2024年10月27日日曜日

子供の頃の思い出2

 

祖父の葬儀 昭和5年


尼崎の家 2階から

帰還後は、東京歯科医学専門学校の先輩に頼って歯科の仕事をし、その先輩の一人、中島先生(作家、中島らもさんのお父さん)の尼崎市立花の診療所を手伝った。さらにその分院である東難波町の小さな診療室を委さられ、そこに住むようになった。おそらく私の生まれる前のことで昭和289年のことだと思う。一階が診療所で、奥の方に6畳くらいの台所、ダイニングとトイレがあった。そこから45度くらいの急な階段が2階に続き、2階は6畳の畳間が2つと4畳間くらいの板の間があった。ここに私が生まれた頃は、父、母、姉、兄、私の5人と、祖母、さらには母親の妹の計7人が住んでいた。おそらく川の字に布団が並べられ、下の台所にも2人くらいは寝ていたのだろう。祖母は私が2歳くらいの時に亡くなり、また叔母さんも大阪の裁縫学校を卒業すると結婚したが、その頃から菊ちゃんという家政婦さんが家にいた。当時は安い給料で、住み込みで田舎から都会に来るというのは普通で、菊ちゃんも徳島から来た。小学校に上がるころにお嫁にいったが、拵えはすべて母親がして、尼崎の家から嫁にいった。若い娘は都会に憧れるが、親としては心配して娘が外に出るのに反対する。ただ信頼のおける人が間に入り、住み込みでしっかりした家で勤めるというなら反対はしない。こうしたこともあり、母の故郷の徳島からは、その後も家政婦さんがきた。-菊ちゃんの後は、お兄さんが三木武夫の秘書をしていた三橋という人、和代ちゃんが小学校1年生のころにきた。どちらかというと家政婦というよりは歯科助手の仕事で主であり、その合間に家事を手伝っていた。昭和40年頃から国民皆保険制度が完成し、多くの患者が来るようになり、うちも急に金回りが良くなった。2階に4畳くらいの部屋を増築し、ここは兄と私の部屋に、板の間の部屋は姉の部屋となった。屋根の上には小さな物干場を作り、子供部屋の2段ベッドの上に潜水艦のハッチのような構造で、そこに鉄製の重い階段をつけて屋根の上の物干場に登った。買ってもらった天体望遠鏡で星を見ようとしたが、尼崎では月くらいしか見えず、すぐに飽きてしまった。隣の屋根を伝わって50mくらいは移動できた。また風呂がなかったので近所の銭湯に行っていたが、突然、風呂を作ろうと言い出し、便所横のドブのようなところにくらいの小さな一畳くらいの風呂を作った。狭くても何とか用は足せたが、便所の前が脱衣場となっているので、着替え中に便所に行く人もいて女の人は恥ずかしかったろう。そのうち小学4年生の時に診療所のそばに小さな売地が出たので、そこを買って、家を建てた。母親は西宮の仁川あたりに住みたかったようであるが、父親は毎夜、尼崎の飲み屋街に繰り出していたので、どうしても診療所近くに住みたかったようだ。今考えると、20坪くらいの小さな家であるが、図面上はよほど大きく見えたのか、将来的に車も必要だし、犬も飼いたいと言い出した。住んでみると、誰も車など買うこともなく、ただのガレージの空間だけだったので、数年後には潰してリビングを広げた。もちろん親父の夢であったシェパードなど飼う隙間などなく、すぐに却下された。どうやら子供の頃の徳島の家で大型犬を飼っていたようだ。私はどうも新しい家の洋式トイレに馴染めず、数年間、毎夜、診療所にある和式便所を使っていた。

 

新しい家は、診療所から20mも離れておらず、和枝ちゃんはそのまま診療所の二階に住んで診療を手伝っていたが、そのうち結婚し、その後は、二人のお針子さん(りっちゃんと?)が普通の賃貸部屋として住んでいた。デザイナーのデザイン画から実際の洋服に起こす専門家であった。この頃の不思議な話がある。新しい家の2階は6畳の部屋が2つと3畳くらいの部屋が2つあった。最初、6畳の部屋には2段ベッドがあり、そこが兄と私の部屋で、姉は3畳の部屋に、他の6畳の部屋は父と母が使っていた。中学三年生の頃だったが、二階の階段を登ったところの3畳の部屋が、その頃の私の部屋であった。ここで勉強し、夕食のために一階に降りて行き、食事をしてみんなとテレビを見ていると、ガタンと扉が閉まる音がした。誰か来たのかなあと思っていたが、何もなかったので、そのまま2時間くらいして部屋に戻り、机の上に置いた腕時計をみると、そこに時計はない。どこかに置き忘れたと思い、あちこち探したが、結局、その後も見つからず、あの扉を閉めたのは泥棒ということになった。一階に一家全員五人がいる状況で、階段を上り、部屋にあった腕時計を盗むとは大胆な行為である。なぜ未だにこんなことに覚えているかというと、盗まれたのは、母親の友人の息子さんからもらったスイス製の時計で、名前は忘れがが、42石ということだけ覚えていたからである。当時、最初に買ってもらったセイコーファイブが21石の倍の石を使った、倍くらい正確な時計と勝手に思っていた。




子供の頃の思い出1

 

父親の小学校の修学旅行 学校は不明




父の姉の結婚式 徳島の実家前

先日、九州の博多で行われたサッカー部の同窓会が行ったが、博多に行く前に兄、姉と一緒に母親が入っている兵庫県、西宮市の老人ホームを訪れた。母はすでに102歳、大概ベッドで寝ていて、あまり反応もない。それでも姉が、私のブログの中で、脇町のこと、尼崎のことが書かれている文章を抜粋して、小学校の低学年用のノートに大きな字で書き写したのを持っていくと、じっとページをめくり読んでいる。おそらく10編くらいの文章を30分くらいで読んでしまったのには驚いた。こうしたこともあり親孝行のために昔の話を書く。

 

私が生まれたのは、昭和31年、4歳上の兄と、5歳上の姉がいる。父方の祖父、祖母は、徳島県板野郡一条(吉野)町西条というところで農家をしていた。祖母が作った古い家系図が残っているが、内容はかなり怪しく、初代は藤原鎌足とある。藤原家の家系の断片をどこかから引っ張ってきたようだ。それでも室町末期の永禄、元亀のころから家系図は、ほとんど無名の廣瀬姓が続いており、西暦でいうと1560年ころから、ずっと徳島で農家をしていた。祖父(広瀬邦市)の代、明治になると一旗あげようと大阪に出て、いろんな商売をした。そのうち、資金をためて商売を広げようとした矢先、昭和5年に40歳で急死し、商売の才能があった祖母が引き継ぎ、大阪の堀江、新町遊郭で妓楼をするようになった。堀江、新町遊郭は江戸時代、元禄から続く大阪の古い色町だったが、次第に大正期にできた飛田遊郭に客を奪われていった。母親の記憶では妓楼の名前は「栄楼」といい、大正11年の貸し座敷の記録には新町2422(西長堀南通二丁目)に栄楼(山下ヨネ)の名がある。実際のオーナーの名は出さなかったかもしれない。また昭和15年の「なつかしの昭和 堀江戦前住宅地図」によれば、北堀江上通1丁目に2軒の広瀬の名があり、またすぐ隣に歯科医院もあり、それに影響されて父は歯科医になろうとしたのかもしれない。また近所には瓢亭 吉本せいの名があるが、これは有名な吉本興業の創始者である。官報昭和16年の陸軍への寄付金記録では、平和楼の従業員代表として廣瀬小梅(コンメ)の名があり、妓楼の名を平和楼にしたのかもしれない。

 

遊郭はよほど儲かったようで、正月になると大座敷の上座に祖母とその娘2名と息子2名が座り、働いていた女性たちから新年の挨拶を受けたという。さすがに遊郭は子供の教育には良くないため、故郷の徳島県吉野町に大きな邸宅を建て、子供たちはここに住んだ。一枚の父親の修学旅行(小学校)の写真がある。男子は金ボタンの制服、女子はセーラー服にコートと出立ち、どう見てもお金持ちの学校である。大阪にある私立帝塚山小学校と思い、学校に問い合わせたが、そうでないという返答が来た。とても徳島県の小学校とは思えないが、いまだにどこの小学校かはわからない。父親は近くの阿波中学卒業後、上京して東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)に進学した。同級生もお金持ちが多く、女優の轟夕起子と原節子さんのサイン入りブロマイドが残っている。おそらく学生時代、昭和12年以降のものだろう。けっこう学生生活を満喫していたのだろう。下宿していた家の息子が、黒澤映画によく出る俳優、藤原鎌足ということは一度聞いた。歯科医としての修業期間4年間を待たず、昭和1612月に学校を卒業し、陸軍に入隊して幹部候補生となった。昭和17年には少尉となって関東軍に配置され、中国東北部で輸送および測量業務を担当した。終戦時は、ソ連国境にいたために、すぐにソ連の捕虜となり、モスクワ南方のマルシャンスク捕虜収容所で昭和23年まで収容された。収容所では最初、材木運びなどの重労働であったが、その後、歯科医として歯科室に勤務していたので、それほど捕虜生活も厳しいものではなかったようだ。6月に舞鶴に帰還した。




2024年10月26日土曜日

秋月、大刀洗の旅

 







六甲学院のサッカー部の同窓会で博多に行ってきた。昨年は大阪で開催したが、1人の同級生が博多に在住ということで、今年は博多で飲み会をすることになった。7人集まる予定であったが、2名が前日にかぜや急な予定ができたため、今回は5名の出席であった。東京から2名、大阪から1名、博多の一人と私である。久しぶりに集まりで大いに盛り上がった。

前日の夜に博多に入ったので、次の日は飲み会が始まる6時まで暇なので、どこに行こうかと悩んだ。博多には鹿児島にいた時によく行ったので、博多市内はもちろん、太宰府、あるいは隣県の佐賀市や熊本市にも行ったので、今回は秋月に乱で有名な秋月を訪れることにした。安西水丸さんの「小さな城下町」を昔読んで、一度行きたいなあと思っていたガ、アクセスがあまり良くなくてなかなか行けなかったところだ。

8時半ころに博多駅前のホテルを出て、博多駅から鹿児島本線で基山まで30分、そこから甘木鉄道というローカル線に乗り換え、30分で終点の甘木駅に着く。ここから甘木観光バスで秋月に行くのだが、次の便まで1時間、とても待てない。タクシーで行こうとするも駅前にはタクシーがなく、タクシー会社に連絡するも一杯ということで、駅周辺を屯していると、偶然通りかかったタクシーがあったので、それに乗り。15分ほどで秋月博物館まで行けた。ここまで1時間半かかった。

博物館に展示されている鎧兜はみごとなもので、ひとつは安土桃山、もうひとつは江戸前期の実戦を想定したもので、結構大きく、さすが黒田家と思わせる重厚で威厳のあるあつらえである。博物館から秋月の周遊コースがマップに載っているので、それに沿って歩いてみた。観光客も少なく、あれほど博多にたくさんいた韓国人の姿も見かけない。これぞ日本という田園と小川、古い街並みがあり、本当に美しい景色である。天気もよく、気持ちのよい季節であったが、山間に囲まれた小さな町のために、寺が石段を登ったところにあるため、いちいち登ると息が上がり、汗だくになった。町自体は小さいために2時間も歩けば、大体のところに回れる。外国人にとっては、バスで博多から往復2時間はかかると思うが、太宰府にいくよりがここに行く方がこれぞ日本の風景という点ではいいと思える。本当に美しい、小さな、お伽話のような町であった。

12時くらいになったので、そろそろ引き上げようと考えたが、まだ飲み会まで時間があるので、甘木鉄道で来る途中に見た“大刀洗”という駅がひっかかった。確か、陸軍の特攻隊の出撃基地で、映画“ほたる”の舞台だったなあということを思い出し、スマホで調べると、以前、名古屋空港にあった零戦、そして映画“シンゴジラ”で使われた実物大に震電があるという。途中でおりて駅前の平和記念館を訪れることにした。ちょうど展示特集で「さくら弾」にことが取り上げられていたが、以前ノンフィクションの「大刀洗さくら弾機事件:朝鮮人特攻隊員処刑の闇」(林えいだい著)のことも思い出した。

実物大の震電は、想像を超える大きさであった。一緒の展示されていた零戦をはるかに凌駕する機体であり、あれだけの大きさ、おそらく重さをあの脚では絶対に支えられないと感じた。おそらく実戦には使えなかった機体であろう。機体後部には三菱のハ43エンジンが装着されているが、このエンジン径が想像以上に大きい。例えば戦争末期に使われていた誉エンジンの直径が1180mm、全長が1690mmに比べてハ43エンジンは直径が1230mm、全長が2020mmと一回り大きい。あの馬鹿でかいp-47サンダーボルトに使われたp&W R-2800が直径1341mm、全長2068mmよりやや小さいくらいである。 

やや話が脱線したが、博多近郊として秋月はおすすめの観光地で、特に欧米からの観光客には魅力的な町である。アクセスも含めて渋い旅行先である。





2024年10月17日木曜日

東京のホテルが高い


 

徳島、ホテルリッジのバスルーム

ニューオータニ 一泊15000円くらいだった


ニューオータニ バスルーム

昔から旅行に行くときはできればいいホテルに泊まりたいと、全国のまあまあのホテルに泊まってきた。

 

東京でいえば、フォーシーズン椿山荘、帝国ホテル、メトロポリタン丸の内、ニューオータニ、ヒルトンホテルなど、大阪ではリッツカールトン、ヒルトンホテル、京都ではハイアットリージェンシー、軽井沢では星のや軽井沢、徳島ではホテルリッジなどなどである。このうち、軽井沢は娘の結婚式のために泊まったものの、食事なし二名二泊で20万円かかり、相当にびっくりした記憶がある。それ以外の全てのホテルはJTBの交通機関と一体になった格安パック旅行で、飛行機、電車代がいくらかははっきりしないが、それでも一泊一人2万円以上のところはなかった。多くは1万円代で、唯一、徳島、鳴門市のホテルリッジは夕食、朝食付きだったので一人3万円くらいはした。

 

ところが最近では、どこに行くのも、特に東京のホテルがあまりに高くて驚いてしまう。インバウンドによるものか知らないが、感覚としては2倍以上になっている。先にあげた東京のフォーシーズン椿山荘で平均宿泊料金は54000円、帝国ホテルで76000円、メトロポリタン丸の内で39000円、ニューオータニで40000円、ヒルトンホテル70000円、大阪のリッツカールトンが53000円、京都のハイアットリージェンシーが83000円、軽井沢の星のや軽井沢は300000円くらい、ホテルリッジは100000円くらいとなる。昔、10年以上前に比べると2倍どころか3、あるいは4倍くらいの値段になっている。

 

中級以下のホテルについても、値上がりしているが、せいぜい2倍ほどでそれも平日はそれほど高くないところが多いだけに、高級ホテルの値上がりが異常である。家内と旅行する場合が多いが、一泊、二人で10万円以上はとても無理である。二人で3万円以下の安いホテルに泊まり、美味しい夕食を食べた方がよほどマシである。

 

おそらくさまざまな要因がホテル代の高騰に繋がっているのだろう。まず円安の影響が強い。高級ホテルは元々、海外からの旅行客が多いため、例えば、一泊一人200ドルとしていたとしよう。以前のように一ドル110円の場合は22000円だったのが、一ドル150円になるだけで30000円となる。さらに十年前くらいから宿泊費は変動料金となり、ホテル側で好きな価格をつけられるようになると、まず金曜日、土曜日など週末や休日価格が平日価格の2倍くらいとなり、さらにインバウンドの影響で外国人客が異常に増えたので、平日価格も上昇した。また人件費の高騰に伴い、価格はさらに高くなり、そして昨今、アマン東京、ブルガリホテル東京など一泊20万円以上の、最高級ホテルが作られ、他の高級ホテルも軒並み宿泊料金が上がり、今の状態となっている。

 

さらに言うと、こうしたホテル料金の高騰は地方まで波及してきており、特に地方でも外国人旅行者の多いホテルは強気な料金設定をしている。例えば、青森でもランプの宿で有名な青荷温泉、鯵ヶ沢のグランメール鯵ヶ沢、弘前駅前のアートホテルも高くなっている。それでもまあしれたもので、値上がりと言っても十年前の1.5倍くらいで、まだ可愛いものであるが、それでも一泊一名で1万円くらいはかかるようになった。

 

同様に東京のフレンチ、日本料理、寿司などの高級店の価格も高くなっている。海外の話を聞いていると、昼食でも2-3000円くらいは普通とのことで、彼らからすれば日本の料理はバカみたいに安いのだろう。そうしたこともあり、2、3万円の寿司は高くないのである。単純に海外の物価高、賃金上昇、為替によるものであり、もし20年前の一ドル80円くらいであった時であれば、アメリカの昼食は1000円くらいで、それほど高くない反面、日本に来て寿司の値段が300ドルもすれば流石にアメリカ人も食べないであろう。

 

ドルー円の為替は、二年間までは長い間、1ドル110円前後であった。20年前は1ドル80円くらいであった。今は大体1ドル150円前後で推移しており、2年前のおよそ4割、20年前の2倍になっている。こうした変化は、安倍元首相の時代から始まり、実体経済に比べての円の価値の低さのために、輸入は好調、株価は上昇した。その皺寄せが今のところインバウンドの影響を受けているホテル、飲食店の極端な料金高騰を招いている。当然、一般物価の高騰とそれに伴う給与の上昇が次の段階にくる。これからの物価の上昇は、ある程度は覚悟しておかなくてはいけないが、高級ホテルのような十年ほどで宿泊料金が数倍になるような物価の急速な上昇は避けて欲しいし、もう少し実体経済に沿った円相場、おそらく一ドル110円程度の為替に戻って欲しい。ドル為替で言えば、中国人民元は20年前までは固定で1ドル、8.27人民元であったが、今は7.25-13%)、2年前は6.37(-23%)と、日本円ほどの変動はなく、円―人民元の為替は12年前は0.077であったのが、今は0.045くらいと半分くらいになっており、中国人にとっても日本は安い国になっている。ユーロについてもほぼドルと連動しており、為替だけで言えば日本だけが安い構造となっているが、なぜかここ2年は全く是正されていない。ドル/円の為替については、誰も予測できない。

 







2024年10月14日月曜日

子供時代の思い出

 


1.トイレ

学校のトイレで大の方を使うのを人から見られと、皆から汚いと言われたが、誰かにタッチすれば、汚さが移る。こうした遊ぶがよく行われた。ところが「べべんじょ かんじょ かぎしめた」と叫んで、人差し指と薬指をクロスさせると、タッチされても大丈夫となる。

2.給食

昭和30年から40年初めの学校給食は、ある意味、転換期で、小学校一年生の頃はまだ脱脂粉乳があり、あの不味さには閉口した。鼻をつまみ、最初に飲み干した。しばらくするとこれが瓶入り牛乳に、そして三角の紙容器のものになった。パンも最初はコッペパンと銀紙に入ったマーガリン、その後、たまに食パンが出てきて、ジャムもあった。給食は全て食べないと先生から怒られたので、2、3人の子は昼休みも遊べず、泣きながら給食を食べていた。私は食い意地が張っていたのか、毎度おかわりしていた。

3.映画鑑賞

2ヶ月に一回くらい、講堂で映画鑑賞が行われた。電気が消されると、一斉にワーという歓声がこだます。映画「東京オリンピック」はここで見た。怪獣映画も放映して欲しかったが、流石にそれは無理だった。

4.悪ガキ

私も少し多動性障害の傾向があったのか、授業中に隣の友人と悪さをして、よく先生に怒られた。しまいには目付け役として委員長をしていた女子の隣に座らされたり、黒板の横、先生の近くに一時座ったこともあった。昔の漫画でよくある、宿題を忘れるとバケツに水を入れて持たせ立たせるということも普通にあったし、悪さをすれば女の先生でも平気でピンタをしていた。悪ガキは人気があるので、成績はさほどではなかったが、小学四年生の頃に学級委員に選ばれてから、不思議なことに落ち着き、勉強もできるようになった。

5.遊び

学校から帰ると、ランドセルを玄関に置き、親から10円をもらって、近所の友達を誘いに行く。近くに3、4軒の駄菓子屋があったので、この10円で結構遊べた。低学年の頃は、友達と東京ケンパ、サザエさん、初めの一歩など、少し大きくなると銀玉鉄砲や2B弾、コマやビー玉、三角野球などで暗くなるまで遊んでいた。一度、空のセスナ機からばら撒かれたビラを追っかけていくうちに迷子になり、親を騒がせたこともあった。自転車に乗るようになると、行動半径も広くなり、夏は甲子園球場の外野席が無料なのでよくいった(高校野球)。

6.授業中の粗相

授業中のおしっこや大便をしたくなっても、先生に言うのが恥ずかしいのか、授業中に粗相をしてしまう子供が何人かいた。小学二年生くらいまで、机の下がおしっこで濡れて、先生が掃除をして保健室までその生徒を連れて行ったりした。一番記憶しているのは、一年生の時、前の席から臭い匂いがしたので、先生に報告すると、何とその子は大便を漏らしてしまったのだ。真っ赤な顔をしていた。しばらくはみんなからからかわれた。当時は尼崎市でも下水が発達していなかったのか、多くの家はトイレが汲み取り式で、1ヶ月の一回ほどバキュームカーがやってきて、吸引するが、車からガスにようなものが発生するのか本当に臭かった。家の便所に落ちた子もいたし、アパートなどでは外にコックリートの丸い蓋があり、そこから汲み取っていたが、カタカタしていて、そこに落ちた子供がいた。それこそ頭までクソまみれになり、大人がいっぱい集まり、大騒ぎになった。私の家の前には幅1mくらいのドブがあり、よくおしっこの飛ばしっこをしていたが、おしっこをかけられた家は迷惑であったろう。

7.風呂屋の事件

隣に住む同級生のHさんは小学四年生であったが、大柄で、ホリが深く、顔つきもインド人のようであった。同級生なので、もちろん毎日、クラスで顔を合わす。うちには風呂があったが、狭かったので、月に一度くらいは近くの銭湯にいくことがあった。帰りにはフルーツ牛乳を飲むのが楽しみであった。ある日、風呂に浸かっていると、何とこのHさんが入ってくる。一瞬に、ここは男風呂だったよねと思いつつ、周りを見てもみんな男の人ばかりである。どうやら父親に連れられて風呂に来たようだ。こちらの方が恥ずかしくなり、しばらく間、少し大人になりかけた彼女の裸体がチラついた。

8.新しい画法の発見

図画の時間に、友人同士で肖像画を描くことがあった。当時、図画は猪俣太郎画伯が担当していた。小学一年生の時に猪俣先生に絵を習っていたこともあり、猪俣先生に可愛がってもらい部屋にもちょくちょく行った。先生は小学校の先生を片手間にして絵を描いていたと思う。イーゼルにほとんどチューブから出た絵の具を塗りたくる絵を描いていた。知らずにこうした画法に影響を受けたのか、図画で肖像画を描く際、絵の具を水で薄めずに描こうと思った。筆先が長いと書きにくいので、ハサミで筆先を切り、短くして、描いた。水彩絵具を油絵のように描いたわけである。時間がかかったが、猪俣先生からは相当に褒められた。友人が欲しがったのであげた。

 

毎日、毎日、よく遊んだものだ。ところが小学五年生から中学受験の進学塾に通うようになると、一転して勉強づけの毎日になった。小学校時代からオールナイトニッポンを聞いて、勉強していた。「ミキモ クボモ ネムラノ ダマシ ヘンタイ キスキス」の桂三枝さんのラジオCMはもっと後か。


2024年10月11日金曜日

ジジイのファッション


若い頃は、顔は悪い、スタイルも悪い、さらに金もなかったが、結構おしゃれであった。家内との若い頃の写真を見てみると、綿パン(チノパン)、ボタンダウン、レジメンタルタイ、紺ブレ、コインローファーといった鉄壁のアイビースタイルであった。情報はメンズクラブとポパイという2つの雑誌を毎月購入し、金を貯めては仙台の三峰というアイビーファッションの店に通っていた。大学四年生頃になると、アイビーでもプレッピーというアメリカ西海岸の少しカジャルなファッションが好きで、次第にチノパン、ジーンズ(リーバイス501)、ブルックスブラザーズのボタンダウンシャツ、ラコステのポロシャツ、靴はアディダスのスタンススミスをよく履いた。冬になると、ネルシャツ、ダウンベスト、60/40パーカーに、ワークブーツ(レッドウィングは買えなかった)という感じで、赤のタウチュのデイパックに教科書を入れて、片倉?のロードレーサーで通学していた。ほとんど雑誌ポパイで紹介されていたファッションのモノマネである。

 

大学を卒業してから、小児歯科の医局に入ったものの、アパートから徒歩10分、その後、鹿児島に移っても大学まで徒歩10分、宮崎では徒歩5分、その後、開業して自宅を建てると家から診療所まで徒歩8分と、ほとんど通勤になっていない。大阪や東京のような家から職場まで電車で通勤するとなると、きちんとした格好をするだろうが、家から職場まで5-10分となるとほぼ室内着のまま行き、私の場合はそこで白衣を羽織る。

 

数年前までは20年間ほど、弘前ロータリークラブに所属して、週一回の例会や各種の大会に行くときは、きちんとネクタイしたものだが、退会してからは、ネクタイをすることもほとんどなくなった。最近では、おしゃれというよりは、ますます体に楽な、動きやすいものばかり選ぶようになり、たまに外出、あるいは旅行に行くときも、こうした格好をするようになった。

 

まず靴については、若干外反母趾の傾向があるので、幅広のもの、それも歩きやすいスニーカばかりである。特にニューバランスの9904Eという幅広のものを10年以上前から使っている。2足を交代に履いているが、流石に雪道は無理で、雪の降る12月から4月くらいまではスノーブーツとなる。いろんなスノーブーツを履いているが、滑らない靴というのはなく、最近はコロンビアのブーツを履いているが、宣伝ほどは滑らないことはない。パンツは、LLビーンの裏地付きのダブルエルチノパンが一番暖かい。下着は普通の半袖Tシャツに、パタゴニアのベースレイヤー、キャプリン、ミッドウエイトかサーマルウエイト、sさらにその上に、パタゴニアのR1,R2,R3を羽織る。アウターは、最近はアークテリックスのベータジャケットというのを着ているが、さらに寒くなると、エディバウアー、LLビーン、ナンガのダウンパーカーあるいはワイルドシングスのモンスターパーカを着ている。これでほぼ毎日のルーティンとなる。

 

若い頃は、毎日同じ服を着るのに抵抗があったが、最近は、普通のネルシャツやボタンダウンシャツ、あるいはセーター、ジャケット、コートも着ることはここ10年ほどは、ほとんだなくなった。同じようなカジュアルウエアーをひたすら着回している。多少高くても、例えば、最初のパタゴニアR2はすでに20年近く使っており、まだまだ着れそうである。服を着なくなる理由のほとんどは、流行遅れ、サイズが合わないなどであり、また着ると疲れる服も嫌である。楽な服、楽な服と追い求めていくと、どうもアウトドアの服になっていくようである。本格的なものになるほど、山登りに必要な軽量で、動きやすく、暖かい、あるいは汗を吸いやすい、臭いがしない、など、年寄りの要求に適っている。ここ20年の年寄りのファッションで昔と違うのは、リュックを背負い、スニーカーを履いている老人が多くなったことである。これは若者ファッションであったが、リュックで両手が使える、スニーカーの方が歩きやるいという老人の率直な気持ちの表れである。



 

2024年10月6日日曜日

武器が高くて戦争できない

 

                   一機、1100億円のB-2爆撃機



武器の高騰が凄すぎて、もはや戦争がしにくい状況となっている。軍用機で言うと、アメリカ軍の戦闘機、B-35150億円、B-2爆撃機では1100億円、最新のB-21では1000億円となる。軍艦では最新空母、ジェラルド・フォードは1兆9千億円、コロンビア級原子力潜水艦は7700億円、アーレイ・バーク級駆逐艦で2900億円、ミサイルで言うと迎撃ミサイル、SM3ブロック2Aが一発、40億円、M1エイブラムス戦車が10億円となる。最も戦争でよく使われる500ポンド、Mk82爆弾で一発、400万円くらいで、B-1爆撃機であれば、一回の作戦で、最大84発の500ポンド爆弾を使う。3.3億円となる。

 

例えば、B-2爆撃機でどこかの場所を爆撃しようとすると、純粋の爆弾、あるいは燃料、整備費などで一回の爆撃で数億円の費用がかかってしまうし、万が一、撃墜されると、それこそ1100億円の機体がパアとなる。さらに一度、爆撃されると、再生産は簡単にできるものではないし、それこそ消耗していくものとなる。現在、航空自衛隊ではB-3540機くらい配備する予定であるが、零戦の生産数、一万機に比較すると100分の1以下であり、第二次世界大戦のような使用法は絶対にできない。そして数機の損失で、重大な戦闘作戦に支障が出るはずで、戦闘への投入は躊躇われる。

 

第二次世界大戦における武器の価格と比較すると、より鮮明となる。日本の例で言えば、現在価格に換算して、零戦は一機、1億五千万円、戦艦金剛で600億円、あの戦艦大和ですら2700億円など、少し換算がおかしいかもしれないが、それでもかなり安い。加賀や蒼龍などの海軍の空母でもおそらく戦艦並み、600億円くらいであろう。アメリカの駆逐艦アーレイ・バーグ級が2900億円で、戦艦大和と同じ建造費というには考えにくいが、それでも当時に比べて現在価格に換算しても武器価格が10100倍になっているのは間違いない。真珠湾攻撃で日本軍は、空母6隻、戦闘機350機以上を参加させたが、今の武器でこれだけの作戦を行うことはまず金銭的にも不可能であろう。

 

こうしたこともありウクライナ戦争でも、長期間にわたる戦争が続いているものの、双方数万の兵士、数千機の戦闘機、数千の戦車が投入されたクルクスの戦いのような規模の戦闘は不可能であり、せいぜい大隊あるいは中隊規模の戦闘が行われているだけであり、ベトナムあるいは近年の湾岸戦争に比べても戦闘機、ヘリの攻撃参加は少ない。より費用の安いドローンを使った戦闘が中心となっている。アメリカ軍はウクライナ戦争以前も無人機、RQ-1プレデターを使った偵察、攻撃をしてきたが、この機体の価格は450万ドル、7億円くらいする。ウクライナ戦争では、こんなに高い機体はほとんど使われず、トルコ製のバイラクタルTB21億円、あるいはもっと安いドローンが使われている。

 

いかに安い機材で最大の戦果をあげるかが、ウクライナ戦争におけるウクライナ、ロシア双方の戦略の基本となっている。特にロシアでは、西側諸国の経済制裁で、武器に必要な機材が手に入らないので、武器を喪失すると生産がしにくいために、かなり消耗に敏感である。もともと旧ソ連の戦略は、大量の兵器を用いた物量作戦で、兵士も兵器も大量に消耗して、大量に生産する方法をとっていた。ところがロシアでも兵器の価格が高くなり、また大量生産することもできず、伝統的なソ連軍の戦略、戦術が取れず、苦戦している。

 

同様なことは、今後のあらゆる戦争でも起こり得ることで、あまりに兵器の価格が高くなって戦争ができない、しにくい状況となった。これは軍事的新興国となる中国でも当てはまることで、空軍は数千機の機数を誇るが、現代戦に使える機数となると数百機であり、その多くが旧ロシア製の系譜のものである。ロシアの軍用機はもともとエンジン寿命が短く、消耗品として使うものであり、稼働率も低い。そうなると値段の安い(そうはいっても高い)ミサイルで、どれだけお互い数少ない戦闘機を潰すのが戦争の鍵となり、互いに価格の高い戦闘機をできるだけ温存しようとする。

 

孫子から始まる戦争理論についても、もはや兵器の値段の高さと消耗から見る経済的な側面が強くなり、こうした要素、できるだけ安い兵器、ドローンで、高い兵器を潰し、消耗させていく、新しい戦争理論が必要なのかもしれない。例えば、500万円の安いドローン、1000台でも費用は50億円、それで150億円のB-35を一機潰せは成功となる。おそらく世界一のドローン国の中国は、もし戦争するとなると大量の数十万、数百万のドローンを戦争に使っていくかもしれない。

2024年10月3日木曜日

始皇帝と中国人の国民性


「始皇帝 天下統一」というドラマを見ている。同じ時代を扱ったアニメ、映画として「キングダム」があるが、これは完全なフィクションなので、登場人物をいちいち調べることもしないが、ドラマ「始皇帝」に関してはほぼ司馬遷の「史記」に準じた内容になっている。これをじっくり見て、勉強すれば戦国時代の東洋史はまちがいない。昔、東北大学を受験する前日、部屋で同室の人と、いまさらジタバタしてもしょうがないということで、一緒に映画「ベンハー」を見たが、次の日の世界史の試験に同時代の問題が出て、大喜びした記憶がある。

 

司馬遷の史記については大学生の頃に一度、読破しようと平凡社の全3巻のものを購入したが、半分くらいでギブアップした記憶がある。歴史書でこれほど面白いものがないのは、単なる歴史でなく、本当に色々なエピソードが散りばめられているからであろう。人間ドラマである。あれだけ広い中国なので、いろんな人物がいる。

 

昨今、中国で日本人男子の殺害という痛ましい事件があり、中国政府による排日教育のせいであるとネット上で炎上している。さらに、あれだけネット規制が厳しい中国で、この事件を肯定するような酷い中傷をいまだに野放しになっていることも批判されている。酷い殺害状況に、よく幼い子供にこんな残酷なことができるなあと我々日本人からすれば思うが、中国の長い歴史を見れば、不思議でない。中国人はいいにつけわるいにつけ振幅の大きい国民なのである。

 

最近といっても1950年代の中国大躍進のことである。二千万人以上の人が犠牲になった大惨事である。飢えのためにジャガイモとサツマイモをいくつか盗み食いしたため、公社幹部で拷問され障がい者となり、1歳の子供は川に落とされ溺死させた。ある女の子はトウモロコシ一本を持ち去ったために指を一本切り落とされた。貴州省ではささない窃盗行為でも、手の指をキル、口を縫い合わせる、耳や踵に針金を通す、布を巻いて油を注ぎ逆さに吊るして火をつける、赤く焼いた火バサミを口に突っ込む、生き埋めするなど、前代未聞の残酷行為が行われた。こうしたことが普通の役人により全土で普通に行われた。今から60-70年前のことでそれほど古いことではないし、いまだに中国人はこうした状況は覚えている。毛沢東の命令に従って、その下、さらにその下、次第に命令は厳しくなり、役人も上の命令に従わないと、拷問されて、殺されることになる。ここでまた振幅の大きな中国人である。自分を犠牲にして飢えた人民を助ける義人が登場する。城関公社の崖日堅は、民衆が餓死するのを見るに忍びず、倉庫を開けて食料の飢えた民衆に配った。その結果、一切の職を解かれ、県や村を引きずりまわし、批判闘争にかけ、食事も与えられなかった。34歳で餓死した。張愷帆は1927年から革命に参加した古参幹部であったが、多くの民衆が餓死する現状を知ると、党中央部に強く抗議し、全国の倉庫に保存されている食料を病人や児童に供給するように提案した。結果、彼は党籍を剥奪され、副省長の職をとかれ、200日以上投獄された挙句、家族ともども鉱山に送られた。また甘粛省の鎮原県の県長、許国和は民衆の食料不足とそれによる困窮を知ると、食料買上げを中止したが、これが反革命行為として批判され、逮捕、家族も逮捕、6歳の息子は真冬に家を追い出され路頭に迷うという事態になった。そして周囲の人物も逮捕され、全県で1650人が獄に入り、333人が獄中で亡くなった。青海省の生産大長であった馬賢珍は多く隊員が餓死するようになると、隊に残っていた食料を公社員に分け与えた結果、彼を五年の監獄行きとなった。

 

とんでもない残酷な役人がいる一方、自分を犠牲にして抗議する役人もいるのが中国で、こうした振幅の幅は日本人に比べて中国人の方がはるかに大きい。日本は恵まれた自然と豊な土地に恵まれ、江戸時代を通じて長らく平和が続いた結果、温厚な民族となったのに比べて、中国はある意味、戦国時代からずっと戦乱であったともいえよう。自分の家族、親類、そして親しい友人しか信用しない国民性ができたのであろう。中国人ほど現世主義者はなく、多くの人にとって、極楽、地獄という観念、あるいは悪いことをすれば神に裁かれるという意識はなく、そのためには金儲けをして、豊な暮らしをするのが一番と考える。まあこうした考えは日本人だって一般的であるだろうが、ただどこかに金だけでなく、他の人の役に立ちたい、いわゆる善行をしたいという気持ちはある。これは平和で余裕があってのもので、戦国時代からずっと、そんな呑気なことを言いていられない中国世界では、今でも日本以上の弱肉強食の社会なのだろう。