しいものは買いにくい。アマゾンの注文がずいぶん減った。最近、アマゾンで購入したものでいえば、ロマン・ユゴーの“Angel Wings”、”戦闘機の描き方 翼と機体“、これらは飛行機の絵を勉強するために購入した。他には筆やハセガワのフュギアなどで、さらにヤフーオークションでの落札はほとんどない。

 

つらつら考えると、今やっていることの多くは子供の頃にしていたことで、歳をとって昔のことをしているだけである。漫画については、小学校の低学年頃から少年マガジンを高校三年生までずっと読んでいたし、その前は近所の貸本屋で借りていたほどで、その歴史は長い。本も小学生の頃からずっと読んでおり、今でも年間百冊は読んでいる。テレビはもちろん、映画も子供の頃から東宝の怪獣ものは全て見たし、プラモデルも小学生の頃から熱中した。今は戦闘機、爆撃機のイラストを描いているが、これも小学生の頃に描いていたものである。他に小学校のときに何をしていたかというと、銀玉鉄砲、これは今のサバイバルゲームに通じ、ちょっと興味はあるがしていない。ビー玉、べったんなどの遊びは、単純な遊びというよりはギャンブルに近い。ビー玉、べったん遊びは、自分の持っている多数のビー玉、べったんをかけて勝負をする、負けるといっぺんに持っていかれるような遊びで、ギャンブル性は高い。また古面(フルメン)と言って古い時代劇スターなどが描かれたべったんは価値が高く、売っているべったん、これは厚い画用紙に印刷しているものを自分で切るのだが、古面一枚で100枚以上の価値があり、いわゆるコレクションの類となっている。こうした古面は大切に保管するだけでなく、勝負にも実際に使われ、強いものは価値も上がる。私の場合は、親も忙しく、好きにやらせてもらったおかげで、小学校の頃から航空ファンやその別冊世界の傑作機も買ったし、零戦はやと、オオカミ少年ケーンのソノシートも持っていた。またスロットカーというコントローラで速度調整をしてレースをするものもあったが、兄と一緒に購入したスロットカーを持って三和商店街のサーキット場によく行ったが、これはさすがにラジコンカーの趣味にはならなかった。自宅の屋根がベランダで、そこでは屈折望遠鏡でよく天体観察をしていて、中学生の頃は月刊天文ガイドもよく買っていたので、今でもその頃の知識はある。またラジオ製作にも興味があり、最初は子供の科学から初歩のラジオに進み、ゲルマニウラジオから五球スーパーまでいこうとし、通信教育では無線、ハムの免許を取ろうとしたが、送られてきた教本の多さに途中でギブアップして、そのままである。切手も親父が好きだったので、近くの郵便局に新しい記念切手が発行されると並んで買ったくらいで、今でのその頃の切手帖があり、東京オリンピックの切手がいっぱいある。ローラスケートをしたのは小学生の3年生の時からで、中学生になると、大阪にあったラサ国際スケート場で滑った。最初はフィギュア、そしてホッケー、最後はロングという長距離用のスケート靴を履いて外周を回っていた。野球は近所の軟式野球チームに入り、セカンドをしていたし、水泳学校にも一時通っていた。他にはそろばん、絵画、習字も習っていた。姉と兄は、ピアノを習っていたが、私は音楽関係の習い事はしておらず、いまだに音楽は苦手である。

 

いやいろんなことをしている。漫画、テレビ、本、プラモデル、天体観測、ビー玉、べったん、銀玉鉄砲、スロットカー、無線ハム、ローラスケート、スケート、切手、野球、そろばん、水泳、絵、習字、中学になるとサッカー(大学卒業まで)、映画、レコード、大学生になると雑誌ポパイに感化されて自転車、ファッション、旅行に興味を持ち、ロードレーサを買って上から下まで自転車野郎になって仙台から松島までよく行った。ファッションはヘビーディティーという今のアウトドアファッションが好きだった。旅行は日本国内だけでなく、インド、中国にも行ったが、いい思い出となっている。歯科医になってから始めたのは、ブログ、それに関連する郷土史、本の出版など、ビンテージの北欧陶器、コーカサスのラグ、イランのキリム、名作家具、そして日本画の収集と研究などがある。

親が子供の趣味に寛大でやりたいといえば、すぐにやらせてくれたので、広く、薄く、いろんなことを知っていおり、引退してもそうしたものを楽しむことができて感謝している。家内からは少し“イッテイル人”と言われているが、趣味の多さとそれを追求しようとする気持ちはそうかもしれない。のめり込む体質があるようで、香川芳園の研究をしていて、ロシア、中国、イタリア、アメリカの研究者と何度も長文の英語でのメールやり取りをしていると、趣味を超えているなあとふと思う。

 

ただ引退生活をしていて、羨ましいのは音楽活動をしている友人で、この年齢になってもバンドを組んでライブ活動をしている。子供の頃、若い頃に親がピアノやギターを習わしてくれたらと残念である。音楽は習得するためには、才能だけでなく、集中的な練習が必要で、バンド演奏をするために覚えるといった外部からのプレッシャも必要かもしれない。娘二人にピアノを習わせたが、全く役に立たなかった。

 

いろんなことをしているが、それまで仕事で8時間働いていたと同じような内容を趣味でカバーするのは難しく、結局は暇つぶしということに尽きる。

 

 







 

2026年2月12日木曜日

マンションの壁紙とインテリア

 

USMハラーとKartellのキャビネット、コーカサス、カラチョフの絨毯、リサ・ラーソンのマーリン、ハンス・ブリングのオスカー(偽物)、お袋の絵

昨年の7月に今のマンションに引っ越してきた。年々、雪片付けがキツくなり、昨年、家内が背骨を疲労骨折し、私もテニスもしていないのにテニス肘になったことから、転居を考えた。もちろん雪片付けが一切必要ないマンションへの転居である。

 

最初は、医院近くに新築のマンションができるので、そこがいいかと思ったが、建築価格の上昇により、従来価格より20%は高くなっている。ほぼ同じ大きさ、設備のマンションが1、2年の差で一千万円近く値上げとなる。そこでコンデションの良い中古マンションを探すことにしたのが、昨年の1月頃で、毎日、スーモで中古マンションを探した。当初は、繁華街のある土手町付近のマンションもいいかと思ったが、中三デパートがなくなり、近くで食料品を購入できず、買い物をするところがない。そういうわけで弘前駅前のロピア近くの中古マンションを探していると、築2年の未入居物件が見つかった。すぐに見学したところ、かなりオプションもつけた豪華な作りで、全く使われた形跡がない。オーナーによると母親のために買ったが体調が悪くなり、老人ホームに入居したため、未入居で売ることにしたという。値段的には購入時価格よりやや安いくらいであったが、新築のマンションよりは断然安いので、思い切って購入した。幸い古い家もすぐに買手が見つかり、今は雪のないマンション生活をエンジョイしている。

 

マンション自体は未入居で綺麗な状態で、リフォームする必要はなかったが、まず備え付けのIHが新品だが、自宅で使っていたものよりランクがかなり落ちるため、交換した。トイレも一番安いモデルが使われていたので、これも自宅のものと交換したかったが、これは工事が大変なので諦めた。他には玄関前の壁紙が高級ラブホテルみたいだったので、どうしても変えたかった。まあ壁紙くらいは何でもいいように思えるかもしれないが、前の家を建てた時にかなり勉強し、壁紙はドイツで生まれたルナファザーという塗装用下地壁紙を使うことにした。かなり厚くて凸凹にある素材で、貼ってから、塗装を塗る構造となっており、古くなり、汚くなったら、壁紙を替えるのではなく、塗り替えする。7、8回は可能なので、おそらく数十年は壁紙を交換する必要もなく、エコの点でも優れている。なりより安い壁紙に比べて高級感が強く、個人的には絵画を飾るためには最も適した壁紙だと考えている。

 

家内からは新品の壁紙を剥がしてこのルナファザーに変えるのは勿体無いと言われたが、これだけは押し通した。天井はそのままにして、玄関廊下とリビングだけ、このルナファザーに替えたが、非常に満足している。おすすめである。

 

ソファは前の家を建てた時にアクタスから買ったドイツのムスタング社のソファで、皮が傷んでいたものの、まだ使えると判断し、マンションに持ってきたが、エレベータ、玄関はOKだったが、廊下からリビングに入るところで引っかかり持ってこられなかった。最初はブルーノマットソンのハイバックチェアに座っていたが、どうも寛げないので、青森のF-Beyondでデンマークのアイラーセンのソファーを購入した。また前の家は多くの作り付けの収納棚があったので、キャビネットはなかった。ただマンションは極端に収納スペースがないので、診療所からKartellの円形のキャビネットを持ってき、また壁面に大きなキャビネットが欲しかった。当初は、北欧のビンテージのものを探していたが、どうも収納の点では使い勝手が悪そうで、最終的には娘が将来欲しがるであろうUSMハラーの二段のものをF-Beyondで購入した。カーキがベージュで迷ったが、マンションの床の色に合わせた。

 

今回、ルナファザーという壁紙を使った。中古マンション購入の際、あまり費用をかけずにリフォームするなら、このルナーファザーも一つの選択肢になる。前の家も含めて26年間、この壁紙を使っているが、高級感があり、個人的にはコスパは高いと思う。従来のビニルクロスは焼却時のダイオキシンの発生やホルムアルデヒド含有などの理由で、ヨーロッパではルナファーザのような紙クロスが主流になっているが、日本のマンションではあまり使っていない。


ルナファーザーの壁紙 丸山直文の水彩画

元々のビニルクロスの壁紙 石井崇の水彩画





2026年2月10日火曜日

診療所の撤去

 

椅子は保育園に、テレビは工務店に、歯型の照明は衛生士さんが持っていきました。


昨年の12月に歯科医院を閉院したが、今年の1月末までにテナントの契約が切れるので、備品などを撤去しなくてはいけない。うちの場合、3階建ビルの2階と3階を借りていて、2階は主として倉庫、3階が診療室となっている。エレベーターはない。

 

まず2階には30年分の患者資料があるので、閉院の半年前から家内と衛生士が手分けして、分別をしていった。矯正用カルテには患者情報があるので、これは取り出して、シュレッダーにかける。レントゲンやスライド写真は機密情報、個人情報扱いで、これを少しずつ専用業者にもっていって処分してもらう。さらに模型は頑丈な袋に入れて医療廃棄物として処分する。30年分の資料となると、相当な分量で、かなり時間、費用がかかった。また領収書、保険診療カルテなども5年間は保管義務があるので、箱に詰めたが相当分量があり、とてもマンションにはもってこれず、大家さんに頼んで、ビル横の倉庫に預かってもらうことにした。

 

A-decの2台のユニットとプランメカのセファロは東京の歯科機械屋さんがタダで引きとってくれたので助かったが、シロナのユニットは地元の歯科機材屋さんに処分してもらうことにした。分解、撤去は、EMSのエアーフローをあげる条件で、無料にしてもらったが、それでも処分は別の業者に頼み、費用はかかる。またろう着器、技工用電気エンジン、オートクレーブ、乾熱滅菌器など、矯正用ワイヤー、プライヤー、ブラケットも含めてりんご箱20個くらいの主として矯正用品ついては、今年の6月に函館で、矯正専門で開業する先生が引き取るということで、地元の歯科材料屋から送った。さらに家具などの備品は知り合いの中古家具屋さん、家内の親戚、保育園に、その他はゴミ廃棄業者に持っていってもらい廃棄した。矯正歯科の場合、患者資料が多く、カルテ、模型、レントゲンなど30年分となると、3000症例以上となり、相当な量となる。私の診療所は3階だが、2階は資料置き場として借り、カルテ用のファイル棚が20くらい、模型用の置き棚が20くらいある。ほぼ3階の30坪くらいが患者資料の置き場となっていた。

 

通常、テナントの場合、原状回復を大家から求められ、友人に聞くと400万円かかったと言う。ただ私の診療所の大家さんからは基本的には原状回復しなくても言われていたが、レントゲン室だけは撤去を求められたので、これを壊して撤去した。これが大変で、何しろ周囲と上下に鉛を入れているので、骨組みも含めて何しろ重い。エレベーターがないので、これを一階まで運ぶのは大変である。鉛の回収はかなり厳しく、石膏などがついていると持っていってくれないので、綺麗にして一畳くらい大きさの鉛板を巻いて一階にもっていく。おそらく数十キロはあり、全部で500キロ以上あるだろう。これを支える枠組みも重く、撤去はほぼ2日かかった。

 

他には、コンピューターはリネットに渡せがいいが、光ネットのヤフー、ドコモの機器はいちいち指定業者に宅急便で送らないとダメで面倒である。また生命保険の解約、有料音楽配信の中止、学会の脱会などのいろんな細かい処理が必要となる。

 

多くのものは、入会は簡単だが、なかなかやめにくくなっている。開業も大変であるが、閉院も費用をかけずにしようと思うとこれはこれで大変であった。幸い多くの方のご協力で、閉院にかかる費用はテナントの敷金の返金で全て賄うことができた。友人からは30年もテナントで開業するなら自分の診療所を建てればよかったとよく言われる。確かに30年の家賃の総額で言えば、そうなるかもしれないが、自分の診療所であれば、ここから解体、売買という流れになる。歯科医院は汎用性がなく、まず撤去しないと売れない。この解体費用が相当かかる上に、東京、大阪などの都市部を除くと地方の土地価格は30年前の半分から1/3になるため、これらの収支も考えておく必要がある。たとえば地方では、30年前に200坪の土地で1億円で歯科医院を開業しても、解体撤去費に数百万円、地方のさらに郊外となると土地価格が2000万円くらいにしかならない、あるいは売れないこともある。

 

とにかく全て終了してホッとしている。



2026年2月3日火曜日

日本語の不思議 カタカナ2

 


台湾の知人からの返答では

 

 

まず袖木さんの「バター」の引用文のうち外国語のカタカナ表示は次のようになる。

 

スリッパ → 拖鞋

拖鞋(tuō xié→ トゥオ・シエ

トレンチコート → 風衣/戰壕外套

風衣(fēng yī→ フォン・イー

戰壕外套(zhàn háo wài tào→ ヂャン・ハオ・ワイ・タオ

フローリング → 木地板

木地板(mù dì bǎn→ ムー・ディー・バン

オレンジかかった光 → 帶點橘色的光

帶點橘色的光(dài diǎn jú sè de guāng

→ ダイ・ディエン・ジュイ・スァ・ダ・グァン

ダイニングキッチン → 餐廚一體的空間

餐廚一體的空間(cān chú yī tǐ de kōng jiān

→ ツァン・チュー・イー・ティー・ダ・コン・ジエン

リビング → 客廳

客廳(kè tīng→ クァ・ティン

カーテン → 窗簾

窗簾(chuāng lián→ ツァン・リェン

 這個就是你舉的「標準漂亮例子」

ソファ → 沙發

沙發(shā fā→ シャー・ファー

リバティ柄 → Liberty 印花

Liberty(英語保留)

印花(yìn huā→ イン・ホァ

アンティーク → 古董風的

古董風的(gǔ dǒng fēng de

→ グー・ドン・フォン・ダ

コラージュ → 拼貼畫

拼貼畫(pīn tiē huà→ ピン・ティエ・ホァ

ポーズ → 姿勢

姿勢(zī shì→ ズー・シー

アニメキャラクター → 動畫角色

動畫角色(dòng huà jué sè

→ ドン・ホァ・ジュエ・スァ

スタンプ → 貼圖

貼圖(tiē tú→ ティエ・トゥー

 

中国語には日本語のカタカナのような、外来語専用の表記システムは存在せず、その代わり、中国語では外来語を次の3つの方法で処理する。

 

1)意訳(意味訳)最も一般的

意味を中国語に置き換えます。

例:

orange(色)→ 橙色/橘色

living room → 客廳

2)音訳(発音を漢字で近似)

主に人名・地名・ブランド名など。

例:

coffee → 咖啡

chocolate → 巧克力

3)原語(英語)をそのまま使う

これは近年かなり増えている口語的用法です。

特に若者・都市部・専門分野で顕著です。



 

たとえば、ランダムに青空文庫から公開されている作家の中で有名な芥川龍之介を選び、さらに彼の作品の中で、タイトルにカタカナを使っている作品、アグニの神という作品を調べた。これは大正10年(1921)の作品で、この文章中、人名、国名以外の外来語を調べると、ガラス、ピストル、ランプ、ナイフしかない。芥川のこの作品では、鉛筆で書かれた手紙をカタカナ表記しているが、こうしたカタカナの用法は今はない。明治以降の小説中の人名、国名、以外の普通名詞のカタカナ語の比率を調べ、あるいは中国語、英語などとの比較も研究として面白そうである。逆に言えば、ひらがながあるのによくカタカナが生き残ったものである。