2024年4月25日木曜日

弘前市森町の忍者屋敷について その5

 



森町にある忍者屋敷については、ファンタジーとして、あるいは観光目的のためのものとしては活用するのは全く問題ないし、その真偽をあれこれ論ずる必要もない。ただ大学の教授が学会やマスコミを通じて、その存在を歴史的事実として唱えるとなると、それが真実と思われてしまうので、議論が必要となる。本来なら大学の歴史研究者が反論すべきであるが、これについては完全に沈黙している。

 

このブログでは、忍者屋敷の建物、あるいは仕掛けについては、他の建物にも類似形式があることを述べた。さらに清川先生によれば、明治二年弘前絵図に記載されている忍者屋敷の戸主、棟方嘉吉は。弘前の忍者集団を統率した棟方一族であり、歴代の所有者は早道之者に関わりのある人物としている。そして享和20年(1735)頃に早道之者の詰め所は現在地に移り、5年後に再建されたとしている。ただ棟方姓は明治二年弘前絵図では9名おり、姓が同じだからといって早道之者の統括する棟方作右衞門の子孫であるとはいえまい。まず現在わかっているこの屋敷の戸主を見てみよう。

 

まず元禄15年(1702)の弘前惣御絵図では森町周辺は土取場となっていて、茂森山を崩したまま田畑、あるいは荒地で、町割はされていない。宝永6年頃(1709)に町割されたという(ウイキペディア)。

https://adeac.jp/hirosaki-lib/viewer/mp000027-200010/06-072/

 

その後、清川教授は、宝暦9年(1759)の屋敷の居住者を記した地図より、杉山源吾の子孫、白川孫十郎がここに住んだという。これは宝暦の御家中屋舗(金偏)建屋図のことと思われるが、実見していない。白川孫十郎の名は“御持筒並足軽”として元禄二年三年(1690)の記載があるが(国会図書館デジタルアーカイブ)、時代が一致しない。時代は下がるが、明治一統誌士族、卒族名員録の中に唯一、白川姓として卒族として白川慶太郎の名がある。また津軽家文書の由緒書(卒族)の項に白川慶太郎、利助の名があり、幕末時は足軽など軽輩の武士であった。

 

宝永6年まで       重森山、畑、土取場をへて町割

享和20年(1735.       早道の詰所 一旦取り壊され、五年後に再建 ?

宝暦5年(1755.        白川孫十郎(杉山源吾子孫?)

寛政年間(1789-1800 深掘左次衛門―今久造 (某氏所蔵、御家中町割表より) 

寛政12年(1800.       齋藤誠八郎

江戸後期         現在の家屋が再建?

明治二年(1868.        棟方嘉吉

  

https://archives.nijl.ac.jp/G000000200300/kind?l1=09.藩士&page=2

 

ここには文化15(1818)と文政11(1828)の早道分限帳が掲載されていて2名の早道小頭と17名の早道の名前が記載されている。寛政の絵図、町割表と年代的に比較的近いが、深掘、今、齋藤の名はない。文化15年の早道分限帳では小頭として、代官町の寺田太兵衛と鷹匠町の石黒太左衛門、文政11年の分限帳では寺田(62歳)と 桶屋町川端町の成田己◯衛門(40歳)となっている。石黒は寛政4(1792)に早道に、文化11(1811)に小頭、寺田については天明8年に見習い、寛政4年に早道に、文化9年に小頭になった。2名の小頭、17名の早道とも僅か10年くらいでかなり変わっている。見習いー早道―早道小頭という流れであるが、それほど継承される職ではなさそうである。

 

早道の集団のトップは家老あるいは大目付で、その下の小頭2名とその他、並のものという構成である。森町の忍者屋敷が早道の集会所であるなら、大きさからして家老や大目付の家ではないので、小頭の家と考えられる。分限帳で言えば、1818年から1828年の小頭、寺田(代官町)、石黒(鷹匠町)、成田(桶屋町)は森町に住んでいない。逆に白川、寛政年間に森町に住んでいた深堀、今、齋藤については、早道あるいは早道小頭であったかは確認できなかった。森町の屋敷が、仕掛けを凝らした早道の集会所であるなら、秘密の相談も多かったと思われ、早道の職と関係ない者が住むとは思えない。少なくとも、ここの住民であった白川、深堀、今、齋藤、あるいは幕末で言うなら棟方嘉吉が早道あるいは小頭であることが確認できないと、集会所とは言えないのではなかろうか。森町の屋敷は同族あるいは子孫が代々住んでいた家でなないので、それであれば同じ職(早道)のものが代々住んでいないと集会所として成り立たない。

 

 そもそも忍者という存在が世に知られるようになったのは、明治末、大正の立川文庫くらいからであり、森町の屋敷が忍者屋敷といわれたのもおそらくこの頃から後であろう。忍者屋敷とは何かという定義もない。仕掛け屋敷=忍者屋敷でないし、また忍者が住む家=忍者屋敷でないことも周知である。かろうじてこの屋敷が代々忍者の子孫が住む、例えば、甲賀市の望月家であれば、忍者あるいはその末裔の家として、忍者屋敷と言えるかもしれないが、弘前、森町の屋敷については、江戸期、調べる限りにおいても白川、深堀、今、齋藤、棟方の5名が住んでいたことから、忍者の末裔が代々住む家という定義からも外れる。また集会場であれば、隣の佐藤万太郎の家は「町同心稽古場」となっているし、明治二年弘前絵図では今の樹木町あたりに「この林を石森早道稽古所と称し、方二町全林の内に沼あるいは岩石多く、明治三年まで役位早道の者(小隼人目付という)年々日を期してこの地に於いて三寸草隠し、あるいは岩石隠し等の術を稽古する場合なり」と記載されている。集会所をそれほど秘密にする必要もなく、森町の屋敷も「早道集会所」として、どこかの資料にあっても良さそうであるが、そうした資料もない。

 

青森大学の忍者部は、忍者ショーだけでなく、忍者組織の活動調査、古文書解読などを行っているという。できれば上記の森町の住民と早道の組織との関係を調べて欲しい。今回は宝暦年間から幕末までの5名の住民が判明したが、文献を調べれば、もっと細かい住居者の流れがわかるだろうし、逆に歴代の早道頭の名前と住所も判明できるのではないかと思う。学生たちの研究を期待したい。


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