父方の祖母は、私が2歳頃に亡くなった。確か亡くなったのは70歳くらいで、テレビが好きで毎晩、遅くまで見ていた。朝方、母親が見に行くとテレビがついたままで、横に寝ている祖母を起こそうとしたが、亡くなっていたという。
祖父の本籍地は徳島県板野郡吉野町というところなのはわかっているが、祖母の実家がどこなのかはわからない。多分、近郊の在であったのだろう。広瀬の家は、1500 年代に名古屋から四国に流れ着いて、そこでずっと百姓をしていた。家には家系図があり、かなりいい加減な代物であるが、それでも徳島の檀家寺から記録を集めたのか、室町末くらいからの記録はほぼ正しい。というのは全く無名の広瀬姓の名が続いているからであり、それもずっと百姓であった。
祖父と祖母は結婚して、しばらくすると大阪に出てきていろんな商売をしたようだ。最終的には、大阪の堀江、新町遊郭で栄楼という遊郭を開業したものの、昭和5年、祖父が40歳の若さで亡くなり、そこからは祖母一人で一家を支えた。家族は、長女、次女、長男(父親)、次男の5人家族だったが、こうした商売は儲かったのか、叔父、叔母ともにあまり金には困らなかった。実家のある徳島には豪華な家を建て、父親はそこから旧制中学校、そして上京して東京歯科医専(現:東京歯科大学)に入った。昔のことだが、歯科医にするのは結構金がかかった。
両親は、私たちの子供には、父母のこうした商売のことは触れずに、大阪で広い土地を持っていたが、戦後のどさくさで土地をなくしたと言っていた。実際は、長女夫妻が戦後、電気風呂という事業をするが、うまくいかず、抵当の土地を取られたようだ。そのため、私が1歳、昭和32年ころに、祖母は無一文で尼崎の家にきた。当時、私の家には父親、母親、姉、兄、と私の5人家族だけでなく、母親の妹2人が大阪の洋裁学校に行くためにいて、さらに祖母がそこに加わった。計8人がいたことになるが、わずか13坪くらいの家で、それも一階の大部分は診療室だったので、2階の8畳2間と一階の台所4畳半にこれだけの人数が寝泊まりした。
姉、兄は小さかったからか、急に現れた祖母に「クソババア」などきつい言葉を言っていたので、父親の兄弟からはあまり好かれていなかったが、私は赤ちゃんでいつも抱っこされていたので、今でも親類では一番好かれている。晩年は、ようやく家に入ってきたテレビが好きで、一日中見ていたようだが、今、考えるとまだ70歳くらいで、当時の写真を見てもかなり老けている。夫を早く亡くしたにも関わらず、なかなか女手では難しい仕事をして、子供を育て上げた。人と交渉するときは、必ずタバコを吸って心を落ち着かせながら話したという。
個人的には、祖母は今の家内と結婚するきっかけになった。ある日、夢の中で祖母が現れ、この人と結婚すると良いと勧めてくれた。あまりにリアルな夢だったので、これはお告げと信じ、結婚を決意した。早速、両親に夢の話をすると、特に父親は喜んでくれ、全く反対もなく、結婚に至った。自分にとって祖母は全く記憶になく、残っている写真だけの存在であるが、今でも何かあれば、祖母に助けを求める存在である。不思議なことである。思うに晩年、全てを失った祖母にとって、幼子の私を抱っこしてあやすのが、何よりも楽しいことだったのかもしれない。同居していた母親の妹によれば、本当によく可愛がったという。そうした思いは、亡くなって60年たつが、両者とも色濃く残っている。
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