尼崎の父の診療所に住んでいた頃、昭和37年から43年頃の近所の様子を述べよう。診療所の左隣にはクリーニング店があり、その横には牧病院があった。この病院は、軍医だった牧先生が治療していたが、怖い先生だった。玄関で靴を脱ぐと前に受付があり、廊下を挟んで右手のドアの中が診療所で10畳くらいの広い部屋が診療室で、大きな机、上には顕微鏡、机の横にはベッドがあった。かぜが何かで熱が出ると病院に行くとベッドに寝かせられ、お尻に注射をした。そして帰りにはガラス瓶に入った茶色のシロップ液を渡され、それを飲んだ。甘いが変な味がした。病院の2階は入院室となっていた。小学校5、6年生の時の同級生のKさんが、中学生三年生の時に腎臓ネフローゼで、この病院で亡くなった。後でこのことを聞いてショックを受けた。私は近所の三角公園のバス停から阪急塚口までバスに乗っていたが、中学生になったKさんのことを二度ほど見た記憶がある。昔はこの病気で亡くなる子供が多かった。Kさんは勉強ができ、いつも学級委員長か副委員長を私と交代にした。
歯科医院の前には、菓子を作るHというお菓子屋があり、ここの娘が同級生だったので、何度か店の中にも入ったが、おじさんはいつもお菓子を作っていて、できたお菓子をよくもらった。中学生頃になるとこのお菓子屋もなくなり、その隣が今度は小売のお菓子屋となり、パン、ジュースや当時登場したインスタント麺もここで売っていたし、関東炊き(おでん)のコーナーもあった。歯科医院の右横のかどの家はサラリーマンの家だったが、その向こうは牛乳屋で、毎朝、牛乳瓶を木製のケースを詰めて、自転車で各家に配達していた。朝早くから牛乳瓶が擦れる音がしてうるさかった。牛乳の紙の蓋を使った遊びが流行り、空瓶にまれにある蓋を集めたこともある。牛乳屋の前には酒屋があり、ここでは角打ちもあったため、夕方頃になると大勢の労働者が一杯やっていた。道を挟んで向こうには木製の塀に囲まれた土地があり、朝鮮人の家族が小屋に住んでいた。時々、門が開いていて中が見えたからである。西部劇に出てくる砦のような構造であった。
診療所の前の道は、労働者が通るコースで、自動車も少なかったのか、大勢の労働者がこの道を歩いていた。そのため、牧病院の向こうには、味噌醤油屋、薬局、朝日新聞配達所、お好み焼き屋、少年マガジンなどを売っていた駄菓子屋、タバコ屋、ホープという散髪屋などがあって、賑やかであった。三和商店街に行くこの道は、今はラブホテル街になっているが、昭和40年頃までは小さな工場がいっぱいあり、朝から工場で何かを作る音が聞こえていた。国道沿いには天崎柔道道場があり、その向こうには近藤病院があった。さらに行くと今はモータープールになっているところは、芝居小屋の三和会館、その後、ストリップショーをしていた三和ミュージックになった。立ちんぼもいて夜は怖いエリアであった。
ホープ理髪店とたばこ屋の間から難波小学校に行く道は怖いところで、殺人事件もあった。青線地帯で、訳のわからない飲み屋が何軒もあり、昼間から酒か薬で暴れている人がいた。ここだけは避けるようにしていたが、友人がここに住んでいて、幅2mくらいの小路が迷路のようになっていて、途中にはお婆さんが店番をしている駄菓子屋があった。この友人の家というのは、ここらに多くあった安っぽいアパートで、8畳くらいの一室で家族五人くらいが暮らしていた。炊事は共同であったので、多くの家族はこの狭い小路に七輪を並べて、サンマなどを焼いていた。お父さんがいると、大抵は昼間から酔っ払っていて、機嫌がいいと子供達に10円玉をくれ、大喜びした。昔は、今と違い子供に金をやるというのは、それほど抵抗なく、子供もそれを期待して大人の機嫌を取ったりした。当時の10円は今の100円くらいの価値があり、何軒か友人の家を回ると20、30円になることもあったし、父親の言いつけでタバコを買いに行くとお釣りは小遣いとなった。正月でなくても小遣いをくれる親類がいて、人気があった。今でこそ、教育のためと言って子供にあまりお金をあげないが、昔は子供が一番喜ぶものとしてお金を与える大人が多かった。
こうした小遣いを持って子供が行くのが、近所の駄菓子屋で、私の場合は、家の3軒隣の駄菓子屋がメインで、小路のばあさんの店やセンター市場近くの駄菓子屋もよく行った。子供縄張ごとに駄菓子屋があったので、尼崎市全域では相当数の駄菓子屋があったのだろう。お年玉や太っ腹の親類から五百円、一千円札をもらうと行くのは、難波小学校正門前に西村文房具店で、ここにはプラモデルや竹ひご飛行機などが売っていた。もう少し大きくなると、三和商店街から出屋敷方向に行ったコンドル模型店に行った。また少年マガジンは歯科医院にも置いていたので、そのお金は出してくれたが、月刊少年などは西村文具店から三和商店街に行く途中の本屋でよく買った。ここは多くの雑誌がスタンドではなく、平な台に平積みに置かれていた。少年のような付録の多い雑誌は嵩張るので、かなりの高さになっていた。
自転車に乗るようになると、かなり遠くまで行くようになったが、それでも普段の遊び場は自宅から半径500mくらいに集中していたように思える。