2025年7月6日日曜日

来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について

 







来年度、NHKの朝ドラは日本の看護師の創始者の大関和と鈴木雅のダブルキャストの物語です。内容については現時点では不明ですが、大関和役には見上愛さんが鈴木雅さん役には上坂樹里さんがキャストに選ばれました。

 

原作は、田中ひかるさんの「明治のナイチンゲール 大関和物語」、脚本は吉澤智子さんということです。鈴木雅さんについては以前、私のブログでも取りあげましたが、今回、もう一度、検索して調べると、横浜フェリス卒業となっています。横浜フェリスは、明治3年、日本で最初にできた女子学校で、当初はフェリス・セミナリーと呼ばれ、明治22年から横浜フェリス和英学校となりました。ただ私が調べる限り鈴木雅さんは横浜共立女学校の最初の入学生であることは間違いなく、最近発刊された「横浜共立学園150年史」でも以下のようになっています。

 

鈴木雅(加藤まさ)

1857(安政四)年生まれ。1872(明治五)年ごろ入学、1876(明治九)年バラより受洗、1881(明治十四)年ごろ修了か、その後、陸軍中佐鈴木良光と結婚するが死別し、看護の知識があったらと痛感して1886(明治十九)年、桜井女学校の看護婦養成所の一期生として入所し、1888(明治二十一)年卒業。東京帝国大学医科大学付属病院の内科看護婦長となった。1891(明治二十四)年慈恵看護婦会を設立して派遣看護事業を始め、1896(明治二十九)年東京看護婦講習所を開き、後進の指導に努めた。1940(昭和十五)6月11日に逝去。83歳、

 

また横浜共立学園六十年史」の中で、卒業生の寄稿文のひとつに小島清子(北川)さんの「思い出を語る」という文が収められています。少し引用すると

 

 「私は姉の北川晴子と弟の北川才太と三人で、ミッションホームが山手四十八番に開設された最初の生徒として入学したものでした。私たちの外に第一回の生徒として入学した人たちには福澤先生のお嬢さ達が三人、又福澤先生のお姪御さんで福澤おきよさん、井上馨(後の侯爵)さんのお嬢さんが二人、木脇お園さん。この人のことを伯爵夫人と渾名していました。中尾さん、名は何と言ったか覚えていませんが何でも芸者をしていたかということでした。苗字は忘れましたがお米さんという三十歳位の人もいました。菱川お安さん、この人は後医者となった。更木お梅さん、更木お金さん、おひささんなどでした。間もなく二百十二番に移りましたが、移ってから入学した者のうちには毛色の変わった人たちがいました。 略 おりょうさん(後栗岡氏に嫁す)、加藤おまきさん(後東京帝大の看護婦長となった)桜井おちかさん(桜井女塾を開いた)井深おせき(井深梶之助博士夫人)おとりさん、お角さん(後医者になった)お貞さん、おりやうさんなどであった。この二人は明治の初年最初の女子海外留学生として米国に往った上田てい子、吉松(益)りょう子さんたちで渡米後間もなく帰朝して共立に入ったのでした。これらは開校当時の事で明治四、五年頃の話ですが、それでも当時の社会においては相当の身分のある人たちの子供が入学したのです。」

 

一期生には他に青森出身でペンシルベニア女子医学校行った西田圭(岡見京)がいます、文中の菱川お安とは、シカゴ女子医学校に進学した菱川安、お角さんはシンシナティー女子医大に進学した須藤かく、そして桜井おちかとは桜井ちかのことで桜井看護婦養成所の開設者です。また宣教医として明治18年に共立女学校に派遣されたアデリン・ケルシーは学校医として働く一方、医療伝道として校外の患者の治療にもあたり、その時の同行したのが須藤かくと阿部はなです。その後、この医療助手に正式な医療を学んでほしいと思い、自分の故郷のアメリカに連れて行き、シンシナティ女子医学校に入れます。

 

鈴木雅は同級生が開設した桜井女学校で、イギリス出身のナイチンゲール看護学校を卒業したアグネス・ビッチの通訳をしたことから看護婦養成所に入所して看護師となります。鈴木雅が入所したのは明治19年で、すでに桜井女学校は矢島楫子が校長になっていましたが、母校である共立女学校のケルシーとは面識があり、同級生の須藤かくから医療助手、看護師のことを聞いていたに違いないと思います。また岡見京がペンシルベニア女子医学校を卒業して帰国したのが明治22年(1889,菱川安がシカゴ女子医学校を卒業し、帰国したのが明治22(1889),須藤かくがシンシナティー女子医学校を卒業して帰国したのが、明治30年(1897)で、それぞれ看護師になった鈴木雅とは交流があったと思います。

 

NHKの朝ドラでは、もちろんフィクションで構成されますが、鈴木雅についてはフェリス卒業というのは間違いで、横浜共立女学校の修了が合っていると思います。それなら同級生のうち3人が海外留学して医者になったというすごい状況を考えると、鈴木雅が通訳、看護師への道が無理なく説明できると思います。できれば番組でも須藤かく、岡見京、菱川やす、ケルシーなどの登場してくれると嬉しいことです。






2025年7月3日木曜日

朝ドラ、あんぱんを見て

 

親父の写真 階級章から少尉時代


朝ドラのあんぱんでは、主人公の柳井が軍隊に入隊するが、毎日の上官からのしごきに先は思いやられると思っていたが、幹部候補生試験に合格して立場は変わった。戦争中、旧制の中学校卒業の若者は、上官の推薦があれば、幹部候補生試験を受けることができる。試験は甲と乙の2種類があり、甲の試験に通ると士官学校に入学して、将校となる。乙の試験合格者は下士官になるため、主人公の柳井も軍曹の階級となる。この昇進スピードが速い。

 

うちの父親の場合、東京歯科専門学校(現:東京歯科大学)を卒業し、昭和1721日に入隊する。41日に幹部候補生試験を受け、一等兵に、そして420日に上等兵に進み、同日、甲種幹部候補生に、その後、豊橋の陸軍教導学校に進み、61日は伍長、91日に軍曹になり、1017日に曹長、見習い士官となる。その後、1027日に少尉となり、満州の輸送、測量部に所属した。昭和18年の1130日に現役満期となり、121日に予備役となるが、同日に招集されて関東軍の測量部に所属する。そのまま勤務して、終戦後に、新京の収容所に入り、昭和2012月にモスクワ南部のマルシャンスク収容所に入る。少尉から中尉になるのは通常2、3年かかるので、もう少しすれば中尉になったであろう。結局はポツダム昇進で、軍人年金などでは中尉扱いとなっている。収容所から日本に着いたのが昭和236月で、収容所は戦地扱いになるため、軍隊生活は昭和172月から昭和236月の6年4ヶ月なので、軍人恩給は結構多かった。

 

ただ日本では長男の存在は特別で、長男が戦死すると一家が消滅するため、激戦地には次男、三男などから配属された。親父の場合も長男ということで、輸送部隊、測量部隊と全く実際の戦闘に加わらない部隊にいた。徳島から招集された兵士の多くは、中国大陸から南方戦線に転出されたが、親父だけは中国に残った。こうした配慮は旧軍でも確かにあった。

 

戦争というのは残酷で、家族構成が時代に合ってしまうと、多くの犠牲者を出す。昭和10年くらいから20から40歳の世代が戦争に駆り出された。明治40年から大正10年、もう少し幅をとって昭和元年生まれくらいまでが参戦した世代である。親が明治10年から20年生まれの家では、5人の男の子がいれば、全て戦争で戦死したということが起こり得るし、少なくとも子供の一人くらいが戦死したであろう。一方、家内の父親の場合、7人兄弟で、男が4人、女が3人だが、一番上が昭和5年生まれなので、兄弟誰一人として参戦していない。また祖父が明治38年より前の生まれであれば、招集は免れた。5年か10年の年齢差で男の子全て戦士という家もあるし、出征しなくても良い家もいた。

 

また戦地によって扱いはひどく違い。ロータリークラブにいた時、お世話になった方は、召集されてからずっとタイ、バンコクに勤務して、ナイトクラブに行ったり、映画をみたりと結構楽しかったと懐かしんでいた。戦後も早い時期に日本に輸送され、日本の食生活に驚いたとようだ。逆に知人のご主人は、東京大学工学部を卒業後、第36師団として学徒出陣でニューギニアに派遣された。ニューギニア戦線はひどく、戦闘と飢餓で全兵の80%が戦死した。南方戦線は兵の消耗がひどく、中国戦線の方がまだマシだが、戦後、親父のように最初に捕虜になった兵士は、モスクワ南方、ドイツ軍捕虜などの一緒の捕虜収容所だったので生活はそれほど厳しくなかった。一方、中国大陸で捕虜になった兵士の多くはシベリアの収容所に入れられ、厳しい寒さのために多くの日本人が亡くなった。また南方戦線でアメリカ軍の捕虜になった兵士は捕虜生活もそれほど大変でなく、捕虜になるのもソ連、アメリカで違うし、ソ連でもどこの捕虜収容所に行くかでも違った。

 

実際のやなせたかしさんは、戦争中、病気になったり、食糧がなく苦しんだが、暗号係で、実戦経験はなく、捕虜生活もしていない。同じ漫画家の水木しげるの戦争経験とは雲泥の差がある。


2025年7月2日水曜日

矯正治療が高いのは技術料

amazonで売っているブラケット、メタル製で1症例用
6.99ドル、約1000円、もちろんこれでも普通に治せる。技術とはそういうものである。



矯正治療費は高いというのは皆知っているが、なぜ高いということになるとよくわかっていない。歯科医院によっては金属のブラケットと白いブラケットで値段が違うことがあるが、私にいわせれば、差をつけるほど大きなちがいはない。例えば金属製のブラケットが一つ250円くらい、強化ブラスティックの白いブラケットが500円くらい、さらにセラミックのブラケットで1200円くらい、一番高いもので2500円くらいである。抜歯症例でいうと第一、第二大臼歯、第二小臼歯の計12本でメタルのチューブは一個500円×126千円、犬歯、切歯の12本を一番高いセラミックでも2500円×123万円となり、ブラケット代だけなら、せいぜい4万円以下である。さらにワイヤー代もピンキリだが、一般的によく使うステンレススチールのもので200円くらい、超弾性ワイヤーなど使っても2年間の治療期間で3万円以下となる。つまりマルチブラケット装置に材料費はどんなにがんばっても8万円以下、私の診療所でいうならブラケットとチューブで1症例が14200円、ワイヤーはよく交換する方だが、それでも2年間で30回交換したとしてもおおよそ15000円、他のゴムや結紮線、フックなどが5000円くらいで、34200円くらいとなる。もちろんこれ以外にも、人件費、テナント料、光熱費さまざまな費用はかかったが、これは保険診療でも同じである。

 

一方、私のところの基本治療費は40万円なので、40万円マイナス34200円が材料費を除くもうけとなる。また調整料の3000円のうち、ワイヤーや結紮線、ゴムの費用など600円くらいが材料費となり、残りがもうけとなる。材料費はうちの場合、基本治療費で8.6%、調整料で20%となる。もうけはそれぞれ91.4%80%となる。これが基本治療、80万円の場合、もうけは95.3%、調整料が5000円の場合、88%となる。

 

それではこの80-90%のもうけは何の値段かというと、多くは技術料といえる。もちろん銀座で開業すれば、テナント料、人件費、あるいは広告費もかなり高いが、処置としては技術料が大きいと考えて良い。手術を例にすればよくわかるが、ブラックジャックはそのすぐれた手術技術で高い手術料を請求している。日本は極めて特殊な国で、ブラックジャックに手術してもらっても新卒のペイペイに手術しても手術点数は同じであるが、本来技術料というのは、経験、知識、技術の差によって異なるものである。であるなら若手の先生で経験、知識、技術がなければ、ベテランの専門医で同じ技術料を取るのはおかしなことになるし、本来ならそういうことはありえない。若手の外科医がブラックジャックの料金をとっても誰も手術を受けないからである。

なのに患者はどうして一般歯科医で矯正治療を受けるのだろうか。不思議なことである。私自身、それほど器用な方ではないとしても、年間100-150症例、30年間では3000-4500症例、大学で治療したケースも含めれば、優に5000症例は治療した。ところが一般歯科医であれば、普通年間に多くて10症例、30年間で300症例、このうち、マルチブラケット装置での治療と2年間の保定という症例はもっと少なく、さすがに技術的な違いがあろう。ましてやインビザラインしかしない先生など論外であり、さしずめ外科治療もしたことないのに、内視鏡手術をいきなりするようなもので、危険この上もない。

 

矯正治療の値段は、ほとんど技術代ということを述べたが、それでは何をみて判断するかである。まず日本矯正歯科学会の認定医以上の資格を持つ先生のいる歯科医院がよい。さらにいうならその上の資格、臨床矯正指導医、あるいは昨今できた日本歯科専門医機構、矯正歯科専門医の資格を持つ先生がさらによい。また先生の履歴をみて、大学病院矯正歯科、あるいは矯正歯科専門医に勤務したことはない先生はまずマルチブラケット装置による治療はできないとみた方がよい。最近は、暇なのでYouTubeをよくみるが、私がよく知っているあるいは学会でも有名な先生は誰一人でていない。まず認定医の資格すら持っていない先生がほとんどで、少し情けない気もする。美容外科のチャンネルも多いが、少なくとも彼らは正式な形成外科の医局で勉強した先生が多い。それに対してYouTubeで歯科矯正を発信している先生は、私からいわせればほとんど素人で、本当に恥ずかしい。優秀な矯正歯科医のところは、患者が多くて、YouTubeなどしている暇もないし、これ以上患者が来られるときちんとした治療ができないとそもそもホームページすら作っていない先生もいる。