「 夕日 西に落ち 運動会は終わります
先生 みなさん ありがとう
最後にお口をそろえ
難波の学校のバンザイを 声の限りに歌いましょ」
これは難波小学校の運動会終了の歌である。もちろん難波小学校でも校歌があるが、校歌以外の歌としてはこれだけしか記憶にない。卒業して56年も経つがなぜか覚えている。運動会の最後に歌った曲で、年に一回しか歌わない曲であるが、なぜか悲しい感じがしてリフレインする。最後のフレーズだけ変えて、他の学校でも歌っていたのかもしれない。
この曲のフレーズを聞くと、「たんたんたぬきのーーー」を思い出す人もいるかもしれないが、原曲はバプテスト教会の讃美歌の「Shall we gather at the river」という曲である、日本では「タバコヤの娘」として替え歌が昭和12年頃に流行ったようだが、讃美歌から童謡、あるいは唱歌になった曲は多い。難波小学校の運動会の閉会の歌も最後の「難波の学校のバンザイをーー」のフレーズなどは戦前の匂いを感じる。
三和本通りの入り口をまっすぐに出屋敷の出口付近で、靴屋があった。普段は運動靴などがビニールで包まれ、飾られていたが、運動会シーズンになると地下足袋が大量に売り出される。後ろの金具を差し込んでしめる足袋であるが、底の部分がゴムでできている。本当の脆いもので、ほぼ一日、運動会で使うと潰れてしまう。運動会専用の靴ということになる。確かに足袋なので運動靴に比べると軽いとは思うが、それほど差はないが、それでも生徒たちには絶大な人気があり、この足袋を履けば早くなると信じていた。親に駄々をこねて運動会の前の日に三和商店街に行って買ってきた。
運動会のメインイベントは徒歩競争で、6、7人並んで、ピストルの号砲を待って一斉にスタートする。私はあまり走りには自信がなく、いつも真ん中くらいで、いつも待っている間はドキドキした。一度、前を走っている二人がこけて、漁夫に利で一等賞になったことがあったが、嬉しかった。徒歩競走は、勉強はできないが、足の早い子にとっては年に一回の楽しみで、その日だけは英雄になれた。今と違って、一位になると鉛筆などの商品をもらえた。足の速い子供はクラス対抗のリレー選手にも選ばれるので、滅多に学校に来ない親も、この日ばかりは大きなゴザを引いて親戚一同で応援している。昔は子供の数も多かったせいか、運動会の陣取りも大変で、朝早く起きて、陣取りに行った。家族、あるいは親戚も集まり、いっぱいご馳走を作り、運動会は数少ない娯楽の一つであった。集まった家族の中には昼間から酒を飲みやからもいて、ワアワアと賑やかなイベントであった。
おそらく運動会は世界でも、日本くらいしかしていない行事であろうが、今、考えると結構楽しいものだった。昔、鹿児島の南、十島村というところに巡回診療に行ったことがある。一度、中之島の運動会に遭遇したことがあったが、全校生でも20人程度でるが、運動会には村中の住民が集まって騒いでいた。小学校の行事を超えて村の行事になっていた。そういえば、昔は会社の運動会というものも割合あった。職場の親睦を図るものとされたが、今はさずがに会社の運動会はないだろう。
高校では、3年生が主導となって体育祭をするが、総合得点で必ず高校3年生が優勝しなくてはいけなかった。そこでクラスの宇都宮くんが応援団長となり、佐伯孝夫作曲の「若い力」の替え歌
「 若い力と感激に 燃えよ高三 胸を張れ 歓喜あふれるユニフォームーー0」とほぼ原曲に近いがこれも運動会1ヶ月前に覚えたが、いまだに大体覚えている。
3 件のコメント:
廣瀬先生、「運動会の終わりの歌」をパソコンで検索をして、先生のブログと出会うことが出来ました。
→「探し物は何ですかぁ~」https://blog.goo.ne.jp/neko-kichi2828/e/d0b4d9997b0465ab43d9ddf2a302971c
難波小学校の同級生に聞いても誰も知らなかったんですよ。
ねこ吉
なぜか子供心にこの曲を聴くと運動会も終わった、寂しいという気になりました。
廣瀬先生
やっぱり、先生は運動会で活躍なさっていたからではないでしょうか?
ねこ吉など、運動神経が無く、走るのが超遅いんです。運動会が大嫌いでした。
ねこ吉は、運動会の終わりの歌が大好きでした。声高らかに歌っていました。
これを歌ったら家に帰れると思いました。
ねこ吉
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