帰還後は、東京歯科医学専門学校の先輩に頼って歯科の仕事をし、その先輩の一人、中島先生(作家、中島らもさんのお父さん)の尼崎市立花の診療所を手伝った。さらにその分院である東難波町の小さな診療室を委さられ、そこに住むようになった。おそらく私の生まれる前のことで昭和28、9年のことだと思う。一階が診療所で、奥の方に6畳くらいの台所、ダイニングとトイレがあった。そこから45度くらいの急な階段が2階に続き、2階は6畳の畳間が2つと4畳間くらいの板の間があった。ここに私が生まれた頃は、父、母、姉、兄、私の5人と、祖母、さらには母親の妹の計7人が住んでいた。おそらく川の字に布団が並べられ、下の台所にも2人くらいは寝ていたのだろう。祖母は私が2歳くらいの時に亡くなり、また叔母さんも大阪の裁縫学校を卒業すると結婚したが、その頃から菊ちゃんという家政婦さんが家にいた。当時は安い給料で、住み込みで田舎から都会に来るというのは普通で、菊ちゃんも徳島から来た。小学校に上がるころにお嫁にいったが、拵えはすべて母親がして、尼崎の家から嫁にいった。若い娘は都会に憧れるが、親としては心配して娘が外に出るのに反対する。ただ信頼のおける人が間に入り、住み込みでしっかりした家で勤めるというなら反対はしない。こうしたこともあり、母の故郷の徳島からは、その後も家政婦さんがきた。-菊ちゃんの後は、お兄さんが三木武夫の秘書をしていた三橋という人、和代ちゃんが小学校1年生のころにきた。どちらかというと家政婦というよりは歯科助手の仕事で主であり、その合間に家事を手伝っていた。昭和40年頃から国民皆保険制度が完成し、多くの患者が来るようになり、うちも急に金回りが良くなった。2階に4畳くらいの部屋を増築し、ここは兄と私の部屋に、板の間の部屋は姉の部屋となった。屋根の上には小さな物干場を作り、子供部屋の2段ベッドの上に潜水艦のハッチのような構造で、そこに鉄製の重い階段をつけて屋根の上の物干場に登った。買ってもらった天体望遠鏡で星を見ようとしたが、尼崎では月くらいしか見えず、すぐに飽きてしまった。隣の屋根を伝わって50mくらいは移動できた。また風呂がなかったので近所の銭湯に行っていたが、突然、風呂を作ろうと言い出し、便所横のドブのようなところにくらいの小さな一畳くらいの風呂を作った。狭くても何とか用は足せたが、便所の前が脱衣場となっているので、着替え中に便所に行く人もいて女の人は恥ずかしかったろう。そのうち小学4年生の時に診療所のそばに小さな売地が出たので、そこを買って、家を建てた。母親は西宮の仁川あたりに住みたかったようであるが、父親は毎夜、尼崎の飲み屋街に繰り出していたので、どうしても診療所近くに住みたかったようだ。今考えると、20坪くらいの小さな家であるが、図面上はよほど大きく見えたのか、将来的に車も必要だし、犬も飼いたいと言い出した。住んでみると、誰も車など買うこともなく、ただのガレージの空間だけだったので、数年後には潰してリビングを広げた。もちろん親父の夢であったシェパードなど飼う隙間などなく、すぐに却下された。どうやら子供の頃の徳島の家で大型犬を飼っていたようだ。私はどうも新しい家の洋式トイレに馴染めず、数年間、毎夜、診療所にある和式便所を使っていた。
新しい家は、診療所から20mも離れておらず、和枝ちゃんはそのまま診療所の二階に住んで診療を手伝っていたが、そのうち結婚し、その後は、二人のお針子さん(りっちゃんと?)が普通の賃貸部屋として住んでいた。デザイナーのデザイン画から実際の洋服に起こす専門家であった。この頃の不思議な話がある。新しい家の2階は6畳の部屋が2つと3畳くらいの部屋が2つあった。最初、6畳の部屋には2段ベッドがあり、そこが兄と私の部屋で、姉は3畳の部屋に、他の6畳の部屋は父と母が使っていた。中学三年生の頃だったが、二階の階段を登ったところの3畳の部屋が、その頃の私の部屋であった。ここで勉強し、夕食のために一階に降りて行き、食事をしてみんなとテレビを見ていると、ガタンと扉が閉まる音がした。誰か来たのかなあと思っていたが、何もなかったので、そのまま2時間くらいして部屋に戻り、机の上に置いた腕時計をみると、そこに時計はない。どこかに置き忘れたと思い、あちこち探したが、結局、その後も見つからず、あの扉を閉めたのは泥棒ということになった。一階に一家全員五人がいる状況で、階段を上り、部屋にあった腕時計を盗むとは大胆な行為である。なぜ未だにこんなことに覚えているかというと、盗まれたのは、母親の友人の息子さんからもらったスイス製の時計で、名前は忘れがが、42石ということだけ覚えていたからである。当時、最初に買ってもらったセイコーファイブが21石の倍の石を使った、倍くらい正確な時計と勝手に思っていた。
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