2024年6月26日水曜日

日本人の発明

 


1.カラオケ

フィンランドでは、もはやKaraoke Barとなり文化となっている

2.QRコード、CCD イメージセンサー

日本で発明されたQRコードは世界中のあらゆるところで使われている。CCDイメージセンサー自体はアメリカ人の発明であるが、今日にように広く使われたのはソニーの開発による。

3.インスタントラーメン、レクルト食品

袋麺、あるいはカップ麺のインスタントラーメンは、よく知られているように日清食品の発明である。レクルト食品はアメリカが軍のために開発したものだが、大塚食品がボンカレーに使ってことで普及した。

4.和食(ラーメン、カレー、寿司、とんかつ、すき焼き、うどん、そば、刺身)

もはやカレー、ラーメン、あるいは豚カツなど、海外からきた食べ物も日本で変身して、日本食となり世界に広まっている。

5.アニメ

漫画、アニメは、欧米、アジアなど、ほとんどの国で子供の頃に夢中になったもので、その影響は非常に多い。世界中にファンがいる。

6.玄関で靴を脱ぐ習慣

玄関で靴を脱ぐ習慣は、アジアでも日本だけで、あとはイスラム諸国ではそうした習慣がある。北欧はほぼ玄関で靴を脱ぐようだし、フランスも多い。アメリカでもそう珍しいものではなくなった。一番大きな理由は室内が汚れないということらしい。日本の影響が強い。

7.浮世絵

浮世絵については、印象派の画家、モネ、セザンヌ、あるいはゴッホ、ゴーギャンなどに決定的に影響した。近年、ピカソにも影響している。

8.俳句

世界一短い詩としてヨーロッパでも俳句は人気が高い。

9.柔道、剣道、空手、相撲

もはや柔道人口は日本よりフランスが多いし、あれほど日本的なスポーツである相撲でもモンゴルー、ルーマニア力士など世界各国から力士が集まっている。

10.     陶器

 日本人の憧れの的、デンマークの陶工に言わせると、日本は陶工にとっては天国のようなところで、これほど陶工がいる国は世界でもいないという。確かにどの家には料理にあった大量な陶器がある。

11.     新幹線

いまや中国が高速鉄道のメッカとなっているが、昭和39年(1964)に東海道新幹線が開業して今年は、60年になる。大きな事故が一度もないのが最大の長所である。

12.     カメラ、オートバイ

カメラ、オートバイとも海外で発明されたもので、戦後、日本が模倣したものであるが、今はカメラはニコン、キャノン、ソニー、で独占しているし、オートバイもホンダ、スズキ、ヤマハ、カワサキで独占している。

13.     電動自転車(アシストバイク)

省エネの高まりに共にヨーロッパでは、自転車需要が高くなり、その中ではアシストバイクが半分以上となっている。もちろんアシスト自転車はヤマハの発明であるが、海外製のものはドイツのボッシュのドライブユニットが主力となっている。

14.     電気炊飯器

これは日本の東芝の発明で、米文化圏で、使わないところはない。

15.     ボールペン(水性、ゲル)、シャープペンシル

シャープペンシルは、名前の通り家電会社のシャープの早川徳次が発明したもので、今や家電の会社はなくなったが、シャープペンシルは残っている。欧米では鉛筆よりはボールペンの需要が高いが、文字が消せるフリクションボールペンや水性、ゲルの書き心地の良いボールペンを日本は発明している。ただ中国の晨光文具があっという間にコピーして1/3の価格で売り、文具では世界シェア一位となっている。

16.     矯正用ブラケット(接着性)

歯の表面につける矯正器具、ブラケットを発明したのは、アメリカのアングルであるが、当時のブラケットは歯にバンドを巻いてノリでくっつけていた。現在のように歯に直接ブラケットをつける接着剤は東京医科歯科大の三浦教授が発明し、同時に透明なプラスティックのブラケットを販売した。世界最初の審美ブラケットである(サンキン、トミー?)

17.     

アップルの創始者、スティーブ・ジョブズに大きな影響を与えた曹洞宗の禅、はじめ欧米では日本の禅が脚光を浴びてい流。

18.     盆栽、生花、桜

盆栽や生花も意外なほど世界にファンがいて、大自然を身近に感じるものとして人気がある。また桜も有名なポトマック川沿だけでなく、世界的に植樹されている。

19.     胃カメラ、パルオキシメーター

胃カメラはオリンパスが、パルオキシメーターは日本光電が発明した。多くの命を救った。

20.     ゲーム機(プレステ、ニンテンドー)

プレステ、ゲームボーイ、ニンテンドスウィッチなど、ソニーと任天堂で世界シェアの85%を占める

21.     LED(発光ダイオード)

液晶テレビで用いられるLEDについては、赤川、天野、中村などノーベル賞受賞者の貢献が大きい。

22.     日本犬(秋田犬、柴犬)

ロシアのプーチン大統領はじめ、日本の犬、秋田犬と柴犬の人気は高い。

23.     シームレス編み機

日本の島精機が発明した。

 

これ以外のも日本人の発明したものは多いが、それに比べると中国、韓国などアジア諸国で発明されたものは少ない。世界中の人々の役に立つものを発明した日本人はもっと誇って良いだろう。


2024年6月20日木曜日

弘前市は東北で一番人口密度の高い市だった

 

               戦前の弘前市


弘前商工会議所五十年史(昭和32年)を見ていると、昭和29年の人口調査によれば、弘前市の1平方キロメーター当たりの人口密度は7217人、青森市が2173名、八戸市が1065人に比べてかなり高く、東北では第二位の郡山市の3798名に比べてもダントツの一位であった。さらにこれを超える人口密度は全国でも東京23区、武蔵野市、大阪府の守口市、兵庫県の尼崎市、福岡の戸畑市くらいしかないという。へえと思った。

 

この理由として、合併前の弘前市の面積は人口5万人以上の都市では全国でその狭さは第四位であった。実際、当時の弘前市の面積は9.15平方キロ、青森市は57.02平方キロ、八戸市は101.11平方キロで、八戸市の11分の1である。これは現在、弘前市で策定している都市プランにおける市街地、あるいは旧市内に相当する。現在は、岩木町、相馬村などを合併し、その面積は524.2平方キロ、密度は305人となっている。昭和29年に比べて面積は50倍以上になった。青森市が面積824.6平方キロ、人口密度が317人、八戸市が面積305.6平方キロ、人口密度が700人で、それぞれ昭和29年に比べると15倍、3倍の増加に比べても、弘前市はダントツに面積が拡大した。

 

それでも弘前市の中心地区、市街化区域で言えば、面積は28.3 平方キロで、そこに127420人が住んでいるので、人口密度で言えば4500人くらいになる。中心部人口で言えば、昭和29年に比べて極端には減少していないことになる。さらにいうと、明治時代の弘前の面積は7.5平方キロで、人口は31000人なので、人口密度は4133人となり、ほぼ現在と同じくらいの密度となる。弘前市の中心部、市街化区域の人口密度4500人は、全国の85位くらいの相当し、兵庫県で言えば、西宮市が4840人で77位、芦屋市が5049人で74位となる。昭和29年当時の人口密度、7212人であれば、現在のランキンでは名古屋市の7126名や横浜市の8611名に遜色ない。現在の人口密度の305人は、ランキングの443位で、岩手県の滝沢市の301人、北海道の苫小牧市の297人に近い。つまり人口密度から見ると、昭和29年度は全国的に弘前市の面積はあまりに狭かったが、現在は逆に広い方になる。

 

「弘前商工会議所50周年史」によれば、昭和32年当時の弘前市の利点とし、全国の市町村に比べて、狭い面積に医師数は弘前が294名、青森市が193名、八戸市が103名で、それぞれの割合が3:2:1になっており、医療機関が多いことを挙げている。さらに仏教各派寺院数は、弘前が60、青森市が10、八戸市は20と、まだまだ自慢が続き、映画館数も弘前市には17館もあり、盛岡市の13、秋田市の14に勝っているという。また中心部から放射線状に伸びるバス路線は、その業績が東北地方屈指で、中には一日、40往復という路線もあるという。そして、昼間人口の増加では、弘前市は125%で、これは東京都の京橋の142%あるいは芝120%の中間くらいで赤坂108%より高いと誇っている。また学生数で言えば、人口100人に対する大学生数は、弘前市は2.8名(全国0.4名)、高校生数は8.7名(1.4名)、中学生数は9.1名(5.6名)として学都弘前の自慢が続く。

 

今から考えると、能天気な記載であり、映画館はもはや1軒しかないし、弘前バスは赤字が続き、弘南電鉄も毎年のように廃止すべしとの声が聞こえる。ただ大学数は9校でこれは全国でも16位で、資料はないが、人口あたりの大学生数は全国でもトップクラスであろう。弘前市の特徴として、昭和32年当時の商工会議所では、今でいうコンパクトシティーを挙げているわけであり、逆に人口が減ってきているとはいえ、こうした市の利点、コンパクトシティでなくなっているのは、国、市の政策の問題だけではなく、コンパクトシティという概念そのものの限界があるのかもしれない。弘前のコンパクトシティが崩壊している直接の原因として、まず中心部の地価が高くなって、郊外に宅地開発が進んだこと、さらにそうした住民を対象にした大型商業設備ができたこと、車社会となり、中心部に住む価値が減ったこと、などが挙げられる。一方、中心部の空洞化が始まると、中心部の地価が安くなり、マンションなどが建つようになり、今度は郊外のニュータウンでは住民の平均年齢が上がり、購買力の低下に伴い大型商業設備が撤退、医療設備がなくなるなどの弊害が出てくる。

 

現在、弘前市の旧市街には、映画館が一軒もないし、大型商業設備としては、イトーヨカードー、中三デパート、ヒロロの3つがあるが、イトーヨーカードは9月末で閉店となるし、中三デパートもなくなるのは時間の問題で、ヒロロも長い期間、空き店舗であったが、弘前市のテコ入れで何とか開業したが、空き店舗が増えている。さらにあれだけ人がいた鍛冶町の飲み屋街もほとんど人がいなくなり、土手町も今泉書店、紀伊国屋書店弘前店、弘前中央食品売り場、富田の肉屋、開雲堂、など次々と閉店している。現状では商店街の体をなしていない。幸い病院施設はまだ残っているが、商業施設も含めた娯楽施設がほとんどなくなっている。先日、開雲堂が閉店となり、駆け込み需要で多くの客が並んだ。いつもこれくらいのお客が来ていれば、さすがに閉店はしないだろうと思うが、弘前市民は案外冷たく、閉店するとなってから客がくる。

 

除雪、道路整備、交通、インフラなど、すべての点でコンパクトシティーの方が効率的であり、かなり前から青森市はこうした方針でやっているが成功していない。ヨーロッパでも城郭都市の歴史をもつところでは、コンパクトシティー化がしやすいようである。ある意味、300年以上続いた弘前城下はコンパクトシティーであったわけであり、逆にドーナツ化現象になったのはここ20年ほどである。崩壊した歴史をもう一度、検証した方が良いかもしれない。さらにいうと、コンパクトシティー化と公共交通は表裏一体であり、ヨーロッパの市電、バス路線で黒字のところは少なく、ほとんど公共事業として運営されている。弘前市会議員の中には弘南電鉄の廃止を唱える人もいるようだが、是非ともヨーロッパの公共交通を視察してほしいものだ。



2024年6月16日日曜日

予防矯正

 



予防矯正という言葉が流行っている。早い時期に矯正治療することで、将来的な不正咬合を予防できるというもので、早期治療とよく似た言葉である。主として小児歯科の分野で提唱されているもので、最近では小児の咀嚼問題、口唇閉鎖不全に対する検査あるいは治療が保険適用となってきた。

 

お口ポカンという、口を閉じることができず、口をポカンと開けていることをいい、日本小児歯科学会の大規模な調査で子供の約30%にこうした症状が見られるとし、早期に治すことで将来的な不正咬合を治せるとしている。

 

一方、矯正歯科の先生は、こうした考えに否定的とまでは行かないが、あまり興味がない。なぜかというと、多くの先生、私も含めてこうした機能的な問題にかっては真剣に取り組んでいたものの、あまり効果がないことを実感しているからである。在籍していた鹿児島大学歯学部歯科矯正学講座の最大の研究テーマは咀嚼と咬合、顎顔面発育との関連で、私も咀嚼機能の一つ、咀嚼能力についての研究をしていた。そうしたわけで、患者には、奥歯でしっかり噛むように、さらには今もロッテである咀嚼トレーニングガムを開発しようとしたこともあり、盛んにガムを使った咀嚼指導を行っていた。さらには舌機能訓練にも興味があり、何回かそうしたセミナーを受講して、現在でも多くの患者で指導している。ただ、これだけは言えるのは、こうした機能的訓練だけで形態、咬合そのものが変化することは少なく、あったとしても一部である。例えば、開咬などでは咀嚼訓練や舌機能訓練などである程度、咬合の改善も可能であるが、やはり最終的にはマルチブラケット装置による治療が必要だし、反対咬合、上顎前突、叢生など他の不正咬合がこうした機能訓練だけで治ることはない。

 

予防矯正というのはあまり意味がないというと、こうした治療を積極的にしている先生から反論がきて、こんなに上手く治ったという症例を出される。実際に私も昔、機能的矯正装置による上顎前突への早期治療の効果を強調する論文や講演をしたことがある。こうした場合は、もちろん上手くいった症例を提示し、変化の少ない症例は出さない。反対咬合についても早期治療の必要性を強調する場合は、同じようなこともした。よくやる手法である。

 

ただ実際の臨床では、患者には成功例の高い治療法を勧めるし、そうでない場合は、最初からエクスキューズをしておかなくてはいけない。つまり早期治療をする場合は、これで治ることもあるが、理想的な咬合を作るには、必ず二期治療、マルチブラケット装置による仕上げの治療が必要と説明してから治療を開始する。個人的に感覚でいうと、一期治療で、私たち矯正歯科医がOKとされる咬合状態になることは20%以下と思う。もちろんある程度、例えば、多少の凸凹があっても、反対咬合は治っているという状態でいいのであれば、50%くらいになるかもしれない。患者さんの中にはこれでいいと思い、一期治療で来なくなる人もいる。

 

予防という言葉は、悪くならないように前もって防ぐことという意味であるが、舌機能訓練や咀嚼訓練などの機能訓練が不正咬合の一部を防ぐかもしれないし、早期治療がその後の矯正治療を簡単にすることもある。ただ予防矯正と言っても、これだけで理想的な咬合になる可能性は低く、費用が安ければ試してもいいかもしれないが、2030万円もして、永久歯が生え揃った時点で、これ以上は治らないと言われれば、不満が出る。患者からすれば、予防矯正で2030万円出すのは、それで理想的な歯並びになると思っているからであり、10%くらいしか理想的な歯並びにならないと言われていれば、治療しないであろう。

 

マルチブラケット治療においては、外科矯正も含めれば、90%以上は理想的な咬合にできる(中には歯が動かない、舌の力で変な歯の動きをする、ゴムを使ってくれないなどで満足できない状態で終わることもある)。マルチブラケット法による最新の治療終了結果100症例を提示しても、素人からすればほぼ同じ、理想的咬合に見えるだろう。逆に予防矯正、一期治療終了時の最新の100症例の写真を見せれば、その中にかなり不正咬合が残っているし、理想的咬合がほとんどないことがわかるだろう。もちろん患者さんの中にはこれで良いというなら問題ないが、患者さんの多くはマルチブラケット法と同じような治療結果を予防矯正でも期待している。一方、こうした予防矯正をする歯科医は、前より少しでもよくなれば、治療効果があり、必ずしも理想的咬合でなくても良いと考えている。矯正歯科医、患者の考えている歯並びは、凸凹もない、女優さんのような歯並びであるのに対して、一般歯科医、特に予防矯正を行っている歯科医の目標は、かなり低く、多少の凸凹があっても良い、多少の出っ歯でも良い、多少口元が出ていても良い、多少かみあわせが悪くても良い、といった風に全て“多少”という言葉がつくものである。

こうしたこともあり、子ども矯正治療を希望される方は、よほど料金が安い歯科医院

以外は、マルチブラケット法ができる矯正歯科専門医で治療を受けることを勧める。そして一期、二期も含めた治療を覚悟して、もし一期で終わればラッキーと思うくらいでいいだろう。


2024年6月13日木曜日

人生で驚いたこと

 

外国人観光客を初めてみる昆明市民

いつも行っている英語のレッスンのテーマが、「これまでの人生で最も驚いたこと」、「安心した」であった。死あるいは病気などは除くが。

 

1.飛行機事故

もう20年くらいなるが、青森空港から羽田に向かう飛行機に乗った時のことだった。離陸後、1、2分で後方左側からバンという大きな音が聞こえた。何かと思ったが、すぐにCAのアナウンスで、緊急着陸することが告げられた。ゆっくりと機体は旋回し、そのまま元の青森空港に着陸した。出口で昼飯の1500円券をくれたので、次の便に変更し、昼食を食べた。空港屋上から滑走路を眺めていると、職員が多く駆り出され、飛行場に落ちたエンジンの部品を回収していた。片方のエンジンが完全に破壊されていた。エンジンが二機ある飛行機は一機のエンジンでも十分に飛べるのはわかっていたが、流石に驚いた。数百回は飛行機に搭乗したと思うが、こんなことを経験したのは始めてであった。

2.山陰の小さな駅での出来事

友人と大学生の頃に山陰地方を旅行したことがある。金がなかったので、小さな駅の待合室で夜を明かそうと、ベンチで寝ていたところ、真夜中に酔っ払いのおじさんが突然入ってきた。手には斧を持って、ふりまわして、“殺してやる”と叫んでいる。私は隙を見てこっそり友人を置いたまま駅の外に出た。30分後に戻りと、友人はまだ寝ていた。

3.近くの銭湯で

 家にも小さな風呂があったが、一週間に一回くらいは近くの銭湯に親父と兄と一緒に行っていた。小学4年生くらいであったろうか。風呂場にいると、突然、近くに住む同級生の女子が男性用の風呂に入ってきた。びっくりした。小学校4年生といっても体の大きな子で、さすがにこの年齢で女子が男性用の風呂に入るのは勘弁してほしいと思った。次の日、学校で会うのが恥ずかしかった。

4.崖崩れ

 昔、親父が信仰していた神戸の宗教団体のビルが大雨で危ないという報告があり、なぜだか私と親父がそこに行った。阪急御影駅から山に向かったところにあり、ビルの横には小川がある。十人ほどの信者が集まって居間にいたが、親父ともう一人の人が裏の滝を見にいくと出ていった。その5分後にドカンという音がして、音がしたところまで部屋の中から行ってみると、そこの窓枠に親父が血まみれになってつかまっていた。すぐに大人に連絡し、助けてもらったが、突然の土砂崩れで、水に流されたとのことであった。幸い軽傷であったが、もう一人に人はさらに数十メートル流されて重傷であった。

5.沖永良部島で

 高校2年生の頃、夏休みの終わりに一人で沖永良部島まで、旅行した。大学生のグループと親しくなり、一緒に遊んでいたところ、現地に高校生の女の子と親しくなり、家に呼ばれて昼飯をご馳走になり、穴場の浜辺に案内してもらった。僕たちは海パンを履いて海に入っていったが、この女子高校生は何と、服を着たまま一緒に海に入っていったのには驚いた。

5.インド、タージマハル

インドのタージマハルをみるためにアグラにいって時のことである。リキシャに乗ってたアグラ城に向かう道で、突如、現地の人からビニール袋に入った色付きの水を投げられた。驚くというよりはかなり怒ったが、リキシャを引っ張る人に聞くと、ホーリというお祭りで、この日は誰でも色のついた水をかけてもいいことなっている。そんなこと全く知らない私にとっては全くただ驚くだけで、結局、その日は一日中、水をかけられたが、腹がたったので、わざわざ水を買って現地人にかけてやった。

6.中国、昆明で

1980年に外国人に初めて開放された中国の昆明に旅行した。我々のバスが昆明の繁華街で止まり、外に出ると、昆明の人が外国人を見ようと取り囲み、我々が動くたびにこの黒山の人手も一緒に動いていく。まるで映画スターになったような気分でこれには驚いた。

7.偶然の出会い

 年に一回くらいしか行かない東京で、仕事中の娘と東京駅でバッタリと会った。仙台に住む小児歯科の先輩の先生と弘前市の和菓子屋で、違う先生とは東京、上野のアンリー・マチス展で会った。

8.街中で鷹を見た

4月くらいだったが、医院から家に帰る途中に、電柱に鷹を発見した。2頭のカラスが連携しながら交戦していたが、5分くらいで鷹は逃げていった。

9.阪急電車で

高校2年生の時に阪急塚口から六甲駅まで確か日曜日、部活で阪急電車に乗っていた。座っているとお尻が変な感じがしたので、触ってみると茶色液体が指についていた。立ち上がって緑色のシートを見ると、そこにはうんこらしきシミがついていた。思わず「うんこがついている」と叫ぶと、その車両にいた全員が振り返り、恥ずかしかった。駅に降りて水で濡らした塵紙で拭いて、そのまま部活に行った。

10. 崖の上のポニョ

弘前の映画館に「崖の上のポニョ」を見に行った。木曜日の初回上映で客は少ないと思っていたが、上映時間になっても誰一人観客がいない。結局、観客は最後まで私一人で驚いた。

11.自転車のハンドルが取れた

昔、愛車のBD-1で走っていた時に突然、ステムからハンドルがポッキリ外れてしまった。よく転倒しなかったと怖かったが、ハンドルがないまま、自転車店にいくと、怪我をしなくてよかったですねと驚かれた。そのまま製造会社に持って行き、その後の車体は全て溶接からボルト締めに変更された、

12. 靴下のハチ

ある朝、靴下を履くと強烈な痛みがあった。靴下の中にハチがいてそれに刺された。強烈な痛みであった。

13. 住まい

家を購入しようと診療所近くの土地を探していたとき、いいところが見つかったが、高かったので、無理を承知で、かなり安い指値をした。半年後、流石にこの値段は勘弁してくれと言われたが、かなり安い値段で購入できた、不動産売買で、初めて売り手と対面したが、いつもお世話になっている歯科医の先生で驚くと同時に、恐縮した。それでも何とか売れて助かったと喜んでくれた。

14. 小さなネズミ

家内の実家にいた時のことである。畳の部屋に寝転んで、テレビを見ていると、頭元がゴソゴソする、起き上がって見てみると小さなネズミがいて、これは驚くというよりは怖かった。ゴキブリや蛇も驚くというよりは怖い。

15. おかまの東郷健

浪人中、ルイス・ブニュエルの「忘れられた人々」という映画が上映されるというので、神戸まで見に行った。ところがこの映画公演は、おかまの東郷健引退公演のプログラムの一つで、ほぼ会場はホモの人たちでいっぱいであった。これも驚くというより恐怖に近かった。案の定の映画「忘れられた人々」もホモの映画であった。

16 .長嶋茂雄のサイン

小学生の頃に長嶋茂雄のファンだったとので、手紙にオバQのハンカチを入れて住所宛に送ったところ、後日、サインされて送られてきた、驚くと同時に嬉しかった。

17. 友人に家に遊びにいくと

大学の頃、友人に家に遊びに行き、勝手にドアを開けて中に入っていくと、まさにあの最中で、流石にごめんと行ってすぐに出ていった。

 

この歳になると、友人の死や病気、災害など、暗い話題の驚きも多いが、ここでは割愛した。こうして驚いたことを挙げると、旅行や何らかの行動をした場合に起こることが多い。歳をとるにつれて驚くようなことにあうこともだんだん少なくなるのだろう。逆に言えば、いつまでも驚くような人生を歩みたいものである。もちろん、楽しい驚きであるが。

明十三稜 人がいない 1980.4
 

 

2024年6月7日金曜日

日本画家 三浦文治


 













また絵を買ってしまった。家内から叱れるので、できるだけ買わないようにしているが、ヤフーオークションでいい絵が目に止まるとつい欲しくなる。と言っても自分で落札限度を決めており、大体2万円までとしている。さらにオークションでは有名画家は偽物が多いので、知らない画家の絵に入札するようにしている。有名作家については高く売れるので贋作も多いが、全く無名作家の贋作を作っても意味がないからである。

 

今回購入したのは、東京美術学校を優秀な成績で卒業したが、プロにはならず新潟の高校の美術教師として生涯を全うした三浦文治という画家の作品である。

 

立葵(タチアオイ)は今の時期、よく見かける綺麗な花で、真っ直ぐに天に向かって伸びる幹と、赤いあるいは白い花が美しい。日本画の画題になる花で、多くの画家が描いている。この作品は、絵画的な手法は実に優れており、線も美しい。構図的にも、立体感を出すために、後方の花は少し薄く塗り、前方の花は鮮明な着色をしている。画にポイントをつけるために少し枯れた葉も随所に配置しており、全体的には落ち着いた雰囲気の絵で、気品がある。画家の器量が十分にわかる作品である。ただ奇妙な点は落款であり、少し稚拙な字で「昭和九年夏 文治冩」と書かれている。日本画家の多くは、本名とは別に画号を持ち、絵にはこの画号を使うのが一般的である。また江戸、明治の画家のような達筆な署名ではなく、素人のようなういういさを残す。

 

もちろんこの絵は贋作ではないし、同時代に「文治」の落款のある画家はいないことから、三浦文治の絵には間違いない。ただ死後、教え子によってまとめられた画集「三浦文治の世界 その絵にはいつも心の青空があった 青空先生と呼ばれた日本画家」(1996)を見ると、落款は違うし、絵の雰囲気も違っている。調べるとこの人は将来を期待された優秀な画家で、同級生には日本画の大家となる東山魁夷、橋本明治、加藤栄三などがいて、彼らと六篠社展を結成し、ベルリンオリンピック絵画部門にも日本代表として出品している。昭和20年に故郷の新潟に帰京後は、旧制新潟中学校はじめ、県内の多くの高校の美術講師をして定年まで勤めた。

 

昭和9年というのは、東京美術学校卒業後、松岡映丘に師事し、仲間としのぎを削った時代であるが、この絵については東山魁夷が師事した結城素明の影響が濃い。三浦文治の絵は、人物を景色に配置した作品が多く、ネットで調べる限り、こうした花鳥画の作品はあまりなく、珍しい。先にあげた画集を見る限り、一部の作品は優れたものであるが、他の作品は凡庸なものが多く、もはや中央画壇にでて、プロの作家として活躍しようという意欲はない。絵の才能があっても、プロとしてやっていくのは、相当厳しいし、さらにそれで生計をあるいは有名になるのは至難の技であろう。同じ絵の六篠社展の仲間の多くは後に有名な画家になっただけに、三浦文治も悔しい思いもしたのかもしれないが、立派な美術教師として多くの教え子に敬愛される人生もまたよしだったと思う。

 

一方で、28歳の時のこの立葵という作品を見ていると、戦争という画家にとっての空白の時期がなければ、プロとして同級生の東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らと同様にもっと活躍していたかもしれないと思ってしまう。プロの画家になるのは本当に難しく、いかに才能があっても、世間から評価され、作品が購入されなければ、食っていけない。大きな展覧会で奇抜な作品を発表し、それが賞をとり、話題となって初めて世間から認められ、作家の名前に値段がつくという世界である。この作品も、将来的に古美術の世界で価値が上がる作品ではないが、純粋に作品だけを見れば、安い買い物であったと思う。何も有名でなくても、優れた画家はまだまだたくさんおり、こうした作品は、名前ではなく、絵そのものを評価する外国人には受け入れられるかもしれない。





2024年6月5日水曜日

大飢餓と共産党



久しぶりに映画「いちご白書」をみた。確か、高校1、2年生頃に神戸三宮のビッグ映劇で見た記憶がある。調べると映画は1970年公開らしいが、公開より少し遅れてビッグ映劇で、2本立てで上映されたのだろう。同じ学生運動を扱ったイタリア映画「ガラスの部屋」と抱き合わせであった。このビッグ映劇というのはJR三宮駅からは歩いて10分ほどの近くなのだが、少し奥まったところにあったので、一般の客というよりは映画好きの人が多く集まるところであった。

 

学生運動の映画であったことから、大学生の姿が多かったような気がするが、内容については全く忘れていた。多分、あまり記憶に残らない映画であったのだろう。ビリーバンバンの有名な曲、“「いちご白書」をもう一度”がヒットしたのは1975年なので、私はすでに大学生であったが、この歌を聴いた時も、映画「いちご白書」が懐かしいといった気持ちも全くなく、「メモリー」にもなっていなかった。

 

それから50年以上経って、先日BS/NHKでこの映画を見てみたが、印象は全く同じで、全然面白くない。主人公や内容があまりにも軽薄すぎる。最後の州兵、警察によるコロンビア大学突入のシーンも感動的というよりは、バカじゃないかという気持ちが先に立つ。あれじゃ土曜日の夜に改造車で轟音をたて、町中を走り回り、警察に捕まる暴走族と変わらない。深読みすれば、この映画は大学生の甘い現実感を嘲笑的に捉えたコメディだったのかもしれない。女の子とセックスできるかもしれないくらいの軽い気持ちで学生運動に入った主人公は、次第に学生運動にのめり込むが、所詮その程度の覚悟で、デート中に黒人グループが現れるだけでビビってしまい、運動に懐疑的になる。最後は、警察に皆、捕まったシーンで映画は終わる。おそらく、ほとんどの学生は、若い時はそんなこともしたなあといったメランコリを抱えて、普通の人生を歩んだのだろう。一時の若者のパッションのようなもので、そんなにセンチになるほどのものではない。

 

私自身、高校生の頃、当時の社会的雰囲気で毛沢東思想にかぶれたこともあったが、その後、文化大革命の幻想が暴露されるとすっかり興味がなくなった。最近では社会主義、共産主義ほど人類のためにならない思想はないと思い始めている。あるネットで人類史上最大の虐殺者の第一位として毛沢東を挙げている。大躍進では2000-5000万人の餓死者、そして文化大革命では数百万から一千万人の犠牲者、計6000万人を殺している。中国人は、日中戦争を起こした日本人を鬼のようにいうが、毛沢東に比べると可愛いものである。そして虐殺者の二番目は、スターリン、この人も人を殺すのが好きで、人民を片っ端から処刑し、またウクライナでは工業化のために数百万人のウクライナ人を餓死させ、ラトビア、リトアニアからの強制移送により二百万人近い犠牲者をうんだ。毛沢東が殺したのが6000万人に対して、スターリンが殺したのは2000万人に、そしてヒトラーがホロコーストで殺したユダヤ人、他民族は1100万人とされている。そして第4位がカンボジアのポル・ポトで人口800万人のカンボジアで300万人を殺したと言われている。

 

毛沢東、スターリン、ポル・ポトは全て、共産主義、社会主義、さらにいうならヒトラーのナチスも国家社会主義ドイツ労働党と名乗っている全体主義社会国家である。共産党の方に言わせると、毛沢東、スターリン、ポルポトは誤った共産主義者で、特殊な例としてあげるし、ナチスは全く正反対の主義と怒るであろう。ただよく考えると人類史上で最大の殺人が、共産主義、社会主義政権で起こったことは、偶然の一致とは言えず、この主義の中にある潜在的な危険性を物語っている。もちろんそれ以外の国でも、第5位はベルギーのレオポルド2世で、彼は200万人のコンゴ人を虐殺し、第6位はトルコのパシャで、200万人のアルメニア人を虐殺したとなっている。ただ共産主義の恐ろしいのは、他国民の虐殺ではなく、自国民を虐殺している点で、これは恐怖でしかない。スターリンによるウクライナ飢餓も毛沢東の大躍進の飢餓も原因は驚くほど似ていて、共産主義ならではの官僚主義が起因する。よく知られているように、大躍進の世界史上最大の飢餓は、地方の官僚が自分の功績を上げようと、書面上で単位面積当たりの米の収穫量を競ったため、不作にもかかわらず数字上では大豊作で、農民から米を収奪したことから基金となった。同様にウクライナ飢饉は、ソ連の重工業化を進める政策のため、外貨が必要となり、官僚は命令に従うため、ウクライナ農民から徹底的に収穫物を収奪して400-1500万人、国民の20%が餓死した。

 

話を最初に戻すと、映画「いちご白書」の学生の部屋には、チェゲバラと毛沢東の写真を飾っていたし、日本でも東大紛争の頃の学生もそうだった。当時の学生からすれば、一種のファッションで、チェゲバラ、毛沢東思想に惹かれていたのであろう。ただ現実論からすれば、1960-70年代においてはベトナム戦争反対の学生運動をするくらいなら、中国の文化大革やポルポト政権への抗議、人民を殺すなと言ったスローガンがより重要なものであり、共産主義と敵対した当時のアメリカ政権、日本政権の判断は正しい。大学生の頃、東北大学にはまだ学生運動の生き残りがいて、世界同時革命などを叫んでいた。当時、彼らと論争したことがあったが、彼らは中国、北朝鮮を理想国として称賛していた。それなら体制側の国立の東北大学などさっさと辞めて中国や北朝鮮に行けと言ったら黙っていた。所詮、映画「いちご白書」と同じ薄い思想なのだろう。よほどポルポト政権下を主題にした「キリングフールド」の方が感動的であった。中国も民主化されたと言っても、未だ大躍進、文化大革命の悲劇を真正面から描いた映画はなく、少なくともこうした恥部をマスコミで自由に扱えるようにならなければ、もう一度、大虐殺が起こる危険性は共産主義、社会主義国家は内在する。中国政府は、日本は先の戦争を反省しろというが、真っ先に反省すべきは中国政府が自国民6000万人を殺したことであり、戦争ではなく、政策で自国民をこれほど殺せるのは、共産主義が持つ全体主義体質によるのだろう。大躍進からすでに60年以上経つし、文化大革命からも50年たつが、いまだに中国政府から犠牲者に対する正式な反省、謝罪、賠償はない。同時に6000万人もの人民が餓死したことを、歴史上、なかったかのように隠し通せるのもすごいことで流石に一党独裁、共産主義国である。


 

2024年6月2日日曜日

日本人のオリジナリティーはすごい

 

ルイヴィトンのBOROのシャツ 47万円

近年、アニメを中心として日本文化が世界中で注目されている。その範囲は広く、俳句は世界一短い詩として愛好家は世界中にいるし、盆栽や金魚などの人気も高い。さらにフランスでの柔道、アメリカでの空手人気は日本以上であり、さらにスティーブ・ジョブズが日本の禅に強く影響されていたのはよく知られた話だし、ゴッホやゴーギャンは日本の浮世絵に、カラス工芸家のガレが日本文化に惹かれていた。フィンランドではカラオケが生きがいになっている人も多い。

 

こうした日本のコンテンツは、これまで日本独自のものとして海外の人には理解できないものとされていたが、ITの普及とともに世界各国で日本文化がもてはやされるようになった。特に日本料理で言えば、50年前で、外国人はナマモノが苦手で食べられないという人が多かったが、今は寿司は日本を代表する料理で、多くの国で人気がある。ラーメン、とんかつ、カレー、すき焼き、うどんなどはもはや世界食となっているし、ある意味、チキンラーメン、カップヌードルに代表されるインスタント麺も日本の文化と呼べよう。今日、世界における日本、あるいは日本文化の影響力はすべての分野にとんでもない影響を与えているのは間違いない。

 

私個人、絵が好きなので、明治から昭和初期の日本画を集めているが、才能のある素晴らしい絵がヤフーオークションで売られている。20年前までは二束三文の値段で手に入ったが、ここ数年は、中国など海外の人々がオークションに参加するために、かなり値段が上がってきたが、それでも大量の絵が売買されている。私たちにとって、これは普通のことであるが、およそ100年前のアジアの国のことを考えよう。隣国の中国で言えば、孫文の率いる国民党の時代である。この時代、果たしてどれほどの画家が中国にいて、その絵を売って生計を立てていただろうか。もちろん大家と呼ばれる画家がいて、当時の金持ちがその絵を買っていたということはありうるが、そこらの小さな商店の店主が掛け軸を買ったり、お茶のための茶器を購入することはなかった。大正から昭和にかけて、普通の日本人でも絵が好きで気に入った作家の作品を買う人は大勢いて、それらに支えられ、生計を立てていた作家も多くいた。また絵だけでなく、陶器についてもアジア、あるいは欧米さえも、日本ほど多くの陶芸家がいる国はなく、ヨーロッパの陶芸国、デンマークでも日本は陶芸の天国だという。おそらくプロの作家も少ない。日本と違って、陶芸家や画家となっても食えないから、数が少ないのである。もちろん100年前のビルマやベトナムでも、画家や陶芸家をいただろうが、名前を知られるような個人画家、陶芸家はほとんどいなかったと思う。そうした芸術家を支える風土がなかった。欧米にしろ、芸術は貴族、金持ちのものであり、庶民にとって、生花やお茶を習うという文化サロン的なものはない。

 

つまり、日本の文化は、一部の貴族や武士のものではなく、広く大衆に行き渡ったものであり、それが現代のアニメに続く日本文化の核となっている。おそらくは250年続いた江戸時代が関係する。天候不良などのよる飢餓などもあったが、江戸時代を通じて概ね平和な時代が続き、また識字率も高かったことから、本の需要も高かった。個人的に一番驚くのは算学という数学が庶民の趣味となっていて、一部のマニアが存在していたことである。この流れは今でも連綿と続き、多くの数学者を出している一因となっている。

 

今日、弘前の小都市でもカルチャスクールというものがあり、初級イタリア語、フラダンス、俳句、手芸、料理など30を超えるスクールがあるが、こうした文化はおそらく日本以外にはなく、需要のないところにはプロは育たず、そうした文化を支える国民性が日本にあるのだろう。いくら中国がアニメ大国になろうとしても、それを支える読者層がどうかと思う。ここ数年で分かったことは、日本で通用することは世界で通用し、さらには地方で通用することは、日本を超えて世界で通用する可能性がある。一例を挙げると、郷土史家の田中忠三郎さんがコレクションした津軽のBORO、衣服が勿体無いため、つぎはぎをしていった衣料は、地元津軽でも汚いものとして打ち捨てられた文化であったが、それが今では世界のファッショントレンドとなり、ルイヴィトンやコムデギャルソンでも取り上げられるものとなった。

 

かって日本人は欧米人の真似ばかりするオリジナルティのない国民とされてきたが、今は世界をリードするオリジナリティーあふれる国民と言ってよく、これからの時代、日本で流行っていること、発明されたものはますます世界を幸せにするのではなかろうか。映画「ブレードランナー」のような日本語にあふれた未来社会があるのかもしれない。