2025年3月6日木曜日

私の恩師

 




私には、二人の恩師がいる。一人は鹿児島大学歯学部名誉教授の伊藤学而先生である。鹿児島大学歯学部矯正歯科講座で8年間お世話になった。私自身、多くの教授と知己があるが、中でも伊藤先生は飛び切りの教授であった。そのため日本矯正歯科学会長にも選ばれ、日本学士院会員にも選ばれた。地方の大学から学会長や学士院会員に選ばれることは少ない。

 

伊藤先生は、よく言われたことで今でも実践しているのは

1.仕事は早く終わらせ、次に回す

何か頼まれたりした場合、つい面倒で先送りすることがある。結局はしないといけない仕事なので、どんどん溜まっていく。さらに仕事が溜まっていくと忘れてしまう。そのため仕事があるとできるだけ早く終えて、次の人に回すようにしている。例えば、メールでの問いわせがあると、簡単でもいいのですぐに返事をする。大抵の場合はこれで終わるが、もう少し時間のかかる仕事でも、できるだけ急いで一週間以内に返事して終了するようにしている。一流企業の会社員はこうしたことに慣れているが、一番ひどいのは学者で、彼らは2、3週間くらいしてから返事をするのが普通と思っている人が多い。かなり長文の資料や著書を送っても、全く返事すらない学者が多い。

2.70%でいい

どんなことでも100%が良いということは少ない。伊藤先生によれば、多少問題があっても70%がよければやれという。実際に、医院経営をしていても、ごく少数者だが、お金を払わないままとんずらする患者がいる。ただこうした患者を基準に規則を作ってしまうと、ほとんどの患者には面倒なシステムとなる。100%を目指すのではなく、70%を目指す方が、楽だし、無理がない。生き方もそうである。

 

もう一人の恩師は、高校生の時に家庭教師をしてもらった、元龍谷大学准教授の松谷徳八先生である。

1.本を読め、映画を見ろ、そして旅行をしろ

勉強も大切であるが、学生時代にすべきことは、本をたくさん読み、映画もたくさん見て、そして一人で旅行しろ、その中でいろんな人物に出会い、また人生を経験する。確かに人生は一回きりであるが、本や映画の中で他人の人生を追体験することができるし、一人で旅行することで、その土地、海外の人々と交流できることは、社会人になった時の大きな財産となる。私の高校生の時に沖永良部島への旅行、大学生になってからにインド、中国の旅行は大きな影響を受けた。

2.とにかく行動せよ

昔、夏休み終わる頃に、突如、松谷先生から今から一人で旅行しろと言われた。もうすぐ学校が始まるというと、なぜ学校が始まるから旅行にいけないのだ、学校を2、3日休んでも何か問題があるのかと言われる。結局は面倒くさい、一人で旅行するのが怖いというのが実感で嫌がっていただけである。最後はお袋も行けというので、一人で神戸から船に乗って沖永良部、奄美に4、5日行ってきた。学校は2日休んだ。何かをやるときは結構勇気がいるが、実際に行動に移すとそんなにたいしたことがないことが多く、むしろ自分の中で行動に移さない心理的葛藤の方が強い。いまだに“とにかく行動せよ”というのは難しいことであるが、以前に比べると経験が多くなると行動する敷居は低くなる。そして“忙しいから”と答えることはできるだけしないようにしている。世の中、忙しいと言っても大統領や首相ほど忙しいことはないだろうし、忙しいという人で、本当に忙しい人はいない。本当に忙しい人こそ、必要なことであれば、何とか時間を作るものである。

 



2025年3月5日水曜日

トランプ政権と大アジア主義

 


アメリカのトランプ大統領は、やり放題である。グリーンランド、パナマ運河のアメリカ領、ウクライナの休戦、資源の譲渡、メキシコ、カナダ、中国への関税などなどである。

 

それに対して世界では、報復関税などの対抗手段をとっているが、ほとんど効果がなく、改めてアメリカの巨大さ、強さを思い知った。ウクライナ大統領への恫喝など見ると、かって日本がアメリカから通告されたハルノートを思い出す。太平洋戦争に至るまで、日米間は決してうまくいってはいなかったが、お互い何とか譲歩しながらやってきた。1941年もハルノートが出される前までは何とか交渉しようという意思があったが、日本にはとても飲み込めな条件を出して、日本は開戦を決意した。

 

こうした力で押し込めようとするのがアメリカのやり方であり、明治維新後、日本は中国(日清戦争)、ロシア(日露戦争)、アメリカ(太平洋戦争)など、大国と戦争してきたが、アメリカは太平洋戦争後、どこと戦争したかというと、北朝鮮(朝鮮戦争)、ベトナム戦争(ベトナム)、イラク(湾岸戦争)、アフガニスタン、他にはリビア、シリア、ソマリアなどいずれも圧倒的に軍事力が劣る国と戦争してきた。弱いものいじめである。太平洋戦争前も見ても、インディアン戦争、テキサス戦争(メキシコ)、米西戦争(スペイン)、米比戦争(フィリピン)、バナナ戦争(キューバ、ハイチ)など、弱小国に軍事的な介入をしており、まともな戦争といえば、第一世界大戦と第二次世界大戦くらいである。これも途中参戦である。つまり基本的には絶対に勝つ戦争しかしないし、何かで紛糾すれば武力で解決するのがアメリカの基本的な考えである。こうした前提で、トランプ政権のアメリカを見ると、アメリカの原点に帰ったと言ってよく、もし台湾問題が起こっても、中国との戦争は決してしないし、さらに日本への侵攻、流石に米軍基地への攻撃があれば、自動的に反撃するものの、最終的は見捨てるのははっきりしている。

 

あくまでブログ上の空想である。ならばアメリカに対抗する方法と言えば、まず日本が再軍備化することであろう。これまでのアメリカが決して許さない、空母、原子力潜水艦、核兵器の開発、所有である。そして反米国国が結集して、アメリカと軍事的に対抗できる力を持つ。おそらくは中国が主導し、これに日本がくわわることで、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、南アメリカ、中近東などイスラエルとロシアを除く国の結集ができよう。それだけアメリカは嫌われている。同時にアメリカ軍の日本からの撤退を要求する。日本を守るなら、駐日米軍基地も必要であるが、日本の防衛もしないなら、日本にある米軍基地は必要ない。日米安保条約の破棄である。トランプ大統領自身も、過去に安保条約の破棄を漏らしている。究極の大アジア主義としては、「キリスト教国は仏外の外道国の悪国指定」とし、東洋の王道VS西洋の覇道に勝利するという石原莞爾の最終戦争論に行き着く。さすがにこれは極端であるが、それでも空母「かが」のように、なし崩し式に輸送船から空母建造に向かったプロセスで、三菱重工が開発中のマイクロ原発を使った原子力潜水艦は建造できそうである。また核兵器については、すでに固形ロケット、イプシロンを持っており、1.2トンの核兵器を地球上のどこにも投下でき、広島型、長崎型の原爆重量でも全く問題ない。開発が難しい核兵器の小型化も必要ない。また小型化が完成すれば、現在開発中のブロック2B、極超音速ミサイルに搭載でき、射程3000kmを超える迎撃が困難な中距離ミサイルとなる。もちろん中国、北京も射程圏内である。

 

安保条約破棄に向かったこうした動きは誰かの意思が働いているのか、着々と進められており、安倍政権以降、平和憲法というくびきが外れたようである。トランプ政権は、アメリカ中心主義、モンロー主義に戻ろうとしているのか、世界の警察という役割を拒否している。結果として各国は警察に頼れないのであれば、自ら武装化することになり、各地での戦乱、あるいはアメリカ国内でもテロが多発していくだろう。全く困った人である。あと4年の辛抱であるが、プーチンのように憲法を変えて居座る可能性もある。


2025年3月2日日曜日

空中消火飛行艇

 




アメリカ西部での大規模な森林火災がようやく落ち着いてきたと思うと、日本でも三陸地域で森林火災が頻発している。近年、世界各国で地球温暖化のよるものか大規模な森林火災が発生し、それがまた大量のCO2放出に繋がっている。

 

森林火災の消火方法については陸上からの消防車による消火では、水源確保が難しく、アメリカ西部、ロスの場合は、大量の消火用の飛行機が使われていた。多くは旅客機を改良したもので、ニュースを見る限りさまざまな機種が使われ、それも民間の会社のもののようだ。国あるいは州がそうした空中消火専門の会社と契約して消火作業をしているのだろう。日本の岩手県、大船度の森林火災では自衛隊のヘリコプーを使って消火を行っていたが、いつも思うのは、日本が誇る飛行艇US-2を使った消火はできないかということである。

 

US-2は、新明和が1967年に開発したUS-1の後継機で、世界でも最も優れた飛行艇として有名で、これまでも多くの救難運用を行ってきた。この飛行艇を用いて山林火災などの消火活動に用いようとする試みがあったが、効果は抜群との認定を受けながら、費用効果比が低いために見送られてきた。元々、一機100億円くらいであったが、最近では物価高騰により一機220億円、維持費が年間20億円という。さらに機材提供の三菱重工、川崎重工が供給を撤退したため、生産も不可能となっている。

 

今回の大船度の森林火災では、陸上自衛隊の大型ヘリ、CH47が使われたが、この機体の価格が176億円で、機体価格としてはUS-2よりはやや安いが、バケットによる水量は5トン、それに対してUS-2は一度に15トン以上の水を放出でき、さらに基地に戻らず、近くの海、湖で給水ができるという利点を持つ。もちろんCH47の主任務は輸送であり、消火活動はバケットを使った利用法の一つで、US-2より汎用性の高いことはいうまでもない。

 

それでも森林火災以外に、近年でも能登地震の際の火災など、天然災害に伴う大規模な火災が発生し、陸路により消火活動ができない事象も増えてきており、こうした消火専門の飛行艇の活躍の場は多いのではないだろうか。さらにカナダ、アメリカ、オーストラリアなど世界を見渡せば、大規模な森林火災が頻繁に起こるところがあり、消火用飛行艇の需要があり、生産数が増えれば、価格も安くなる。と同時に、戦前から続く、日本の飛行艇の技術を継承できる。

 

US-2の航続距離は4700kmで周辺を海で囲まれた日本では、どのような場所でも給水は可能で、さらに言えば琵琶湖などの大きな湖も給水箇所として使用できる。もちろん消火方法などはまだまだ改良の余地はあろうが、地震などのよる火災などで早急に消火ができるなら、それによる人命救助も増えるだろう。さらにフィリッピンなどで給油すれば、ほぼ東南アジア全体をカバーでき、そこで起こった災害、山火事などの消火活動に活用できる。


 


2025年2月26日水曜日

博物館、美術館への寄贈

 


徳島県立美術館の修造作品数が1万点を超えるというニュースがあった。開館当初は購入による作品収集も多かったが、最近は作品を購入する予算も少なく、年間の収集点数も1-3点にとどまっている。それに反して、美術館による積極的な調査研究、収集活動が次第に効果を及ぼし、最近では市民による寄贈も多くなってきて、2023年度では359点の寄贈を受けたようだ。それにより郷土作家のまとまったコレクションとなり、収蔵作品展を頻繁に開催している。

 

一方、青森県立美術館について調べると、所蔵作品は令和元年で4767点であるが、ここも作品購入の予算が少ない上、市民からの寄贈についてはあまり積極的ではない。郷土作家といっても奈良美智さんの作品を寄贈する人はいないだろうが、他のあまり知られていない郷土作家の作品はたくさんあるはずである。先日も、棟方志功の師匠と呼んでも良い下澤木鉢郎の作品3点の寄贈を青森県立美術館に写真付きでメールした。一応、見てみて、委員会に諮ってから受け入れを決めるという。ただ委員会の開催は一年以上後とのことであった。

 

これは弘前市立博物館や弘前レンガ倉庫美術館でもそうで、原則的には市民からの寄贈や寄託は受け付けていない。まず対応する職員が少なく、また保管するスペースもないからである。ただよく考えていただきたいのは、博物館、美術館は、所蔵作品を市民に見せる場でもあるが、同時に市民の宝を保存する場所でもある。放っておくと、家のある古いものはどんどん捨てられてしまう。たとえば、世界中で話題になっているボロ、ツギハギだらけの衣料も田中忠三郎さんの努力によりコレクションされているが、これなど汚いものとして捨てられる運命であるし、今でもどこも寄贈できないのであれば、捨てられていっている。個人的にあれほど弘前で盛んであった弘前木綿がほとんど残っていない。

 

もちろん市民が寄贈を希望するものの多くはガラクタに類するものかもしれないが、それでも後世に残すべき作品もあるはずで、少なくとも専門家が仕訳をしなくてはいけない。最初に述べた徳島県立美術館の場合、1。寄贈を受けるため所有者や関係者のもとに足繁く通う、2所有者の代替わりに際して寄贈の相談を受けるなどの、継続的な活動を行い、さらに寄贈品はそのまま無条件で収蔵するのではなく、館内で熟議し、専門家と協議した上にコレクションにするという。

 

特に青森県では、耐震強度の問題で、青森県立郷土館が休館のままになっている。ここは青森県でも比較的寄贈を受け入れるところだっただけに、このまま休館が続くのは寂しいし、その間も貴重な歴史的資料が失われている。元々アメリカで言うと、美術館や博物館は市民の寄付や寄贈で作られてきたため、財政的にも国、州、市に依存しておらず、地元会社や個人の寄付で成り立っている。市民ボランティアも多く活用している。それに対して、日本の多くの博物館や美術館は公的予算で成り立つところが多い。もちろん私設美術館はそうではないが。

 

弘前博物館でも、実は後援会があるがほとんど知られていない。安い会費で、企画展など無料で観覧できるので、お得なものであるが、ほとんど広告していないせいか、会員数は減っている。これなどもっと市民にアピールすべきである。また市民からの寄贈については、まず美術館のスタッフの増員、あるいは収容スペースの確保とともに、もっとボランティアを活用すべきである。リタイヤした老人の中にも美術品が好きな人もいるだろう。図書館ではそうしたボランティアの人も見かけるが、あまり博物館や美術館では見かけない。

 

図書館、美術館、博物館というのは住む人の文化的な顔である。文化的な都市を目指す弘前市であるならば、もう少し予算、作品収集ではなく、スタッフ予算を増額、あるいは積極的なボランティアの募集、後援会の拡大など、やりようはあると思う。人口17万人の街に、博物館と美術館があるのは贅沢なことであるが、なんとか市民も含めて支えていきたい。


2025年2月22日土曜日

宮本輝 「潮音」 第一巻



楽しみにしていた宮本輝さんの新著が出たので、早速買って読み終えた。弘前市は、紀伊国屋書店、ジュンク堂書店がなくなり、近所にも本屋がなくなったので、宮本さんの新刊が出たのを知ったのは新聞の広告であった。最近は宮本さんの本が出るやいなや、すぐの書評をブログに上げるということをしてきたが、今回は発刊してからかなり時間がたった。

 

まず新刊「潮音」でびっくりしたのは、時代小説とは。これまで宮本輝さんはほぼ現代小説ばかりだったので、時代小説はどうかなあというのがまず最初の感想であった。ところが10ページも読まないうちにこれはまったくの杞憂であり、さすがに才能ある小説家はいとも易々と新しい分野、時代小説をものにした。ここらはさすがにベテラン小説家のなせる技である。

 

100ページくらい読むうちになぜか、既視感がある。小説の時代設定、感触が何かの小説に似ている。しばらく考えると、あの島崎藤村の名著「夜明け前」に似ている。といってもこの小説自体、10年ほど前に読もうと思って本は買ったが、一部の前編しか読んでいない。それでも幕末の、新しい時代と古い時代の狭間、こうした不安な空気がそこにある。ただ「夜明け前」は藤村にとってはけっして時代小説ではなく、父親の生涯を描いたものであり、宮本さんの作品でいうなら「流転の海」に近いものとなる。幕末、明治といえば、若い人からすればかなり昔のことのように思えるかもしれないが、1947年生まれの宮本輝さんからすれば、父親、熊市が1897年生まれ(明治30年)であり、その父、宮本さんの祖父の時代が幕末、明治となる。それゆえ、「流転の海」で父親の時代を描いたなら、「潮音」は祖父あるいは曽祖父の時代を描いたものであり、けっして時代小説ではないのかもしれない。

 

それでも富山の薬売り、あまりこうした職業をベースにした小説はなく、細かい設定を調べるには相当な年数を要したのだろう。純粋な現代小説であれば、登場人物の職業や趣味の設定を調べる必要があるが、それでも資料調べの時間はそれほど必要ない。一方、「流転の海」でもそうであるが、過去の日常の様子をいきいきと描写するためには膨大な資料とそれの読み込みをしなくてはいけない。かなり大変であっただろうし、時間も要したであろう。

 

この小説「潮音」は間をおかず、四巻を一気に出版していくようであるが、宮本さんのパワーには驚かされる。あの司馬遼太郎さんも1987年、司馬さん64歳の時の「韃靼疾風録」を最後に長編小説は書かず、それ以降は短編小説あるいはエッセイが多いが、宮本さんもすでに77歳、それでも毎年のように長編小説、それも本作のように4巻の大長編をいまだに書き続けることに驚嘆する。普通ならライフワークの「流転の海」が完結したなら、そろそろさぼりたくなるのが、それ以降の作品、「灯台からの響き」、「よき時を思う」そして本作「潮音」と立て続けの出版しており、その創作意欲には敬意を払う。

 

本作でも、主人公の回想という形で話が進んでいくが、この方法は、映画の間奏のような効果があり、息継ぎができる。まだ三巻あるようなので、楽しみが増えた。映画化、ドラマ化の予感がする。大好きなBS時代劇“商い世傳 金と銀”のような作品になってほしい(この続編はいつになったら見られるのでしょうか)。


 

2025年2月19日水曜日

祖母のこと

 

祖父の葬式


晩年の祖母と私

父方の祖母は、私が2歳頃に亡くなった。確か亡くなったのは70歳くらいで、テレビが好きで毎晩、遅くまで見ていた。朝方、母親が見に行くとテレビがついたままで、横に寝ている祖母を起こそうとしたが、亡くなっていたという。

祖父の本籍地は徳島県板野郡吉野町というところなのはわかっているが、祖母の実家がどこなのかはわからない。多分、近郊の在であったのだろう。広瀬の家は、1500 年代に名古屋から四国に流れ着いて、そこでずっと百姓をしていた。家には家系図があり、かなりいい加減な代物であるが、それでも徳島の檀家寺から記録を集めたのか、室町末くらいからの記録はほぼ正しい。というのは全く無名の広瀬姓の名が続いているからであり、それもずっと百姓であった。

 

祖父と祖母は結婚して、しばらくすると大阪に出てきていろんな商売をしたようだ。最終的には、大阪の堀江、新町遊郭で栄楼という遊郭を開業したものの、昭和5年、祖父が40歳の若さで亡くなり、そこからは祖母一人で一家を支えた。家族は、長女、次女、長男(父親)、次男の5人家族だったが、こうした商売は儲かったのか、叔父、叔母ともにあまり金には困らなかった。実家のある徳島には豪華な家を建て、父親はそこから旧制中学校、そして上京して東京歯科医専(現:東京歯科大学)に入った。昔のことだが、歯科医にするのは結構金がかかった。

 

両親は、私たちの子供には、父母のこうした商売のことは触れずに、大阪で広い土地を持っていたが、戦後のどさくさで土地をなくしたと言っていた。実際は、長女夫妻が戦後、電気風呂という事業をするが、うまくいかず、抵当の土地を取られたようだ。そのため、私が1歳、昭和32年ころに、祖母は無一文で尼崎の家にきた。当時、私の家には父親、母親、姉、兄、と私の5人家族だけでなく、母親の妹2人が大阪の洋裁学校に行くためにいて、さらに祖母がそこに加わった。計8人がいたことになるが、わずか13坪くらいの家で、それも一階の大部分は診療室だったので、2階の8畳2間と一階の台所4畳半にこれだけの人数が寝泊まりした。

 

姉、兄は小さかったからか、急に現れた祖母に「クソババア」などきつい言葉を言っていたので、父親の兄弟からはあまり好かれていなかったが、私は赤ちゃんでいつも抱っこされていたので、今でも親類では一番好かれている。晩年は、ようやく家に入ってきたテレビが好きで、一日中見ていたようだが、今、考えるとまだ70歳くらいで、当時の写真を見てもかなり老けている。夫を早く亡くしたにも関わらず、なかなか女手では難しい仕事をして、子供を育て上げた。人と交渉するときは、必ずタバコを吸って心を落ち着かせながら話したという。

 

個人的には、祖母は今の家内と結婚するきっかけになった。ある日、夢の中で祖母が現れ、この人と結婚すると良いと勧めてくれた。あまりにリアルな夢だったので、これはお告げと信じ、結婚を決意した。早速、両親に夢の話をすると、特に父親は喜んでくれ、全く反対もなく、結婚に至った。自分にとって祖母は全く記憶になく、残っている写真だけの存在であるが、今でも何かあれば、祖母に助けを求める存在である。不思議なことである。思うに晩年、全てを失った祖母にとって、幼子の私を抱っこしてあやすのが、何よりも楽しいことだったのかもしれない。同居していた母親の妹によれば、本当によく可愛がったという。そうした思いは、亡くなって60年たつが、両者とも色濃く残っている。



2025年2月15日土曜日

建物紹介番組を考える


 

          アアルトの自宅 すごしやすそうな部屋である。



          リサ・ラーソンの自宅リビング 壁には絵を


「渡辺篤史の建もの探訪」や「となりのスゴイ家」などの建物を紹介する番組は好きで、よく見る。多くは建築家の自宅で、宣伝も兼ねて番組出演しているようだが、どうも気になる点がある。つまりあんまり生活感がないのである。夫婦二人の子ども二人いれば、相当生活感があるはずであるが、番組で紹介されている住宅には物がほとんどない。確かに番組の取材にくるのだから綺麗に片付けたといわれれば、その通りであるが、それでも何だかモデルルームのような家が多い。

 

これは建物を扱った番組だけではなく、雑誌「モダンリブング」やインテリア雑誌をみても、本当に何にもない家が多い。シンプル、何もない家に憧れがあるのか。真っ白な壁、黒のソファー、床も大理石、大型のテレビ、こんな感じか。なかなか緊張する部屋だし、寝っ転がってポテトチップスも食べられない。ましてや子どもがいる場合、彼らは遊びまわるし、汚し回る、これから白い壁、床をどう守るか、お母さんとのけんかが絶えないだろう。こうしたすべて、新品に囲まれたシンプルな家、日本人が好きな家である。

 

一方、欧米の雑誌をみると、リビングの雰囲気は全く違う。いかに生活しやすい、くつろぎやすいを主体として、温かい、少し雑然とした家が多い。多くのものがあり、それらを見ると住む人の趣味や好みがわかる。

 

日本の家、といっても雑誌などで紹介する理想の家は、基本的には何もない家であるのに対して、欧米のこれも理想の家は、住む人がくつろげる空間となっている。すなわち日本の家は外から見られるモデルルームのような新品の家が好まれるが、欧米では、外からどうみられるよりは住む人が快適な家をめざしている。具体的にいえば、欧米の家では床に絨毯などを敷くことが多い。何種類も、大きさや柄の異なった絨毯がいたるところに置いている。和室であれば畳自体が快適であるが、洋間のフローリングは寒いし、温かみ欠けるため、絨毯などラグで覆う。さらに日本では白い壁であれば、そのままであるが、欧米ではここに絵や写真を飾ることが多い。また壁に大きな棚を作り、そこに趣味の人形や陶器を飾っている。そして新品というよりは使い込まれたインテリアで部屋をまとめている。

 

こうしてみると日本の家は何もない新品の家に対して欧米の家は、モノ囲まれた中古の家と言ってもいいのかもしれない。実際、日本では新築の需要が70%以上なのに対して、欧米は逆に中古住宅の需要が80%を超えていて、そうしたことも部屋の内装に違いが出ているのかもしれない。エコの観点からも、そろそろ日本人も新品嗜好から足を洗い、好きなものに囲まれた気の休まる家に回帰する時代になってきたのではなかろうか。そうした意味でも、新しい家ばかり取り上げる建物番組から古くてもいいが、おしゃれなくつろぎやすい建物も取り上げてほしいものである。新しく家、建築予算いくらというものではなく、古い家をリフォームし、絨毯をしいて、家具を入れ、絵を飾るとこうなったといった番組もありかと思う。