2024年4月25日木曜日

弘前市森町の忍者屋敷について その5

 



森町にある忍者屋敷については、ファンタジーとして、あるいは観光目的のためのものとしては活用するのは全く問題ないし、その真偽をあれこれ論ずる必要もない。ただ大学の教授が学会やマスコミを通じて、その存在を歴史的事実として唱えるとなると、それが真実と思われてしまうので、議論が必要となる。本来なら大学の歴史研究者が反論すべきであるが、これについては完全に沈黙している。

 

このブログでは、忍者屋敷の建物、あるいは仕掛けについては、他の建物にも類似形式があることを述べた。さらに清川先生によれば、明治二年弘前絵図に記載されている忍者屋敷の戸主、棟方嘉吉は。弘前の忍者集団を統率した棟方一族であり、歴代の所有者は早道之者に関わりのある人物としている。そして享和20年(1735)頃に早道之者の詰め所は現在地に移り、5年後に再建されたとしている。ただ棟方姓は明治二年弘前絵図では9名おり、姓が同じだからといって早道之者の統括する棟方作右衞門の子孫であるとはいえまい。まず現在わかっているこの屋敷の戸主を見てみよう。

 

まず元禄15年(1702)の弘前惣御絵図では森町周辺は土取場となっていて、茂森山を崩したまま田畑、あるいは荒地で、町割はされていない。宝永6年頃(1709)に町割されたという(ウイキペディア)。

https://adeac.jp/hirosaki-lib/viewer/mp000027-200010/06-072/

 

その後、清川教授は、宝暦9年(1759)の屋敷の居住者を記した地図より、杉山源吾の子孫、白川孫十郎がここに住んだという。これは宝暦の御家中屋舗(金偏)建屋図のことと思われるが、実見していない。白川孫十郎の名は“御持筒並足軽”として元禄二年三年(1690)の記載があるが(国会図書館デジタルアーカイブ)、時代が一致しない。時代は下がるが、明治一統誌士族、卒族名員録の中に唯一、白川姓として卒族として白川慶太郎の名がある。また津軽家文書の由緒書(卒族)の項に白川慶太郎、利助の名があり、幕末時は足軽など軽輩の武士であった。

 

宝永6年まで       重森山、畑、土取場をへて町割

享和20年(1735.       早道の詰所 一旦取り壊され、五年後に再建 ?

宝暦5年(1755.        白川孫十郎(杉山源吾子孫?)

寛政年間(1789-1800 深掘左次衛門―今久造 (某氏所蔵、御家中町割表より) 

寛政12年(1800.       齋藤誠八郎

江戸後期         現在の家屋が再建?

明治二年(1868.        棟方嘉吉

  

https://archives.nijl.ac.jp/G000000200300/kind?l1=09.藩士&page=2

 

ここには文化15(1818)と文政11(1828)の早道分限帳が掲載されていて2名の早道小頭と17名の早道の名前が記載されている。寛政の絵図、町割表と年代的に比較的近いが、深掘、今、齋藤の名はない。文化15年の早道分限帳では小頭として、代官町の寺田太兵衛と鷹匠町の石黒太左衛門、文政11年の分限帳では寺田(62歳)と 桶屋町川端町の成田己◯衛門(40歳)となっている。石黒は寛政4(1792)に早道に、文化11(1811)に小頭、寺田については天明8年に見習い、寛政4年に早道に、文化9年に小頭になった。2名の小頭、17名の早道とも僅か10年くらいでかなり変わっている。見習いー早道―早道小頭という流れであるが、それほど継承される職ではなさそうである。

 

早道の集団のトップは家老あるいは大目付で、その下の小頭2名とその他、並のものという構成である。森町の忍者屋敷が早道の集会所であるなら、大きさからして家老や大目付の家ではないので、小頭の家と考えられる。分限帳で言えば、1818年から1828年の小頭、寺田(代官町)、石黒(鷹匠町)、成田(桶屋町)は森町に住んでいない。逆に白川、寛政年間に森町に住んでいた深堀、今、齋藤については、早道あるいは早道小頭であったかは確認できなかった。森町の屋敷が、仕掛けを凝らした早道の集会所であるなら、秘密の相談も多かったと思われ、早道の職と関係ない者が住むとは思えない。少なくとも、ここの住民であった白川、深堀、今、齋藤、あるいは幕末で言うなら棟方嘉吉が早道あるいは小頭であることが確認できないと、集会所とは言えないのではなかろうか。森町の屋敷は同族あるいは子孫が代々住んでいた家でなないので、それであれば同じ職(早道)のものが代々住んでいないと集会所として成り立たない。

 

 そもそも忍者という存在が世に知られるようになったのは、明治末、大正の立川文庫くらいからであり、森町の屋敷が忍者屋敷といわれたのもおそらくこの頃から後であろう。忍者屋敷とは何かという定義もない。仕掛け屋敷=忍者屋敷でないし、また忍者が住む家=忍者屋敷でないことも周知である。かろうじてこの屋敷が代々忍者の子孫が住む、例えば、甲賀市の望月家であれば、忍者あるいはその末裔の家として、忍者屋敷と言えるかもしれないが、弘前、森町の屋敷については、江戸期、調べる限りにおいても白川、深堀、今、齋藤、棟方の5名が住んでいたことから、忍者の末裔が代々住む家という定義からも外れる。また集会場であれば、隣の佐藤万太郎の家は「町同心稽古場」となっているし、明治二年弘前絵図では今の樹木町あたりに「この林を石森早道稽古所と称し、方二町全林の内に沼あるいは岩石多く、明治三年まで役位早道の者(小隼人目付という)年々日を期してこの地に於いて三寸草隠し、あるいは岩石隠し等の術を稽古する場合なり」と記載されている。集会所をそれほど秘密にする必要もなく、森町の屋敷も「早道集会所」として、どこかの資料にあっても良さそうであるが、そうした資料もない。

 

青森大学の忍者部は、忍者ショーだけでなく、忍者組織の活動調査、古文書解読などを行っているという。できれば上記の森町の住民と早道の組織との関係を調べて欲しい。今回は宝暦年間から幕末までの5名の住民が判明したが、文献を調べれば、もっと細かい住居者の流れがわかるだろうし、逆に歴代の早道頭の名前と住所も判明できるのではないかと思う。学生たちの研究を期待したい。


2024年4月21日日曜日

矯正歯科料金はなぜ歯科医院であんなに違うのか



結論を先に言おう。矯正歯科料金の設定は、全く根拠はなく、歯科医の何となくの気持ちで決定される。

 

通常、どのようなお店でも品物の値段を決定するのは、最も重要なことであり、原価、人件費、広告費、テナント代、そして利益を見込んで、値段を決定するのが一般的である。ところが矯正歯科では、まず診療所を開設するにあたり、最初に料金を決めなくてはいけないが、開業前なので経費の予測が全くできない。そのため勢い、近場の相場で値段を決めることになる。例えば、すでに矯正歯科で開業しているところがあれば、その値段を参考にする。多くの理髪店や美容院などが、この方法を利用し、場合によっては組合員で基本料金を定めているところある。だいたい理髪料金で言えば青森県の場合は、東京の半額くらいである。

 

ところが近場に同業者がいない場合は、どうするかというと、大学の矯正歯科学講座の先輩などに相談することが多く、同門会の先生で値段が近いということも多い。例えば、鹿児島大学のOBではだいたい同じような矯正治療費で、他大学に比べて治療費が安い傾向がある。もちろん東京、横浜、大阪などの都市部では、少し高いが、それでも近医より安い。私の場合も、数名の先輩の意見を聞き、青森県は日本でも最も収入が少ない県であること、さらには新たな矯正歯科医院の進出を防ぐためにも、矯正歯科としては比較的安い値段を設定した(基本治療費40万円、調整料3000円)。治療終了までの総額は50-60万円になる。開業以来、家内はずっと受付をし、実質、人件費は常勤の衛生士1名と午後からの非常勤の受付だけでやってきた。全ての技工物は自分で作ったし、矯正機材は基本的には1年分を一括で注文して、大幅な値下げ交渉をした。年間の患者数は100-150名の規模の矯正歯科医院では、少なくとも受付1名と歯科衛生士、助手4、5名は必要であるが、私のところでは午前中の受付が家内、午後は非常勤の受付、そして常勤の衛生士1名である。このくらいの年間患者数で、1日の患者数は平日で20名程度、土曜日は40名程度となる。これを全て1名の歯科医と衛生士でやるとなると、ワイヤーを外して、曲げて、結紮するという一連の治療を全て歯科医がやることになり、歯科衛生士が衛生指導など他の仕事をやる場合は、セルフでこなす必要がある。30年もこんなことをしていると、特に問題なく回せるようになる。もちろん、年間患者が200名以上になると、こんなことはできず、数台のチェアーを併用する必要が出るため、先生はワイヤーベンディグや指示だけを出して、衛生士にほとんどの仕事をさせる必要が出るために、1名の衛生士では無理となる。

 

大リーグの野球選手と日本の野球選手、さらにいうなら一軍と二軍で給料が違うのは、そもそも選手の技術が違うためであり、一般歯科医と矯正歯科専門医では、矯正治療に対する臨床技術、経験には雲泥の差があるので、料金が違うは当たり前である。はっきり言うと、矯正料金の7割はこうした技術料である。そうした意味では、一般歯科の矯正治療費が矯正歯科医のそれと同じというのはありえないことになる。どうして同じ値段をつけるかというと、単純にこれも矯正治療費はこれくらいという相場で値段をつけただけで深い意味はない。普通の人からすれば、高い治療はいい治療、あるいは同じ値段であれば、治療結果も同じと考えると思うが、そうでないのが矯正治療の怖い点である。5症例しかマルチブラケット装置による治療をしたことのない先生の治療費が100万円、数千症例を経験があり、海外でも講演している有名な矯正歯科医で80万円、こうしたことが普通にある。おかしいだろうが、前者に来る患者は結構いる。

 

院長の経歴を見て、まず大学の矯正歯科教室に長くいて、日本矯正歯科学会の認定医、できれば臨床指導医をとっている先生であれば、できるだけ安いところの方がよいと思う。このレベルになると治療技術のレベルにはあまり差がなく、料金の差は院長の考えによる(儲けたい)。あまり高い料金を取りたくないと思う先生もいるし、200万円をこえる高い料金を平気でとる先生もいる。自信を持っていえるが、東京で300万円の矯正料金をとる歯科医院よりうちの方が臨床はうまいと思う。もう一度言うが、矯正料金は院長の何となくの気持ちで決めるもので、安すぎるところはやめた方がよいと言う意見には根拠はない。さらにいうなら開業歴が長く、患者が多くて、予約が取りにくく、それでいて料金が安いところがよい。昔からの先生で、派手なホームページもないか、あるいは自院のホームページすらない矯正歯科医院がある。こうしたところは借金も全て返し、また宣伝しなくても口コミだけで十分な患者が来るので、金儲け主義とは縁のない良心的なところが多い。本来の自由競争であれば、安くて、技術的にうまいところに患者が集中しそうなものでるが、こと矯正治療ではこの法則は当てはまらず、全く臨床レベルの低い東京の先生のところに300万円の治療費をかけて弘前から通院する夫婦がいた。300円のメタルブラケットが装着された酷い治療であった。こうしたところを選ぶ患者には同情しない。矯正治療料金に100万円を取る一般歯科の先生に、「先生は専門医の私より高い料金を取るのはなぜですか」ときつい質問をしたことがある。答えは「先生の方が安すぎるのです」と言われた。高い治療費に対する責任と、専門医に対する敬意を欠く。誰がしても同じ値段という保険制度に麻痺したのだろう。そもそも天皇の心臓手術をした天野教授と新卒の医師が同じバイパス手術しても保険点数は同じなのがおかしい話である。一般歯科での矯正歯科治療を受けるのは、きついいい方であるが、あえて新卒の先生の手術を受けるようなものである。


 

2024年4月17日水曜日

津軽そば


ある集まりで、津軽そばの生産メーカーの方と同席し、その由来について議論した。昔、弘前城西堀近くにあるそば屋「野の庵」の女将の説を私のブログに載せたので、そのあらましを話すと、それはうそだと指摘された。何でも「野の庵」の方が生産メーカーに由来を聞きにきた時も、彼はこの説を否定したという。実際、ブログにはもう載っていない。一応、その説を紹介する。

 

西洋砲術を江戸に学んだ弘前藩士、岩田平吉にまつわる話でおもしろいのは、西堀近くの割烹「野の庵」の女将佐藤貞子さんの口伝で、創業者佐藤与七はこの岩田平吉(恵則 よしのり)の従者であったが、与七は東京で暮らすうちにそばの味を知り、明治維新後そばも出す小料理を開いた。知り合いの寺院からお布施でもらうそば粉、大豆の活用を依頼され、それで作ったのが津軽そばと言われている。これをみる限り、津軽そばの歴史は意外に新しく、せいぜい明治以降のものであることがわかる。また岩田平吉が津軽そばの誕生に関わったようだ。

 

津軽そばの特徴は、熱湯にそば粉を入れて練った「タネ」を作り、小分けして水に一晩つける。次の日に、まず大豆を茹でてすった「呉」とそば粉をこのタネに加えて練り上げ、打って、そのまま一晩放置する。そして茹でて、一食ずつに小分けしてさらに一晩放置してから、翌日、食べる前に熱湯にくぐらせ、熱いダシをかけて出す。もりそばはなく、すべてかけそばとなる。そばを作るに3日間かかり、非常に手間のかかるものである。

 

市販のスーパーで売っている津軽そばには、大豆は入っていないようだが、製法は同じであり、同じような食感である。小麦のかわりに大豆をつなぎとして入れるのが津軽そばの特徴とされるが、大豆自体はそれほどつなぎの働きはなく、仮に普通のそばのように小麦を使ったとしても、湯でおきのそばであれば津軽そばと言ってもいいであろう。実際の食感はあまり変わらない。

 

通常、小麦の栽培は、米の裏作として作られることが多いが、雪の多い、津軽では裏作で小麦が作られることはなく、またうどんを中心とした小麦需要も少ないため、もっぱら農業の主役は米栽培であった。もちろん蕎麦は米栽培に向かない荒れ地や山間部で栽培され、津軽でも目屋などで作られた。大豆は貴重な植物性タンパク質として豆腐や醤油の原材料で、多くの農地で作られてきた。あくまで仮説であるが、江戸時代、津軽ではそば粉、大豆に比べて小麦が入手難であったのだろう。さらに言うと、ボリュームとしてそば粉でソバを作るより、それに大豆を加えた方が安上がりだったのだろう。江戸時代における津軽のそば事情は、店舗中心のやや高級な「生そば」と、屋台の「夜鷹そば」に分かれており、庶民が愛したのは寒い夜の「夜鷹そば」である。昭和40年頃まで市役所や盛り場、街角に屋台のそば屋が店を出し、客は安い値段で、短時間で食べた。

 

逆につい最近まで、弘前で蕎麦というと津軽そばのことをいい、出雲蕎麦や信州蕎麦のような蕎麦粉(+小麦)を使った喉越しの良いそばは一般的でなかった。おそらく弘前で通常のそばを出すようになったのは、弘前の人気店「高砂」からではなかろうか。このお店は大正2年に現在の弘前大学医学部近くにあったが、昭和48年に現在の親方町に引っ越した。その頃に東京の“藪や”で修行をしていた店主が帰り、今のような一般的な蕎麦となった。その後、新寺町の「會」などもできて、逆に従来の津軽そばの店が減ってきている。

 

私自身、津軽そばも信州そばも、どちらも好きだが、両者はそれぞれ違う麺類と考えた方がよく、基本的には冷たい津軽蕎麦はなく、この麺類は啜る食べ物で、喉越しなどを楽しむものではない。柔らかく、ほとんど腰のない津軽そばは、優しい味で、これはこれで食べ慣れるとクセになる。蕎麦と名がついているが、通常の蕎麦とは違ったものと考えてよい。津軽そばは麺自体がぶつぶつと切れてしまうので、少しぬるくなった汁と共に麺をどんぶりの縁から口に流し込むという少し下品な食べ方もうまい。

2024年4月14日日曜日

当院における外科的矯正 2

 

近所で鷹を見ました。カラスに攻撃されていました



鹿児島大学では、主としてファイシャルダイアグラムを用いて分析していた。この分析法の素晴らしい点は、視覚的に骨格性、歯槽性の異常、上下顎骨のずれ、上下切歯の傾斜、下顎骨のパターン(ハイアングルなど)が一発でわかる。他の矯正歯科の先生には

理解するのは不可能であるが、鹿児島大学では、半年ごとに検査をしてセファロ(ラテラル、PA)、パントモ写真、模型を撮る。まず朝10時に患者が外来に来ると、10台くらいあるチェアーに適当に座り、入局1、2年の先生が検査をする。まず口腔内、顔面写真をとり、そして印象を取って、放射線科にオーダーしてレントゲンを撮ってもらう。その間に印象に超硬石膏に塩を入れて模型を作る。大まかにトリミングでして、レントゲンができるのを待つ。レントゲンができると、すぐにファイシャルダイアグラムをレントゲンに直接、セロテープで貼り付けて、分析する。分析時間は10分。治療中の患者は、これまでの治療経過も見ながら、今後の治療計画を作る。そこに教授と先輩が来て、治療経過と今後の治療計画を説明し、絞られる。これを午前中に2名行う。ただ新患を、この時間で診断、分析をするのは難しく、慣れれば一般矯正患者はこれでも何とか診断できるが、外科的矯正にあたると、矯正回診でカンファランスと言われ、後日の夕方に治療計画をたて、医局員全員分のコピーをしてカンファランスに提出する。ここでもかなり叩かれ、疑問に答えられないと、再度提出となる。多い月にはこうしたカンファランス症例が67症例あり、さらに外科的矯正では、医局のカンファランスの後に口腔外科との合同カンファランスがある。そして手術になると、フック立てやスプリントシーネを作るだけでなく、手術当日は実際にオペ室に入り、助手として手術介助と顎間固定を行う。さらに入院中にも何度か、顎間固定の状態を確認する。また助手になると1年間、宮崎医科大学附属病院歯科口腔外科に出向し、ここで矯正歯科を担当する。担当する矯正歯科患者の抜歯、埋伏抜歯も全て矯正歯科医が行うし、病棟の注射や点滴も行う。私の場合は、大学の友人がここの医局長をしていたので、顎変形症の手術だけでなく、教授の口唇、口蓋裂の全ての手術の助手に入ったし、週に1回あるいは2回の当直もしていた。

 

こうした経験があったので、外科矯正自体については、矯正歯科だけでなく、口腔外科についてもある程度理解していた。1994年にこちらに来ると、弘前大学医学部病院の歯科口腔外科の教授に東北大学の先輩が就任したため、すぐに非常勤講師として採用してもらい、さらには形成外科の先生との親しくしてもらい、外科的矯正、口蓋裂の患者が増えていった。当時、弘前大学医学部歯科口腔外科ではあまり外科的矯正の症例がなく、年間1、2名であったが、今では20-30症例となっている。こうした場合にもフェイシャルダイヤグラムを使った分析やCDS分析は、口腔外科医や形成外科医にもわかりやすく重宝している。

 

これまで外科的矯正でうまくいかなったことを少し、挙げてみる

1.計画通りの移動されていない  これが一番多く、術後の位置決めはスプリントシーネで指定しているが、術後大きく変化することがある。近位骨片の位置決めの問題で、骨片をチタンプレートで固定するときに、下顎を前に持ってきて止めてしまうからである。反対咬合では、術後矯正で何とかなるが、非対称や上顎前突では、どうしようもなく、術後矯正でリカバリーできないことがある。10mm下顎を前に出したが、結局5mmしか出ていない場合や、上下の正中が一歯分ずれて固定された場合などである。後者の場合は、強い顎間ゴムを使用すると、固定していたネジが折れて結果的に正中が合ってくることもある。

2.上下の幅径が合わない  通常、反対咬合の場合、術前矯正では上顎歯列を狭窄させるケースが多いが、大臼歯部の咬合の緊密な場合は、なかなか上顎歯列を狭くできない。この場合は、術後矯正で修正した方がいい場合もある。私は018サイズのブラケットを使っているが、022ブラケットの方が合わせやすいのかもしれない。

3.前歯が中に入らない 術前矯正では、上顎切歯を舌側に移動して、後退量をかせぐために一時的に反対咬合を大きくするが、中には舌で上顎切歯を前に押すために入らないケースがある。力系ではそうしたことはないはずだが、舌突出癖のために上顎切歯が全く動かず、大臼歯ばかりが前に動いてしまう。こうした症例も術後矯正で治した方がよく、サージカルファーストはこうした症例では有効であろう。

4.術後の後戻り  術後の変化の多くは1の固定での問題に起因が、稀に保定に入って変化することがある。特に上顎前突の症例では、筋肉や皮膚組織のテンションから前に出した下顎を後ろに動かそうという力が後戻りに影響する。前方移動量が5-7mmを超えると後戻りが多いと言われるが、やってみないとわからない。       

 


2024年4月10日水曜日

当院における外科的矯正

 






二年前に当院で矯正治療を学び、その後、日大松戸で2年間の研修を終了し、4月末に台湾に帰国する先生が先日、弘前に来た。目的は、当院での外科的矯正の診断、治療法を学ぶためである。一応、2022年度に外科的矯正で来院し、治療中の21名について、それぞれ診断、治療方針の策定の実習をしてもらった。

 

午前中の2時間は、鹿児島大学歯学部矯正歯科の診断法、ファイシャルダイアグラムを使った診断と外科的矯正の診断、治療計画の策定、及び東北大学歯学部矯正歯科のCDS分析とそれによる治療計画の実習をした。以前のブログでも説明したが、日本の歯科大学は、大きく分けて顔から診断するところと咬合、かみ合わせから診断するところに大別される。顔からの診断というと、まず理想的な横顔と患者の横顔を比較して顎をどれだけ移動すると利用的な顔になるか、その場合、かみ合わせをどうするかを考える方法である。逆にかみ合わせからの診断は、まず患者のかみ合わせを理想するのは顎をどのように移動するかから考え、その場合、顔はどのように変化するかという方法である。

 

例えば、下顎前突、反対咬合の例で説明する。上顎が正常で、下顎が大きい、骨格性反対咬合の場合、多くの症例で、上の前歯が外に飛び出て、下の前歯は中に倒れている。これをデンタルコンペンテーションという(補償作用)。咬合から考える大学では、大臼歯関係はI級を目標にするので非抜歯で術前矯正をし、上顎は叢生が大きいか、よほど切歯が前に飛びでていなければ、そのまま並べる。結果、オーバージェット、オーバーバイトは良好で犬歯、大臼歯関係はI級となる。ただ下顎の後退量はかなり小さい。逆に顔を中心に考えると、多くの症例では上顎第一小臼歯を抜歯し、上顎の前歯をできるだけ、中にいれ、反対咬合を大きくしてから手術を行う。

 

日大松戸では、非抜歯のケースが多く後退量も平均して5-6mmmとのことである。私のところではほぼ80%は上顎の小臼歯の抜歯で、後退量も8-10mmくらいとなる。明らかに私のところの方が下顎の後退量は多い。先日、北海道の先生から紹介された症例では、そちらの治療方針では、後退量がわずか3mmくらいで、術後も明らかに下顎の前突感が残るので、治療方針を変更して上顎小臼歯を抜歯して、後退量が8mmになるようにした。矯正歯科医院にくる患者の多くははっきり言って見た目の改善を希望している。下顎が出ているのが気になる人は、せっかく手術するなら、絶対に下顎がまだ出ていては満足しない。そのため、私のところでは反対咬合ではできるだけ、たくさん下顎が下がるように、上顎前突ではできるだけ下顎が前になるように治療方針を立てる。

 

顔から治療方針を立てる大学は、私論であるが、ファイシャルダイアグラムなどの図形分析をメインに診断しているように思える。私のところでは、外科的矯正の診断は全てファイシャルダイヤグラムと東北大学のCDS分析を併用して行っている。具体的に言えば

1.セファロトレースを行い、SNA, SAB, ANB, U1 to FH, FMIA、下顎平面角と一番重要なWitsの評価を行う。Witsの評価とは咬合平面にA点とB点の垂線をおろした点の距離である。上下の顎のずれを現す。

2.プロフィログラムをN原点、FH平面に平行に重ねて、大まかな顎骨のずれを見る

3.CDS分析では、通法通り、N点で重ね合わせるだけでなく、鼻先で合わせ、中顔面以下のバランスを見る。

4.上顎切縁と口唇閉鎖線との距離を測る

5.まず上顎の移動が必要かを調べる。4の距離が大きい、正面写真よりガミーフェイスがあれば、上顎の上方移動が必要となるし、正面からのレントゲン写真で咬合平面の傾斜が必要なら上顎骨を切って修正する必要がある。側方での咬合平面の傾きを時計回りに回転して下顎の移動量を増やすこともある。下顎の後退量が12mmを超える場合は限界なので上顎骨の前方移動を追加する。

6.その後、下顎の移動量を決定する。実際は、ここで模型と睨みっこして、この移動量ではいくら術前矯正を頑張っても無理な場合は移動量を修正する。

7.多くの場合、反対咬合では上顎のデンタルコンペンテーションを修正するために第一小臼歯を抜歯するし、逆に上顎前突では下顎の第一小臼歯を抜歯することが多い。反対咬合では下顎は非抜歯で術前矯正を行うので、大臼歯関係はII 級となる、上顎前突では上顎切歯の唇側傾斜もある場合は上下左右第一小臼歯、上顎切歯が前に出ていない場合は下顎の第一小臼歯を抜歯して、大臼歯関係はIII 級となる。

8.移動量を多くすると、上下大臼歯部の幅径を合わせるのが難しくなるので、ケースによっては術後にコーディネーションした方が早い。

 

以上が大まか当院の外科的矯正の診断法である。次回はもう少し詳しく説明する。



次世代航空機の開発


 

経済産業省は、新たな国産旅客機開発に向けて、2035年以降に複数の会社とともの開発支援する方針を立てた。三菱重工のスペースジェット撤退の教訓を生かして新たな旅客機開発を行うという。確かに販売の90%くらいまでこぎつけていたスペースジェットの失敗をそのままにしておくのはもったいないという気持ちはよくわかる。ただスペースジェットも最も大きな問題は、アメリカ連邦航空局(FAA)の型式証明の問題であり、この問題がある限り解決はない。

 

型式証明は飛行機を国際的に売るためには必須の検査であり、例えば、アメリカFAAの型式証明がないとアメリカの航空会社に売れないどころか運行もできない。ただ日本であれば、日本政府による型式証明をとれば、日本での運行は可能であるが、FAAとは相互承認の協定があるとはいえ、欧州航空安全機関EASAFAAとの関係とは異なる。EASAで型式証明が得られたエアバス社の旅客機は同時にFAAの型式証明を得ることができ、またFAAで型式証明が得られたボーイングの旅客機は同時にヨーロッパの型式証明を得ることできる。ところが日本やブラジル、中国で型式証明が得られても、EASA FAAが取れるとは言えず、三菱重工の失敗を見ると、むしろFAAEASAは自国以外の会社、もっと言えば、ホンダジェットのような小型機を除く、通常の旅客機については、ボーイングとエアバス以外は締め出しているといえよう。この2社以外の航空会社としてはカナダのボンバルディアとブラジルのエンブラエルの2社があるが、前者はもはや旅客機を作らず、後者にしても三菱重工のスペースジェットにやや遅れた開発が始まったE-jet E22013年から開発を始め、2016年に完成し、初飛行をしたが、そのまま開発延期となったままである。

 

三菱重工のスペースジェットについては、私自身、YS-11以来の国産旅客機ということで多いに期待して三菱重工株まで買ったほどであるが、中止までの経緯を見ると、アメリカFAAによるいじめとしか思えないような仕打ちであった。個人的な話であれば、カッとなって殴りかかるようなものである。詳しくは忘れたが、久しぶりの国産旅客機開発ということで、日本政府も全面的に三菱重工に力を貸し、どうすればFAAの型式証明を得られるか、詳しく調査して設計、制作に入り、初飛行に漕ぎ着けた。あとは確か2000時間以上の飛行と安全試験に合格すればいいという状況になっていた。それもクリアできそうになると、今度は根本的な最初の設計に関わるような変更を指摘される。そしてその指摘を修正した飛行機による同じような性能試験を求められ、それを今度もクリアするとなると、ボーイングのB737の飛行機事故によってまた基準が変わり、再変更を指摘されるといった具合に、際限なく変更が求められた。きちんとした具体的な合格基準がないのが原因である。おそらく試験官がかわるだけでもまた基準も変わるのだろう。いずれにしても、これこれ変更してくださいと言われて、変更するとまた別の箇所の変更を求められ、それをまた変更すると、もっと基礎的な最初に言うべきところの変更を求められるといった塩梅である。当初は、日本叩き、あるいはアジア人への人種差別も入っているかと思ったが、アメリカに唯一存在する旅客機メーカー、ボーイング社も最新機種B787FAAの型式証明を取ったのが2014年、これは最後で、新型機より派生型の方が証明を取りやすいために、ほぼ60年前に開発されたB737が改良されていまだに生産されている。

 

三菱のスペースジェットの反省というなら、ボーイングかエアバス社との共同開発の方がいいだろう。スペースジェットは70-90席のリージョナルジェットを目指したが、いまだにパイロットと航空会社の契約、スコープ・クローズの問題は解決されておらず、エンブラエルのE2ジェットもこのために開発延期となっている。最大座席76席、重量39トンという制限はジェットではスペースジェットでしか達成できず、航空会社にとっても燃費の悪い旧式機体を使うジレンマとなっている。具体的には、スペースジェットの70席を、ボーイングと共同でモデファイさせ、さらに燃費、安全性、航続距離を上げた機種の開発を狙ってはどうだろうか。1からの設計ではないので、コスト的にはかなり縮小できる。すでに三菱重工はカナダのボンバルディアを吸収しているし、ここはボーイングとも関係が深いので、ボンバルディアの新型機体とする手もある。ボーイングはブラジルのエンブラエルとの事業買収に失敗しているが、いまだに小型機開発を諦めておらず、流石にB737の延命はこれ以上無理なので、70-90席、さらには120-130席までの機体も欲しいところである。

 

経済通産省が目指す、新時代の航空機、水素、EVなどを動力とする航空機は、現行のFAAの型式証明は得るのは不可能に近いか、莫大な費用と期間がかかる。こうした厳しい型式証明制度自体が旅客機の進歩を止めており、1958年に導入されたボーイング707から現行機種もそれほど大きな進歩はない。

2024年4月7日日曜日

開業医の正体 松永正訓 著

 

以前から評判になっていた「開業医の正体 患者、看護婦、お金のすべて」(松永正訓、中公新書クラレ)を一気に読んだ。経営のことまで詳細に書かれており、そこまで公表していいのだろうかと思ったほどである。著者の経歴を見ると1961年生まれ、1987年に千葉大学医学部を卒業して小児外科医となり、今は小児科の開業医として多忙な仕事をしながら、多くの本を出版している。本書もベストセラーとなり確か3万部ほど売れているそうだ。

 

私は1956年生まれだから、5歳ほど年下ということになるし、医科と歯科では全く環境は違うし、外科の中でも小児外科を専攻したのも特殊である。それでもほぼ同じ時代のことなので、本を読んでみて共感することが多かった。私の場合は、最初に小児歯科講座に入局してのが、1981年、その後、3年ほどそこで研修をした後、1984年に鹿児島大学矯正歯科学講座に入局した。当時はまだ大学院に行くか、研究生に行くかの選択ができたが、その後、医学部、歯学部とも大学院大学になると、基本的には大学院に行かないと入局できないようになった。松永先生はその最初の頃で、大学院を卒業して、博士号を取得し、その後も臨床、特に手術数をこなしながら、基礎研究で活躍されている。私のいた頃は、研究より臨床が好きで、大学院に行かなかった先生もいた。叩き上げの先生と呼ばれていて、最古参の助手、筆頭助手くらいになると、臨床症例を集めて論文博士を取得する。こうした基礎研究を重視する制度はしばらく続いたが、20年ほど前から、弘前大学医学部病院の教授の経歴を見ても、臨床しかしていない先生が出てきた。最近では教授選考では基礎論文云々よりは、手術手技を見る傾向があり、わざわざ大学の教授選考委員が、候補者の手術を見学に行くこともある。そうした流れで、今は若い医学生もあまり大学院には行かずに、専門医取得を目標にするようになり、これが松永先生の時代とは違う。

 

この本では、大学病院の先生、病院の勤務医、そして開業医の違いをわかりやすく説明していて、収入、自由時間はこの順に増える一方、やりがいは逆の順になるようだ。特に外科の先生の考えだろうが、松永先生のように病院で小児の手術を数多く経験した先生からすれば、開業医での仕事では、そもそも手術がなく、そうした点では不満が残るのであろう。開業医には名医はいないと言い切っているが、本当にそうであり、高度な手技、経験を必要とある手術では名人がいても、そもそも開業医でそうしたことをすること自体ない。的確に、見落としなく診断し、問題があれば大学病院などに送るのがいい開業医なのである。

 

歯科の場合は、口腔外科を除くと、高度医療機関という概念が少なく、大学病院での治療と開業医との治療はそれほど違わない。矯正歯科で言えば、ほぼ同じと言って良い。ただ大学病院では、口蓋裂、トリチャーコリンズ症候群、マルファン症候群など先天性疾患に基づく不正咬合の矯正治療も行っている。ただこれも大学病院のない地方、私のいる青森県では弘前大学医学部病院の形成外科から私のところに紹介され、かなりの患者が集まっている。

 

この本では、それほど書かれていないことがある。手術ができて、そうしたことを生き甲斐にしている先生は、大学病院で高度な治療をしたいのだろう。ただ大学での生活はあまりに雑用が多く、何より給料が安く(国立の場合は国家公務員の給料)、私がいた当時も教授の給料は月で30-40万円くらいであった。国立大学の場合は、大学卒業からの年数で、給料級が決まり、それに医師手当がつく仕組みになっており、基本的には文学部など他学部の教授より少し高い程度であった。そのため、公務員の兼業は基本的には禁止されているが、大目に見られてアルバイトに励んだ。アルバイトによる収入で生活しているようなもので、給与だけであれば、朝から晩まで、次の日の日直までして働くという大学病院には残らないであろう。そうしたこともあり、優秀な外科医が、安い給料と忙しさにより大学を辞めて開業することがある。もったいない話である。これがアメリカであれば、同じ手術を受けるにも治療費に差があり、経験豊かで優れた手技を持つ外科医は高い手術料がかかり、医師も大きな収入を得る。

 

個人的には、もはや大学院大学で基礎研究をして博士号をとる制度は時代に合わず、基礎研究は好きな他学部の研究者にさせて、臨床を中心としたアメリカ型の大学院大学に変更すべきである。臨床のトップである大学教授については、臨床、教育、研究のうち、研究の比重を減らし、臨床と教育に主眼を置くべきであろう。さらにいうと民間病院と大学病院の給料差があまりに多く、教授も含めてアルバイトをしないと厳しいという状況はなんとかならないものだろうか。民間病院でアルバイトをして生活費を稼ぎながら、症例数を増やし、大学では安い給料で雑用をして最新の医学を学ぶという民間病院と大学病院の相補性しか解決法はないのだろうか。一つの方法としては、これもアメリカでよく行われる方法であるが、大学病院の教授が民間病院の正式な職員となり、ここで手術などの治療を行う一方、民間病院の先生が大学病院の学生に教えるということがある。大学教授は、ここで高い給与を得る一方、勤務医は大学病院で教えることで最新の研究を知るとともに名誉も得られる。私も弘前大学病院歯科口腔外科で、30年ほど前から非常勤講師をさせてもらい、数年前までは月に1回は外来で診療していた。こうしたことは珍しいことで、大学病院と民間病院、開業医との3つの関係が、さらに交流しやすくなればいいかなあと思う。