2024年11月8日金曜日

子供の頃思い出3

 





尼崎の父の診療所に住んでいた頃、昭和37年から43年頃の近所の様子を述べよう。診療所の左隣にはクリーニング店があり、その横には牧病院があった。この病院は、軍医だった牧先生が治療していたが、怖い先生だった。玄関で靴を脱ぐと前に受付があり、廊下を挟んで右手のドアの中が診療所で10畳くらいの広い部屋が診療室で、大きな机、上には顕微鏡、机の横にはベッドがあった。かぜが何かで熱が出ると病院に行くとベッドに寝かせられ、お尻に注射をした。そして帰りにはガラス瓶に入った茶色のシロップ液を渡され、それを飲んだ。甘いが変な味がした。病院の2階は入院室となっていた。小学校5、6年生の時の同級生のKさんが、中学生三年生の時に腎臓ネフローゼで、この病院で亡くなった。後でこのことを聞いてショックを受けた。私は近所の三角公園のバス停から阪急塚口までバスに乗っていたが、中学生になったKさんのことを二度ほど見た記憶がある。昔はこの病気で亡くなる子供が多かった。Kさんは勉強ができ、いつも学級委員長か副委員長を私と交代にした。

 

歯科医院の前には、菓子を作るHというお菓子屋があり、ここの娘が同級生だったので、何度か店の中にも入ったが、おじさんはいつもお菓子を作っていて、できたお菓子をよくもらった。中学生頃になるとこのお菓子屋もなくなり、その隣が今度は小売のお菓子屋となり、パン、ジュースや当時登場したインスタント麺もここで売っていたし、関東炊き(おでん)のコーナーもあった。歯科医院の右横のかどの家はサラリーマンの家だったが、その向こうは牛乳屋で、毎朝、牛乳瓶を木製のケースを詰めて、自転車で各家に配達していた。朝早くから牛乳瓶が擦れる音がしてうるさかった。牛乳の紙の蓋を使った遊びが流行り、空瓶にまれにある蓋を集めたこともある。牛乳屋の前には酒屋があり、ここでは角打ちもあったため、夕方頃になると大勢の労働者が一杯やっていた。道を挟んで向こうには木製の塀に囲まれた土地があり、朝鮮人の家族が小屋に住んでいた。時々、門が開いていて中が見えたからである。西部劇に出てくる砦のような構造であった。

 

診療所の前の道は、労働者が通るコースで、自動車も少なかったのか、大勢の労働者がこの道を歩いていた。そのため、牧病院の向こうには、味噌醤油屋、薬局、朝日新聞配達所、お好み焼き屋、少年マガジンなどを売っていた駄菓子屋、タバコ屋、ホープという散髪屋などがあって、賑やかであった。三和商店街に行くこの道は、今はラブホテル街になっているが、昭和40年頃までは小さな工場がいっぱいあり、朝から工場で何かを作る音が聞こえていた。国道沿いには天崎柔道道場があり、その向こうには近藤病院があった。さらに行くと今はモータープールになっているところは、芝居小屋の三和会館、その後、ストリップショーをしていた三和ミュージックになった。立ちんぼもいて夜は怖いエリアであった。

 

ホープ理髪店とたばこ屋の間から難波小学校に行く道は怖いところで、殺人事件もあった。青線地帯で、訳のわからない飲み屋が何軒もあり、昼間から酒か薬で暴れている人がいた。ここだけは避けるようにしていたが、友人がここに住んでいて、幅2mくらいの小路が迷路のようになっていて、途中にはお婆さんが店番をしている駄菓子屋があった。この友人の家というのは、ここらに多くあった安っぽいアパートで、8畳くらいの一室で家族五人くらいが暮らしていた。炊事は共同であったので、多くの家族はこの狭い小路に七輪を並べて、サンマなどを焼いていた。お父さんがいると、大抵は昼間から酔っ払っていて、機嫌がいいと子供達に10円玉をくれ、大喜びした。昔は、今と違い子供に金をやるというのは、それほど抵抗なく、子供もそれを期待して大人の機嫌を取ったりした。当時の10円は今の100円くらいの価値があり、何軒か友人の家を回ると2030円になることもあったし、父親の言いつけでタバコを買いに行くとお釣りは小遣いとなった。正月でなくても小遣いをくれる親類がいて、人気があった。今でこそ、教育のためと言って子供にあまりお金をあげないが、昔は子供が一番喜ぶものとしてお金を与える大人が多かった。

 

こうした小遣いを持って子供が行くのが、近所の駄菓子屋で、私の場合は、家の3軒隣の駄菓子屋がメインで、小路のばあさんの店やセンター市場近くの駄菓子屋もよく行った。子供縄張ごとに駄菓子屋があったので、尼崎市全域では相当数の駄菓子屋があったのだろう。お年玉や太っ腹の親類から五百円、一千円札をもらうと行くのは、難波小学校正門前に西村文房具店で、ここにはプラモデルや竹ひご飛行機などが売っていた。もう少し大きくなると、三和商店街から出屋敷方向に行ったコンドル模型店に行った。また少年マガジンは歯科医院にも置いていたので、そのお金は出してくれたが、月刊少年などは西村文具店から三和商店街に行く途中の本屋でよく買った。ここは多くの雑誌がスタンドではなく、平な台に平積みに置かれていた。少年のような付録の多い雑誌は嵩張るので、かなりの高さになっていた。

 

自転車に乗るようになると、かなり遠くまで行くようになったが、それでも普段の遊び場は自宅から半径500mくらいに集中していたように思える。




2024年11月6日水曜日

尼崎市立難波小学校 運動会閉会の歌

 







「 夕日 西に落ち 運動会は終わります

  先生 みなさん ありがとう

  最後にお口をそろえ 

  難波の学校のバンザイを 声の限りに歌いましょ」

 

これは難波小学校の運動会終了の歌である。もちろん難波小学校でも校歌があるが、校歌以外の歌としてはこれだけしか記憶にない。卒業して56年も経つがなぜか覚えている。運動会の最後に歌った曲で、年に一回しか歌わない曲であるが、なぜか悲しい感じがしてリフレインする。最後のフレーズだけ変えて、他の学校でも歌っていたのかもしれない。

 

この曲のフレーズを聞くと、「たんたんたぬきのーーー」を思い出す人もいるかもしれないが、原曲はバプテスト教会の讃美歌の「Shall we gather at the river」という曲である、日本では「タバコヤの娘」として替え歌が昭和12年頃に流行ったようだが、讃美歌から童謡、あるいは唱歌になった曲は多い。難波小学校の運動会の閉会の歌も最後の「難波の学校のバンザイをーー」のフレーズなどは戦前の匂いを感じる。

 

三和本通りの入り口をまっすぐに出屋敷の出口付近で、靴屋があった。普段は運動靴などがビニールで包まれ、飾られていたが、運動会シーズンになると地下足袋が大量に売り出される。後ろの金具を差し込んでしめる足袋であるが、底の部分がゴムでできている。本当の脆いもので、ほぼ一日、運動会で使うと潰れてしまう。運動会専用の靴ということになる。確かに足袋なので運動靴に比べると軽いとは思うが、それほど差はないが、それでも生徒たちには絶大な人気があり、この足袋を履けば早くなると信じていた。親に駄々をこねて運動会の前の日に三和商店街に行って買ってきた。

 

運動会のメインイベントは徒歩競争で、6、7人並んで、ピストルの号砲を待って一斉にスタートする。私はあまり走りには自信がなく、いつも真ん中くらいで、いつも待っている間はドキドキした。一度、前を走っている二人がこけて、漁夫に利で一等賞になったことがあったが、嬉しかった。徒歩競走は、勉強はできないが、足の早い子にとっては年に一回の楽しみで、その日だけは英雄になれた。今と違って、一位になると鉛筆などの商品をもらえた。足の速い子供はクラス対抗のリレー選手にも選ばれるので、滅多に学校に来ない親も、この日ばかりは大きなゴザを引いて親戚一同で応援している。昔は子供の数も多かったせいか、運動会の陣取りも大変で、朝早く起きて、陣取りに行った。家族、あるいは親戚も集まり、いっぱいご馳走を作り、運動会は数少ない娯楽の一つであった。集まった家族の中には昼間から酒を飲みやからもいて、ワアワアと賑やかなイベントであった。

 

おそらく運動会は世界でも、日本くらいしかしていない行事であろうが、今、考えると結構楽しいものだった。昔、鹿児島の南、十島村というところに巡回診療に行ったことがある。一度、中之島の運動会に遭遇したことがあったが、全校生でも20人程度でるが、運動会には村中の住民が集まって騒いでいた。小学校の行事を超えて村の行事になっていた。そういえば、昔は会社の運動会というものも割合あった。職場の親睦を図るものとされたが、今はさずがに会社の運動会はないだろう。

 

高校では、3年生が主導となって体育祭をするが、総合得点で必ず高校3年生が優勝しなくてはいけなかった。そこでクラスの宇都宮くんが応援団長となり、佐伯孝夫作曲の「若い力」の替え歌

「 若い力と感激に  燃えよ高三 胸を張れ 歓喜あふれるユニフォームーー0」とほぼ原曲に近いがこれも運動会1ヶ月前に覚えたが、いまだに大体覚えている。

 

 






2024年11月2日土曜日

土手町 大鰐線

 




土手町にあった中三デパートがなくなったこともあり、家から歩いて5分くらいであるが、土手町に行くことが少なくなった。たまに行くのは大学イモを買いに行く時か、古書店「まわりみち文庫」に行く時くらいである。こちらに来たのが1994年で、かれこれ30年になるが、30年前も人通りは少なかったが、今はさらに少なくなり、ほとんどいない状態となっている。こんな土手町も、人が増えるのは10月に行われるカルチャーロード、これは土手町も道を歩行者天国にして多くの店が出店するお祭りである。あるいはよさこい、弘前ネブタの時も多くの人が集まるが、それ以外の時はほとんど人はおらず、車もどこに寄るではなく、単純な道として速度を出して走っていく。

 

同様に土手町から50m離れた弘南鉄道、大鰐線の弘前中央駅、この駅はノスタルジーがあって本当に好きな駅であるが、朝夕を除くとほとんど人はおらず、たまに大鰐温泉にいく時もひどい時には一車両に私しかいないことがあった。最近では、赤字幅も拡大し、弘前市議会からは廃止との声も相次いでいる。土手町、弘南電鉄ともに、もはやきびしいというよりは、やばい状況となっている。もちろんこれまでもそれこそ何度も地元有志が熱心に再建しようと動いたのだが、効果はない。もはや打つ手はなく、このまま消えていく感じである。

 

これはあくまで私の空想であり、こんなことは現実的には不可能であるが、夢のような話として読んでほしい。

1.土手町

土手町の道をいっそのこと、車の通行止めにしたらどうだろうか。全国のアーケード商店街をみていると、アーケードのためにもともと車は侵入禁止になっており、商店街を覆う屋根の老朽化のためにアーケードを撤廃したところがある。そして木や花を植えたり、彫刻を置いた遊歩道にようにしている。もちろん遊歩道にしたからお客が増えるわけでないが、それでも公園として利用する人もいて、喫茶店やレストランなどの新たな店もオープンしている。弘前でいえば、駅前から上土手町に続く、遊歩道を延長したようなものである。道全体を融雪にして、ベンチ、椅子や広場があるような土手町全体を公園のようにする計画である。欧米では街の中心部への車の侵入を禁止し、街自体を公園化、歩行者天国、遊歩道化しているところが多く、こうしたエリアとして土手町を存在づける。木が繁り、小鳥がやってくるような歩道は楽しい。

2.弘南鉄道大鰐線

先日、九州福岡県の秋月にいくために、甘木鉄道というローカル線に乗った。佐賀県の基山から福岡県の甘木までの全長13.7kmの小さな鉄道である。一両編成のディーゼル車で、後方から乗って、前方ドアのところで運賃を払うワンマン運転である。ほぼ30分おきに朝の5時半から夜の11時半まで、わずか28名の従業員で営業している。車両は古いものを使っているが、観光客も含めて行き帰りとも平日で20名くらいの乗客がいた。ウィキペディアで調べると経営状態も良好とのことである。最近では宇都宮LRTが登場し、人気を集めている。ここでは新型LRT「ライトライン」が使われており、近年、LRT(Light Rail Train)BRT(Bus Rapid Transit)などの交通機関が着目され、水素燃料も含めた種々の新型車両が開発されている。極端な話、弘南鉄道は路線が45kmと長いが、線路、電化をやめて、バス専用路線、それもバスぽくない新型BRT車両などどうであろうか。別に駅舎を新しくする必要はないが、運行回数を増やし、すべてSuicaなど使えるようにする。甘木鉄道は現金だけで不便であった。

 

土手町、大鰐線も再建するには、莫大な費用がかかる。それでも放っておけば、両者ともおそらくは消滅するだろう。市民の中には別になくなってもいいやと声も多かろう。ただ一度なくなってしまうと絶対に復活することはない。政治家は、こうした案件に真摯に向き合い、存続するように努力すべきである。市の予算がなければ県の予算、県の予算がなければ国の予算、こうした資金をとってくるのが政治家の大切な仕事であり、一部の市会議員は赤字なので廃止せよというが、あまりに芸がない。またバス便に転換しろという声もあるが、民間の弘南バスも経営はきびしく、できれば弘前―大鰐のバス便もなくしたいのだろう。