2010年12月24日金曜日

佐藤弥六



 佐藤弥六(1842-1923)は、長男清明(農商務省馬政局長)、二男蜜蔵(大阪毎日新聞経済部長、「エコノミスト」)の父親というより三男洽六(ペンネーム紅緑、小説家、俳人)の父として有名で、佐藤ハチロウ、愛子の祖父となる。この人のエピソードは非常に面白く、明治期では弘前の文化的な先導者であったと同時に名物男でもあった。

 弥六は佐藤平兵衞と初代とする佐藤家の10代目に当たり、祖父新蔵は代官町に住み、表右筆や大間越町奉行などを務めた。幼児から秀才の誉れ高く、藩校の稽古館に学んだ後、選ばれて海軍術修行のため江戸に上った。弘前に帰ってからはオランダ語の本でナポレオン戦史を講義したが、これが弘前藩最初の西洋史の講義であった。その後、再び福沢諭吉の塾にて英学を学んだが、もっとも古い門下生のひとりとして福沢に愛され、慶応義塾の会計係などをしていた。しかし郷里の兄綱五郎の突然の死によって明治維新後に勉学の途中で帰郷し、兄の妻しなと結婚した。亡くなった兄の子、清明と操和を育てるため、士族の籍をおりて商人となり、親方町に唐物屋(和洋雑貨)を開いた。そのかたわら英学を教えたり、郷土史を執筆したりした。この頃のエピソードとして店先であれこれ商品を選ぶ客がいると「お前ばかり選ぶと、あとの客は困る。選ばずさっさと買ったらいいだろう」などと平気で客を叱りつけたという。頑固一徹で正義心の強い弥六は、生活に困る士族のために養蚕を導入したり、ぶとう、リンゴの栽培にも率先して実行した。明治22年には推されて青森県会議員に選ばれ、同時に恩師である福沢諭吉を通じてオランダ公使を打電されたが、老母の孝養のためにこれを断った。県会議員をやめた後は一切の公職に就くことなく、貧困のまま大正12年に亡くなった。

 佐藤紅緑は、弥六の二男として明治7年7月に弘前市親方町28番地で生まれた。一家はほどなく元大工町33番地に引っ越した。母しなは妹操美を生んで間もなく亡くなったので、紅緑は生みの母の愛情を受けることなく、主として面倒をみたのは、姉の操和と祖母であった。紅緑の子供のころのわんぱくぶりは、佐藤愛子著「血族」に描かれる佐藤ハチロウを上回るほどひどかった。

 ここで佐藤弥六の住所について考える。慶応義塾に行っていたのは義塾となる前、明治元年前のことと思われ、英学塾となった1863年から1867年の間くらいであろう。兄の死によって、維新後に弘前に帰郷したのであろう。佐藤紅緑の生まれた親方町28番地は弥六の開業した唐物屋の番地で同じであることから、この親方町の家は住居兼商店であった。その後、元大工町に移るが、その住所は32番地とも33番地とも言われ、はっきりしない。大正4年に発行された弥六の本の奥付の住所は茂森町33番地となっており、元大工町からこの頃には引っ越したようだ。
また祖父新蔵の家が代官町の土手町近く、代官町9番地あたりとされるので、家の所在地は先祖とあまり変わらないと推測し、明治2年地図で周囲を探したが、佐藤姓はあるが一致するものはいない。商人になって親方町に住んだとすると、明治2年地図は士族のみ記載されているため、わからない。

 それでも諦めず、さらに数日かけ、地図をくまなく調べたところ、何と上袋町に佐藤弥六の名が見える。少なくと、江戸から帰省し、親方町で商売をする前、明治2年10月には弥六は上袋町にいたことがわかる。

 明治2年というと東奥義塾の創立者の菊池九郎が藩主に従って上京し、慶応義塾に入塾する年である。当時の慶応義塾は英語を学ぼうとする希望者が多かったにも関わらず、菊池九郎を含むわずが3名のみが入塾を許された。おそらく佐藤弥六の働きがけもあったと思われるし、東奥義塾に開設においても慶應義塾から数名の先生が派遣されたが、弥六が陰で尽力した可能性もある。

 弥六のすごいところというか、へそ曲がりなところは、明治維新前は蘭学、英学という当時の最先端の知識を持ちながら、維新後は商店を始めたり、リンゴ栽培を行ったり、本は何冊か書いたが、藩史、地方史、あるいはリンゴの種類や仕立て法を書いた「林檎図解」など、それまで学んだものとは関係ない著作をした。その才能を地方に眠らせるのはおしいと福沢諭吉がオランダ公使という大きなポストを用意してくれても、固辞する。こういった天の邪鬼な性格は息子紅緑、孫のハチロウ、愛子にも連綿と繋がっているように思える。

 *地図では上袋町の真ん中当たりに佐藤弥六となっているのがわかるであろうか。また五十石町の右から4軒目に明石永吉の名があるが、日本商工会議所初代会頭藤田謙一の実家である。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

昨5月23日はサトウハチローさんの誕生日だったのですね。NHKラジオ深夜便でボニージャックスの方のハチローさんとの交流についてのお話を伺っていましたら、佐藤家のことについて知りたいと思い、拝見させていただきました。
ご先祖さまはやはり弘前藩の上級武士ということ、その子孫にいわゆる「ジョッパリ」精神が伝わっていったのではないかと想像しましたが、ていねいにお調べいただき、わかりやすく述べていただきまして深く感謝いたしております。奥様の郷里の弘前をとても愛していらっしゃるのですね。
当方青森市出身で東京在住の還暦爺です。
また折にふれ拝見させていただきます。ありがとうございました。

広瀬寿秀 さんのコメント...

佐藤家子孫も含めて最も変人は、この佐藤弥六という人です。本当に様々なエピソードがあります。在の方から来た客には「おめばかりいいもの持ってゆけば、後の人はどうするば」といい、晩飯を食べている時に来た客には「なんだ、ご飯食べる時に物買いにくる奴あるが」と言って怒り、学校で修学旅行の貯金をさせると「弘中は校長以下なっていない。侍の子が貯金するとは何事か」と憤慨したようです。それでもさすがに佐藤紅緑の悪道ぶりには手を焼き、息子のたばこが原因で弘中が焼けた時には、自分が所有していた慈雲院の墓地を寄付したようです。